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書評・出版・ 2011年7月11日 (月)

【本紹介】坂本直行 はるかなるヒマラヤ 自伝と紀行 米山悟(1984入部)

坂本直行 はるかなるヒマラヤ 自伝と紀行
編集 高澤光雄
2011年7月
北海道出版企画センター
http://www.h-ppc.com/single.php?code=366



坂本直行氏の1967年のヒマラヤ山麓スケッチ旅行の紀行「はるかなるヒマラヤ」、それに自伝「山と絵と百姓と」を中心にまとめた。どれも限られた読者媒体で以前連載されたもの。生前本人が本としての出版を楽しみにしていたとのことで、氏と交流の深い北海道登山史研究家・高澤氏による編集。
「原野から見た山」、「雪原のあしあと」など代表的な画文集で触れられていない直行さんの生い立ちから山岳部時代のことなどが詳しい。長男、登氏による直行さん通史「日高のいごっそう坂本直行伝」も収録。
「山と絵と百姓と」は直行さんの自伝。少年時代から絵を描くことと植物を育てるのと山登りが好きだったいきさつなど。「昔の登山」はいかなものだったかと思っているのでとても興味深く読んだ。
「当時はまだ地下足袋がなかった。草鞋をはく時には高丈という底の厚い足袋をはいたが、底が破れると自分でこっそり修繕してはいた。」東北北海道で地下足袋の事を「たがじょ」というが、これのことだったのかと知る。
「『オイおめえ!登りに滑らなくて下りに滑るワックスちゅうものがあるそうだ』『たわけるねえ、そんなうめえ話があるもんか』しかしこれは本当だった。」シールができる以前の話だ。この人達はただのスキーで山に登っていたのだ。「シールは僕達の登行時間を半分以下に短縮した。」これが大正末期から昭和初期にかけて。ちょうど北大山岳部が誕生した時期に当たる。

「はるかなるヒマラヤ」は、1967年、開拓農民をやめ、画家になってからヒマラヤトレッキング(当時そういう言葉はなかったそうだ)に行き、絵を描くその紀行。このころはまだまだ今とは違い外貨制限もあり、山麓旅行する人も今ほど多くはない。横浜から船でマドラスへ。そこから延々鉄路でネパール入りする行程は、今では夢だ。直行さんは山を見るのがとても好きだ。「雪原のあしあと」だったかで、広尾線の客車の凍った窓をごしごしこすって日高を見ているような物好きな人は直行さんあんたくらいだと地元で言われた話があった。子供のころ幻燈で見たヒマラヤの映像以来、60年。初めてヒマラヤを見る。「山を眺めて涙を流す感傷などは、私はもっていないつもりだった。しかし、夕日に赤く映えるヒマラヤを現実に見た瞬間、溢れ出る涙をおさえることができなかった。私は恥しくて仲間から離れて、ひそかに涙を拭った。」
長い行程、ネパールの貧しい農民ややせ馬を見る度、自身の貧困開拓農民時代をだぶらせる。作物や植物を見ては、その生産性の低さや貧困ぶりを読み取る。農民の目だ。シェルパの食べるツァンパ(麦焦がし)と同じものを直行さんの子供のころは香煎(こうせん)といって、街をふれ歩いて、売っていた人の記憶があるという。「『コウセンヤーコウセン』と巧みな抑揚でふれ歩くあの声が、こんなところで思い出されるとは」日本も昔はツァンパ食っていたんだ。

「マライーニときびだんご」は、イタリア人留学生でペテガリ遭難の時(1940年)直行さんと現場に駆け付けたあのマライーニが、キビ団子をたいそう気に入って、夜中にごそごそ子供みたいに探って食べていた話が紹介してあっておもしろかった。あの悲壮な遭難現場の夜だけに。この人達の底の明るさを感じた。きびだんごの味は時代が下って落ちたらしい。10銭のは、どのくらいうまかったのだろうか。

誰もが一度は憧れるけれどその苛酷な暮らしを知るとよくまあ35年もという開拓農民生活。直行さんはそりゃ苦労だったろうけど、まったく後悔しているフシが無い。子供を自立させ、築いたものがすべて再び原野に戻っていってもそれで受け入れる。好きなことをとことんやったものだけに訪れる無敵の境地だろう。そして直行さんの行動に子供のころからブレーキをかけてきた「おやじ」の存在は結構大きかったのだな、と思う。長男が、高校を出て、後を継がずに町へ出ることになったとき、それを許した直行氏にそれを感じた。

1906年生まれ、ご長男は1937年生まれ。ほぼ僕の祖父と父の同世代なので、重ねて読んだ。明治生まれの僕の祖父は直行さんのように朝から晩まで働いて6人の子供を食べさせた。朝は暗いうちから起きて火を焚き、井戸水を汲んで湯を沸かし、染物屋の仕事をして家の糞尿を自ら畑に散き、薪にする廃材をあちこちからリヤカーで運び、衣類は自分で繕った。歯が抜ければ入れ歯もせずすり鉢で食べ物を食べた。保険も年金もあてにせず表彰もうけなかった。自分の事を自分でやって当たり前、苦労とも不幸とも思わない。
明治生まれ、100年前の世界を知る証言者として、直行さんの文章は一つ一つおもしろい。御本人は坂本竜馬の子孫であることを一切語らなかったそうなので、函館の坂本竜馬記念館に展示しなくてもよさそうな気もする。これも明治生まれのこだわりなのだろう。

それだけ世代の離れた直行さんでも、札幌時代の山登りで銭函〜ヘルベチア〜余市岳〜ムイネシリ〜中山峠〜札幌岳〜空沼岳を二日で踏破するスキー計画を作ったりと、現代でもやってみるか!と思わせる共通の山が僕らにはある。これが何よりもうれしいことだ。

最後に、山と絵に関する、一言を備忘録として。
「山の絵というものは、山の高さとスケールが表現できたら成功であろう。山にぶつかって山と取組んだ絵にしろ、遠望で小さく描かれたものにしろ、山がやっこく(やわらかい)ては駄目である。ヒマツブシなあのがっちりとした迫力の表現が問題である。山は高ければ高いほどスケールは大きい。大雪山とエベレストでは、その差がはっきりと画面に出なければならない。」
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