ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー

昭和期1(1926〜1930)


昭和期1(1926〜1930)について

記念 北大スキー部創立十五周年/1926
Review/syowa1/kinen.html 記念 北大スキー部創立十五周年/1926 1.記念 北大スキー部創立十五周年 著者代表大野精七/1926/北大スキー部/401頁 表紙 表紙 建設中のテイネ・パラダイス・ヒュッテ 撮影:坂本弥直 建設中のテイネ・パラダイス・ヒュッテ 撮影:坂本弥直 北大スキー部  1912(明治45)年2月、北大の稲田昌植(のち全日本スキー連盟初代会長)ら7名は、オーストリア軍テオドル・フォン・レルヒ少佐からスキー術指導を受けた月寒25連隊の三瓶中尉から、10日間に亘ってアルペン・スキー術の指導を受けた。この時の学生が中心となって同年6月、北大にスキー部が設立された。その後、1926(大正15)年に登山を志向するグループが分離して山岳部を設立した。さらに1963(昭和38)年、山スキーを楽しむグループが分離して山スキー部を設立、スキー部はアルペンスキー術を教えたレルヒ少佐の来日以来連綿と続いた山への志向を切り離して、競技スキーに徹することとなった。戦前は、ジャンプと複合で数々の名選手を生み、1928(昭和3)年、第1回全日本スキー選手大会で優勝するなど、日本のスキー界をリードした。日本が初めて参加した第2回冬季オリンピック(1928年サンモリッツ)には団長に廣田戸七郎、ジャンプに伴素彦を送った。伴はのちに全日本スキー連盟会長、レークプラシッド大会(1980年)団長を務めた。2012年はスキー部創立100周年に当たる。 内容  本書は、1925(大正15)年に北大スキー部が創部15年を記念して発行した。大野精七部長の序文以下、30編が寄稿されているが、創部由来や思い出に関するもの10編、スキージャンプなど競技に関するもの7編、登山に関するもの13編からなる。この13編は主に山岳部創立に関係し、創部後は山岳部を盛りたてた人たちの筆になり、さしずめ山岳部前史である。大正10年前後は、国内の積雪期登山はまだ開拓期であったが、北大は板倉勝宣を中心に北海道の山々で既に活発な冬期登山を行っていた。その勢いを感じさせる内容である。巻末には海外16名の著名なスキーヤーや登山家からの寄稿が載せられている。  登山に関するものは、「知床半島の山々」(須藤宣之助)、「イトンムカ川から武利岳へ」(西川桜)、「オプタテシケ山脈よりトムラウシ山彙へ」(山口健児)、「大正二年冬の富士山スキー登山の想い出」(角倉邦彦)などである。「スキーセーリングの興味」(松川五郎)と「石狩平原の二日間」(六鹿一彦)は、石狩平野をスキーで滑走した時の記録である。  角倉の「冬の富士山スキー登山の想い出」は、角倉らスキー部員3名がまだシュタイグアイゼンやピッケルが輸入される以前のその名前さえ知らない時代、スキーによる冬の富士山登山を目指した記録である。大正元年12月31日、御殿場中畑を出発、スキーは岩の露出が多く使えなくなった為に2合5勺の小屋で捨てたが、油氷と強風に悩まされながら、御殿場の鍛冶屋に作らせた金樏(鉄のかんじき)と鳶口を使って攀じ、翌大正2年元旦、零下17度の山頂に到達、同日下山する。富士山の冬期登頂はすでに野中至などの記録があるが、スキー部らしくスキーを使って登頂しようとした心意気は素晴らしい。  その他、本田治吉、田口鎮雄、加納一郎のスキー登山技術に関するもの3編、そして板橋敬一の立山で遭難した板倉勝宣への思いを切々と語る追悼文「板さん--亡友板倉勝宣の憶ひ出」が載せられている。  スキー技術を理論面からリードし、加納一郎らと十勝岳冬季初登頂をした中野誠一は、「ターンを構成するファクター」で回転技術を理論的に説明している。 山岳館所有の関連蔵書 北大スキー部部報1-3号 北大スキー部/1931/33/35/北大スキー部 北大山岳部部報1-7号 北大山岳部/1928/29/31/33/35/38/40/北大山岳部 北の山 伊藤秀五郎/1935/茗渓堂 北海道のスキーと共に 大野精七/1971/私家本 北大スキー部70年史 スキー部70周年編集委員会/1982/スキー部OB会 北大スキー部80年史 スキー部80周年編集委員会/1992/スキー部OB会 北大山の会会報1-55号合本 /1999/北大山の会
静かなる山の旅/河田木貞/1927
Review/syowa1/sizuka.html 静かなる山の旅/河田木貞/1927 2.静かなる山の旅 河田木貞(かわたみき)/1927/自彊館書店/279頁 表紙 表紙 見開き 見開き 河田木貞(1890-1971)銀行家、登山家  東京に生れる。1904(明治37)年、私立京華中学に入学、早稲田実業へ転校するも上野図書館に通って登校せず、停学。1912(明治45)年、中国に渡り上海でしばらく会社員をしていたが、間もなく脚気にかかり帰国。1913(大正2)年、東京銀行に入社、1918(大正7)年、三菱銀行に移る。勤務のかたわら東京、山梨、長野などの山々に広く足を延ばした。南北アルプスや八ヶ岳などにもしばしば足を運んだが、山男としては徹底した低山派であった。「霧の旅会」を設立した松井幹雄(註B-28参照)の共鳴者、協力者の一人。1932(昭和7)年〜1937(昭和12)年、小樽支店に勤務したのを機に北海道の山々や景勝地を歩き廻る。小樽在勤中に「山とふるさと」を出版する。「一日二日山の旅」「山に憩う」「旅に住む」ほか多数の著書、訳書がある。「一日二日山の旅」は、東京近郊の低山を中心にした紀行集で、簡便なガイドブックのない時代、ことに低山に関するものは皆無の時代、この本がハイキングや山旅愛好者達に及ぼした影響は計り知れない。1949(昭和24)年、奥武蔵研究会を設立し、初代会長。 内容  一般の人でも週末に気軽に登山を楽しもうという趣旨で、松井幹雄らが「霧の会」を結成したが、河田はこの会の有力メンバーであり、徹底した低山派であった。本書の出版以前にガイドブック「一日二日の山旅」を出版し、好評で版を重ねたが、本書もこれに準じたガイドブックで、前半は富士山麓周遊や甲州や秩父の1000〜2000m級の山の紀行と随想である。後半は白峰三山(白根三山)と栗駒山紀行である。ガイドブックとは言え、現在のガイドブックとは趣が異なり、地名の考証をしたり、神社仏閣の縁起にふれたり、風土や民族、山村の炉辺物語などが巧みに取り入れられて、すぐれた紀行文となっている。 山岳館所有の関連蔵書 大菩薩連嶺 松井幹雄/1929/光大社 南アルプス 平賀文男/1929/博文館 山とふるさと-寄稿と随想/1933/山と渓谷社 旅に住む日 河田/1941/日進書院 かひしなの/河田/1946/山と渓谷社 緑の斜面/河田/1971/青峨書房 一日二日山の旅 河田/1978/木耳社
日本山水紀行/大町桂月/1927
Review/syowa1/sansui.html 日本山水紀行/大町桂月/1927 3.日本山水紀行 大町桂月(おおまちけいげつ)/1927/帝国講学会/924頁 表紙 表紙 水墨画:狩勝峠 水墨画:狩勝峠 大町桂月(1869-1925)歌人、随筆家、評論家  高知市に生れる。本名芳衛。第1高等学校を経て、1896(明治29)年、東京帝国大学国文科卒。1899(明治32)年、島根県で中学教師。1900(明治33)〜1906(明治39)年、博文館に勤務する傍ら、太陽、文芸倶楽部などに文芸、評論、寄稿文を発表。東大在学中から新体詩や文芸評論を書き、注目を集めていた。和漢古典や教育への関心が強く、伝統に基づいた進歩の立場を打ち出した。健脚で全国を旅して書いた紀行文など多くの著書が有名。終生酒と旅を愛し、晩年は遠く朝鮮、旧満州まで足を延ばした。1921(大正10)年、中央公論に発表された紀行文「層雲峡から大雪山へ」のはじめに「富士山に登って山岳の高さを語れ、大雪山に登って山岳の大きさを語れ」の一文があり、この紀行文によって大雪山と層雲峡が全国に紹介された。黒岳の近くには彼の名前に因んで、桂月岳がある。また十和田湖と奥入瀬を愛し、晩年は蔦温泉に居住した。桂月の名は故郷土佐の「月の名所は桂浜」に因んだものである。吃者として苦労し、優しい人柄であったという。 内容 本書は、桂月没後に子息の大町芳文、大町文衛によって刊行された。一世を風靡した桂月の紀行文代表作を地域別に整理して納めている。「関東の山水」「相豆の山水」「駿甲の山水」「東海の山水」「日本アルプス」「近畿の山水」「中国の山水」「北陸の山水」「奥羽の山水」「北海道の山水」「四国九州の山水」「満鮮の山水」の各編からなる。内容は登山紀行ばかりではないが、旅と登山に人生の意義を認めていた桂月の足跡の広さに驚かされる。「北海道の山水」では自身が登った大雪山、層雲峡、阿寒湖、蝦夷富士と登別温泉や大沼公園などの16ヶ所の紀行文が収められている。 山岳館所有の関連蔵書 大雪山のあゆみ /犬飼哲夫編/1965/層雲峡観光協会 大雪山 登山法及び登山案内 /小泉秀雄1926/大雪山調査会
北海道のスキーと山岳/加納一郎/1927
Review/syowa1/skito.html 北海道のスキーと山岳/加納一郎/1927 4.北海道のスキーと山岳 加納一郎(かのういちろう)/1927/北海道山岳会/265頁 表紙 表紙 見開き頁 見開き頁 加納一郎(1898-1977) 極地探検研究家  大阪に生れる。京都一中から1923(大正12)年、北大農学部卒業。在学中に板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、この時代の積雪期の先駆的登山家であった。1921(大正10)年、板倉勝宣らスキー部員と「山とスキーの会」を結成、1922(大正11)年、本邦初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊、積雪期登山の普及に計り知れない貢献をした。北大卒業後、北海道林務部、朝日新聞、農林省林業試験場などに勤務するかたわら、雪氷や極地研究を行い、多くの著作と今も読み継がれている世界最悪の旅(チェリー・ガラード)」、「アムンゼン探検誌(ロアルト・アムンゼン)」など優れた翻訳書を発表した。1925(大正14)年、日本が初参加した第2回冬季オリンピック(1928年サンモリッツ)に団長として参加した廣田戸七郎らと全日本スキー連盟を創設した。1933(昭和6)年、朋文堂から発刊された雑誌「ケルン」の編集同人として力を注ぎ、さらに1942〜44年まで、登山と探検と極地をテーマとする季刊誌「探検」を朋文堂から発刊した。わが国探検ジャーナリストの草分けであり、第1人者であった。加納の影響を受けた多くの若者達が、北極に南極に活躍し、日本の極地研究を支えた。日本山岳会名誉会員。 内容  扉に「全日本スキー選手権大会記念」北海道山岳会出版とあり、加納らが競技規則を作成し、大会を組織し、運営した日本で最初の全日本スキー選手権大会(1923年小樽)を記念したものと思われる。出版元の北海道山岳会は、1923(大正12)年1月に総裁を北海道庁長官、会長を道庁土木部長として発会した官製山岳会である。登山の大衆化と広大な北海道の土地を内地人に紹介する殖民的な政策から結成された。巻頭に十勝岳厳冬期初登頂のメンバーになるなど山仲間であった故藤江永次(註)への献辞がある。  記念誌と銘を打っているが、全編いずれも加納の著作からなる。内容は、スキー場とそのアクセス、スキーツアー、旅行の注意などからなる「スキー地としての北海道」、羊蹄山、ニセコ、十勝岳など自身がスキーで登頂した14峰の登山記録「北海道に於ける積雪期の登山」、“詩-奥手稲にて”のほか、スキー部員による手稲山の冬季初登頂以後の思い出などを収めた「紀行」、板倉勝宣の追悼、雑誌「山とスキー」で果たした板倉の業績、藤江永次と帽子の思い出、スキー登山の考え方、雪と雪崩など12の小編を収めた「小論」の4編からなる。北大山岳部創立前史を知る好著である。本書は加納の1つの締めくくりとして世に問うた著作とも考えられており(巻末解説:渡辺興亜)、その後は健康に恵まれなかったこともあり、登山から離れてジャーナリストの道を歩んだ。 山岳館所有の関連蔵書 極地集誌 /1941/朋文堂 氷雪圏の記録 /1947/山と渓谷社 極地を探る人々 /1950/朝日新聞社 未踏への誘惑 /1956/朋文堂 山・雪・探検 /1958/河出書房 極地の探検・南極 /1959/時事通信社 極地の探検・北極 /1960/時事通信社 わが雪と氷の回想 /1969/朝日新聞 極地探検・未知への挑戦者たち /1970/現代教養文庫 山・雪・森 /1981/岳書房 極地の探検 /1986/教育社 自然の中で /1986/教育社 加納一郎著作集 全5巻/北村泰一他編集/1986/教育社 加納一郎翻訳書 アムンゼン探検誌/ロアルト・アムンゼン/1942/朋文堂 北極圏と南極圏/ユーリン・ベルトラム/1942/朋文堂 世界最悪の旅/チェリー・ザラード/1944/朋文堂 南極に挑む/ポール・フレージャー/1960/時事通信社 極点浮上/ジェームス・カルバート/1961/時事通信社 極地探検の歴史 白い道/ローレンス・カーワン/1971/社会思想社 両極/ウィリー・レイ/1971/タイム・ライフ・インターナショナル 山岳館所有の加納一郎関連雑誌 山とスキー1〜100号/1922〜1927/山とスキーの会 探検1〜5号/1942〜44号/朋文堂 ケルン 復刻1〜10号/アテネ書房 (註)藤江永次(1902-1924)  京都に生れる。京都一中で今西錦司と同級。今西とは中学4年の時、燕-常念-槍-穂高を縦走するなど、大の仲良しであった。1922(大正11)年、北大予科に入学、同時にスキー部に入る。1923(大正12)年5月、佐々木政吉らと雄冬岳-浜益岳-群別岳-暑寒別岳、同年7月、音更川-石狩岳-石狩川、1924(大正13)年1月、伊藤秀五郎らと十勝岳厳冬期初登などの記録がある。  1924(大正13)年12月、北大スキー部の合宿中に初年班リーダーとしてニセコアンヌプリに登り、下山中に転倒した際ストックが左眼に当たり負傷、直ちに北大病院へ運ばれたが、4日後脳膜炎を発症して急逝した。「山とスキー」第48号は、藤江の追悼号である。
黒部渓谷/冠松次郎/1928
Review/syowa1/kurobekeikoku.html 黒部渓谷/冠松次郎/1928 5.黒部渓谷 冠松次郎(かんむりまつじろう)/1928/アルス/273頁 函と表紙 函と表紙 写真:黒部川下の廊下の縦観 鳴澤の落口より黒部別山澤落口まで 写真:黒部川下の廊下の縦観 鳴澤の落口より黒部別山澤落口まで 冠松次郎(1883-1970) 登山家,紀行文筆家  東京本郷の質店に生れ、自身も終生質店主であった。1902(明治35)年頃から登山を始める。1909(明治42)年頃よりに日本アルプスに足を入れるようになり、1911(明治44)年白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入り、その虜になった。同年日本山岳会へ入会し、山行記録などを「山岳」に発表するようになる。冠が渓谷探索を目的に黒部に初めて足跡を印したのは1920(大正9)年のことで、以後秘境黒部の山や谷の探検によって黒部を世に次々と紹介していった。1925(大正14)年夏、沼井鉄太郎らと立山ガイド宇治長次郎の他9人の人夫を連れて、釜釣温泉から平の小屋まで、下の廊下の完全遡行に成功した。同時代の登山家達が高い山への登頂を目指していたのに背くかのように、黙々と渓谷美を訪ね歩いた。黒部以外にも日本アルプスや奥秩父の渓谷など、多くの記録的登山を行なった。また多くの優れた記録や紀行文を残した。日本山岳会名誉会員 内容  黒部の谷が電源開発により大きく変わり、変わったばかりではなく黒部ダムの出現によって、広範囲に水没し、谷そのものの水量も減少した。本書は、大正末期にほとんど人に知られることのなかった原始の黒部渓谷の面影を伝える貴重な遺産である。 はじめの「黒部の概観」は、前半が黒部川のガイドで、1日〜1日半の行程の渓況、ルート、安全なテンバ、所要時間を詳しく解説する。後半は黒部川の四季、地形・地質、地名由来、歩道について言及した地域研究書である。「下廊下の記」は、大正9年夏、初めて下廊下に入り、平の小屋から黒部別山澤までを下降した時の記録である。  「双六谷から黒部川へ」は1924(大正13)年夏の紀行で、前半が双六谷の遡行、後半が黒部川下降記録である。途中金作澤出合から赤牛岳に登って帰路についた。「黒部川遡行記(鐘釣温泉から平の小屋まで)」は、1925(大正14)年夏の下の廊下遡行記録である。冠が命名した十字峡では、初めて上からその全貌を捉えることが出来、その時の感激を次のように記している。  「私等はこの上に立って暫くの間は言葉も交えず、黒部川によって現示された自然の光耀に陶然として酔ってしまった。やがて三人は握手を交わし、この壮観を共にしたのを喜んだ。アアその時!友の目は潤ひ光っていたのではないか。」  「紅葉と新雪の黒部流域」「春の黒部川」では季節ごとに景観が大きく変貌する黒部について、「赤牛岳」は黒場本流から赤牛岳を登った時の紀行、「有峯のこと」は有峰の山人たちが広大な山地を富山県に売ってしまい、酒を飲んでお祭り騒ぎをしているが、ついにはその山村が無くなってしまうであろうことを危惧する。  「自序」にあるように、本書は黒部川本流についての記述を主体としたもので、立山川から黒部へ流入する沢については、昭和4年に第1書房から出版された「立山群峰」に納められていて、この2著は姉妹編というべきものとなっている。 山岳館所有の関連蔵書 剣岳 冠松次郎/1929/第1書房 立山群峰 冠松次郎/1929/第1書房 黒部 冠松次郎/1930/第1書房 双六谷 冠松次郎/1930/第1書房 後立山連峰 冠松次郎/1931/第1書房 日本アルプス大観 立山・黒部・後立山 冠 松次郎/1931/木星社書院 破片岩 冠松次郎/1933/耕進社 雲表を行く 冠松次郎/1942/墨水書房 わが山わが渓 冠松次郎/1942/墨水書房 山への味到 冠松次郎/1943/墨水書房 立山と黒部 富山県郷土史会/1962/富山県郷土史会 続黒部 冠松次郎/1966/名著刊行会 山渓記 全5巻/冠松次郎/1968-69/春秋社 黒部別山 黒部の衆/1986/黒部の衆 日本登山記録大成15 薬師岳・黒部川 山崎安治他/1983/同朋社 峰と渓 冠松次郎/2002/河出書房
アールベルクスキー術/高橋次郎/1929
Review/syowa1/arlberg.html アールベルクスキー術/高橋次郎/1929 6.アールベルクスキー術 高橋次郎(たかはしじろう)/1929/博文社/410頁 表紙 表紙 写真:シュテム・クリスチャニア 写真:シュテム・クリスチャニア 高橋次郎(?ー1951)  小樽高商スキー部員として活躍した。1920(大正9)年の北大主催の第1回全道中学校駅伝競走で樽商が優勝しているが、その時高橋は主将である。翌年、小樽スキークラブ創立に参画する。日本のスキー術を一つにまとめるためにその強い意志と実行力を発揮した。特にシュナイダーの指導法の研究をし、アールベルクスキー術の権威であった。その後の理論も纏めて、1947(昭和22)年に「スキー回転技術」を公刊している。1939(昭和14)年、全日本スキー連盟の第2代技術委員長になり、同年山形県五色温泉で行われた「第1回指導員検定講習会」では主任講師を務める。1936(昭和11)年、ガルミッシュ・パルテンキルヘンでのオリンピックでは監督として参加した。戦後は全日本スキー連盟の副会長を務めた。(「スキー技術の歴史と系統」中浦皓至/1991/北大図書刊行会より抜粋) 内容  年配者にはオーストリアの天才スキーヤー、ハンネス・シュナイダーの映画「スキーの驚異」でおなじみのアールベルグスキー術の教科書であり、スキー理論に関する単行本としては初期のものである。高橋は序で、 「近年、我が国にも、その(註:映画“驚異のスキー”)外形的模倣が行われている。然し、私の見た範囲では、その本質を会得して居ない人が多いようである。そこで、吾々はそれを正しく導くの必要を感じる」ので、本書を著したとしている。  内容は装備からジャンプを含むスキー術全般を詳細に解説しているが、写真や図が少ないこともあり、文字を追って内容を理解するのは相当に苦労である。アールベルグスキー術が確立するまでの背景や技術論を知る上では貴重な歴史的資料であるが、多くの読みやすい技術書が刊行されている現在では一般向きではないかもしれない。 山岳館所有の関連蔵書 記念 代表大野精七/1926/北大スキー部 アールベルヒ派研究の補遺 水野祥太郎/1928/岳1号別刷 雪の王者シュナイダーは語る 坂部護郎/1932/三省堂 登山スキー術の手引き 北大山岳部/1933/北大山岳部 スキー技術の歴史と系統−ターンへの挑戦 中浦皓至/1991/北大図書刊行会 日本のスキー・もう一つの源流 中浦皓至/1999/北大図書刊行会
屋上登攀者/藤木九三/1929
Review/syowa1/okujo.html 屋上登攀者/藤木九三/1929 7.屋上登攀者 藤木九三(ふじきくぞう)/1929/黒百合社/151頁 表紙 表紙 木版 屋上登攀者 木版 屋上登攀者 木版 岩祭の印象 木版 岩祭の印象 藤木九三(1887-1970) ジャーナリスト、登山家、随筆家  福知山市生れ。京都三中を卒業、早稲田大学英文科中退。1909(明治42)年、東京毎日新聞に入社、同年やまと新聞に移籍、1915(大正4)年、朝日新聞に移る。翌年、東久邇宮の槍ヶ岳登山に同行報道する。同年から始まった朝日新聞主催の中等野球では中心的記者として健筆を揮った。甲子園球場の大鉄傘をアルプス・スタンドと呼ぶが、これは藤木の命名。1928(昭和3)年、朝日新聞神戸支局長のとき、日本初のロック・クライミングを目的とした山岳会「RCC同人」を水野祥太郎、西尾一雄と共に結成する。芦屋地方の岩山に目をつけ、芦屋ロックガーデンを開発し、岩壁登攀技術の習得に努め、1925(大正14)年には日本最初の岩登教程「岩登り術」を発刊した(A-11「岩登り術」参照)。1925(大正14)年8月、早大隊と前後して北穂高岳滝谷の初登攀に成功。1926(昭和元)年、ヨーロッパ・アルプスに遊び、モンテローザ、マッターホルンなど多くの山に登る。1935(昭和10)年京都大学山岳部の白頭山冬期遠征に記者として参加、1936(昭和11)年石鎚山冬期初頭。1959年日本山岳会顧問 内容  瀟洒なデザインとB5版の余白を大きく贅沢に使った装丁の、ヨーロッパ滞在中の書である。藤木の幅広い知識を盛り込んだエッセイほか18編からなる。「序」で藤木は「屋上登攀者の内容は、随筆、感想、研究、詩など雑多にわたり、中にはその何れにも属さない創作的な作品もある。しかもその配列と順序が、いかにも無造作、無秩序に見えるかもしれないが、自分としては是でずいぶん苦心したつもりである。」と述べている。また“屋上登攀者(詩)”に 「巴里に在りし日のわたしの生活の横顔」と題する次の一節がある。中等野球の取材に通った甲子園球場の大鉄傘の側壁を攀じる山男達の幻影を捉えた1篇である。    「凱旋門の北の壁では    あの仲間 ―屋上登攀者―が    ザイルをしごいて、懸垂の練習をやっているのが見えるだろう」 山岳館所有の関連蔵書 岩登り術/1925/三祥堂 屋上登攀者/1929/黒百合社 雪・岩・アルプス/1930/梓書房 雲表/1931/黒百合社 詩集 雲表/1931/黒百合社 峰・峠・氷河/1933/朋文堂 熱河探検記/1934/朝日新聞社 雲表縦走/1935/三省堂 雪線散歩/1935/三省堂 峰・峠・氷河/1941/朋文堂 登拝頌/1943/山と渓谷社 岳神/1943/朋文堂 岳神/1943/朋文堂 エヴェレスト登頂記/1954/河出書房 垂直の散歩/1958/朋文堂 ケルンに生きる−遭難の手記1〜5/藤木他監修/1959〜62/二玄社 ある山男の自画像/1973/二見書房 雲表の彼方に/1977/スキージャーナル チロルの伝説/1982/誠文堂新光社 ヒマラヤの伝説/1982/誠文堂新光社 アルプスの伝説/1982/誠文堂新光社
氷と雪/加納一郎/1929
Review/syowa1/kori.html 氷と雪/加納一郎/1929 8.氷と雪 加納一郎(かのういちろう)/1929/梓書房/318頁 表紙 表紙 木版 屋上登攀者 木版 屋上登攀者 木版 岩祭の印象 木版 岩祭の印象 加納一郎(1898-1977) 極地探検研究家  大阪に生れる。京都1中から1923(大正12)年、北大農学部卒業。在学中に板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、この時代の積雪期の先駆的登山家であった。1921(大正10)年板倉勝宣らスキー部員と「山とスキーの会」を結成、1922(大正11)年本邦初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊、積雪期登山の普及に計り知れない貢献をした。北大卒業後、北海道林務部、朝日新聞、農林省林業試験場などに勤務するかたわら、雪氷や極地研究を行い、多くの著作と今も読み継がれている世界最悪の旅(チェリー・ガラード)」、「アムンゼン探検誌(ロアルト・アムンゼン)」など優れた翻訳書を発表した。1925(大正14)年、日本が初参加した第2回冬季オリンピック(1928年サンモリッツ)に団長として参加した廣田戸七郎らと全日本スキー連盟を創設した。1933(昭和6)年、朋文堂から発刊された雑誌「ケルン」の編集同人として力を注ぎ、さらに1942〜44年まで、登山と探検と極地をテーマとする季刊誌「探検」を朋文堂から発刊した。わが国探検ジャーナリストの草分けであり、第1人者であった。加納の影響を受けた多くの若者達が、北極に南極に活躍し、日本の極地研究を支えた。日本山岳会名誉会員。 内容  北海道庁を退職し、大阪の朝日新聞に本拠を移して著した最初の単行本。北大スキー部創立者の1人で、日本スキー連盟初代会長稲田雅植男爵が「序」を、同僚の藤木九三が「跋」を書いている。  樋口敬二氏(雪氷学者、名古屋大学名誉教授)は、加納一郎著作集3「北海道の山と雪」(1986教育社)の解説で 「本書は1929(昭和4)年、中谷宇吉郎先生が有名な雪の結晶の研究に着手される三年も前に書かれた、雪氷に関する日本最初の解説書である」。 そして、「雪氷に関して一応の基礎を持っている人に読んで欲しい玄人向きの読み物であり、この本を雪氷への入門書として読んでもらっては困る。雪氷研究の歴史を知る資料として接して欲しい、」 と述べている。  9章からなり、第1章「氷雪思慕」から順次、「水と氷の理学的性質」「氷の芸術」「降る雪、積る雪」「雪華の研究」「積雪の性質とその形態」「雪崩」「氷河と氷山」「氷期及び人と寒冷」の構成となっている。 山岳館所有の加納一郎著書 極地集誌 /1941/朋文堂 氷雪圏の記録 /1947/山と渓谷社 極地を探る人々 /1950/朝日新聞社 未踏への誘惑 /1956/朋文堂 山・雪・探検 /1958/河出書房 極地の探検・南極 /1959/時事通信社 極地の探検・北極 /1960/時事通信社 わが雪と氷の回想 /1969/朝日新聞 極地探検・未知への挑戦者たち /1970/現代教養文庫 山・雪・森 /1981/岳書房 極地の探検 /1986/教育社 自然の中で /1986/教育社 加納一郎著作集 全5巻/北村泰一他編集/1986/教育社 山岳館所有の加納一郎翻訳書 アムンゼン探検誌/ロアルト・アムンゼン/1942/朋文堂 北極圏と南極圏/ユーリン・ベルトラム/1942/朋文堂 世界最悪の旅/チェリー・ザラード/1944/朋文堂 南極に挑む/ポール・フレージャー/1960/時事通信社 極点浮上/ジェームス・カルバート/1961/時事通信社 極地探検の歴史 白い道/ローレンス・カーワン/1971/社会思想社 両極/ウィリー・レイ/1971/タイム・ライフ・インターナショナル 山岳館所有の関連蔵書 山とスキー1〜100号/1921〜1927/山とスキーの会 探検1〜5号/1942〜44号/朋文堂 ケルン 復刻1〜10号/アテネ書房
立山群峯/冠松次郎/1929
Review/syowa1/tategun.html 立山群峯/冠松次郎/1929 5.黒部渓谷 冠松次郎(かんむりまつじろう)/1928/アルス/273頁 函と表紙 函と表紙 写真:黒部川下の廊下の縦観 鳴澤の落口より黒部別山澤落口まで 写真:黒部川下の廊下の縦観 鳴澤の落口より黒部別山澤落口まで 冠松次郎(1883-1970) 登山家,紀行文筆家  東京本郷の質店に生れ、自身も終生質店主であった。1902(明治35)年頃から登山を始める。1909(明治42)年頃よりに日本アルプスに足を入れるようになり、1911(明治44)年白馬岳に登り、祖母谷を流れに沿って下り、初めて黒部峡谷に入り、その虜になった。同年日本山岳会へ入会し、山行記録などを「山岳」に発表するようになる。冠が渓谷探索を目的に黒部に初めて足跡を印したのは1920(大正9)年のことで、以後秘境黒部の山や谷の探検によって黒部を世に次々と紹介していった。1925(大正14)年夏、沼井鉄太郎らと立山ガイド宇治長次郎の他9人の人夫を連れて、釜釣温泉から平の小屋まで、下の廊下の完全遡行に成功した。同時代の登山家達が高い山への登頂を目指していたのに背くかのように、黙々と渓谷美を訪ね歩いた。黒部以外にも日本アルプスや奥秩父の渓谷など、多くの記録的登山を行なった。また多くの優れた記録や紀行文を残した。日本山岳会名誉会員 内容  序に「本書は私が過去十数年の間、この群峯を跋渉した時の記憶及記録等を辿って書きつけたものであって、後に刊行する「劔岳」、「黒部渓谷」の二編と相俟って、立山群峯及黒部渓谷の全豹を彷彿しうるものと信じている」と述べ、この三部作により立山と黒部を語りつくそうとの意図である。  はじめに「立山群峯概観」で常願寺川方面、早月川方面、黒部川方面からの立山へのアプローチを詳細に解説。ついで「春の立山(其一)千垣から丸山まで」「春の立山(其二)黒部別山から上市まで」は、残雪期の立山の紀行である。  「上廊下の記(其一)下廊下へ」「上廊下の記(其二)中廊下へ」」「上廊下の記(其三)奥廊下へ」は、1928(昭和3)年8月22日から31日までの上廊下を中心とした紀行である。黒部渓谷は電源開発により大きく変わり、変わったばかりではなく、黒部湖の出現によって広範囲に谷そのものが水没した。この紀行は、今は見ることが出来なくなった上の廊下の面影を詳細に伝える。「春の後立山」は1927(昭和2)年6月残雪期の、「岩井谷と薬師岳」は1916(大正5)年夏の紀行である。 山岳館所有の関連蔵書 剣岳 冠松次郎/1929/第1書房 立山群峰 冠松次郎/1929/第1書房 黒部 冠松次郎/1930/第1書房 双六谷 冠松次郎/1930/第1書房 後立山連峰 冠松次郎/1931/第1書房 日本アルプス大観 立山・黒部・後立山 冠 松次郎/1931/木星社書院 破片岩 冠松次郎/1933/耕進社 雲表を行く 冠松次郎/1942/墨水書房 わが山わが渓 冠松次郎/1942/墨水書房 山への味到 冠松次郎/1943/墨水書房 立山と黒部 富山県郷土史会/1962/富山県郷土史会 続黒部 冠松次郎/1966/名著刊行会 山渓記 全5巻/冠松次郎/1968-69/春秋社 黒部別山 黒部の衆/1986/黒部の衆 日本登山記録大成15 薬師岳・黒部川 山崎安治他/1983/同朋社 峰と渓 冠松次郎/2002/河出書房
日本南アルプス/平賀文男/1929
Review/syowa1/minamia.html 日本南アルプス/平賀文男/1929 10.日本南アルプス 平賀文男(ひらがふみお)/1929/博文館/363頁 表紙 表紙 背表紙 背表紙 白峯の残雪 白峯の残雪 平賀文男(1895-1964) 登山家、政治家  山梨県穂坂村(現韮崎市)に生れる。甲府中学、目白中学を経て、1917(大正6)年、早稲田大学政経学部を卒業。1920(大正9)年、白馬岳から本格的に登山を始める。南アルプスは、早くからウェストンはじめ登山者や地質学者がかなり入っていたが、アプローチが長く不便だったこともあり、北アルプスのように一般には開けてはいなかった。平賀は南アの登山を開発し、一般登山者に門戸を開くべく、自ら南アに入り込んでいった。1924(大正13)年、甲斐山岳会を設立。1925(大正14)年3月に野呂川を遡行、大樺沢からの北岳登頂は、京大隊に次ぐ積雪期第2登であり、この登頂をを初めとして冬期の南ア諸峰にパイオニアとして足を運んだ。1926(昭和元)年、当時ほとんど唯一無二であった南アの案内書「南アルプスと甲斐の山々」を発刊する。郷里にあっては農業を営むかたわら、村会議員、県会議員を務め、戦後は穂坂村村長、韮崎市文化協会会長、山梨県山岳連盟顧問などを歴任、地方の行政と文化の発展に尽くした。 内容  本書は、1926(昭和元)年発刊の「南アルプスと甲斐の山々」の増補改定版である。平賀は序で「南アルプスと甲斐の山旅を志す人々の一資料たらしむるための執筆に他ならず」と発刊の目的を述べ、世に知られていない南アの案内記だと強調している。  「野呂川の奥」「大井川の奥」「遠山川の奥」「寸又川の奥」「寸又川の上流」「気田川の上流」は、甲斐駒、仙丈、白峯三山、地蔵、塩見などの登頂記であり、大正時代の南アの姿を知ることが出来る。 ついで1月から12月まで季節を追って、転付峠、三伏、白峯、笊ヶ岳、赤石、鋸、鳳凰、八ヶ岳、金峯、丹波山村、大菩薩嶺、茅ヶ岳の1村11峯の紀行である。「3月白峰と駒」では3人の人夫をつれて夜叉神峠を越えて、3月28日広河原から北岳に登頂する。「雪白の白峯。幾多の登山家が渇仰し且畏敬した冬の白峯山頂はつひにせいふくされた、」と積雪期初登頂を信じて快哉を叫んだ。その足で仙丈、甲斐駒へ登るべく北澤小屋へ来て見ると、三高の桑原武夫、西堀栄三郎、四手井綱彦らが泊まっており、彼らが6日早く22日に積雪期北岳初登頂を果たしていたことを知る。しかし、平賀は「暗黒であった冬の南アルプスの門戸は彼らによってついに開かれた」、とその成功を謙虚に称えている。  最後に「奥秩父連嶺」ほか8編の1日行程の紀行を紹介している。 山岳館所有の関連蔵書 赤石渓谷 平賀文男/1933/隆章閣 北岳・赤石と南アルプス 今西錦司・井上靖監修/1984/ぎょうせい 南アルプス 1988/信濃毎日新聞社 南アルプス 柏瀬裕之ほか/1997/白水社
山へ入る日/石川欣一/1929
Review/syowa1/yamahe.html 山へ入る日/石川欣一/1929 11.山へ入る日 石川欣一(いしかわきんいち)/1929/中央公論社/319頁 表紙 表紙 石川欣一(1895-1959) ジャーナリスト,著作家、翻訳家  東京に生れる、父は動物学者石川千代松。東京高師付属小中学校を経て、旧制二高入学、1914(大正2)年、二高山岳部創設に参加。東大英文科を中退し、プリンストン大学卒業。留学中に大阪毎日新聞入社、特派員としてワシントン軍縮会議を取材。1928(昭和3)年東京日日新聞に転じ、ロンドン支局長。1936(昭和元)年の立教大学ナンダコット遠征や関西山岳会の発展に尽力する。第二次大戦中は、フィリッピン「マニラ新聞」へ出向。終戦で1捕虜として帰国した。戦後、東京毎日新聞出版局長、サン写真新聞社長、アジア財団顧問、日本パイプクラブ会長。「比島投降記」「チャーチル」「可愛い山」などの著書とモース「日本その日その日」、パールバック「郷土」などの訳書50冊残した。 内容  国際的なジャーナリストとして著名な筆者の若き日の山への賛歌である。「山の秋」「山へ入る日・山を出る日」などの登山随想をはじめ、やわらかな筆致の作品40編が納められている。「可愛い山」「平の二夜」をはじめ随所に、大町の旅館「對山館」主人百瀬慎太郎(註)との交友が語られる。 「針の木のいけにえ」は、1927(昭和2)年12月31日針の木谷で雪崩により4人を亡くした早大山岳部の遭難の話である。信濃大町駅に彼らが到着するところから、雪崩で遭難し、ついに4名を発見できずむなしく引き上げるまでを、悼みをこめて分りやすく述べる。最後に、早大山岳部が毎年末に来るのを楽しみに待つ大町の人々を次のように描く。 「大町はもとの静けさにかへった。人々は炬燵にもぐりこんで、あれやこれやと早稲田の人々を惜んだ。八日、九日、見事に晴れ渡った山々を仰いでは、あの美しい、あの気高い山が、何故こんなむごいことをしたのだろう、といぶかり合うのであった。」  そのほか、「山とパイプ」「山と酒」「女性登山者について」等々、やわらかな筆致に筆者の幅広い教養を見ることが出来る。B6版ソフトカバーで旅の鞄に忍ばせるのに相応しい作りである。 山岳館所有の関連蔵書 可愛い山 石川欣一/1987/白水社 山・都会・スキー 石川欣一/1931/四六書院 山を想えば 百瀬慎太郎/1962/百瀬慎太郎遺稿集刊行会 (註)百瀬慎太郎 北アルプスの登山基地大町の對山館主人として登山者に親しまれ、明治から大正にかけて登山の発展に尽くした。ウェストン、辻村伊助、石川欣一、槙有恒ら多くの登山者と親交があった。
スウィス日記/辻村伊助/1930
Review/syowa1/swiz.html スウィス日記/辻村伊助/1930 12.スウィス日記 辻村伊助(つじむらいすけ)/1930/梓書房/408頁 函と表紙 函と表紙 扉 扉 グロース・シュレックホルン(4078m) グロース・シュレックホルン(4078m) 辻村伊助(1887-1923) 植物学者、登山家、紀行作家  神奈川県小田原に生れる。少年の頃から箱根の山々を歩き、19歳の時、日本山岳会会員となる。第1高校を経て、1912(明治45)年、東大農芸化学科卒業、在学中に北アルプスのめぼしい峰々のほとんどに足跡を印した。1910(明治43)年、大町から高瀬川を遡行、水俣から東鎌を越えて上高地へ出るなど、意欲的な登山を行い、1911(明治44)年4月には登山者としてはじめて積雪期の上高地へ入山した。1913(大正2)年秋から翌年10月まで、スイスを中心にヨーロッパを周遊する。旅行中の1914年8月、友人及びガイド2人と登ったスイス・アルプスのグロース・シュレックホルン(4078m)で雪崩に巻き込まれて遭難、全員が九死に一生を得る。治療のため1ヵ月半の病院生活の送り、その後スイス婦人と結婚し帰国する。1923(大正12)年、関東大震災の際、決壊した上流の貯水池の泥流に埋まり、夫人、子供3人共々一家全員が遭難死した。地理・地質学者で登山家の辻村太郎(1890-1983)は、伊助の従弟。 内容  辻村が「山岳」誌上に発表し、それをまとめて1922(大正11)年に出版された「スウィス日記」は、アルプスの美が日本で始めて紹介されたもので登山界に大きな反響を呼んだ。  本書は既刊の「スウィス日記」を辻村の遭難死後、友人らが再編成して刊行したもので、題名も同じ「スウィス日記」とした。遭難した邸跡から泥まみれになった原稿が発掘されたが、これは巻末に「続スウィス日記」として付されている。この原稿は「山岳」に寄稿する予定で書いたものであった。  武田久吉の「追憶」、高野鷹蔵の「純情の人、伊助」を巻頭に、著者撮影の35葉の写真を挿入、巻末の小島烏水「スウィス日記の由来」を加えて408頁の大部である。  1913(大正2)年秋、シベリア経由でヨーロッパへ渡った辻村は、翌年1月下旬、ガイドとユングフラウとメンヒに登る。日本人が始めて経験する冬のアルプス4000m峯であった。8月には友人近藤茂吉とグロース・シュレックホルン(4078m)を登攀、帰路クーロアール下降中に雪崩に巻き込まれる。遭難に至る経過とその後については「グロース・シュレックホルンの頂上」「クーロアール」「アバランシュ」「遭難の夜」に書かれている。いずれもソフトなタッチで描く自然が素晴らしい紀行文である。 山岳館所有の関連蔵書 ハイランド 辻村伊助/1930/梓書房 山 辻村太郎/1940/岩波書店
ハイランド/辻村伊助/1930
Review/syowa1/hiland.html ハイランド/辻村伊助/1930 13.ハイランド 辻村伊助(つじむらいすけ)/1930/梓書房/255頁 函と表紙 函と表紙 扉 扉 上条嘉門治 上条嘉門治 辻村伊助(1887-1923) 園芸家、登山家、紀行作家  神奈川県小田原に生れる。少年の頃から箱根の山々を歩き、19歳の時、日本山岳会会員となる。第1高校を経て、1912(明治45)年、東大農芸化学科卒業、在学中に北アルプスのめぼしい峰々のほとんどに足跡を印した。1910(明治43)年、大町から高瀬川を遡行、水俣から東鎌を越えて上高地へ出るなど、意欲的な登山を行い、1911(明治44)年4月には登山者としてはじめて積雪期の上高地へ入山した。1913(大正2)年秋から翌年10月まで、スイスを中心にヨーロッパを周遊する。旅行中の1914年8月、友人及びガイド2人と登ったスイス・アルプスのグロース・シュレックホルン(4078m)で雪崩に巻き込まれて遭難、全員が九死に一生を得る。治療のため1ヵ月半の病院生活の送り、その後スイス婦人と結婚し帰国する。1923(大正12)年、関東大震災の際、決壊した上流の貯水池の泥流に埋まり、夫人、子供3人共々一家全員が遭難死した。地理・地質学者で登山家の辻村太郎(1890-1983)は、伊助の従弟。 内容  辻村伊助の紀行を友人らがまとめて、「スウィス日記」と同時に刊行された遺稿集。小島烏水が巻頭に「解題」を、伊助の従弟で地理・地質学者で登山家の辻村太郎が「短く美しかった故人の生涯」を、友人でスイス・アルプスを共に旅した近藤茂吉が「亡友『辻』」を寄稿している。  前半の「ハイランド」は、「スウィス日記」に描かれたユングフラウ、メンヒの登山を終えた1914(大正3)年6月、スコットランド北部山岳地帯(ハイランド)を旅した紀行をまとめたものである。ロンドンからアバディーンへ、ネス湖を渡ってペン・ネビィスを訪れ、歌で有名なロッホ・ローモントを通り、ペン・ローモントを登るところで終わっている。「スウィス日記」と同じく気象、風景、樹相、人々などの細やかな観察が見られて楽しい紀行文となっている。  後半は、日本の山旅を扱っている。1909(明治42)年7月、上高地から槍、双六、鷲羽、烏帽子岳を経て大町へ下ったパイオニア的記録は、「飛騨山脈の縦走」に収められている。1910(明治43)年7月、高瀬川から水俣乗越しを越えて槍沢を下った「高瀬入り」、案内記「神河内と常念山脈」、北アルプスの山行を共にした名ガイド上条嘉門治を追憶する「上条嘉門治を憶ふ」などが収められている。「スウィス日記」と同様、ここでも著者の写真29葉が挿入されており、いずれも葉のそよぎや川の流れが聞こえてくるようで素晴らしい。文章も「スウィス日記」同様に、ソフトなタッチで読みやすで。 山岳館所有の関連蔵書 スウィス日記 辻村伊助/1930/梓書房 山 辻村太郎/1940/岩波書店
山 研究と随想/大島亮吉/1930
Review/syowa1/yamaken.html 山 研究と随想/大島亮吉/1930 14.山 研究と随想 大島亮吉(おおしまりょうきち)/1930/岩波書店/492頁 表紙 表紙 扉 扉 挿入写真 北穂高岳 挿入写真 北穂高岳 大島亮吉(1899-1928) 登山家、著述家  東京に生れる。慶応商工学校を経て、1919(大正8)年、慶応義塾大学予科に入学する。1924(大正13)年、慶応義塾卒業、翌年兵役へ、1926(大正15)年3月除隊。  1917(大正6)年、中学生ながら慶応義塾山岳会に入会を許され、同年7月中房温泉から燕‐槍の縦走を果たし上高地に下る。槙有恒リーダーのこの山行が、大島の北アルプスとの出会いであった。大島の数多い山行の中で特筆すべきは、1922(大正11)年の槍と1924(大正13)年の穂高岳のスキー登山である。二つとも積雪期初登頂であった。北海道にも足を延ばし、その時の紀行2編は登高行に発表された(内容参照)。1928(昭和3)年3月25日、積雪期の槍・穂高縦走を目指し、前穂北尾根を登攀中に墜落死した。28歳の若さであったが、その足跡は大正12年1月、25歳で遭難死した板倉勝宣と共に大きい。  大島は、兵役を含む僅か7年ほどの間に、登高行(慶応大学山岳部)、山とスキー(山とスキーの会)、山岳(日本山岳会)に数多くの論文、紀行、随想を発表している。また、優れた語学力で諸外国の登山に関する文献を研究し、新知識を日本の登山界に紹介した。遭難後、これらは友人達によりまとめられ、「山‐研究と随想」(1930岩波書店)「先蹤者‐アルプス登山者小伝」(1935梓書房)として刊行された。 内容   本書は、「登高行」「山とスキー」「山岳」に発表された研究、紀行、随想を大島の遭難の2年後に、友人達がまとめて刊行したものである。「序」は、大島の慶応義塾山岳会の先輩であった槙有恒が書いている。槙は「君は全く自己の為すべき道に精進して男々しく戦って行った。而してその道に豊かな天稟の才能を以て獨自の跡を深く刻み込んでいった。」とその才能を愛惜している。  研究論文は、雪崩に関するもの4章、欧州アルプスの山名に関するもの1章がある。大島はすぐれた語学力を生かして海外の文献多数を読破、雪崩の発生原因、対処法を科学的観点から考察している。「雪崩の知識に関する一考察」では、日本では雪崩に関する価値ある論文は見当たらないとして、76種の外国文献を列挙し、読者に今後の雪崩研究を促している。  紀行に関するものは4章からなり、その一つ「石狩岳より石狩川に沿ふて」は、1920(大正9)年7月21日〜31日、クァウンナイから入山し、トムラウシ、石狩岳、ユニ石狩岳を登り、石狩川を下った記録で(註)、森に、沢に、函に原始の響を漂はせる紀行文である。大島は大箱に到着し、それをのぞいた時の感動と恐怖を次のように記している。 「ようやく『箱』へ到達したのだ。早速荷物を下ろして、深い水深の岩壁をへずり乍らその『箱』の入り口から恐々覗いてみて、思わず身体を竦ませた。その覗き込んだ吾々の眼底の網膜に映像した景観こそ全く形容の出来ないものだった。―中略― 漸く少時した後『大箱』『大箱』とお互ひ顔見合わせて低声に囁きかはした。」「一種の凄愴な鬼気に誘はれて、水魔の隠れ家の様な処にも想われる。」  その風景は当時の大島の目には恐怖と映じたのである。トンネルで一瞬にして通り抜ける昨今とは隔世の感がある。  「北海道の夏の山」は、1923(大正12)年7月中旬10日あまりの然別川、音更川の沢歩きの記録である。沢歩きを楽しみ、尾根のブッシュに悩まされた山行を、ほかの紀行と同じように美しい文章で綴っている。最後に北海道の山について次のように述べている。 「私は北海道の山は大体に於いて好きだ。どこが好きだと言われたら、山に人気が少なくて、原始的であるところと、その針葉樹の深林とその中を流れている川とが一番好きだと答える。それからもうひとつ好きなのは、アイヌの山にいるやつの生活をみることと、アイヌ語の美しい山の名や川の名だ。」  「穂高岳スキー登山」は、1924(大正13)年春の奥穂、前穂積雪期初登頂の記録である。他に5章の随想が収められている。大正13年に書かれた「涸沢岩小屋のある夜のこと」では、大島と友人らが山での死について重い調子で語っている。 山岳館所有の関連蔵書 先蹤者ーアルプス登山者小伝 大島亮吉/1935/梓書房 登山史上の人々 大島亮吉/1968/三笠書房 登高行 第2,5,6,7号 慶応義塾大学山岳部 山とスキー 13〜91号/山とスキーの会 山岳 第20,21年/日本山岳会 大島亮吉全集 全5巻/本郷常幸他編/1970/あかね書房 (註)  伊藤秀五郎は、大島のこの紀行について次のように述べている。(北海道の山旅「北の山の精神的系譜」/ぷらや新書/1981/沖積舎) 「『石狩岳より石狩川に沿ふて』は、北大の連中にも驚異であった。北大はスキー登山では、他の大学に比べて一日の長があったが、夏山では暑寒別と夕張岳のほかは、大雪方面に2回ほど入った程度でしかなかったからである。大島さんのこの一文に刺激されて、(山岳部の中に)北海道の夏山を再評価する機運が醸成されたと言って良い。」
山と雪の日記/板倉勝宣/1930
Review/syowa1/yamayukinikki.html 山と雪の日記/板倉勝宣/1930 15.山と雪の日記 板倉勝宣(いたくらかつのぶ)/1930/梓書房/172頁 表紙 表紙 扉 扉 挿入写真 冬の中山峠付近 挿入写真 冬の中山峠付近 板倉勝宣(1897-1923)  子爵板倉勝弼(最後の備中松山藩主)の九男として東京に生れる。学習院初等科、中等科を経て高等科を卒業、高等科では松方三郎、伊集院虎一などと同級であった。中等科の頃から秩父、日光などの山登りを始め、毎年上高地を中心に山登りを楽しんだ。1919(大正8)年、北大農学部に入学、スキー部に在籍、北海道スキー登山の黄金時代の中心となって活躍、1922(大正11)年1月の旭岳を始め、道内で多くの冬季初登頂を記録した。同年7月、松方三郎と共に挑んだ槍ヶ岳北鎌尾根の登攀の成功は、日本の登山界に新しい方向を示すものとして評価された。北大在学中の1921(大正10)年、加納一郎らとわが国最初の山岳雑誌「山とスキー」を発刊、その中で自らの登山思想を披瀝し、若い登山家の啓蒙に務めた。  1922(大正11)年、北大を卒業、その翌年には京大理学部植物学教室の大学院生となることが予定されていたが、1923(大正12)年1月、槙有恒、三田幸夫と行を共にした立山で、松尾峠の暴風雪の中で遭難死した。若干25歳、心身ともに円熟の境地に入ろうとしていた時期であった。死後友人達により出版された遺稿集「山と雪の日記」は、日本でのアルプス的登山の幕開けを告げる名著と位置付けられている。「山とスキー26号」は、彼の追悼号となっている。 内容  本書の「此の本の由来について」(松方三郎)によると、板倉遭難後の1924(大正13)年、槙有恒、松方三郎、加納一郎ら友人たちによって「板倉勝宣遺稿」が編まれ、三周忌に150部が山仲間たちに配られた。しかし、この遺稿集を手に入れられなかった多くの人からの希望に応えて、遺稿にあった書簡や卒業論文などを外し、洩れていた山岳紀行を加えて再編集し、梓書房から「山と雪の日記」と題して出版された。山岳館所有の本書は、梓書房から寄贈されたもので、「初刷500部の内第95冊」の印字がある。  「遺稿」と同じ編者で、1914(大正3)年から同12年に亘る紀行、随想、日記、詩33編で構成されている。松尾峠の同行者であった槙有恒は、序文{追憶}で板倉について次のように語っている。 「痩せ型の引き締まった体が直ぐ眼に止まったやうに一度話し合ふと独自な性格が何の装飾もなく露はれた。もの言いの穏やかな何んな時にも興奮しない様子が年齢よりは遥かに老成されているやうであった。」  「手稲山に寝るの記」では、4人(註:板橋敬一、網野兼一、松川五郎、板倉勝宣)でテントを担いで手稲山に行った時の話である。美しい文章の中に、板倉の率直で素朴な人柄を見ることが出来る。 「十月の三十日に、人間が四人、天幕を背負って手稲に寝に行った。軽川で大根、みそ、空瓶を買って雲行きの割に早い秋の空を眺めながら、スキー道を登ってゆく。ゆたかな石狩平野に石狩川が、かすかにうねって、遠く光る海に注ぐ所に河口が白く見える。平野のつきる所に夕張の連山が早、谷に雪を白く残していた。草の中から眺めると、見る見る全身の細胞が活気ついて来るのが解る。胸の鼓動がしっかりと打って来る。」  板倉は、積雪期登山、ロック・クライミングの導入に積極的であり実践的であったが、山の味わい方について「登山法に就ての希望」の中で次のように述べている。 「・・・大抵はピークハンターとしてはじまり、やがて谷に下り、遂には里近くの山に迄、深い味を感じて、山を人生に取り入れ、あるいは、人生を山にとけ合して、山無しには生きられない人間になってゆく。・・・ここに於いて、動的な山の味わい方。即ちロック・クライミングとスノウクラフトとが現れてくるべきではなかろうか。・・・あらゆる注意を尽して、岩を攀じる時、或はアックスとクリーパーによって一歩一歩と山頂に近づく時、そこのいひがたいものをお互いに感ずる。」 山岳館所有の関連蔵書 山行 槙有恒/1922/改造社 記念−北大スキー部十五周年 著者代表大野精七/1926/北大スキー部 北海道のスキーと山岳 加納一郎/1927/北海道山岳会 山−随想/山と雪の日記/北の山 大島亮吉・板倉勝宣・伊藤秀五郎/1962/あかね書房 私の山旅 槙有恒/1970/岩波書店 登高行第4年/慶応義塾大学山岳部 山とスキー第1,3,4,10,26号/山とスキーの会 日本山岳会会報「山」327号/日本山岳会 山岳第14,67年/日本山岳会
 

明治・大正期(〜1925)
前
山岳館蔵書ガイド
昭和期2(1931〜1935)
次
 
 
Copyright © 1996-2019 Academic Alpine Club of Hokkaido