月 日)2007.02.10-13
ルート)十勝三股〜ニペ〜丸山〜東丸山南ポコ〜ウペペ〜糠平
田戸岡尚樹(99入部)
3連休に冬休みを重ねて,2年前に途中敗退した続きを倒してきました。社会人になってから初めてのちょっと長い山行でかなり不安もありましたが,やはり過去の蓄積は残っているもんなんですね。無事に貫徹できてうれしく思います。でもやっぱし一緒に行ってくれる人が欲しかったです。。。
では記録どーぞ。
2月9日 晴れ(冬型) 職場18:00〜十勝三股20:45
仕事を終え,そのまま十勝三股へ。上川のコンビニで晩飯。到着してから山の格好に着替え,明日は早いのですぐに就寝。外は星がきれい。
2月10日 晴れ上部ガス(冬型のゆるみ) C0/4:05〜林道終点7:15/20〜天狗のコル10:15/20〜ニペソツ山15:00/05〜大平のコル17:15
山行開始。
明日谷の通過で全道的に天気が悪いという話なので,初日ニペのっこしをするべくラテルネを点けて4時にdepaする。林道は轍があるが,帰りのことを考え車は国道沿いの入り口にデポ。轍は十六の沢林道の入り口までで,そこからは少しのラッセルが入る。天狗のコルへの尾根は出だしで風倒木やらラッセルやらでペースが上がらないが,まぁそれなりの時間で着いた。ここまでで6時間,さすがに結構疲れてきたがここからが本番。雪面のシュカブラがひどくなってきて固くなってきたCo1720でシートラーゲンに入る。しかしここから天狗までが結構なバリズボラッセル。はまったのに地面が無い足ブラなんてことも一度あった。
ニペをのっこせ!
さらにラッセルは続く。最低コルに着いた所でもう13時半。そしてここからの登りがラッセル地獄。ここまでですでに10時間近く行動しているので体力的にもぼろぼろ。7日分の装備にスキーが付いた30kg近いザックが食い込みつつバリズボ。ふらふらになりながらニペのピークに着いたらもう15時。全然余裕が無い。ここからが2年前のリベンジの部分。今回は200mくらいの視界があったので問題なく南尾根へ。ルート的には何にも無い尾根だが,やはりラッセルは続く。・1736のプラトーに出た所でやっとシートラから解放。しかしその先のコルへの下りがまたまた極道。ガリガリに氷化した斜面で,ハイマツや岩の起伏もあって難儀する。しばらく下ると少しやわらかくなってきたのでまたまたシートラしてつぼで下る。樹林帯に入った所で日没。今日は終わりもラテルネ行動。しまいには何にも無いキックターンでさえこける。Co1400付近のタンネの間でC1。激しい一日だった。
もうぼろぼろ君。
2月11日 曇り時々雪(弱い谷の通過) C1/9:20〜丸山11:55/12:00〜C2/15:05
この日は午前中にに谷の通過という話でだったが,8時にもう一度起きると意外にに天気が悪くないのでdepa。丸山はCo1400から先が白い。Co1460でシートラ。壁のような斜面は結構急で膝ラッセルが入る。しかも滑落したらちょっとやばそうな雰囲気があって少し怖い。稜線に上がってからはバリズボのラッセルになり,しかも意外に遠い。丸山から南のポコへは猛烈なラッセルが入ったので一時的にスキーを履く。それでも腿ラッセル。ポコは狭い所。またシートラして降りていくがすぐにスキーに戻せた。この先樹林帯の下りで尾根の分岐には注意が必要。間違えたくないので慎重に地図読みしていく。あとは樹林ないラッセルをひたすら続けて尾根分岐少し先のCo1320にC2。ここも快適なタンネ帯。FMも携帯もOK。それにしても時間読みよりも結構かかってしまい,昨日の疲れがかなり残っているようだった。
2月12日 極薄いガスの晴れ(冬型) C2/6:15〜・1386/8:15/20〜ウペペ西峰10:40/45〜ウペペ東峰12:40/45〜林道15:30〜林道上Co860(?)16:15
冬型で一日持つ天気ということで一気にのっこしへ。東丸山南のポコは結構白くてたまに固くて嫌なところがあるがスキーで行ける。この日は体調も回復してきたのか,がしがしスキーで歩けていいペース。ウペペ西峰すぐ手前のCo1720でシートラ。この先はアイゼンが快調に決まるのでこれはもう楽勝かと思いきや,頂稜ではまる。雪庇くずれが互い違いに出たりのへんな頂稜。深い雪のどラッセルに時折バリズボが入る。今回は全部EPで行ったが,スキーでも行けそうだった。頂稜の最低コルへの降り口は雪庇の影になっている。登り返し後は岩が出てきて歩きづらいが時間通りに東峰着。やっとニペからウペペへ繋げることができた。ここでニペが見えたら感動的だったんだろうけど残念。
ウペペ頂稜を振り返る。
下りは歩きづらいしだるい。登り返し後Co1690でスキーに換えるが急に雪が重くなる。Co1600ポコの下りはウインドクラストでガチガチのひどい斜面。アカエゾの植林なんかもしてあるが育っていないようだ。・1399から林道への下りはブッシュが多いが快調。林道に出て,地図上にある小屋マークが気になるのでちょっと歩いてみるが見つからずにC3。林道は沢の橋が落ちてたり倒木があったりでひどい。しかもなぜか登り気味。
2月13日 快晴(高気圧) C3/7:00〜糠平9:00
後はひたすら歩くだけなので気楽な朝。しばらく行くとなんだか地図と道が違う上に分岐が多くて迷わされる。とりあえず下の方に行く林道を行くと,沢型に架かる橋があって安心したが,逆方向に行く林道もあって「ウペペサンケ山登山口→」という看板があった。どうやらやはり林道を間違っていたらしい。そういえば登山口に看板も駐車場もなかったのもおかしかった。たぶん旧道だったんだろう。しばらく行ってからシールをはずすがあまり変わらない。登り返し部分はショートカットし,ひたすら歩いて,川を渡る手前の浄水施設のような所で除雪が入っていた。とはいえここからもほぼフラットな林道なのでさらに歩いて糠平着。
山行終了。
短距離とはいえ2年ぶりのヒッチはやや苦戦を強いられ,30分くらい後に役場の車が快く乗せてくれた。トークの中ですごいすごいと言われとても恐縮してしまうが,窓から見えたニペとウペペを見ると確かにすごいなぁと思った。車に着くと無事にエンジンもかかり,荒らされてもなかったので安心。三股のカフェに寄ってみたが運悪く定休日だった。層雲峡で風呂入って飯食って帰旭。
三国峠から眺めるニペとウペペ。
久しぶりに魂を削った山行で,まだまだ自分もやれるもんだとうれしく思った。でもやっぱり単独の山行はきびしいなぁというのが正直な感想です。しばらくはいいや。
...hide more
貫気別山(ぬきべつ・1317m)とリビラ山(1291m)
日高山脈の展望台。道内全域天気が悪そうな連休、ここだけはなんとか晴れそうなので決定。
【ルート】
貫気別川→両峰の中間1300ポコ西尾根→貫気別山往復→リビラ山のっこし→北西尾根下降
【メンバー】
米山悟(84)、斉藤清克(87)、北川徹(山スキー部OB)
【行 程】
2月11日:取水施設(9:30)→1300ポコ西尾根末端右奥取り付きCo600(12:10)→標高1000mC1イグルー(14:15)イグルー完成(15:40)
2月12日:C1(7:10)→1300mポコ北のコルデポ(8:20)→貫気別山(9:00-30)→コルデポ(10:00)→リビラ山(11:45-12:15)→北西尾根末端(13:45)→取水施設(15:00)
【記録】
雪の日高は学生以来だ。とはいえ主稜線を遠く眺める展望台、沙流川中流の気になる連山を登った。沙流川から貫気別川にはいると、広い盆地があって驚く。日高側の山間地の幅は広い。貫気別川林道は取水施設のあるところまで除雪がされているので助かる。ここで車を置き、支度をしていると鹿撃ちのおじさんが通りあれこれ話す。
川は荒れていた。林道はCo500あたりまであるのだが、崩れて使えない。雪も少なく、イグルーを作れるか不安になる。目指す尾根は貫気別とリビラの中間にあるCo1300のポコの西尾根だが、末端は急で取り付けず、右へ右へと捲いて緩い所を取り付く。そこにはブル道があり標高800あたりまで続いていた。尾根のヤブ密度はそれほどでもなく、ブル道の助けもあり快調だ。貫気別山の山頂下には標高差100mの岩壁帯があって壮観だ。鹿撃ちはこの崖を「ガンケ」と呼んでいた。
Co1000の針葉樹の平地でイグルーを作り焚き火。積雪は60センチほどしかなくイグルーブロックは一段しかとれなかったが、なかなか快適なやつができた。日が暮れると雪が降り出したがタンネの傘の下で、火に当たり尻を暖める。
−7度。起きると既に明るい。イグルーは雪に埋まって繭のようになっていた。30センチ以上積もった。ラッセルは膝から腿の深さ。カンバは霧氷を付け、真っ白だ。稜線に出ると、日高の国境稜線が見えた。
イドンナップ、幌尻、ピパイロあたりの稜線はガスがくっついているが、白い山脈が右から左へ視界いっぱい。貫気別山頂では幌尻の雲がどくのを待ったがなかなか甘くない。厳冬の日高主稜線はこうでなくちゃいかん。ナメワッカと、遠く39はシャキーンと聳えているのが見えた。
リビラへの稜線は全体に凍ったカンバが視界をふさぎ、しかも結構なラッセルだ。ズブズブのラッセルをファイトで進む。リビラに着く頃にはガスに覆われてしまった。北川はシールが不調で遅れ、リビラ山頂で30分待つ。
リビラ北西尾根は今年初の新雪パウダー滑り。軽くて深い雪を歓声挙げて滑り降りる。上着のジッパーを上まで引っ張り上げないと胸に粉雪が入る。樹林の密度は多少濃いが、まあまあ楽しめる。Co980あたりから真北へ降りて沢へ滑り込む。下の方ではまたブル道があらわれて、これがスキーに都合良い傾斜だ。渡渉をしながら川原を降りていくと、砂防ダムの土木工事をやっていた。ダンプがバンバン走り、いきなり土建屋帝国になっていた。ダンプの運転手が親しげに声をかけてきた。登山者は珍しいと。北海道も東の方へ来ると、初対面でも気さくで明るい人が多くて、北海道人だなあと思う。
平取の「鳥天」で天丼をかっこみ、斎藤に苫小牧駅まで送ってもらう。だめかと思ったが、連休の混雑のため送れてきた汽車にぎりぎり間に合った。ザックに腰を下ろして函館まで。
...hide more
書評・凍れるいのち 川嶋康男
柏艪社2006.12
1962年暮れからの大雪山で、北海道学芸大学函館校(現・道教大函館校)山岳部が遭難した。10人遭難、リーダー1人のみ生還。北海道山岳史上最悪の事故だった。これまで報告書以来語らなかったリーダー野呂幸司の45年経てのインタビューを元に野呂のその後の人生を含めたノンフィクション。巻頭カラー写真の市根井さんが野呂氏の同期とは初めて知った。
この遭難については、「北の山の栄光と悲劇・滝本幸夫著(1982・岳書房)」という本を現役の頃読んでいた。旭岳から石室へ降る尾根は金庫岩の所でしっかり磁石を見ていても迷いやすい。雪洞が崩壊して吹雪に投げ出されるイメージ。この二つは強く心に残り、山行の際の最悪想定のイメージとして常に持っていた。今回久しぶりにこの遭難の顛末を読んで、別の感想を持った。
この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。
本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。
野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。
最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
...hide more
北大学務部学生支援課の茂木氏から、空沼小屋に宿泊したグループより外部煙突が倒壊しているとの知らせが鐙山岳部長宛にあった。この小屋自体の老朽化はかなり進んでいて、かねてより屋根積雪の重みによる倒壊も懸念されていた。自分の目で小屋全体の状況を見てこようと、9月8日の「小林年さんを偲ぶ会」の翌朝、やや重い頭のまま家内を伴って5年ぶりに小屋へ出かけることとした。
登山口に車を置き、石ころ混じりの山道を辿り、親子連れや夫婦連れの登山者と共に2時間程で万計沼に到達した。
写真1
写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。
写真3
写真4
写真5
窓の外の鎧戸を開け放ち、やっと内部様子が見えてきた。テーブルやベンチの上は一面に白いカビで覆われ、割れた窓ガラスは代物で塞がれていたが、バネのはみ出したソファー、破れたハンモック、昔の管理人室に放置されている古い寝具等々、かってのヒュッテン・レーベンを楽しんだ空沼小屋の心地よさはそこにはなかった。(写真5,6,7)。
写真6
写真7
写真8
コンクリートのストーブ台がプラトーの頂部になったように周りの床が沈下し、ストーブの煙突も支持する部材の変形のためか横引き煙突はうねうねと曲がり、煙り漏れの防止のためかアルミホイルやガムテープで補修がしてあった(写真8)。
写真9
壊れかかった鎧戸の戸締まりをして外部の状態を調べてみた。小屋の基礎部分は10数年前に中村晴彦、木村恒美、上野八郎会員らの手で一時的に補強されたものの、基礎部分の沈下と土台の腐れが進み、沼に面したベランダは使用不能、土台より上部の外壁を構成するログ材も至る所で腐朽が進んでいた。(写真9,10,11,12)
写真10
写真11
写真12
以上は会報100号掲載の「空沼小屋の現状と今後について」を補足するものである。
...hide more
2007年1月27日(土)夕刻より、JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて開催
京阪神の今冬は全般に暖かで、1月27日土曜日の午後、京都市内の雑踏は底冷えも、比叡オロシもなく、どんよりと春霞の趣き。内藤さんに見つけていただいたこの宴会場は、修行を積んだ板前が出す繊細な京料理と、JR京都駅前というロケーションもあって昨年に続き2度目の利用となります。山口市在住の加納君が東京出張ついでに途中下車して参加してくれたのも、そういう便利さがあったからかもしれません。
原支部長の乾杯の音頭で宴の開始。料理は先付、前菜から始まり、お口直しの鯛茶漬けの締めまで色取り華やかな京会席。お酒は飲み放題、とは申せ昔のような鯨飲は勿論皆様いたしません。酒の席で出た話題をいくつか
* 不滅の壮年である原さんも、先日の登山で下山中についにひざにガタがきた
* 金剛登山の下りで帰り道を探していた神戸さん、どう間違えたか吉田さんのゴンドワナ研究所に行き着いた
* 昨年末にネパールに行っていた吉田さんから、同地では混乱が収束するにつれて、安心して旅行ができるようになった、との報告
* 嫌がらせ、追い落としにまつわる裁判の顛末を話した川道さんの「こういうことはいつ我が身に降りかかってくるか判りませんよ」の一言が、我々にとってはある種のハラスメントでありました
* 5月に白浜温泉を基点に熊野古道の走破、もしくは熊野三山登山を目指す
どう言う訳か最後の締めの時に恒例になっていた肩を組んで「山の四季」を歌うのを忘れた。終了時間をせかされたせいでしょうか、はたまたいつもの名越さんがいなかったせいでしょうか。かくして07年の新年会は終り、皆様は三々五々、未だ宵の口の京の町を後にされたのでした。
出席者(敬称略、数字は入部西暦年下2桁)
原(真)56、 吉田(勝)57、 相田58、 窪田58、 神戸59、 田中(英)59、 内藤59、 渡辺(尚)59、 伏見61、 益田61、 川道62、 加納65、 岡島83、 岸本65
以上、岸本
...hide more
【月日】2007/1/3-9(6-1)
【ルート】布礼別→原始ヶ原→前富良野岳、富良野岳アタック
【メンバ】L:勝亦浩希(4) AL:中島史貴(4)→平塚雄太(3) M:吉本卓司(1)、米田友裕(1)
〈時間とルート〉3日:西布礼別(14:00)ー林道入口(15:00ー30)ーCo500付近=C1(16:00)
晴れ。早とちりして西布礼別バス停で降りてしまい、歩く。L的にはこれが山行中で一番疲れた。林道を少し行き、脇でC1。
4日:C1(6:30)ーF尾根末端Co1300=C2(13:30)
雪。年末年始を山で過ごしたおじ様おば様のトレースを使っていくが途中で不明瞭になる。三の沢右岸の尾根を上がって少し行くと再発見。そのままトレースを行き、Co1200くらいからは外れて湿原を行く。Co1300付近からトラヴァースしてF尾根末端Co1300付近にC2。重荷と二日酔い?でM疲れた。
5日:C2(7:40)ー富良野岳(10:30ー40)ーC2=C3(12:30)
曇りのち晴れ。朝テントで時間待ち。シーデポし、途中でEP練習をする。Co1760の岩は西を行く。Co1800にデポ旗。上部ではガスった。気になる風。
6日:C3(7:30)ー前富良野岳(9:45)ーC3(11:30ー13:30)ー・1083東=C4(15:00)
快晴のち雪。コル付近からのびる尾根から前富良野岳へ。すぐにシーデポ。Co1520にデポ旗。上部は気になる風。テン場でALが交代。二晩で大穴ができたテン場を後にし、地図を読みながら・1083の東へまで行きC4。
7日:男山(17:30)ーC4=C5
吉本は風邪をひき、外も大荒れなので停滞。夜にはテント内も大荒れに・・・。
8日:C5(11:40)ーC6(13:30)
テン場で待つが回復の見込みがなさそうなので移動。湿原をつないで三の沢右岸Co1050付近まで行きC6。湿原は風が強かった。五の沢は埋まっている。
9日:C6(6:45)ー登山口(8:00)ーベベルイ零号線(9:10)
来た道。途中からはスキーでベベルイ零号線まで。全体を通してラッセルはすね以下。
{パーティー}Ls:Lラテルネ失くした。
M:地図読み、諸動作まだ。
吉本:体力まだ。前富良野の下りで転んだ。
米田:スキーまだ。スパッツ忘れた。オーバー手燃やした。
...hide more
【月日】12/23-30(7ー1)
【メンバ】L:勝亦浩希(4)
【ルート】糠平温泉〜ウペペサンケ山〜丸山(計画ではニペソツまで)
<時間とルート>23日:林道入口(13:35)ーCo800付近=C1(15:40)
雪。林道は右岸に渡って少し行った建物まで除雪。その後の分岐は右を行ったら沢の取水施設みたいなのに出たので一段上がって正しい林道に戻る。Co800付近でC1。
24日:C1(7:50)ー登山口(8:55)ー稜線(13:55)ー稜線直下=C2(15:10)
曇り時々雪。風。登山口には立派な看板。夏道を行く。落とし穴によくはまる。上部はラッセルがひどくなり、急なところでは胸。稜線は風が強そうだったので、稜線直下でC2。樹林限界Co1540までトレースづけ。
25日:C2(6:10)ー・1595(8:00)ーウペペサンケ山東峰(9:15ー30)ー西峰(11:20ー25)ー・1386(12:45)ーCo1420=C3(13:30)
曇りのち晴れ。気になる風。朝起きるとまだ上は天気が悪そうだったが出発。トレースは消えかけ。樹林限界からのハイマツ帯は腿ラッセルや落とし穴がひどい。・1595手前ポコを越えると落ち着く。Co1680ポコからピッケル。東峰(△1834.5)に通過のデポ旗。アイゼンに変え、岩稜は上を行き、脇の夏道上を行き、上を行く。出だしは風が強いと怖そう。コルからスノーシュー。・1848からアイゼン。西峰手前からスノーシュー。昼頃から晴れてくる。Co1600くらいから北側に樹林。・1386の西Co1420付近でC3。靴下が東大雪の煙となった…。
26日:C3(7:10)ー・1255(11:10)ーCo1270=C4(12:00)
快晴時々曇り。朝のうちはガスっていたが快晴となる。南丸山からは十勝連峰が見渡せたが、一気にガスって樹林内に入る頃には視界100m程度。慎重に地図を読みながら行く。・1255まではひどいラッセルに加え小さなアップダウンが多くてなかなか進まない。Co1270付近C4に付く頃には快晴。枯れ木も豊富で快適な一夜に星野道夫さんを想った。
27日:C4=C5
朝のうち雨のち湿雪。昼頃から強風。停滞。何度か除雪。
28日:C5(7:20)ー丸山(10:30)ーCo1180=C6(13:30)
曇りのち雪。丸山手前ポコは東を捲こうとしたが白い斜面が出てきたので上を行った。こっちのほうが高そう。丸山Peakは白くなかった。東尾根はすぐにカンバが密。Co1600付近から北に尾根を下る。しばらく下ると腿ラッセルとなり、下りといえども極い。Co1300付近から西の沢を見ていくが、沢は深く側面には亀裂が見られ20cm手首弱の弱層もあったのでCo1180付近の樹林が密なところで木をつかみながら下り、スノーブリッジで渡渉し、木登りで対岸へ。北へ少し行ったところでC6。湿雪のラッセルで濡れた衣服を乾かして寝る。ルートの状態と残り日数から、エスケープを決定した。
29日:C6(9:15)ーC7(17:00)
曇り時々雪。Co1060付近の対岸が緩やかになったところで、倒木で渡渉。腿〜膝ラッセルが続き、早々に今日中の下山は無理だと思い知らされた。・1061経由で林道を幌加川南東の林道屈曲点付近まで行きC7。八つ当たりのようにタンネファイヤー。
30日:C7(5:45)ー国道(11:15)
曇りのち快晴。出発後30分もしないうちに再び思い知らされ心が折れそうになる。Co750付近からは一気にラッセルが楽になり、快調に国道まで。幌加ダムから除雪。
<パーティー>想定外のラッセルに苦しんだ。妥当な判断と慎重な行動はできた。
炊事。
...hide more
ナンガパルバットとカンチ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
夏山二回と冬山二回の主な山行と二回の十勝の合宿が終わると三年目である。三年目になると三年下の後輩が入って来るのが当然だが、この頃になってやっと後輩が出来たような気がするものである。そして山岳部独特のアダナで呼び合える仲間が増えてくる。後輩のN君は、そのもう一つ下になるのだが彼は入部早々からもう「ナンガ」なる通称が付いていたようである。ナンガパルバットに由来するものらしかった。新入部員か歓迎会にはナーゲルを履いて現れたが戦後、新品のナーゲルを履いて来たのは
彼が最初だったろう。
ルームでタムロしていたある日、ナンガの一年先輩のK君が
「俺はKだからカンチェンジュンガのカンチにしてくれ」と言った。
すると小生と同輩のT君がすかさず
「お前カンチでなくて、『チカン』だべさ」と切返した。
古来アダナは、「自然発生的なるものなり」などと尤もらしく言っていた。ある夏山で、ずっと後輩の本多和彦君の馬力を称賛したら、ご本人が
「マムシゲンジと呼ばれた父親譲りの性格だ」と、
オヤジまでひきあいに出したという彼への追悼を会報で読んだことさえある。
しかしアダナは、名は体が現すものから、正反対や無意味のものまで様々のようだ。小生など前者の最たるものだろうが、呼びやすく分かり易いのが最良。でも『チカン』では使い物にならず全く定着しなかった。ともあれ今回の話題の主、K君はチカンでもストーカーでもないマジメ一途だったという蛇
足を名誉のために付け加えねばなるまい。
...hide more
平成19年1月13日
参加者:石村夫妻、大井、石本、坂本、佐々木(正)、八木橋夫妻、木村
コース
JR中央線高尾駅駅前から小仏行きバスにて終点下車。なお、高尾駅には京王線も入
っているがこれは南口側になり、バスはJR側の口で、北口からになる。
バスを降りて道の延長上の舗道を行けば登山口の道標があり小仏峠までは一本道。
峠で景信山からの縦走路とクロスし明治天皇巡幸碑のある茶屋からは隧道口への下
り道もあるが、しっかりした道標があるので南に向へば城山である。頂上らしいものは
なく、広い休憩所になっている。ここが東京都と神奈川県の県境で東海自然歩道の起
点になっている。下り道は三本あるが、相模湖へは、一番右側の南西に向かう道標に
従って行けば舗道になり甲州街道を横断して道標を探しながら弁天橋を渡り相模大橋
でダムの上を越えれば相模湖駅にでる。
さて往時、江戸から甲州に出る道は多摩川を伝い、小仏峠を越えて相模川水系を辿り
笹子峠を越えて富士川の上流沿いに進んでいた。明治の末にはこれらの峠の下には
隋道が掘られ甲州街道として主要な交通網として栄え、現在はさらに新しい隋道がで
きて中央自動車道が走り、JR中央線もこれに沿っている。小仏峠はチョロイとはいいな
がら一度は越えてみたいノスタルジアにかられる所だった。
その日のこと
平成十九年一月十三日。集まった九人は石村夫妻、大井、石本、坂本、佐々木(正)、
八木橋夫妻に小生。年始の挨拶もそこそこに、いつものように黙々と歩きだす。佐々木
君はJICAの仕事を終えて帰国し、久々の参加。幸先の良い、うららかな陽を一杯に受
けて城山頂上には十一時五十分着。今日は、流石に二十人近い人達がたむろしてい
た。
以前の梅の木平で原忠平先輩が創設した林業普及センターでの「月見の宴」の折に
小枝君と二人で頂上とは気付かず通り過ぎた所だった。小枝君の想出話も少々。
相模湖へ下る人は少なく、悠々と歩く。ところで、常連の会員女史三人、すなわち井上、
志賀、吉川は昨日の電話で「本当の山?へ行く」とやらで不在、正月の話題は不足気
味。「造反ではないか」との声もでる。ともあれ、国鉄、自動車道も通ったが、更にそれ
以前の甲州路らしい往年の峠越えの山路を辿り、橋を二つ渡って早々に相模湖駅に着
く。
所用時間 三時間四十分
正味歩行 二時間四十分
...hide more
長万部岳(972m)、利別岳(としべつ・1021m)
【ルート】
鉱山川→長万部岳北コルから長万部岳と利別岳アタック
【メンバ】
米山悟(1984入部)梶川耕司(1988入部)
【行程】
1月20日:除雪終点長峰温泉(10:30)→うすゆき荘(11:30-12:00)→長万部岳北コルC1(13:44-14:00)→長万部岳(14:40-50)→C1イグルー(15:00)イグルー完成は16:00
1月21日:C1(6:50)→後志利別川Co570二股渡渉点(7:30-45)→利別岳北コル(9:10-30)→利別岳山頂(10:30-45)→コル(11:10-30)→C1(13:20-40)→除雪終点(15:00)
後志利別川源流の最高峰1021は地図では無名峰だが、長万部岳から谷を隔てて見る姿は堂々たるもの、名無しでは気の毒だ。秋に地元の山岳会と長万部岳に登った際、積雪期なら山越え谷越えで行くのが早いと聞いてやる気を出していた。今週になってやっと雪が積もった。
長万部駅で室蘭の梶川と合流した。ヌピナイ川以来。地図上の温泉マークが今は営業していない長峰温泉でここが除雪の行き止まり。出発しようとしたらストックを忘れたことに気がついた。長万部駅前まで戻って、地元の岩瀬さんにお願いしたら、快く貸してくれた。それも年代物の竹ストック。一時間半後に除雪終点に付いてみると10台分のスノーモービルを運んだトラックなどでびっしり。モービルのトレースでこの先 Co600あたりまで舗装道路になっていた。
長万部山岳会の山小屋うすゆき荘がCo400にある。スキーが刺してあるのであいさつに行くと、ヒュッテンレーベンを決め込んでいた地元の三人組に、イチゴ大福の差し入れまでもらった。
Co600には旧鉱山跡があり、昔荷車を通したため広い夏道はスノーモービルにも登りやすいルートとして定着しているらしい。おかげでラッセルは全くなく、夏の時間読みで上まで上がれてしまった。でもありがたいと思わない。ラッセルなんかいくらでもするから山では会いたくない。騒音がひどく、排気ガスが臭い。二日間、山中に響く騒音を、鳥も獣も僕達も、押し黙って聞いていた。
長万部岳北のコルにザックを置き、空身でアタック。日本海側の山にはまだ雲が残っている。目指す利別岳は谷を隔て勇ましくある。東面はまったく木が生えず、真っ白な壁をさらしている。冬の山は白いほど価値を持つ。美しく、アタックも難しくなるから。イグルーは踏み固め時間コミで、1時間で出来た。一帯は枯れ木無く、タンネもなく、焚き火に適さない。夜は非常に冷えた。
翌朝は室蘭の灯りを遠く見て出発。帰りに登りやすいよう緩く遠く下っていく。谷底は広く、気持ちのいい所だ。朝日が利別岳を赤く染めた。渡渉点で水を飲むとき、雪橋の上から竹ストックのワッコの上に雪を載せ水流に着けると、かき氷のようにタップリ水を吸う。これを口の前に寄せチュウチュウ吸う。竹ストックだと、雪を大盛りで載せられるので、一回で満腹になる。今時のじゃ、ほとんど吸えない。ラッセルもやりやすいし、長いので傾斜地での使い勝手も良い。学生の時は竹ストックだった。またこれに戻そうか。
対岸は斜めに緩やかに登ろうとしたが、細く深いルンゼがいくつも横切っていて意外や苦労した。利別の北Co800コルからの登り出しは結構急だが、安定した雪質でなんとかなった。ここの下りが山行中唯一の痛快スロープだった。山頂からは噴火湾の向こうに駒ヶ岳。両側の海をイチゴ大福食べながら見る。真っ白な大平山の存在感が大きく、次回の楽しみとした。狩場山は上半分に雲が貼り付いていた。風はほとんど無く、日差しはあるが、気温は−9度ほど。結構寒い。山頂からシールはずして、コルまでの滑降が楽しかった。高度感、傾斜、雪質と申し分ない。右の雪庇を気にしながら。
コルから下の樹林帯は雪が重くなり、板にくっついて不快調になった。谷底の水をまた飲んでイグルーまで登り返す。ロングアタックだがこの傾斜は緩く、登りはむしろ快適だった。行きと帰りに谷底で水を飲めるのがよい。C1から下る鉱山川の夏道へは、Co600上のブナのすてきな斜面がキャタピラの深い溝でメタメタにされていて、僕らの滑る斜面は残されていなかった。帰りの道もボブスレーコースの様になっていて、プルークボーゲンでも制動が効かないガリガリ溝になっていて何度も前受け身をとった。雪質も腐っていて今ひとつ。
二股ラジウム温泉は1000円もするが、何かと落ち着かない温泉だった。元はいい温泉らしいのにもったいない。次にこのあたりで下山風呂するなら長万部温泉が良いようだ。ストックを返す事になっていた、駅前のお蕎麦屋さんでカツ丼を食べた。以前、深川駅前の寿司屋のカツ丼がうまかったのに味をしめたが、蕎麦屋のカツ丼もうまい。やっぱり蕎麦つゆが生きて居るんだろうか。未踏峰登頂、計画貫徹の満足を味わうのは、うまいカツ丼を空にした一時である。
...hide more