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昭和期3(1936〜1940)


昭和期3(1936〜1940)について

谷川岳/登歩渓流会/1936
Review/syowa3/tanikawa.html
アルプス記/松方三郎/1937
Review/syowa3/alpski.html アルプス記/松方三郎/1937 37 アルプス記 松方三郎(まつかたさぶろう)/1937/龍星閣/326頁 箱と表紙(グラン・サン・ベルナールの僧院、銅版1834年) 箱と表紙(グラン・サン・ベルナールの僧院、銅版1834年) 見返(モン・ブラン連峰パノラマ、 銅版1834年) 見返(モン・ブラン連峰パノラマ、 銅版1834年) セーニョ峠から見たモン・ブラン (古石版画) セーニョ峠から見たモン・ブラン (古石版画) 松方三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家  東京生れ。父は明治の元勲松方正義、松方コレクションで有名な松方幸次郎は兄。1919(大正8)年、学習院高等科卒業。高等科時代、板倉勝宣と同級。1922(大正11)年、京都帝大経済学部卒業。1913(大正2)年、14歳で富士山に登ったのを初めとして北アに入り、多くの山々を歩く。京大時代の1922(大正11)年3月、燕、槍といずれも積雪期初登攀、同年7月、槍ヶ岳北鎌尾根の初登攀に成功した。  1924(大正13)年〜1928(昭和3)年、ヨーロッパに留学、鹿子木員信、槙有恒、浦松佐美太郎といったパートナーを得て、スイス・アルプスの山々に親しみ、アイガーのヘルンリ稜完登など30数座に登攀した。この間1926年には槙有恒らと秩父宮に随伴し、マッターホルンなどに登る。帰国後は盛んに富士山に登った。社会人としては、満鉄に5年間勤務の後、新聞連盟社(のち同盟通信社)に勤務、1937(昭和12)年から終戦まで中国各地の支局長として激務に明け暮れた。  戦後は新たに創立された共同通信社の専務理事などジャーナリストとして活躍。60歳で勇退後は、国際ロータリークラブ、ボーイスカウト日本連盟会長など内外の世話役を務めた。絵画、書物、焼物など、趣味人でもあった。1946(昭和21)年〜1948(昭和23)年第5代、1962(昭和37)年〜1968(昭和43)年第10代日本山岳会会長。1969(昭和44)年日本山岳協会会長。1970(昭和45)年日本山岳会エヴェレスト登山隊隊長、同隊の松浦輝夫、植村直己が日本人初のエヴェレスト登頂に成功。英国山岳会名誉会員。日本山岳会名誉会員。従三位勲一等瑞宝章授章。 内容  アルプスを中心とした38編の随筆からなる。いずれもけれん味のない、平易な、リズム感のある文章で、大変に読みやすい。挿入の古石版画、銅板画、著者自身の写真が素晴らしい。   「雪の世界の好さはその静けさにある。山では殊にさうだ。ふと小屋の戸を開けて真夜中の月の光に氷河やそれを取圍く山々を見廻したときなど氷河時代にかへった地球の上にたった一人取り残された人間のように感じることさへある。 熱とか火とかを連想する何物もないやうな、氷と雪との支配するその世界に一度足を入れて、飽く迄に冷酷な、しかし、飽く迄に静かなその美しさを知ったあとで、この世界の引力を忘れ去ることは出来ない。 餘りの美しさに胸を躍らせ乍ら、しかも、飛んでもないものを見てしまったと後悔したりするのである。おしなべて、山男などといふのは、かうした頓馬なのである。」(冬山断片)  学習院の同級生で、多くの山行を共にした友人板倉勝宣(B-15「山と雪の日記」参照)について、次のように回顧している。  「彼は黙っていても、一つの歴然たる存在であった。どんな意味でも社交的ではなかったが、彼の失われたことから衝撃を受けた者は實に多かった。すれ違い様に彼に接した人ですらも、彼の風格を忘れることが出来なかったのである。勿論それは決してただの奇抜さから来たものではなかった。彼自身を例外とすれば、総ての知人は彼を一つの特異な風貌の持ち主だと思っていた。見た目に確かにさう見えたのであるから致し方ない。しかし彼の特異性は、そして人の心に深く印象づける彼の性格は、彼なる存在の本質そのものであり、したがって彼と共に永久に失われてしまって今更なんとも仕様がない。私は自分自身の必要からこの失われた傑作のファクシミリを造って置く方法はないものかと折に触れて考えたこともあった。しかしそれは何れも失敗であった。」(机上彷徨) 山岳館所有の関連蔵書 遠き近き 松方三郎/1951/隆盛閣 アルプスと人 松方三郎/1958/岡書院 松方三郎 松本重治/1974/共同通信社 松方三郎エッセイ集 松方三郎/1975、76/築地書館 (手紙の遠足、民芸・絵・読書、山で会った人、山を楽しもう、アルプスと人) 訳書 エヴェレストをめざして/1954/ハント,J /岩波書店 わがエヴェレスト/1956/ヒラリー,E/朝日新聞
雪庇/田部重冶他/1937
Review/syowa3/seppi.html 雪庇/田部重冶他/1937 38 雪庇 田部重冶他(たべじゅうじほか)/1937/帝国大学新聞社/282頁 箱と表紙 箱と表紙 扉 扉 寄贈者署名 佐々保雄 寄贈者署名 佐々保雄 挿入画 坂本直行 挿入画 坂本直行 内容  この時代の著名な登山家他31名の随筆を収録したもので、帝国大学新聞社が編集、出版している。金天箱入の立派な装丁である。筆者は、田部重治、浦松佐美太郎、足立源一郎、武田久吉、三田幸夫、今西錦司、西堀栄三郎、松方三郎ら31名、中村清太郎、足立源一郎、坂本直行、茨木猪之吉が挿絵を担当している。北大関係では栃内吉彦、佐々保雄、坂本直行のものが載せられている。 あとがきに、 「ふかぶかと降る雪のかそけきささやきを外に、赤々とくべるたきぎの火にほてりながら、雪の夜の山小屋の囲炉裏ばたに、それぞれに懐ひ見る追憶のくさぐさ、本随想集『雪庇』はそのような『炉辺スキー談義』を一本として集め編んだものであります。スキー初心者のガイド・ブックではありません。高い技術のテクスト・ブックではありません。ささやかに贈る『雪の文学』たらしめんとするにあります。」 とあり、多くの登山家による「雪の文学」集である。  以下は、山形県出身の歌人、結城哀草果(註)の「雪三題」の内、垂氷の1部。 「北国の子供らは、家の軒に垂氷が下がるとよろこんだ。夜草屋根に白く雪が積った翌日は、まばゆい冬日和、屋根の雪がしきりに解けはじめる。その雫が軒をしきりに落ちる陰が、冬日の明るい障子にうつる。それを眺めながら雪国の子供だちは炬燵をかこんで話をききながら育った。北国の人だちに生涯つきない夢があるとしたら、その源を幼年時代の炬燵生活にまで溯ると思ふ。」  栃内吉彦先生の“十勝の連峰など”は、十勝、大雪、日高の粉雪の素晴らしさについて述べている。先生は、毎年参加していた北大山岳部の十勝スキー合宿の様子について、 「毎年のように行くせいか十勝連峰は自分にとって最も親しみが深い。十勝岳の中腹・高距千米の密林の中に、滾々と湧き溢れている吹上温泉は、連峰登攀の根拠地として実に得がたき好位置を占めている。この温泉を中心として、二千米を抜く十勝岳・美瑛岳、二千米に垂んとする富良野岳、或は上ホロカメトク等は、何れも楽な一日往復の行程である。森林地帯を抜けて尾根に出れば、大概いつも雪は風にたたきつけられて硬く岩膚に氷つき、頂上付近には蒼氷さえも現れている。高距は僅に二千米を前後するに過ぎないが、スキーデポを後に防寒着をぬくぬくと身につけて、横なぐりに吹きつける風雪に面をそむけつつ、黙々とクランポンを踏みしめて登高の息を弾ませる時、しみじみと身は氷雪の高根にあることを覚える。」  佐々保雄先生の“直井温泉の頃”は、温泉宿として開業間もない頃の今の愛山渓温泉についての回想である。大正15年に温泉宿を開いた直井さんは、昭和8年温泉を人に譲りブラジルに移住したという。 「その直井温泉と言うのは、大雪山の北西の麓、永山岳の山裾に抱かれて、寂しく立っていた。それは温泉と言ふには余りに粗末な、僅かに雨露を凌ぐに足る程度の、チッポケな掘立の柾小屋だ。お客の為の、座敷と言う程でもない八畳と六畳に、台所と居間兼台所の一間、それに湯船の柾小屋といった十数坪の平屋。収容客も十人が関の山。大体が夏の登山客や湯治客も稀な位だったから、ふだんの冬は勿論之を閉鎖して、宿の人も安足間の自宅に下っているのだった。里の安足間駅までは一日がかりで漸く出るような所だ。だから食事など勿論贅沢は言えない。寧ろそうした簡素な、山小屋の生活こそ望ましいものだったから、何よりもそこの豊富な薪が一番のご馳走だ。あかあかと燃えるストーブを囲んで、ジッとしていると、そしてサラサラと窓を打つ雪の音に耳を傾けていると、しみじみと時の流れを感ずる。」  坂本直行さんの“テレチャニア”は、小学生時代のスキー事始の回想で、羽織袴のスキーに思わず笑ってしまう。 「兎も角、羽織袴にボツコ靴をはいて、身長の二倍もあるストックをついて、三角山の麓迄歩いて行った。‐‐‐‐ストックの石突は殊に重たくて閉口した。僕はそれ迄スケートをやって居たので、中心を取ることには余り苦労しなかったように思ふ。滑る芸は直滑降の一本槍で、自然に止まるのを待って居る他に方法がない。スピードが出たり立木があると、物干竿を股に入れてブレーキをかける(これは今でも御老人連中が盛んにやる方法である)か、或ひは、横について体重をかけてブレーキしながら緩慢に方向を変える以外に術が無かった。中にはあまり力を入れ過ぎて、物干竿を折るほどの豪傑もいた。兎に角服装が服装であるから転倒した時の惨めさはお話にならなかった。先ず尻や腹に雪が浸入する事が一番辛かった。其の他襟から背中に、或ひは靴の中に雪の進入することは勿論である。かくてヘトヘトになって引き揚げる時には、頭はがりがりに凍り袴は鉄板の如くにしばれ(凍る)、すそからはつららが下がった。」 (註)結城哀草果(1893-1974)  山形県生れ、本名光三郎。斉藤茂吉に師事し、「山塊」「赤光」を創刊・主宰。山形市名誉市民。
山・原野・牧場/坂本直行/1937
Review/syowa3/makiba.html 山・原野・牧場/坂本直行/1937 39 山・原野・牧場 坂本直行(さかもとなおゆき)/1937/竹村書房/232頁 表紙 表紙 裏の山の風景 裏の山の風景 冬の野崎牧場 冬の野崎牧場 春の日高 春の日高 晩秋の日高 晩秋の日高 坂本直行(1906-1982) 登山家、開拓農民、山岳画家  山の大先輩であり、十勝原野へ飛び込み苦闘した開拓農民であり、山と草木を独特な筆致で描いた山岳画家である。会員には経歴についてあらためて触れる必要は無いと考えるので、代わりに山の会会報から共に日高山脈の開拓に大きな足跡を残した故相川修会員の追悼文の1部を抜粋し、若き日の直行さんの山登りを偲ぶ。(B-55[開墾の記]参照) “直行を偲んで共に登った山々を回顧す”(北大山の会会報第53号) 「昭和八年一月には金光(註:正次、1935年医卒)他三名と共に直行と小生は戸蔦別川に入り北日高の峰々を登る計画を立てた。これは悪天候の為戸蔦別岳の登頂のみで実に十一日間のラッセルに終始したが戸蔦別川の掛小屋での生活は華やかに楽しいものであった。何しろ農作業で鍛えられた馬力と、極めて上達した鋸の目立ての御蔭で、連日豪勢な焚き火に恵まれ、その上に牧場特性のハム、ソーセージを鱈腹ご馳走になり、おまけに東京虎屋の羊かんを賞味できたのであったからだ。  続いてその年の暮から正月十三日にかけて照井(註:光太郎、1938年医卒)を加えて三人で札内川上流のコイボクサツナイ岳、ヤオロマップ岳を登り、更に長躯ペテガリ岳をと望んだが、直行のアイゼンの爪が強い寒気の為に折損して、ついにこの度もヤオロマップ岳に止まり、再び札内川本流に戻ってさらに上流を目指し、九の沢からカムイエクウチカウシ山を巡り、再度その頂上と千八百四十メートル峰を登攀した。その時の八の沢の圏谷壁の大滑降は強い印象として残されているし、また少人数での長期に亘る厳冬期登山は直行の秀れた技術に補われたものであり、その展開は頂で直行の嚢底から取り出された虎屋の羊かんと、連夜の豪勢な焚火によって壮大なものと化した感がある」 内容  直行さんは、24歳(昭和5年)から30歳(昭和11年)で下野塚に土地を買って独立するまでの間、豊似の野崎牧場(同級生で岳友の野崎健之助会員)で共同経営者として働いた。この本は、直行さんの野崎牧場時代の生活を描いたもので、梓書房の雑誌「山」に13回にわたって連載され、それを竹村書店が単行本として出版した。竹村書店はこの本の出版後倒産し、直行さんは1銭の収入にもならなかったそうだ。  戦後になって朋文堂と茗渓堂から立派な装丁の復刻版が出たが、それに比べ初版本は簡易な装丁である。山岳部員たちに読み継がれてきた山岳館の同書は、手垢にまみれて継ぎはぎだらけで、注意しないとバラバラになってしまう。この本を読んだ多くの部員達が、日高の帰りに下野塚の直行牧場を訪れ、御一家のお世話になった。御一家にとっては大変な迷惑であったろうと思うが、学生時代の忘れられない思い出である。  1975(昭和50)年に茗渓堂より発行された復刻版のまえがきで出版当時の生活について触れ、その当時の気持ちを次のように書き残している。 「『山』に連載したのはたしか昭和7、8年の頃で、私の夢多き青年時代でありました。前記のような経過で、原野入りした私でありましたから、原野の物は何でも美しく、また楽しいものばかりに見えて、それを絵にしたり、文にしたりすること自体、原野での生活から生れる予想外のうれしい副産物でありました。」 序は山崎春雄先生が寄せている。牧場で重労働に明け暮れる直行さんを語る。 「山に入って山を見ずと言う諺の様に、山に入りながら山を見ない山の記述の多い今日において、この牧場生活に山のことはあまり出て来ないでも、本当は牧場に立って山を眺めている人の気持ちを描いたのである。本当の山を知っている人の日記である」 直行さんは山の友を生涯大切にした。 「山にいて一番うれしいものの一つは、都にある山の友からの便りである。変わりない友の心は、又更に大きな喜びである。幸福である。僕はいつも返事には日高の山のスケッチや、牧場のスケッチを描いて送ってやる。友もそれを楽しんでいてくれる。アンザイレンは山ばかりではない。それは山を知る人間のみの知る喜びだろうと思う。日高登山の帰りに、牧場に立ち寄るといふような便りは、殊にうれしい。山の友に会えるし、山の話が聞けるし」  重労働に明け暮れる牧場生活の中にも、つかの間の動物達との心温まる触れ合いである。 「豚の仔ほど可愛いものも少ない。世にもメンコイものは豚の仔とヒヨッコである。桃色の肌、真白なピカピカした毛、細かいまいくった尻尾、日向ぼっこすると肌の色がだんだん赤くなるのが面白い。血液の循環が良くなるからだろう。乳をのむ時の可愛さ、ペシャンコの鼻で母親の腹をぐっと押しながら夢中になる。お互いは猛烈なタックルをやる。弱い奴は乳のあたりが少なくなるので、いつもやせてヒョロヒョロしている。豚は小さい時はなかなか敏捷で、追いかけたって到底競争にならない程早い。仔の時は、眺めていてもとても食ふ気は起こらないが、成長してくるとだんだん憎らしくなって来て食う気が起きてくる心理は、自分ながらわからない」   冬山への熱い思いを次のように語る。 「初雪――― 大雪山、十勝岳の中央高地の初雪は早いが、日高連山の初雪はそれに較べると遅いのである。けれども今年はいつになく早くやって来た。九月の三十一日の夜に降った。翌朝、僕は朝日に染まる、初雪で化粧した日高連山を見た。僕の胸は躍った。山を愛する人間だったら、初雪に覆われた山を、冷静に見得る者は無かろうと思う。それにバリバリと草が凍るほど強い初霜と冷たい朝の空気は、僕をして生生した冬山の思い出に走らしめた。初雪は冬山の思い出を新たにする。初雪の感激は深い。陽が高くなるにつれて消え失せて行くその雪を見ると、淡い寂しさをさへ感ずる」 山岳館所有の関連蔵書 開墾の記 坂本直行/1942/長崎書店 続 開墾の記 坂本直行/1994/北海道新聞社 原野から見た山 坂本直行/1957/朋文堂 蝦夷糞尿譚 坂本直行/1962/ぷらや新書 私の草木漫筆 坂本直行/1964/紫紅会 雪原の足おと 坂本直行/1965/茗渓堂 山・原野・牧場 ある牧場の生活 坂本直行/1975/茗渓堂 私の草と木の絵本 坂本直行/1976/茗渓堂 坂本直行作品集 坂本直行/1987/京都書院 坂本直行スケッチ画集 坂本直行/1992/ふたば書房 ヌタック1〜2号 札幌第2中学山岳旅行部/1928・1930 北大山岳部部報1〜14号 北大山岳部 北大山の会会報1〜103号 北大山の会 雑誌「山」(復刻版)1巻〜6巻 梓書房/復刻版:出版科学総合研究所 北の大地に生きて 高知県立坂本龍馬記念館/2006/高知県立坂本龍馬記念館 日高の風 滝本幸夫/2006/中札内美術村 アルプ295号/1982/創文社
登山と植物/武田久吉/1938
Review/syowa3/syokubutu.html 登山と植物/武田久吉/1938 40 登山と植物 武田久吉(たけだひさよし)/1938/河出書房/414頁 箱と表紙 箱と表紙 見返し 見返し 小有珠の南面 小有珠の南面 武田久吉(1883-1972) 植物学者、民俗学者、登山家  幕末から明治にかけて在日したイギリス外交官アーネスト・サトウの二男として東京に生れる。府立尋常中学校、東京外語を経て、札幌農学校予科、東北帝国大学で講師。1910(明治43)年、ロンドン大学、バーミンガム大学に学ぶ。1912(明治45)年、王立キュー植物園を本拠に植物の研究を続け、1916(大正5)年帰国後、京大、九大、北大などで講師を務め、植物学を講じた。  登山は、1895(明治28)年、小学生の時に妙義山に登ったのを手はじめに富士山、八ヶ岳、日光、白馬岳、北岳など各地の山に登り、1905(明治38)年7月に初めて尾瀬に足を踏み入れた。「山岳」創刊号に「初めて尾瀬を訪ふ」を発表、反響を呼んだ。尾瀬の素晴らしさとその真価を世に伝え、尾瀬のダム化を阻止し、また国立公園の指定については、彼の存在と努力に負うところが大きい。尾瀬の自然保護に対する思いは深いものであった。1924(大正13)年の尾瀬再訪には、本会会員の故館脇操名誉教授も同行し、尾瀬ヶ原をくまなく探索、桧枝岐にも足を延ばした。  ウェストンの勧めで小島烏水らと共に日本山岳会を創立、同会章の制作者、第6代会長を務める。初代日本山岳協会会長。昭和35年に日本自然保護協会を設立するなど、エコロジストの草分けとしても知られる。山歩きは70余年に及んだ。植物学方面の、特に高山植物の著作も多いが、山の随筆・紀行は、昭和5年発行の「尾瀬と鬼怒沼」が代表作。 内容  日本山岳会の創立メンバーで、植物学者、民俗学者の筆者が、大正中頃から昭和に亙る20数年間に雑誌、新聞に執筆したものから、大小30数編を選んで本書にまとめたものである。内容について「主として山岳、山旅の紀行、又山岳と離れ難い植物、殊に森林や高山植物に連関するものであるが、専門家のみが顧る学説の類は、勿論省いて載せない。」と序で述べている。  「登山する人へ」、「山の思い出」、「紀行」、「高山植物」の4章からなる。「登山する人へ」では、山を愛することの重要性、登山の歴史、心得、準備、婦人の登山などについて、登山の先輩として初心者に分かり易く丁寧に説いている。「山の思い出」は、四季毎の山の素晴らしさ、草花、樹木、山菜、山の湯について、「紀行」では、大菩薩連嶺、丹沢山塊、小仏峠、石老山、御岳、乗鞍、尾瀬、日光など、自分の歩いた山、峠の地勢、山村の風景や人々、歴史、植生などを交えながら語る。この章の最後の「北海の奇勝を語る」は、著者が北大予科講師の頃、狩太から留寿都を経て、洞爺湖まで歩き、有珠山に登った時の紀行である。狩太から洞爺湖まで徒歩で2日かかっている。「高山植物」は、その素晴らしさを例を挙げて解説している。 山岳館所有の関連蔵書 高山植物/武田久吉/1916/同文館 高山の花/武田久吉/1952/岩波書店 高山植物/武田久吉/1963/保育社(カラーブックス、文庫版) 原色日本高山植物図鑑/武田久吉/1964/保育社 明治の山旅/1971/武田久吉/創文社 尾瀬と鬼怒沼(日本山岳名著全集)/武田久吉/1962/あかね書房 尾瀬と鬼怒沼(復刻日本の山岳名著)/武田久吉/1975/大修館書店 尾瀬/平野長英・川崎隆章/1940/龍星閣 尾瀬と桧枝岐/川崎隆章/1978/木耳社
山の憶い出(上)(下)/木暮理太郎/1938
Review/syowa3/omoide.html 山の憶い出(上)(下)/木暮理太郎/1938 41 山の憶い出(上)(下) 木暮理太郎(こぐれりたろう)/1938/龍星閣/上556頁,下608頁 箱と表紙 箱と表紙 見返し 見返し 至仏山にて筆者 至仏山にて筆者 木暮理太郎(1873-1944) 登山家  群馬県新田郡強戸村(現太田市)の農家に生れる。1899(明治22)年、東京府尋常中学校へ入学、郁文館中学へ転校し卒業、旧制第2高等学校を経て、東大哲学科へ入学。東大には10年在学し、哲学、史学を修めるも、中途退学。その後雑誌「ハガキ文学」編集など文学、美術雑誌に関係していた。1907(明治40)年、東京市史料編纂所(現東京都公文書館)に就職し、1944(昭和19)年に永眠するまで東京市史編纂に従事した。  木暮の登山歴は、6歳の時祖母に連れられて赤城山に登ったのが最初であるが、本格的な登山は、1893(明治26)年の木曽御岳で、これは木暮家が御岳講に加入していたための信仰登山であった。翌1894(明治27)年、利根川水源探検行(B-16「上越国境」参照)に参加し、尾瀬ヶ原に達した。その後、針の木越え、立山、槍ヶ岳、乗鞍、木曽駒、甲斐駒、また明治の末から大正初期にかけては奥秩父の山々を歩き、その開拓に熱を入れた。明治39年頃、木暮は田部重治を知るようになり(B-20「山と渓谷」参照)、2人での多くの探検的登山を行なった。1913(大正2)年夏、田部とガイドなしの槍ヶ岳から剣岳、1915(大正4)年夏の魚津−片貝谷−赤牛−烏帽子岳の大縦走、1917(大正6)年7月、朝日―白馬―鹿島槍―針の木縦走などは登山史を飾る。晩年は、ヒマラヤの数少ない正確な研究者として知られ、多くの文献を集め、「中央亜細亜の山と人」をまとめた。1913(大正2)年、日本山岳会に入会、ここで優れた多くの岳友に恵まれ、また日本山岳会機関誌「山岳」の編集で活躍した。第3代日本山岳会会長。秩父金峰山麓金山にレリーフが建立され(佐藤久一朗作)、毎年5月碑前祭が行われている。 内容  日本の登山の黎明期に、登山を実践し、研究し、山への熱情を燃やし続けた偉大な先達の数少ない著書の1つである。内容は、著者が多年に亙って「山岳」、その他の雑誌に発表したものの中から選んでいる。著者は、単行本を出すことについては出版社の強いすすめににも拘らず拒み続けていたが、とうとう根負けして出版を承諾した。その心境について「序」で次のように語っている。 「正直いふと、本を出すことは、私には一の不安である。成程雑誌に書いた当時に在りては、自分の文とても山と言う偉大な存在から、小さいながらも張り切った自分の魂に、じりじりと烙き付けられた数限りもない新しい感激の思い出、その幾つかが織り込まれている筈であると思ふと、抑えがたい心の昂揚から、少なからず自信もてたのであった。----------所詮は、本を出す、否、世に生き残る本を出すといふとは、或選ばれた人にのみ与えられた特権であるように思われる。その選に漏れたものが真似ても真似られるものではないし、また真似すべきものでもあるまい。私は草信じている。」  「上巻」の巻頭には、150ページに亙って著者の心のふるさと秩父が語られている。古文書を引き、自らの紀行を交え、山の歴史、地質、森林、渓谷、動植物、山容、登山ルート等々、雲取山から金峰山までの23峰について詳しい解説がある。他に、1919(大正8)年、武田久吉、藤島敏男の3人で、利根水源地の山々を探った時の紀行、苗場、日光、鬼怒、皇海、美ヶ原などの随想紀行がある。「黒部川奥の山旅」は、田部重治らと日本海から剣岳、烏帽子岳の大縦走の記録を150頁余の長文で綴っている。「黒部川を遡る」は、黒部川下の廊下の遡行に成功した時の迫力に満ちた紀行文である。  「下巻」の冒頭は「望岳都東京」の章で、東京からどんな山が見えるか、大正初期から市内各所の高所から観測し、昭和8年に3000m以上の山が9座、2000m以上が63座が見えると発表している。大変な根気で、彼の几帳面な性格を知る。その他、白馬の研究と紹介、後立山諸峰、尾瀬ヶ原などの紀行、森林美、渓谷美、故郷の村の随想など、実にバラエティに富んでいる。山名、地名の考証では、アイヌ語、朝鮮語、ポリネシア語などに語源を求め、研究を行っている。  時に硬い文章で読みにくいなどと感じる所もあるが、1編1編実に綿密に、正確に練り上げられており、いずれも山へのひたむきさに溢れた文章である。 山岳館所有の関連蔵書 登山の今昔/木暮理太郎/1955/山と渓谷社 わが山旅五十年/田部重治/1978/二見書房
山の人達/高橋文太郎/1938
Review/syowa3/hitotati.html 山の人達/高橋文太郎/1938 42 山の人達 高橋文太郎(たかはしぶんたろう)/1938/龍星閣/328頁 箱 箱 表紙 (安曇郡諸山の図、善光寺道名所図会) 表紙 (安曇郡諸山の図、善光寺道名所図会) ウェストン翁夫婦と上条嘉門治 ウェストン翁夫婦と上条嘉門治 高橋文太郎(1903-1948) 民俗学者  東京府保谷村(現西東京市)に生れる。1927(昭和2)年、明治大学政経学部卒業。同大山岳部OBで、同部創立者の1人。北アルプス、尾瀬を中心に活躍した。武蔵野鉄道(現西武池袋線)重役。鉄道退職後、民俗学研究に専心し、マタギ、木地師など山の生活者の調査を行なう。1937(昭和12)年、民俗学の研究を共に行なってきた銀行家の渋沢敬三に協力して、生地の保谷に民俗博物館を創設する。ここを拠点に各地に旅し、マタギ、木地師など主に山で暮らす人々の民俗について調査研究を行なった。しかし1940(昭和15)年、理由は判然としないが、渋沢と決別し、民俗学から離れる。  日本山岳会理事として「山岳」の編集に携わる。 内容  山を愛する民俗学者が、折にふれて書いたエッセイから15編をまとめたものである。序で「内容は華々しい登攀の記録では勿論ないし、民俗学関係のやや専門がかったものは省くことにした」と述べている。内容は「山と民俗と」、「秋田マタギの印象」など山の民の暮らしと「外来者の登山」などの登山文化史からなる。著者は自身の登山行為について次のように規定するが、真に幅の広い山登りである。
瀬戸君・高田君追悼録/湊正雄編/1939
Review/syowa3/tuitou.html 瀬戸君・高田君追悼録/湊正雄編/1939 43 瀬戸君・高田君追悼録 湊正雄・朝比奈英三代表編集/1939/北大山岳部/166頁 表紙 表紙 D尾根上のケルン、後方は上ホロ D尾根上のケルン、後方は上ホロ 見返し、カットは坂本直行 見返し、カットは坂本直行 遭難現場見取り図 遭難現場見取り図 内容  1938(昭和13)年12月27日、北大山岳部十勝岳冬期登山練習合宿中の5日目、上ホロカメットクより下山中の第10班(3年班)の湊正雄(リーダー)、瀬戸三郎、高田徳(のぼる)が底雪崩に巻き込まれた。湊は辛うじて脱出したが、他の2名は雪崩に埋没し、高田は2日後に、瀬戸は翌年6月4日に発掘された。山岳部創部以来初の遭難であった。  本書は、両君の追悼のために遺体の捜索など跡始末に忙殺されていた山岳部の仕事と離して、友人有志の手で編集され(編集代表朝比奈英三、湊正雄)、遭難の翌年11月に発行された。序は、今裕北大総長、鈴木限三山岳部長、山崎春雄教授、犬飼哲夫教授、伊藤紀克OBが寄稿している。内容は学校関係者、友人、親戚、肉親ら34人による追悼と、山岳部による経過報告からなる。  十勝岳吹上温泉を拠点にした北大山岳部の冬期十勝合宿は、1928(昭和3)年から行なわれ、例年100名前後が参加していた。この年は77名が参加し、初年班5班、2年班3班、3年班4班、先生班2班に編成され、連日雪上訓練やピークハントを行っていた。合宿5日目の12月27日、第10班(3年班)と第8班(2年班)は合同で吹上温泉を出発、崖尾根、Z-D経由で上ホロカメットクへ向かい、11時半頂上到着、12時過ぎに第10班、第8班の順で下山にかかった。シーデポにもう直ぐの地点まで来た時、第10班の湊、瀬戸、高田の3名が雪崩に巻き込まれた。湊は辛うじて自力で這い出したが、他の2名はデブリに埋没した。部員、OB、地元上富良野青年団らによる必死の捜索により高田は2日後に遺体となって発見されたが、瀬戸は翌年6月になってようやく収容された。  雪崩発生の位置は、上ホロカメットクD尾根の八手岩と反対側の富良野岳側斜面上部(標高1750m付近)である。先頭を歩いていたリーダーの湊は、「遭難当日の事」の中で雪崩に流されていく時の状況を、次のように冷静に観察している。 「唯夫は歩いている途中でしたが、一瞬!おやと感じさせる程はっきりしたものであった事は確かでした(註:湊がその前に聞いたシューという音について)。そしてこの音と殆ど前後して後から後から連続してバーンといふ力のこもった音がその辺一面におこって、私たちの乗った斜面は一斉に動き出しました。屋根の雪が落ちる時に、私達が経験するザーといふ戦慄すべき音と共に、始めはゆるく、次第に早く私達は転落してゆきました。全く心に余裕がありませんでしたので、瀧のように崩落する雪塊の波の中にもまれつつも雪崩だと気付くまでには大分間がありました。 −中略− 後から後から巨大な雪塊が足をさらいます。とうとう転倒しました。両手も両足も雪の中にとられ、大の字の姿勢になって雪に閉じ込められたまま落ちてゆきました。今はもう疲れきって観念しました。最後に転がって来た雪塊が胸から顔の上に載ってまったく何も見えなくなってしまいました。やがて馬橇のとまる時の様なギーといふ音とともにデブリ全体がミシミシと停止しました。」  雪崩の発生原因について、合宿に参加していた佐々保雄助教授(当時)は、他の先生方と協力して現地を調査し、次のように結論付けている。(「雪崩現場の観察其他について」)。 「雪崩の発生した地帯は二区域に分けることができる。一つは澤頭一帯に広く起こったもので、落下形式から謂えば所謂『板状雪崩』即ち積雪上層が板状破片に破砕し落下したものである。その範囲は図示の如く斜面に沿い長さ百二十米幅最大八十米厚さはその切裁断面によれば平均三十糎内外と認めた。この雪崩は遭難者等よりやや遅れて降っていた六名の部員の足下から切れて起こったもので、うち二名が引き込まれて数米流され、弾き出された形で止まり助かっている。他の一つはその西方、澤の北壁に起こったもので、幅七十米、長さ略六十米、殆ど全積雪層をめくって滑落し、下半部は特に山肌の岩石偃松を露出せしめ、所謂『底雪崩』として猛威を振るっている。 ―中略― たまたまこの板状雪のクリティカルな部分に足を踏み入れた部員によって板状雪崩が発生し、これによって部員2名が数メートル引きづられた後、側方へ放り出された。板状雪崩の滑落による震動の波及あるいはその下流による斜面下積雪層の剥落等の為、北斜の異常堆積部即ち雪楯部はその歪が破られ滑落するに至った。偶々雪楯部の上部を歩行中の部員3名はこれに巻き込まれるに至った。」  文中の“異常堆積部即ち雪楯部”とは、積雪が風によって吹き飛ばされ叩きつけられた斜面の、特に上半部に異常に厚く堆積した風成雪地帯で、人やスキーによる衝撃を受けると底雪崩が誘発される、と解説している。  山岳部の主任幹事であった葛西晴雄は、「今回の遭難事件について」で遭難を総括した上で、友を失った悲しみと今後の山との付き合い方について次のように語っている。 「吾が部が年に歳に夏冬を問わず北海道の山野に絶えず歩みをつづけて以来此処に十二年余り、その間私達は嘗て一度も今回の如く山に友を失うことの悲しみを味はった事が無かったのである。 ―中略― 吾々はもとより山に死ぬ事を望むものではない。反対に山を知れば知る程覚えるのは山への愛着であり生きる事の重大さである。この時にあたって今回の事は吾々に再三再四山への反省を促したものであった。今は亡き両君の吾々に残したあらゆる意味に於ける山への教訓は清く偉大であった。それを単に吾々への貴き贈り物として受けるには吾々の失ったものは余にも大きいが、この悲しい事実を既に起こった事として大自然の前に認めなければならない事は明らかであるし、同時に吾々がこの事実を認めつつも徒に人間の無知をかこつものではない事は前に述べた通りである。吾々はたとへ少しでも構わない、一歩でも進んで自然の姿を掴み之が核心に触れなければならない。そしてそのあらゆる意味に於いて自然の核心に触れるべく真面目に慎重に山に精進する努力こそは吾々の行くべき道であると同時にこの貴き犠牲をして永遠に意義あらしめるものと信ずるのである。」  葛西と共に山岳部の有力メンバーであった有馬洋は、「ケルンの事」で山の死について次のように語っている。 「皆、戦争の世で何時命を捧げねばならないか知れないと言う事とは全く別に、山に死ぬことは世の人からは全くつまらないこととは思われるか知れませんが、我々には我々の本当の意味での生活の大きな部分を占め、まして我々の心を己がものにしている“山”に死ぬことが何の悔やむ所の無いばかりか、我々もまたこんな美しい此の世のユートピアで清く死に、まして自分とは何の知己も係りも無い多勢のうるさい人々よりは、自分の心を本当に知って呉れる仲間だけに静かに山にケルンの一つを積んで葬ってもらいたいものだと思いました。」  この遭難からわずか1年後の1940(昭和15)年1月5日、ペテガリ岳を目指していた葛西、有馬を含む山岳部の主要メンバー8名が、コイカクシュ札内岳直下で雪崩のため遭難死した。彼らのためのケルンは、有馬が望んだように仲間だけで静かにコイカク山頂に積まれた。 山岳館所有の関連蔵書 思いで/湊正雄編/1940/私家本 北大山岳部部報7号/1940/北大山岳部 歩み/葛西晴雄・有馬洋/1941/私家本
山に描く/足立源一郎/1939/
Review/syowa3/egaku.html 山に描く/足立源一郎/1939/ 44 山に描く 足立源一郎(あだちげんいちろう)/1939/古今書院/285頁 箱と表紙 箱と表紙 サヴォアの山村 サヴォアの山村 利尻岳南稜 利尻岳南稜 北鎮岳から旭岳 北鎮岳から旭岳 足立源一郎(1889-1973) 画家、作家、登山家  大阪船場生れ。1905年、京都市美術工芸学校(現:京都市立芸術大学)入学。翌年、浅野忠(1856-1907、日本近代洋画界の先駆者)の開設した関西美術院に移り、浅井忠が亡くなると東京に移り、太平洋画会研究所に学ぶ。1914(大正3)年から4年半パリで画業に励んだ。1918(大正7)年、帰国後は小杉未醒、梅原龍三郎らと共に春陽会を創立。1923(大正12)年、再度ヨーロッパに向け出発、1925(大正14)年帰国する。この間、グリンデルワルドなどに入り山の絵を描く。春陽会での会員間のごたごたに嫌気がさし、山への傾斜がより強くなる。1929(昭和4)年ごろより尾瀬、会津燧岳、穂高、剣岳等から、ついに日本各地の山岳いたるところにその跡を残すことになる。1年の大半を北アルプスで過ごし、その制作態度は現場写生に徹し、岩壁にザイルにぶら下がってスケッチするなど、エピソードが数多い。  1934(昭和9)年、日本山岳会会員。1936(昭和11)年、石井鶴三、茨木猪之吉、中村清太郎、円山晩霞らと共に日本山岳画協会を設立した。画材を求めての旅は海外にも及び、台湾新高山、朝鮮半島金剛山、白頭山、満州へと広がっていった。1945(昭和20)年4月、戦争で田園調布のアトリエを焼いて、パリ時代から戦時中の制作の一切を失う。1963(昭和48)年、三度ヨーロッパに向かう。1971(昭和46)年、最後の登山として長屏山へ登る。1973(昭和48)年、最終作『春の穂高岳』を仕上げ、逝去。 内容  山の画家、足立源一郎の画文集である。著者が新聞、雑誌等に発表した37編よりなる随想、紀行をまとめたもので、それに73枚に及ぶ軽妙なスケッチ、11枚のカットなどが各所に挿入されている。  巻頭の「サヴォアの山居」(昭和3年8月)は、ある年の夏に過ごしたスイス、イタリア国境の一寒村での経験を美しい文章でまとめている。 「正しい立錐形に枝をはったサバンの木陰に画架を据えて描いていると、爽やかな朝風に送られてボロンボロンと放牧した牛の鈴の音が響いてくることも屡々であった。時としては径一尺もある大きな長方形の鈴を頸に重たそうにブラ下げた牛の頭がのっそりとパレットをなめるように現れて、仕事の邪魔をすることさえあった。」  北海道の山旅は「大雪山行」(昭和8年8月)、「利尻礼文」(昭和13年8月)、「冬の北海道」(昭和13年1月)の3編が収録されている。利尻岳には鴛泊から登り、鬼脇へ降っている。 「五百米ほど登ると予想通り霧の上へ出て、空は紺青に澄み渡って、はい伏した樺の林の末枝に細かい新緑の緑を輝かせ、その下影には白花エンレイソウの花が一面に咲き乱れていた。ほどなく這松帯となって千二百八十米の一角にたどりつく。ベットリと雪を蓄えた大きな凹地をへだてて主山がピラミッドの二面を見せて泰然とそそり立っている。その雄大さと崇厳さは、北アルプスあたりでも一寸比較すべきが無いほど素晴らしいものである。」 山岳館所有の関連蔵書 山は屋上より/足立源一郎/1956/朋文堂 日本の山旅/足立源一郎/1970/茗渓堂
尾瀬/平野長英・川崎隆章/1940
Review/syowa3/oze.html 尾瀬/平野長英・川崎隆章/1940 45 尾瀬 平野長英・川崎隆章(ひらのちょうえい・かわさきたかあき)/1940/龍星閣 箱と表紙 箱と表紙 在りし日の姿 (故平野長蔵翁の像) 在りし日の姿 (故平野長蔵翁の像) 山上の楽園 (尾瀬ヶ原池溏と至仏山) 山上の楽園 (尾瀬ヶ原池溏と至仏山) 平野長英(1903-1988) 尾瀬沼長蔵小屋の2代目経営者  福島県桧枝岐に生れる。尾瀬の主と言われた父長蔵と共に、さらに経営者として1918(大正7)年から約五十年にわたって尾瀬ヶ原の自然を守るために尽力した。ダム計画建設反対運動を機に尾瀬保存期成同盟を結成、これは日本自然保護協会に発展した。1980(昭和55)年、吉川英治文化賞受賞。歌集に「尾瀬沼のほとり」(妻靖子と共著)。 川崎隆章(1904-1979) ジャーナリスト,登山家  本名金蔵。東京都出身、早大卒。改造社、小学館に勤務したのち、兄吉蔵の興した「山と渓谷社」の山岳雑誌「岩と雪」を創刊、初代編集長を務めた。理想に燃えたジャーナリストであった。後年、登山の普及に力を尽くし、日本登山学校を創立、校長となる。平野長英との交友は、短歌を通して始まり、尾瀬とその周辺に親しむ。単独行を好み、その足跡は全国に及び、特に尾瀬の山の紹介は高く評価されている。 内容  「序に代えて」は、平野長蔵の遺稿「燧岳開山実記」、「仙鶴歌集抄」(三十五首)」を収蔵している。「燧岳開山実記」は、長蔵20歳の明治22年8月、桧枝岐村産土神燧神社に17日間参籠、その後頂上に石祠を祀り、みずから皇室講究所に学んで新館の資格を取得して開山するまでのいきさつが記されている。  「尾瀬第一部」は、長蔵小屋2代目平野長英の執筆になるもので、「尾瀬の名称と伝説」、「尾瀬の科学」など12編からなる。「山賎雑記」の中で、尾瀬の自然美を長く保存しなければならないと説いて次のように書く。 「この静かな原始的風致、これが尾瀬の生命なのだ。私は永久にこの静寂さと、この汚れなき風致の保存せらるることを念じてやまぬ。『この地をして永久に、永遠に、幽寂を失われることなくして、独創し、思索し、瞑想するの地たらしめよ。青年よ、赤き心よ、風光明媚なるこの湖畔に大自然の恩恵の下に集まりてこの大自然の美を享受せよ。』亡き父は斯く言った。私もまた同じ心である。父の一生を捧げた所、仙境と人に称えられるる尾瀬沼のほとりに、父の後を継ぎ、父の創った山小屋を営むことに私は生甲斐と幸福を感ずる。」  近年、長蔵小屋では多量の建築廃材などの不法投棄が発覚、尾瀬の環境問題に真っ向から取り組んできた歴史ある山小屋の不祥事に多くの人が驚いた。この事態を2代目長英が知ったら何と言うであろうか。  「尾瀬第二部」は川崎隆章の執筆になる。研究、紀行、案内が収められている。歴史、伝説、地形・地質、動植物、山名由来、展望など多方面にわたって記述されている。 山岳館所有の関連蔵書 岳/川崎隆章/1943/山と渓谷社 登山講座1〜6/川崎隆章編/1942〜43/山と渓谷社 日本名山紀行/川崎隆章/1944/体育評論社 想い出の山/川崎隆章/1968/角川書店 尾瀬に死す/平野長靖/1972/新潮社 はるかなる尾瀬/朝日新聞前橋支局編/1975/実業之日本社 尾瀬と鬼怒沼(復刻日本の山岳名著全集)/武田久吉/1975/大修館書店 尾瀬と桧枝岐/川崎隆章/1978/木耳社 尾瀬の四季/安藤博/1980/月刊さつき研究社 尾瀬‐山小屋三代の記/後藤允/1984/岩波書店 (註1)平野長蔵(1870-1930)  福島県桧枝岐に生れる。尾瀬の長蔵小屋初代主人。関東水力電気会社(後の東京電力)による尾瀬ヶ原のダム化計画を阻止する為に、1922(大正11)年より長蔵小屋に永住を決意し、武田久吉らの協力を得て、翌年には政府へダム計画見直しの請願書を提出した(B-40登山と植物 武田久吉参照)。長蔵の死後は子の長英が長蔵小屋を継承し、ダム反対運動を続けた。その結果、尾瀬ヶ原ダム計画は頓挫し、東電は1966(昭和41)年に到って水利権を放棄した。長蔵は日本の自然保護の象徴とも言われている。 (註2)平野長靖(1935-1971)  平野長蔵を祖父、長英を父として群馬県片品村に生れる。京都大学文学部を卒業後、北海道新聞記者。家業を継ぐことになっていた弟が死亡したため尾瀬に帰り、長蔵小屋経営者となる。尾瀬の観光道路建設に反対し、1971(昭和46)年、初代環境庁長官大石武一に直訴、田中角栄通産相を始めとする建設推進派の強い抵抗に負けず、建設中止を勝ち取る。その直後、尾瀬からの下山中に豪雪の三瓶峠で遭難死した。 (註3)川崎吉蔵(1907-1977)  雑誌「山と渓谷」創刊者。東京都出身、早大山岳部OB。中学時代から丹沢、奥多摩などの山に親しみ、1924(大正13)年日本山岳会入会。雑誌のほか、山岳関係のガイドブック、単行本なども多数出版し、山岳文化向上に尽くした。
山岳省察/今西錦司/1940
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樹林の山旅/森本次男/1940
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山/辻村太郎/1940
Review/syowa3/yama.html 山/辻村太郎/1940 48 山 辻村太郎(つじむらたろう)/1940/岩波書店(新書版)/177頁 表紙 表紙 カール地形 (上ピレネー、下東部アルプス) カール地形 (上ピレネー、下東部アルプス) 辻村太郎(1890-1983) 地理学者、登山家  小田原市に生まれる。1912年東京帝大理科大学地質学科に入学、同大学院卒業。1918年東京高等師範学校講師、1920年同助教授。1923年東京帝大地理学助教授、1944年同教授。1951年退官。1939年〜1952年、日本地理学会の副会長、会長を務めた。日本山岳会名誉会員。 カール地形で名高い山崎直方に師事し、自らも氷河やカールの研究を行なった。日本地理学界のパイオニアとして活躍、Landscapeを景観と翻訳した。 日本山岳会創成期のメンバーとして、登山界にも貢献した。「スウィス日記」「ハイランド」の著者辻村伊助は従弟にあたる(12参照)。 。 内容  岩波新書の創刊は昭和13年であり、本書はその2年後の昭和15年にその1冊として出版された新書版である。(表紙に63の番号)。  内容は、総説、渓谷、山嶺、氷河、火山に大別され、その下に小見出しがつく詳論である。「はしがき」に、 「さて書き上げて見て我ながら驚いたのは、山の気が希薄で、書冊の匂いが勝っているのは未だよいとしても、文章が窮屈であって、岩山みたいに堅苦しく、火山の裾野を見るように、延び延びとした所が殆ど無いことである。」 とあり、たしかに読みやすいとは言えないが、長い登山経験が通り一遍の山の解説書ではなくして、山好きの好個の教養書となっている。
山旅の素描/茨木猪之吉/1940
Review/syowa3/yamatabi.html 山旅の素描/茨木猪之吉/1940 49 山旅の素描 茨木猪之吉(いばらぎいのきち)/1940/三省堂/164頁 表紙 表紙 白馬頂上 白馬頂上 上条嘉門次翁 上条嘉門次翁 茨木猪之吉(1888-1944) 山岳画家、登山家  静岡県富士郡岩松村(現富士市)影山家に生れる。1891(明治24)年、横浜の茨木家の養子となる。浅井忠(1856-1907、洋画家、日本近代洋画界の先駆者)の門に入るが、のち小山正太郎塾(不同社)、中村不折に師事する。近所に住む小島烏水と知り合い、1909(明治42)年8月、烏水に誘われて高頭式、中村清太郎、三枝威之助、高野鷹三と、南アルプス西山温泉から赤石岳まで南ア核心部の初縦走に参加する(茨木は体調を悪くして途中下山)。1910(明治43)年より3年間図画教師として信州小諸小学校に勤務。ここで歌人若山牧水と交わったり、木曾方面に遊んでいる。また浅間山や北アルプスにも登り、小諸小学校退職後は広く各地を放浪、漂白する。絵の対象は山だけではなく、常に山麓の風物、山人の暮らしにも向けられていた。1912(大正元)年、日本山岳会入会、1936(昭和11)年、足立源一郎、中村清太郎、石井鶴三らと日本山岳画協会を設立。1944(昭和19)年10月、穂高・涸沢小屋より穂高山荘を経て、白出澤へ向かったまま消息を絶つ。 内容  軽装、薄手の茨木が生前に取りまとめた唯一の画文集である。茨木は生来、野人型で無邪気な性格であったが、田部重治は「序」でその茨木の絵について次のように述べている。 「氏は絵を描くために山に入り始めたのが十代であり、その後、それが嘗て中断されたことが無い。恐らく氏は登山家としても最も古い一人ではあるまいかと思われる。 −中略― 氏の真面目は山岳画家として最もよく発揮されていること言ふまでもない。しかし氏の絵には、何人にも真似ることの出来ない野趣があり、特に、山と人生との入り組んでいる方面の描写に於て優れているように思われる。山を背景とした山村や街道の風貌、山を背景とせる寂れた裾野の人家人間など氏に最もふさはしい題材ではなかろうかと思われる。」  本書に収録されている素描は、高山峻岳よりも山村や山の湯風景であったり、山案内人や岳人仲間の風貌であったりするものが圧倒的に多い。気取りの無い、優れた素描と個性のにじみ出た随想が楽しい。
 

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