記事・消息・ 2009年3月21日 (土)
原眞さんの死 米山悟(1984)
今日訃報を聞いた、全然想像していなかった、原さんの死。事故でもなく、病気というのでもないが死とはかくも突然やってくるものか。原さんと過ごした数々の楽しい時間を思い出している。
僕が現役学生だった1985年頃、原さんの本を読んで大きく影響を受けた。原さんは学生時代に弟を鹿島槍北壁で失い、その後もヒマラヤで、何人もの死を見つめ、生と死に関する、優れた言葉を多く残していた。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
新しくコメントをつける