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書評・出版・ 2009年5月27日 (水)

【書評】大滑降への50年/米山(1984)
大滑降への50年
三浦敬三
実業之日本社
1970
三浦敬三が息子、雄一郎のエベレスト滑降の年に書いた、二人の自伝。三浦親子関連の近年の本は長生きイキイキの秘訣みたいな題のばかりで、違う人向け本のようだ。山登り人として三浦親子のなんたるかを知るにはこれが一番の一冊ではないだろうか。敬三さんの放つ魅力が分かった。この人は西堀栄三郎とか、明治生まれの染め物職人だった僕の祖父を思わせる。そして三浦親子を生み出したのが八甲田だったということがわかる。読後は八甲田を滑る気分が随分違う。
青森に来たので八甲田の黎明期を知ろうと、三浦敬三の本を読んだ。氏によれば八甲田ほどスキー的な山はないとの事。今も大規模なスキー場が無い上に残雪期は普通のスキーヤーがロープウエーで登って、スキーコースを滑る。山スキーとゲレンデスキーの中間のようなスキーが行われる。そのルートにたくさん残るスキーコースの指導票は1953年に敬三さんらが中心になってつけたもの。1968年にロープウエーができてから、その周辺だけを滑る人ばかりになり、以後は指導票を辿って全域を滑りまわる人がすくなくなったそうだ。

1904年生まれの敬三さんは、エベレストのサウスコルから1970年にスキー滑降した息子、三浦雄一郎の快挙以前から、日本のスキー界屈指の滑り手だった。北大スキー部出身でスキーを身につけ、青森営林署に勤めて営林署の「青森林友スキー部」をコーチとして日本一のスキーチームに育て上げて、戦前のオリンピックや国際大会の常連になった。そして八甲田の斜面を滑りまくり、さまざまな悪雪での回転術を試行錯誤して研究に没頭した努力が懇々と記されている。また雄一郎との子供の頃のスキー行や、雄一郎がやがて父と同じく北大スキー部に入り、海外のスキーコンペでめきめき頭角を現していく様なども書いてあり面白い。

北大山岳部は1926年12月にスキー部から独立した。スキー部の初期は山に登らねば滑れなかったし、スキーをはかねば山には登れなかったから、これが分かれた頃というのは、山に登らなくてもスキーができる、競技スキーに熱中する一派が生じ始めたということである。敬三氏は1923(大正12)予科入学、1925(大正14)スキー部に入って、スキーにはまった。当時のスキー部に直滑降、回転、ジャンプのすぐれた選手が多くいた話など、興味深く読んだ。今は木の茂る札幌の三角山の頂上から度胸試しの直滑降斜面があった話、初めてスチールエッジを見た時の衝撃など、最高に面白い。

雄一郎のエベレスト滑降も、突然世間の注目を集めたわけではなく、一つ一つ自分の力を伸ばして、誰もやらない事を目標に選んで、出来る努力を重ねて進んでいく。八甲田の全山一日連続滑降の試みなどから始め、イタリアのスピード滑降競技で腕をあげた。富士山吉田大沢での緊張感いっぱいの初滑降のところは、エベレストよりも緊張して読んだ。この親子、あれこれ指導して育てあげたという関係ではなく、「ついてくるか」「うん行くよ」。「平気さ」「よっしゃ」という少ないセリフで、手を出さない親、負けず嫌いの子の口数少ないながら堅いつきあいだった様子。


とっておきの山
1984
山と渓谷社

「とっておきの山」という山の小文集で、敬三氏の「八甲田サマー・キャンプ」という小文を読んだ。雄一郎が北大の夏休みで青森へ帰ったある夏、一家六人で八甲田の東北斜面にある雪渓の脇にキャンプして、五日間そこでこの親子が朝から晩までスキーをやっていた話だ。弟妹は小さかったので雪渓の脇や周りの藪で終日遊んで過ごし、スキーなどやらない敬三夫人はたき火で毎日炊事をこなした。敬三と雄一郎は来る日も来る日も雪渓で滑った。夏の雪渓はコチンコチンに凍っているので朝起きると斜面一面を父子二人でクワを持って耕し、そこを滑ったという。もくもくと楽しそうに、友達のようにクワ振り、奥深いスキーの奥義を探求するため稽古に打ち込む三浦親子がまぶたに浮かぶ良い話だった。昨年暮、雄一郎氏にお会いする機会があり、その話に感動した旨を話したところ、懐かしそうにされていた。誰も登って来ない夏の八甲田の雪渓で家族ごとテント暮らしの一週間なんて、夢のような家族だと思う。


何故僕は三浦敬三に惹かれるのか?当時のスキー靴の踵は低く、足首はクラクラ、板だって今のものとは比べものにならないくらい原始的だろう。そんな時代に何もかも手作りで、無限の可能性のあるスキー術を探るため、自分の身体一つで稽古に打ち込んだ姿に勇気づけられるのである。メーカーの知恵が注ぎ込まれた兼用靴と最新の板などはいて、滑りが楽しきゃいいだろう、という気分に僕はやはりどうしてもなれない。先日のポロシリ東カール滑降の悪雪、良雪の苦勞工夫の楽しさが忘れられないからだ。ジルブレッタと革登山靴で、どこまでも雪山と対話していきたい、と決意を新たにした。
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よねやま   投稿日時 2009-6-15 23:43
長生きイキイキの秘訣みたい、と書いたその手の本、図書館にあったので読んでみた。「98歳、元気の秘密」。

いろいろ健康法が書いてあるが、じーんと来るのは、この方はただいつまでもスキーがやりたいという明確な目的のために、いろいろ手探りで創意工夫しているところである。よくあるけど、健康が目的の人ではないのだ。98歳でスキーをやるのは前人未踏だから、他人の忠告は意味がない。自分で試すしかない。パイオニアワークである。

・空き瓶に卵を入れ酢をヒタヒタにしておくと酢卵という食品が出来る。殻が酸で溶けてしまい、卵丸ごと食べられるのだ。やってみた。卵から泡!5日目に完全に溶けた。びっくり、本当だった。なかなかうまいぞ。
・骨折しても医者に行かない。ネコだって、病気は自分で治すよね。高齢になってからの長期入院は、筋肉がダメになってそれ自体が命取り。ご婦人が捻挫の治療で入院したばかりに痴呆になってしまった苦い経験があった。ケガ、病気は医者に丸投げして治してもらうのでなく、自分で治す気がなければ意味がない、と。今年生誕80周年の母に読み聞かせするか。
 
 
 
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