書評・出版・
2017年4月19日 (水)

奥深くの難関地域を含む日高全域の、これほどの個人山行記録集がこれまでに在っただろうか。40年という歳月なくして、しかも継続し続けた島田茂氏でなければできなかったと思う。どの山行も週末の2,3日の山行ではなく、最短でも5日以上の山行ばかり。日高とはそういうところで、冬季に主稜線を往復するだけでも週末山行では無理なのだ。学生時代はともかく、社会人になっては一週間の山行に付き合ってくれる仲間はそうそう居ない。彼はそれでも一人で続けた。
この長いカタカナ地名の山行記録の記録タイトルを読んで、脳内の地図上にルートを描ける人はいかばかりいようか。日高にぞっこんの経験を持ち、地形図を穴があくほど見続け、通い続けた岳人だけのリテラシー(読解力)が求められる書だ。5日以上の日程で日高に数多通った経験を持つ人だけが、記録のひとつひとつに地図説明のないこの本の山行記録を読んで理解ができるのではないだろうか。その点読者にはハードルが高い。だがそれを補うようにすばらしい写真や絵の数々がこの書の魅力だ。
もとより、この本をガイド本として読んではならない。カムエク沢やピリカ南面沢を目指す者が、いちいちテクニカルな情報を事前に得るというものでもないだろう。島田茂氏が、どのような気持ちでひとつひとつの山行に立ち向かい、どのように感じてきたかを読み取れば良いと思う。その点でも、島田氏の奥様との結婚前からのハードな山行の記録集は羨ましいの一語に尽きる、その後の「もう帰ってこなくてもいい」とまで言われたカムエク単独冬季山行のことまで含めて。人の人生の山に打ち込む時期の長さには長短がある。かつての戦友も変わる。これだけの山行を続けたことのある者であれば、誰しも思い至り共感することではないだろうか。もちろん女には女の言い分がある。もちろんだ。こんな宿六亭主には、そのぐらい言うことだってある。言っていいのだ、和子さん。
写真、スケッチ、遡行図とも本当にすばらしい。こんなふうに絵がかけたらなあと羨ましく思う。記録が山域別なので、時系列が行ったり戻ったりして、島田氏の個人史としての成長具合が追いにくかったかもしれない。とはいえ、記録をすべて読み、最後にすべての山行一覧を見ると島田氏の日高山行がすんなり進んだわけではないことがわかる。
学生時代は初級の沢と長距離の山行にとどまり、冬季の主稜線大縦走や難関沢への挑戦は5年目以降で、それも和子さんと共に20代の成長を遂げている。しかし30代になり、冬季縦走や難関沢に2のっこし(登って降りる×2)の10日を超える山行に付き合ってくれる仲間は居なくなる。30代後半にしてはじめて、一人での冬季長期山行(カムエク)に行く。これが彼の転換点と思う。普通はここで難関沢1のっこしか、3日で行ける日高の端っこの山を仲間とやりくりして諦めるのだが、ここからが彼の単独山行のはじまりになった。その後40代の彼は一覧を見るとほとんど単独山行での大きな記録を続けている。そして53歳でカムエク南西稜から東へ単独で東西縦走。
この本は、削いで削いで出来上がったのだと思うけれど、その隙間にこぼれた数々の山行ももっと見たい、そう思わせる記録集だった。
日高山脈こそは週末登山者などお呼びでない、空間的時間的に安心安全便利社会とは離れた本当の山登りが残っている、分かりにくく近づき難き山脈なのだと思う。日高横断道路なんかできなくなって本当に良かった。
表題の「無名峰」は、世間的には無名かもしれないけれど、日高の奥に燦然と輝く無名の峰、無名の沢の数々を知る、島田茂本人のことだと思った。表紙写真にもある究極の無名峰、1839m峰が、島田さんと和子さんにとって最も大切な山であったことも。大切なものには名前がない、大切なものは目に見えない。
大樹町で生まれ育ち日高を尽くした人生。60歳でこの本を出せた島田茂氏の人生は、大成功だった思う。私の10年前の世代。私も今後の10年を大切に生きていきたい。
3000圓(札幌秀岳荘・送料は360圓ゆうぱっく)
書評・出版・
2017年3月23日 (木)

岳人4月号2017年
深田久弥の百名山を特集する企画であり、名のある人が名のある山を紹介する冒頭に続いて、百名山漏れの名山紹介や、冬季限定百名山を登っているサンナビキの梶山正氏の紹介記事に並んで松原憲彦会員(1990年入部)の「沢から登る百名山」のインタビュー記事があります。
「百名山」は手あかのついた言葉だが、深田の著書としての百名山は何十年にもわたって登るたび読み返す名著だと思います。松原会員も「百名山は当たり前ながらいい山ばかり」であり、避ける理由は全くない。あるとすれば人が多すぎるというただ一点のみ。ならば人のいない百名山登山となれば「沢」か「冬」がいい。やはり人がいないということは山登りの最大の魅力です。いや、山登りの魅力の本質は、大自然の中の孤独と自由でしょう。そして、深田の登った登山ブーム直前時代の無垢な山に近いのは、現代ではやはり沢や冬でしょう。深田自身が沢や冬を登ったわけではないけれど。
沢から行ったら意外といいぞの山に日光男体山や仙丈ケ岳を挙げています。百名山ではないけど、松原会員とは三ノ沢岳の伊奈川や金森山の万古川など、無垢の沢を辿って登る隠れ名山の山行の同志であります。富士山のように、どうしても沢はいただけない山もある。しかし百名山は冬か沢から行きたいものだな、というのが、やっぱり筋です。

百名山は43座、うち沢は32座とのこと。まあ全部やる気は当人もないだろうけど、冬と沢、どんな割合になるかな。
ガツガツしたくないと思いながらも数えて楽しいのが百名山。私も数えてみました。梶山氏は冬山を3月いっぱいに限っているけど、道が無い季節という意味で5月初旬まで含めて。
雪だけ47、沢だけ15、道のみ5、雪と沢両方3で、合計70のうち65が雪か沢でした。
書評・出版・
2016年12月6日 (火)

山ガールいざなう、本格登山の入門書
(藤原章生 ちくまNo.548 2016.11月号p16より)
実情を私自身調べたわけではないので不確かだが、2011年3月の大地震でこんな話があったと聞いた。全身ずぶ濡れで高台に避難した人々が、寒い中、暖もなく凍えながら救助を待っていたという。もし、彼らにたき火をする術が身についていれば、心理状態もかなり違っていたのではないだろうか。
本書を読んで、そんなことを思い出した。この本は単に登山技術を教えるだけでなく、一般の人のサバイバル術としても有効だ。夏山から猛吹雪の冬山まで、いかに少ない装備で、どう工夫して生き残るかをきめ細かくつづっている。
「平成登山ブーム」という言葉がある。神奈川県の湘北短期大学准教授の山形俊之さんが命名した言葉で、要は平成に入ってこの方、登山者数の高止まり状態が続いているそうだ。レジャー白書の推計で平成に入ってからの平均登山者数は約八〇〇万人。年に一度のハイキングや富士山詣でも含まれるので、こんな数字になるが、実際の登山愛好家は「一〇〇万人程度」と雑誌「山と渓谷」の方が話していた。
そんな一〇〇万もの人々の最近の流行は、人が築いた基準、コースにのっとった「百名山」にも通じる「ブランド登山」で、〇八年ごろ急増する「山ガール」の登場もそれと重なる。北アルプスの槍や白馬などの人気コースにファッショナブルな人がひしめき、登山ブームを底上げしている。
著者はこうした人気コースを「公演」と呼び、そこから離れた本当の山の楽しさを紹介している。登山道具店が宣伝する高い装備やGPSなど余計な機器は一切使わず、限られた装備、食料で山を楽しみ、どう生き抜くかを、実体験とともにつづる。
本書は単なるマニュアル本ではなく、著者の登山人生を語る半生記でもある。信州の一高校生が山の喜びを初めて知ったのは、何の変哲もない一七〇〇メートルほどの裏山だった。一人で藪こぎをしながら這い上がるうち、疲れて寝込んでしまい、気づいたら夕暮れ間近。焦って登り続けると、さっと視界が開け、一面青い花が咲く頂上にたどりつく。まるで神々しいものにでも出合ったかのように、著者はザックも降ろさず花畑をさまよい、一人で夜を明かす。<自由の実感。自分一人だけで、この山頂と特別な関係を結んだ>と記しているように、著者は人気コースでは決して味わえない魔力にこの時とりつかれた。
その後、北海道大学山岳部に入った著者は、夏は燃料やストーブはもちろんテントももたない沢登りから、やはりテントなしでイグルーや雪洞だけで縦走を企てる厳冬の登山まで、装備に頼らないシンプルな山登りを身につけていく。
著者の登山思想を一言でいえば、新たな道具に頼らないからこそ人間力が身につく、ということだ。人はGPSを使えば地図が読めなくなり、強固な登山靴をはけば、地下足袋で味わえる石の感触、無駄のない歩き方を身につけられなくなる。テントを利用すれば、目の前にある雪は邪魔なもので、それを使おうという考えは浮かんでこない。
NHKのカメラマンとして、時にヒマラヤや国内の山岳撮影をしてきた著者が、自分のための登山を三〇年間もやめずに来たのは、やはり高校の時の藪山の至高体験が胸に深く刻まれているからだろう。だが、これは著者だけの特権ではない。

「ブランド登山」を楽しむ登山客にしても、相手は山である。ひょんなことから道を間違えたり、雷雨にやられてひやりとしたり、不安を抱えとぼとぼと道を探した経験に見舞われることはままある。そんな山の怖さ、自身の焦りにこそ「倒錯」」とでも呼べそうな」魅力を感じる人が中にはいるはずだ。そんな人たちが「ブランド」に飽きたらず、山らしい山に」入りたいと思う瞬間がきっと訪れる。だが、どう始めたらいいのか。そんな時、本書を開いてみれば、山の魔力にひかれたように、するするとその世界の門が開かれる。山ガールを始め登山を目指す人たちをいざなう、ありそうでない、実に貴重な「本格登山」の入門書と言える。イラストも秀逸だ。
(ふじわら・あきお 新聞記者)
ちくまプリマー新書 冒険登山のすすめ
米山悟著 820円+税 2016.10刊
書評・出版・
2016年8月12日 (金)

2006年、東海大山岳部隊の一員として23歳でK2に登頂した小松由佳さんは、その後写真家になっていました。それも戦乱のシリアを撮る写真家に。シリアは知っての通り2011年以来内戦、治安機関の暴力、イスラム国の占拠、他国の空襲と、地獄の極みです。小松さんが内戦前2008年からシリアを訪れて知り合った若者たちの、その後を何人も紹介しています。2012年に撃たれて死んだ山本美香さんと同じです、写真はどれも和やかなシリア人たちの暮らしを描いていました。どれも相手との関係を作り上げなければ撮れない表情の写真ばかりです。
生き生きと、表情豊かに暮らし、家族の日常の暮らしの大切さをしみじみと知っているシリア人たちが何故こんな目に遭わなければならないのか?一方では、他者との関係に行き詰まり個の枠を築き、豊かで平和なはずの社会で孤独を深め、中には極端な差別思想や排外思想に心を犯される人が徐々に増える日本の国。どうしてこうもうまくいかないのでしょう。
山登りから、山麓の人々の暮らしに目を向け、シリアとの縁が生まれ、旅行者となった小松さん、生き延びることができれば、またいつか何かの形で山登りに帰ってくると思います。その時の山を楽しみにしています。
河出書房新社2016.3.20
http://yukakomatsu.jp/news/news.html
書評・出版・
2016年7月28日 (木)

朝のドラマ、とと姉ちゃんの元の話、暮しの手帖を紹介した特集番組をこの前見ていたら、テルマエロマエのヤマザキマリさんが、「この雑誌はどうかしている!」と、賞賛していました。彼女のお母様が全部持っている愛読者で、昔から読んでいたそうです。徹底的な商品テストや、読者目線の編集方針を一貫して貫いた編集部のことを紹介していました。
その番組の中で紹介された異色の96号、「特集・戦争中の暮しの記録」は、戦争が終わって23年経った1968年、公式の記録に残らない庶民から寄せられた話を延々書いた雑誌でした。今日は何を食った、何時から何時まで働いた。あそこは焼けてどうなった。という生の声でいっぱい。今日ではありがちだけど、この目線での手記の募集は当時初めての試みで、絶対売れないと言われたのに、ものすごく早く売りきれたそうです。戦争が終わってから23年間も、誰もこういうことができなかったのでした。以下に編集者、花森安治の序文です。
●この日の後に生まれてくる人に
君は、四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは、六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。
いま、君が手にしている、この一冊は、おそらく、その大部分が、そういう人たちの文章でうずまっているのである。
〜(略)〜
それは、言語に絶する暮らしであった。
〜(略)〜
しかも、こうした思い出は、一片の灰のように、人たちの心の底ふかくに沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも、戦争の記憶というものは、そうなのだ。
〜(略)〜
その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、それについての具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。
その数すくない記録がここにある。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
〜(略)〜
できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者のひとりとしての、切なる願いである。 編集者
この96号はうちにあります。昨年、97歳になる山岳部の先輩今村昌耕氏宅を訪問した時、卓の上にたまたま置いてあって、私が手に取り吸い込まれて読んでいると、やはり同年代のその奥様が、「ご興味がおありならどうぞお持ちください。年寄りにはもう取っておくものなどありませんから」とおっしゃったので、ありがたく頂戴してきたものです。
帰宅してこの編集者の前書きを読んで、「これは引き継ぎを受けたのだ」と思い知りました。
「この雑誌はどうかしている!」と、私もまた驚歎しました。
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/editorsnote/160719この96号はその後、一介の雑誌ではなく保存版として出版され、いまも読むことができるようです。雑誌というには密度の濃い、しかし読み応え有る記事に満ちています。
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書評・出版・
2016年6月28日 (火)

黒部の山賊という本が少し前に復刊して、伊藤さんは近頃また話題になっていました。戦争直後からずっと雲ノ平、三俣、水晶の三軒の山小屋をやってきた、もと山賊の友達です。
伊藤さんと初めて会ったのは、1992年、伊藤新道でした。伊藤新道は高瀬川の湯股から三俣山荘へ通じる登山道で、1953年から伊藤さんが3年がかりで作りました。その後できた高瀬ダムの工事で70年代に登山者が減ってしまって、その頃は廃道間際でした。伊藤新道は下半分が沢沿い、上半分は尾根を通ります。人が歩かない道、補修をしない道は、沢では水が壊し、尾根では植物が埋めて廃れてしまうのだと、このとき初めて知りました。伊藤さんは小屋から降りてきて、藪を払っていました。この時も70歳ころと結構なお歳でしたが元気に仕事をしておられました。このときお会いして、さまざまなお話を聞きました。山小屋建設の苦労話は本人よりも、黒部の山賊で読みました。本人からは、山とはあまり関係のない、左右対称の不思議に関する話や、バイオリンの音に関する話など、面白い話をたくさん聞きました。
伊藤さんは、松本では有名な料亭のあと継ぎだったのですが、若いころから何事にも野心的で、家を継ぎませんでした。同じ高校の先輩後輩のよしみで(とはいえ伊藤さんは戦前卒業なので旧制中学校です)、一度その料亭に招いて下さり、ごちそうをしてもらいました。老舗の、とても素敵な建物でしたが、何年か前に規模を小さくして移転したそうで、いまはもうありません。
野心的な熱意は、戦前の学生時代にはロケット工学の研究に向けられ、敗戦後には山小屋の建設と運営に向けられたといいます。写真の腕前も、その熱意で磨きこまれ、山ばかりではなく、晩年の季刊誌「ななかまど」の表紙を飾った、自然界のさりげない草木の写真を左右対称の不思議な幾何学模様に仕立てる技法も伊藤さんの発案です。
バイオリンの表の板と裏の板に挟まれた魂柱(こんちゅう)という一本の柱があります。この柱の役割を、裏の板は土台で、表の板は音を震わせるため自ら震える音響板であるから、柱の表板側を平らではなく震えやすいように半球形に削った魂柱を発明し、伊藤式バイオリンを作りました。より響きが強くなる、と演奏者やバイオリン職人たちは語っていました。僕にはよくわからなかったのですが。
こうした研究熱心な独創性を発揮して、史上初の航空機による物資荷揚げに挑戦するなどしたのと並び、旧家を飛び出した伊藤さんは反骨の人でした。営林署による理不尽な地代値上げに、筋が通らないことには同意ができないと、全南北アルプスの山小屋主人でただ一人、長いものに巻かれない姿勢で訴訟を続けました。
94年の冬に私がノルウエイを訪れたとき、伊藤さんが快くリレハマーの北の町に住む何人かの親しい友人を紹介してくださいました。彼らを訪ねてごちそうになったり、ヘルベチアヒュッテみたいな小さな別荘に連れて行ってもらったりして、一般的なノルウエイ人の暮らしぶりを知りました。あくせく働かず、物にも囲まれず、のんびりと簡単な日常を楽しむ人たちでした。伊藤さんはフィヨルドの写真を熱心に撮った時期があり、その時の写真集も見せていただきました。伊藤さんには、いただいたものばかりでした。
敗戦という価値観の大転換を多感な青年期に迫られた、大正生まれの世代でした。その世代の苦悩を時々空想します。世代を超えたお付き合いを、惜しみなくしてくださる方でした。
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書評・出版・
2016年6月24日 (金)

セクシー登山部のなめたろうさん。那智の滝からの4年の軌跡です。沢登りする人の紀行文、記録文は、名文家が多いけど、宮城さんのようなのは初めて読みました。痛快娯楽書というか、チャーカンシーを攻める大西、佐藤たちがルパン三世の次元や五右衛門に見えてくるほど生き生きと描かれています。
大西が滝つぼから生還する下りなどはおみごとなもの。戦艦大和や孫悟空の比喩は興奮気味だけど、それだけすごい激流で絶望的状況であるのはよくわかる。ルートはもちろん世界最先端の未踏域ばかりです。岩峰を、「力道山の朝勃ち」に形容するあたり、語彙が諧謔的に豊かです。数十日の山行を黙々とやっていると、言葉が頭の中で沸いては消え沸いては消えるもの。大切なのはそれを消えないように捕まえておくことだとおもう。
「外道」のタイトルは逮捕を受けてのことだろうか。那智の滝逮捕を聞いたときには、我ながら逮捕の言葉に多少ビビったのが恥ずかしい。被逮捕経験は、サラリーマンや常識人にとって、やり直すことのできないほどの痛手には間違いない。しかし、サラリーマンの知人ばかりと付き合っていると錯覚するが、この世には自営業者、創作者、自活民、狩猟民・・・、人に雇ってもらわなくったって、図太くあるいはか細く生きている人はたくさんいるんだ。誤認逮捕だって山ほどあるんだ。警察発表、マスコミ発表に依存しない、ほんとうに人を見る目を持つ人と関わりを持っていけばよい。事件後の3人は職を失いそれなりにつらい別れはあったろうが、これを契機に長期の画期的山行に行く人生シフトを手に入れるチャンスになった。あの地獄のようなゴルジュの底から這い上がる力を持った人たちだ。当然と言えば当然の話だ。3人のこの4年の活躍は、山愛好家ならみな知っているだろう。
チャーカンシー、称名滝、ハンノキ滝、称名の廊下というスーパークライミング記録が挿入されるが、本書のメイン記録は未知未踏に対するこだわりを持ちながらも、スマフォで音楽を聴きながら登るようなタイのジャングル沢山行の話がメインだ。「頼りない相棒」との、泥沼、藪こぎがほとんどの46日間タイのジャングル沢の記録だ。「相棒」氏との殺意をいだくほどの心の葛藤がまるで小説のように描かれている。ヒマラヤ遠征隊など長期山行で人の嫌な面がむき出しになってくると、誰でも覚えがある「たかがメシの盛りひとつで殺意」のテーマ。豊かな日常じゃそんな恥ずかしいこと起きないけれどね。
「山を目的にしてその他一切を捨てて生きている沢ヤやクライマーが魂を込めて挑んだ未踏峰やゴルジュ、それらは冒険といっていい。」p123
「魂を込める」使い古したくない美しいことばだ。
あとがきの角幡氏の「宮城はそもそも表現者だった」という話に納得する。映像表現はセクシー登山部HPで衝撃的に突きつけられていた。そして山登りはそもそも反社会的行為であるのだということを那智の事件は我々に見事に突きつけたのだったというくだりは、私も学生のころからいつもずっとそうなのではないかと思っていた。山登りがどうして反社会的行為なのかわからない、という人はもちろん多数だ。しかし彼らは、自由な山登りからは遠いところにいる。
あすは海外遡行同人の2016年総会で、また彼らの今年の報告を聞ける予定です。聞くばっかりで申し訳なし!
四年前の7月16日記事
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=680
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書評・出版・
2016年3月18日 (金)

少し前、山岳部OBのMLで紹介されていた佐川さんの小説に、北大山岳部員のその後を書いた話があると聞いて、このたび読みました。2013年出版の小説で、読むの遅かったです。先月文庫化されたそうです。
北大山岳部で山を登ってヒマラヤにも登った主人公がバブル末期に都市銀行に就職して山をやめ、バブルの不良債権をひたすら片づける仕事を務めたあと、40代半ばで仕事を辞め・・・という話で、全く登山小説ではないのだけれど、同時代の作家が、同時代を生きたおそらくたくさんの惠迪寮生たちの人生で構成したフィクション・・かもしれません。銀行に行った連中は、多分、こんな風に90年代以降を送ったのだろうか。
佐川さんは、惠迪寮で私と同じ部屋で一緒に住んでいました。一年先輩で、大変濃厚な寮生活を共にしました。文章の端々に、寮生活の際に交わした部屋ノート(交換日記)や、とりとめのない部屋での対話を思い起こしました。更には寮生集会(寮生による討論会)、大学当局との交渉の場などで、中心となって寮生の意見を述べ挙げる頼もしい佐川さんの姿を思い出しました。
この小説の主人公は誰だろう?というような話もMLではありましたが当時の山岳部で大手都市銀に就職した人はいないし、モデルの人物はそもそも居ないと思います。ただ、主人公が松本の出身であることや、卒業間際に大切な山仲間が遭難死したのを機に登山家ではなく就職を決めた話など、なんだか思い当たる部分も少々ありました。
先日読んだ村上春樹の「職業としての小説家」という本で、作家は誰か特定のモデルをすっかり描いて小説を書くわけではない。ただ、日常の中で出会う人で、何かちょっと心に引っかかるしぐさや癖を、善悪を問わず、そのまま心の引き出しにしまっておいて、そのストックが多ければ多いほど、小説の中の小さな話があふれるように出てくる、というような事を書いていました。佐川さんの創作のごく一部に、何か引き出しの中にそっとしまわれた一部に私や、同時期を過ごした個性豊かな寮生たちの記憶があるのなら、とてもうれしいことだと思いました。
登山シーンは、ヤマ場の夢の中で意外にもたっぷり現れます。松本のふるさとの山、常念岳にも登る、それに1943年の冬季初登にまつわるペテガリ岳も出てきます。確かに現役部員にとって、冬季ペテガリ初登ルートは憧れの計画です。1982年冬季ダウラギリも、それに道岳連のガンケルプンズム遠征まで出てきます。よく調べていますよ。
この小説の肝は山登りでも不良債権処理でもありません。今もっとも進行中の大問題と新しい流れ、貧困母子家庭のための低金利銀行NPOの話、ノーベル賞受賞したバングラディッシュのグラミン銀行の話です。小説では、今の日本で、女と対等な関係を築くことができなかった男たちによって助け無しのどん底に落とされた女がいかに多いか、という社会問題と、それを解決できるかもしれない方法を訴えます。このあたりが佐川さんらしいところかもしれません。
しかし不寛容なフェミニストだった女性活動家の「家族帝国主義者!」のセリフには、佐川さんをおもいだして思わず大笑いしました。
当時の惠迪寮は反帝反スタ、というかノンセクトラジカル(無党派過激派)というか。学生自治運動封じ込め路線の文部省に忠実な北大当局が、新寮建て替えを契機に完全管理をもくろんでいて、これまで連綿と続いて来た寮の自治権を奪おうとしていた時期でした。旧寮時代には10人ぐらいの大部屋で、プライバシーは無くとも寝ても覚めても他者と付き合う生活を通し、他では得難い人格形成を培う部屋だったものが、この年の建て替えで一方的に完全個室になり関係を分断されました。考えた自治会側は分断統治を図る大学事務員を追い出して寮を占拠し、壁をぶちぬいて個室を減らして対抗しました。一時的に公権力の及ばないアジ―ルを作り出したのです。新入寮生は当局ではなくそれまでどおり学生自治会で選ぶとして、寮生による入寮銓衡委員会が、自主入銓を貫徹しました。その時の新入学生で強行入寮したのが私の代30人ほどで、熱烈歓迎されました。銓衡委員会にたしか、2年目の佐川さんがいました。委員長だったかもしれません。や、それはヤマジさんか。そのすぐあと、佐川さんは寮長を務めました。人と話す時、爛々と輝く目をいつもまっすぐ見据えて話す人でした。入寮希望者の面接で、学ラン正装した銓衡委員がズラリ並ぶ前で向かい合い、「米山君は山登りが好きとのことだが、寮の裏の空き地に雪山があるので、登ってきて感想を述べてくれたまえ」という課題を与えられました。私はその足で5mほどの除雪の山を登り、真っ白な雪の中を懸命に這っていた小さな虫を見つけ、その虫を救おうかと思ったけれどそれをやめた話をしたのを覚えています。
アジールですから怪しい人たちも出入りして、また活気がありました。大学事務員や警察が突入してこないようバリケードを作ってアングラ劇団のブルーシート小屋を寮の裏に建てて公演をしたこともありました。こうした抵抗運動と共に、太鼓を打っての寮歌放吟、赤フンのストーム乱入など数々の歴史的文化資産はたゆまず継承し、充実の寮生活でした。惠迪寮には、それまでの少年期を脱皮して「自由を手にして、遠くに行きたいんだ!」と津軽海峡を越えた若い男たちであふれ返っていました。
共用棟で寮生集会をやっている脇を、山に出かける私は大きいザックとスキーを担いで通ったこともあります。集会でなくて山に行ってすまんなあ、と思いながらもやっぱり山の方がいいや、と思っていました。佐川さんの脇を、楽しそうに山に出かけて帰って来る私の姿を、どこかで覚えていてくれて、銀行職場で浮きまくりのどこか世間離れした元山男像を描いてくれたのかもしれません。
「牛を屠る」「ジャムの空壜」で、佐川さんのその後の90年代は読んでいました。確かな屠場での技術と暮らしを時間をかけて身につけ、溢れ出づるものがあって、小説家になったんだと思いました。次は「おれのおばさん」読んでみよう。
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書評・出版・
2016年1月9日 (土)

インドヒマラヤの登攀史をまとめ、2015年現在までの画期的な登攀記録などを集めた、記録集大成です。1936立教大ナンダコートから、1974JACナンダデヴィ縦走、ピオレドール賞を受賞した2008カランカ北壁登攀(一村文隆、佐藤祐介、天野和明)、カメット南東壁登攀(平出和也、谷口けい(遺稿))始め日本人記録を中心に。2014年学習院大山岳部のギャルモ・カンリ初登記は翌年八ヶ岳で遭難死した吉田修平氏の遺稿となりました。
インドヒマラヤの有名ピークといえば、ナンダデヴィ、古いところではシニオルチューでしょうか。8000m峰の並ぶネパールヒマラヤと、パキスタン領になるカラコルムに挟まれてしまって、ティルマンが1930年代に初登したナンダデヴィ以外は、すこぶる地味な印象でした。深田久弥が紹介するヒマラヤ探検記録などの古典は戦前期のものが中心でしたが、当時ネパールが鎖国で入れず、西欧の探検家が調べたのがガルワール、アッサム、シッキムだったからでしょうか。1980年代までは、8000なのか、7000なのかと、何より標高重視で山を見ていた覚えがあります。それだけにインドヒマラヤは地味でした。
しかし、90年代以降は登攀技術の革新があり、難しい6000m峰の未踏峰がたっぷりあるインドヒマラヤに、また難しくない未踏峰も多く残されていて、若い遠征隊にも狙える山域として流行ってきた、という記憶があります。
この時期、最後の高峰ナムチャバルワ7843mをめぐる両者の確執もあったと聞きますが、ヒマラヤに登山隊を送り出す主体としては日本山岳会は衰えを見せはじめていて、東部カラコルムなど、まだまだ未知だった山域に精力的に通っていたのは日本ヒマラヤ協会HAJの面々だったように記憶しています。でもこの本を読むとJAC東海も90年代はインドヒマラヤに通っていたのを知りました。この本も日本山岳会110周年記念出版とのことですが、2015年の今、ようやく、日本の登山界が、JACだのHAJだのと言わず、皆の成果としてこの一冊を出すことができてよかったなあと思うところです。記録はもちろん日本人のものを厚く載せていますが、インドヒマラヤ登山全体に占める質量ともに、日本の登山家の割合は相当多くを占めると思います。やはり日本は登山大国だと思います。北大関連ではワンゲルの1980ゼット・ワン(Z1)、山岳部の1997ドーダなど、若手が持てる力を精一杯傾けた山行の記録もあります。数行ですけど。
ガルワールのメルー中央峰の最難ルート、シャークスフィンを2012年に登ったナショナルジオグラフィックの山岳カメラマンJimmy Chinがドキュメンタリ映画を撮ったそうで、今年日本でも劇場公開されるらしいですよ。昨年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞したそうです。
http://events.nationalgeographic.com/speakers/2015/12/01/making-meru-dc/最後に少し要望を書くと、もう少し充実した地図を期待していましたが、少ししょぼかったです。でも、良い本を出していただきました。
日本山岳会創立110周年記念
ナカニシヤ出版2015.12
6000圓
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書評・出版・
2015年12月28日 (月)

弘前の、山岳同人「流転」の遠征隊の報告書を送ってもらいました。スパンティークは、カラコルムの7000m峰です。こてこての手作り遠征です。旅は、山は、こうあれというもの。普段の地元の山のスタイルで、山スキー、テント無し(半イグル―)、うんこペーパーレス(もちろんゴミも無し)の三本の矢が光っています。
大物の予感漂う23歳女性メンバーの存在も輝いている。若手が続くチームってのが90年代っぽい。
90年代までは、ヒマラヤと言えばガイドと行くものではありませんでした。山岳部なり山岳会のもんが、休みを最低一カ月や二カ月は工面して、自分で梱包、発送して、現地ではポーターに札束配って交渉してキャラバンしてベースで粘って・・・というのがヒマラヤ登山だったのですが、最近、そんな遠征隊の話をさっぱり聞きません。山野井さんや佐藤さんや花谷さんや横山さんや谷口さんたちのような凄腕壁クライマーはもちろん今もやっていますが、僕らのようなセミプロのアマチュアが出かけていくような話をとんと聞かなくなりました。以前に比べ匿名化、非組織化が進んでいるので、日本ヒマラヤ協会も2000年ごろから日本のヒマラヤ登山隊を把握しきれなくなり、もう年報でも網羅できなくなりました。
初登頂じゃなくたって、ピオレドールじゃなくたって、テレビ局が取材してくれなくたって、県民栄誉賞もらえなくたって、全然構わないじゃないですか。もっと手作りで、いつものやり方で、若者がヒマラヤ行けばいいのにな。
久しぶりに送ってもらった手作り報告書。これでいいのだ。