ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
最新のエントリ
最近のコメント
  • 17年01月29日
    Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)...佐々木惠彦
  • 16年12月17日
    Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル  米山悟(1984年入部)...やまね
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...米山
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...さわがき
  • 16年07月04日
    Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内...AACH
  • 16年06月17日
    Re: 道新に今村昌耕会員の記事...AACH
  • 15年12月22日
    Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま...すぎやま もちやす
  • 14年12月09日
    Re: 【書評】アルピニズムと死 山野井泰史 2014.11(米山悟1984年入部)...まっちゃん
  • 14年10月25日
    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...米山
  • 14年10月23日
    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...GG

書評・出版・ 2016年3月18日 (金)


少し前、山岳部OBのMLで紹介されていた佐川さんの小説に、北大山岳部員のその後を書いた話があると聞いて、このたび読みました。2013年出版の小説で、読むの遅かったです。先月文庫化されたそうです。
北大山岳部で山を登ってヒマラヤにも登った主人公がバブル末期に都市銀行に就職して山をやめ、バブルの不良債権をひたすら片づける仕事を務めたあと、40代半ばで仕事を辞め・・・という話で、全く登山小説ではないのだけれど、同時代の作家が、同時代を生きたおそらくたくさんの惠迪寮生たちの人生で構成したフィクション・・かもしれません。銀行に行った連中は、多分、こんな風に90年代以降を送ったのだろうか。


佐川さんは、惠迪寮で私と同じ部屋で一緒に住んでいました。一年先輩で、大変濃厚な寮生活を共にしました。文章の端々に、寮生活の際に交わした部屋ノート(交換日記)や、とりとめのない部屋での対話を思い起こしました。更には寮生集会(寮生による討論会)、大学当局との交渉の場などで、中心となって寮生の意見を述べ挙げる頼もしい佐川さんの姿を思い出しました。

書評・出版・ 2016年1月9日 (土)

インドヒマラヤの登攀史をまとめ、2015年現在までの画期的な登攀記録などを集めた、記録集大成です。1936立教大ナンダコートから、1974JACナンダデヴィ縦走、ピオレドール賞を受賞した2008カランカ北壁登攀(一村文隆、佐藤祐介、天野和明)、カメット南東壁登攀(平出和也、谷口けい(遺稿))始め日本人記録を中心に。2014年学習院大山岳部のギャルモ・カンリ初登記は翌年八ヶ岳で遭難死した吉田修平氏の遺稿となりました。

インドヒマラヤの有名ピークといえば、ナンダデヴィ、古いところではシニオルチューでしょうか。8000m峰の並ぶネパールヒマラヤと、パキスタン領になるカラコルムに挟まれてしまって、ティルマンが1930年代に初登したナンダデヴィ以外は、すこぶる地味な印象でした。深田久弥が紹介するヒマラヤ探検記録などの古典は戦前期のものが中心でしたが、当時ネパールが鎖国で入れず、西欧の探検家が調べたのがガルワール、アッサム、シッキムだったからでしょうか。1980年代までは、8000なのか、7000なのかと、何より標高重視で山を見ていた覚えがあります。それだけにインドヒマラヤは地味でした。
しかし、90年代以降は登攀技術の革新があり、難しい6000m峰の未踏峰がたっぷりあるインドヒマラヤに、また難しくない未踏峰も多く残されていて、若い遠征隊にも狙える山域として流行ってきた、という記憶があります。

書評・出版・ 2015年12月28日 (月)

弘前の、山岳同人「流転」の遠征隊の報告書を送ってもらいました。スパンティークは、カラコルムの7000m峰です。こてこての手作り遠征です。旅は、山は、こうあれというもの。普段の地元の山のスタイルで、山スキー、テント無し(半イグル―)、うんこペーパーレス(もちろんゴミも無し)の三本の矢が光っています。
大物の予感漂う23歳女性メンバーの存在も輝いている。若手が続くチームってのが90年代っぽい。
90年代までは、ヒマラヤと言えばガイドと行くものではありませんでした。山岳部なり山岳会のもんが、休みを最低一カ月や二カ月は工面して、自分で梱包、発送して、現地ではポーターに札束配って交渉してキャラバンしてベースで粘って・・・というのがヒマラヤ登山だったのですが、最近、そんな遠征隊の話をさっぱり聞きません。山野井さんや佐藤さんや花谷さんや横山さんや谷口さんたちのような凄腕壁クライマーはもちろん今もやっていますが、僕らのようなセミプロのアマチュアが出かけていくような話をとんと聞かなくなりました。以前に比べ匿名化、非組織化が進んでいるので、日本ヒマラヤ協会も2000年ごろから日本のヒマラヤ登山隊を把握しきれなくなり、もう年報でも網羅できなくなりました。
初登頂じゃなくたって、ピオレドールじゃなくたって、テレビ局が取材してくれなくたって、県民栄誉賞もらえなくたって、全然構わないじゃないですか。もっと手作りで、いつものやり方で、若者がヒマラヤ行けばいいのにな。
久しぶりに送ってもらった手作り報告書。これでいいのだ。

書評・出版・ 2015年12月22日 (火)

日本の山々を名前に注目して読ませる本です。著者は全国ひろく歩いているようで、以前、ヤマケイで山名考という連載を担当したことのあるライターさんのようです。
やはり珍名といえば北海道です。僕もカニカン岳のイグル―でカニ缶食べました。
カムイエクウチカウシ山の山名由来についてまえに著者から山の会に問い合わせがありました。山岳部の部報2号の当該個所、アイヌの古老、水本文太郎氏から、その名を聞きだす下りが詳しく書かれています。また、山の会きっての文豪・井田清氏による部報3号の水本氏追悼の印象的なところも引用されていました。ここは私も好きなところです。
日高の国土地理院の地形図の間違い訂正の一件(2013年)も厚く書かれています。小野有五先生の北海道地名に関する寄稿もありました。
聞いたところは面白いし意味も深いアイヌ語地名ですが、内地の山も修験道、タタラ文化、ご当地富士に富士塚、歴史のいきさつが盛り込まれた地名解が満載です。ガツガツ登る年ごろを過ぎると、こういう、山の歴史を知って、また楽しむというたしなみが、山登りにはあります。
思わず噴き出す珍名山リストに難読山名リストなどもたくさんあります。
やはり、山行計画では、無名峰よりは名のある山。同じ名前でもヘンな山名の山は、遠回りでもアタックしとこう、って事になります。モッチョム岳、タップコップ山、ペトウクル山、シートートゥムシメヌ山は、まだ未踏だなあ!


ブルーガイド 山旅ブックス
大武美緒子/著 中村みつを/絵
実業之日本社
1,728円
ISBN 978-4-408-11165-0
2015年12月

書評・出版・ 2015年12月17日 (木)

古い写真の数々に、釘付けになりました。奥山章、吉尾弘、吉野満彦、八木原圀明・・、登場する若々しい面々の豪華なことももちろんですが、クライミング黎明期からの装備の変遷を知る上でも。
今、最先端のものには、過去の積み重ね経緯を知らないと、値打ちが分からないことが多々あります。最先端ばかり注目される傾向が特に強いのが、クライミング技術の分野で、古いものを振り返る機会は多くないだけに、この写真群には唸りました。しかも最先端を日々研究し続ける堤さんが出す本ですからね。技術面は細かいところにまで考えが込められていてさすがです。数多くの事故を自分の目で見てきた工夫が書かれています。ありきたりの入門書ではなく、基本的ガイドではないので、クライミングに打ち込む人の研究参考書です。
堤さんは年間通じてあちこちのクライミング講習会に講師として出かける忙しい人ですが、厳しい厳しい指導でも知られています。読めば分かりますが1970年代から常にクライミングの最先端で登攀史を歩み、生き残った旧日本兵のような大物です。

書評・出版・ 2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7

書評・出版・ 2015年7月15日 (水)

「オオカミが厄介者ではなく、自然や生態系を守り維持していくために不可欠な頂点捕食者である」という生物学者の結論を、行政機関と多くの市民が受け入れて、オオカミ復活を実現させたアメリカのイェロウストン国立公園(を含むワイオミング、アイダホ、モンタナ3カ所)の試みを書いたドキュメンタリ。著者は野生生物保護活動家。訳者は、日本でのオオカミ放獣を目指して1990年代から活動している二人。

巻末の年表より
1926年イェロウストン国立公園で最後のオオカミが殺された。
1944年レオポルド博士オオカミ復活を提唱
1978年生物学者ウィーバー氏が公園内への放獣を提唱
1987年公園内への放獣議案提出
1990年オオカミ補償基金(万一家畜被害の保障)用意
1992年「オオカミ投票」で世論作り
1994年最終環境影響評価書が発行され、野生生物局によるオオカミ再導入の最終的な管理規則を発行。周辺牧場主が差し止め訴訟。
1995年裁判所は差し止め請求を拒否、カナダからのオオカミはY.S.国立公園に8頭放獣された。年末までに21頭に。
1996年更に17頭放獣、年末までに51頭に。
2002年オオカミ数目標値に。
増えすぎたエルク(ヘラジカ)は適正数になり、その後オオカミは100頭前後を維持。
***
アメリカでも、オオカミ放獣の実現に立ちふさがる誤解と利害からくる困難は多くあった。あんなに鉄砲を手放すのが嫌で、既得利益のためにはぶっ放すのが好きそうなヒトが多そうなアメリカだものなあ。こつこつと周りの説得を積み上げていくオオカミ導入支持研究者らの行いが書かれています。相手に敬意を払わない「話にならない反対論者」に対しても敬意を失わず対話を重ねる、ということだけが、最終的に多くの人の支持を勝ち得るのだと感じました。だからこそ議論には時間がかかるのです。「俺が正しい、間違ってるお前は黙れ」というのは言論の自由には含まれない言論なんですね。
訳者のあとがきの中で、北米でのオオカミ絶滅と日本のオオカミ絶滅のつながりについて書いてありました。
オオカミを滅ぼした時代の力は毛皮の狩猟圧だった。欧州で人気の毛皮、クロテンやラッコを数百年かけて北米、極東ロシアで獲り尽くし、海を渡って遂に日本を開国させた。その天敵、獲物を減らす厄介者として、ヒトの利益を横取りするものとして、オオカミは懸賞金付きで殺された。その思想が明治日本にも上陸し、1905年オオカミは日本から居なくなってしまった。
明治維新で日本が失ったもの。たくさんありましたが、オオカミを失った事、100年経っていま、シカの増大で日本の山の荒廃要因の一つになっているのだなあ。
前回、オオカミ放獣に関する書評でも書いたけれど、オオカミ放獣は、「シカ害」という人の利益のためではなく、先祖が犯してしまった罪の痛切な反省のためにも、子孫としてするべき落とし前ではないでしょうか。作ったけれど無用になった山の中の幾多の建造物の完全撤廃なども。21世紀は先祖の尻拭いをする時代です。
ウルフ・ウォーズ
オオカミはこうしてイエローストーンに復活した
ハンク・フィッシャー 著
朝倉裕、南部成美 訳
2015.4 白水社
===============================
【オオカミの護符】
明治に失った日本のオオカミ信仰について、もう一冊です。

実家の土蔵の扉に貼ってあったオオカミの護符を追って、多摩丘陵のそして、秩父の山村集落の習俗と農事の伝統を発見していく本です。川崎の宮前区の丘陵地帯は、ほぼ僕と同世代の著者の子供時代には茅葺き屋根の農村最後の時代だった。川崎の宮前にも古い農民社会が40年前まであったのが驚きです。オオカミ信仰の講中登山を辿って、御岳山、さらには秩父へと話は進んでいきます。著者はその映像記録を撮り始め記録映画を作りました。本書はその書籍化。

僕自身、東京に住んで山に登った期間はわずかだったので、御嶽山(みたけやま)も宝登山(ほどさん)も猪狩山(いかりやま)も、三峰山(妙法ヶ岳、白岩山、 雲取山)も、名前も位置もほとんど知りませんでした。奥深い山と思っていた和名倉山も、以前は中腹まで焼き畑が覆っていた写真を見て驚きました。
今とは違う、線路や道路ではなく、山と川で繋がっていた武蔵国の範囲に読後初めて思いを巡らせました。

そしてテーマのオオカミ。オオカミは作物を荒らすイノシシ、シカを食べる農民の味方。
オオカミのお産のうなりを聴くとシカ、イノシシは逃げることから農民の神となった。うなりを聴く事の出来る「心の直ぐなる者」が、その場に赤飯を持っていき、オボタテ(御産立)というお祀りをした。そこからオオカミの護符信仰が始まったのだった。その行事を覚えていた人に出会うのが終盤の山場です。
とても面白い本でした。武蔵一円に暮らす登山愛好家にお勧めです。

オオカミの護符
小倉美恵子 
新潮社2011

書評・出版・ 2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社

「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。


オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。

そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。

北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。

以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。

オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。

沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。

鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。

オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。

オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。

書評・出版・ 2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。

書評・出版・ 2015年1月16日 (金)


1981年の山と渓谷、北大山岳部の紹介記事が出て来ました。同期入部のGGが大事に持っていました。私もGGも81年はイナカの高校2年生です。この記事を見て北大を目指したのだろうかな?
記事を書いているのはスエタケさん(1978年入部)、撮影は山スキーOBの阿部さんです。山中の写真のコジキジャンバーやコジキオーバーズボンはそのまま数年後も継承していました。センパイのストックの竹製輪っかも秀岳荘です。アイゼン練習は旧Zでしょうか。タニの赤いアイゼンのようです。




部室の小汚い風景が、ストロボの光で現実以上に鮮明で報道写真的な例会の写真です。1970年代末に部室がこの場所に移動してから、今も同じところで同じ営みが続いています(多分)。冬合宿の食事写真では直径18センチのアルミのボウル二つを食器にしているところをスッパ抜かれています。1980年12月末の十勝岳白銀荘の冬合宿の撮影ということでしょう。木造時代の恵迪寮(1983年3月取り壊し)で、北海道型キスリングの日高ザックに裸足でパッキングしているチンネンさん。この木造恵迪寮、受験の時に泊めてもらって飲ましてもらいました。





一年目部員のコジキ服のお尻のツギ写真も紹介して、輝く笑顔の新人だったフジワラさんの姿もあります。昔の桑園駅のホームも懐かし。スエタケさんの文章も、北大山岳部の環境と、継承したものと精神世界を余さず伝えています。
衣類は若干こぎれいになっていますが、基本的に現在も34年前と変わらぬ営みのようです。

 
 
Copyright © 1996-2019 Academic Alpine Club of Hokkaido