
山わたる風
伊藤健次
2006.7.21
A5版1800円
山スキー部OB、同世代の写真家伊藤健次の写真文集。2002〜2004年、朝日新聞(北海道版)で連載していたものの再編集とのこと。本人からの年賀状で推薦してあったので買った。
写真の動物たちがどれも表情を持っている。木の穴の中であくびするテン、降る雪を見上げるエゾシカ、草の茎を振り回すリス、広い風景の中のエゾシカの群れにさえ表情がある。こういう絵はなかなか撮れる物ではない。山を登る技術あっての過ごす時間であり、過ごした時間あっての写真だと思う。
デルスゥ、劉連仁・・・。北海道の天然に身を置けば連想する人への感傷も共感できる。
画と写真の違いはあるが、串田孫一、上田哲農を思い起こす間があると思う。同世代の写真家が北海道の天然をテーマに良い画文集を出したのがうれしい。この10数年、僕が寄り道ばかりしている間に伊藤健次は確かな経験を積んで確かな言葉を手に入れたと思った。
同世代といえば、恵迪寮で同じ部屋だった佐川光晴が今回も芥川賞を逃した。賞は逃しても小説がおもしろければそれで良いけれど。
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『北海道中央分水嶺踏査記録〜宗谷岬から白神岬まで〜』
発行:日本山岳会北海道支部
2006.10.14
A5版188ページ/1000円
昨年貫徹した、日本山岳会の日本列島中央分水嶺踏破計画というのがあった。その一環、北海道支部の2004年から2006年にかけて2年半の記録集。宗谷岬から白神岬まで約1130km。201回の山行、延べ968人を掛けて繋いだ。編集代表の高澤光雄氏に部報14号の返礼に頂いた。
道のない部分がほとんどなので、冬季と残雪季が稼ぎどころだ。この割合も、踏破距離も北海道が全国でダントツらしい。当然ながらマイナーな稜線の貴重な記録が山盛りである。一回あたりの山行人数は一人の区間もあり20人近くの区間もある。メンバーをみると中心実働メンバーは10人前後。山行日数は長くて4日、殆どは日帰りか一泊でコツコツ繋げた。なるべく沢山の人が参加する趣旨なので、長期の計画で一気に稼げなかったという。
日本山岳会といえば近年は実際に山に登らぬサロン的印象が強かった。それは若手がいないからである。にもかかわらずこれだけの快挙を挙げているのは、長く山行経験を積んだメンバーが豊富な為であろう。このテーマは一見地味だが玄人向きでやりがいあるおもしろいテーマだということが、文章を読めばわかる。当人達の達成感はさぞや大きい物だろうと思う。経験豊かな熟年メンバーだからこそ価値を知り、貫徹できる良い課題を見つけた物だと思う。
これだけの大作戦なのだから、もっと若い世代も巻き込んでできれば良かったと思う。しかしそもそも今や広い世代を抱える山登り集団自体が存在しないのではあるが。日本山岳会がこれからどうなっていくべきなのか少し考えた。「最も伝統あるただの一山岳会」で居続けられるのは、今回の主力メンバーの世代で最後ではなかろうか。今後はフランス山岳会やドイツ山岳会のように、より公共性の強い、すべての登山者の為になる、日本を代表する山岳組織の役割を担う事を期待している。その意味で他団体の投稿など緩やかな参加を認めた「きりぎりす」を発行している日本山岳会青年部の活動に注目している。
以前から宗谷岬〜襟裳岬の踏破をライフワークにしていた日本山岳会北海道支部長にしてルームOBの新妻徹氏(1950年入部)自身が今回、率先して結構な区間を繋いでいる。日本山岳会北海道支部が北大山の会のように名実ともに「実際に山に登らぬサロン」となっていないのは、新妻氏のようにマジな山をやめない熟年登山者実働部隊がいるからこそであろう。
初踏査や顕著な記録などの歴史も盛り込んで全域を解説した高澤光雄氏によるパート、今は現役を退いた先達の、回想を含む寄稿文なども随所に添えて(野田四郎OB〈1947年入部〉の十勝大雪冬季初縦走回想もある)、単なる報告書以上のおもしろい本になっている。今後はオホーツク/太平洋の分水嶺、樺太の分水嶺も視野に入れているとか。期待している。
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●2007年1月8日(月・祝)(1ー0)
【ルート】
乗鞍高原温泉スキー場=位ヶ原の手前Co2270m付近
※当初計画では、乗鞍岳(3025.6m)をアタック予定であったが、悪天候のため、樹林限界手前で引返し。
【メンバ】
L:山森聡(86入部)、M:石橋岳志(82入部)、清原実(86入部)
【行程】
1月8日(月・祝)(雪)乗鞍高原温泉スキー場リフト終点Co2000m(10:50)→Co2150m付近(11:40-50)→位ヶ原の手前Co2270m付近(12:30-13:00)→リフト終点Co2000m(13:15)→スキー場駐車場Co1550m(13:30)
【地図】(五万図)乗鞍岳
【記録】
1月でも比較的天気が良いという北アルプス最南端の乗鞍岳(3025.6m)へのスキー山行を計画した。前日(1/7)の昼過ぎに東京を出発し、長野県東筑摩郡山形村の清原ババアの実家でC0(シーゼロ)。この日は大雪のため中央道は小淵沢ICから先が通行止。そこから一般道(国道20号)で行ったので、到着が予定より大幅に遅れた。それにもかかわらず、農家の清原家では自家製のごちそう三昧で、感謝。暖かい布団でぐっすり眠る。
翌朝(1/8)も、冬型の気圧配置ではあるが、山形村は曇りで、時折、青空も見える。期待を高めつつ出発するが、山が近づくにつれ、残念ながら雪模様。そこで、悪天時の樹林帯の予備ルートとして計画していた「安房山(2219.4m)」の登山口である「中の湯温泉」に向かう。しかし、国道から中の湯温泉への分岐口のゲートに旅館のおじさんがいて、宿泊者以外は通せないし、付近に駐車もできないという。仕方がないので、安房山は断念し、乗鞍岳の樹林限界手前引返しで、行ける所まで行くことにする。
乗鞍高原温泉スキー場駐車場(Co2000m)からは、リフト3本を乗り継いでCo2500mまで上がる予定であったが、最上部のリフトは大雪のため昨日から運休中であるという。仕方がないので、3本目のリフト横は歩いて登ることにし、1回券(300円)を2枚購入し、リフトに乗る。
2本目のリフトを降りると、運休中だった最上部のリフトが動き出した。その場でリフト代を現金で払いCo2500mへ。まずは1本、すばらしいパウダーが手付かずで残っているゲレンデを、空身で1本滑る。浮力を感じながら、小回りで気持ち良く滑りおりることができた。

安房山へ行こうとしたり、ゲレンデのパウダーを1本滑ったりしていたので、3本目のリフト終点(Co2500m)を出発したのは10:50と遅くなった。天気は雪。気温は-8℃。5分ほど先に、男女の2人パーティが出発。そのパーティとラッセルと交代しつつ、シール登高する。リフト終点から上部も、タンネが切り開かれてスキーコースになっている。北海道・十勝の、リフトのない「国設三段山スキー場」と同じような感じである。Co2150m付近での休憩時に、ゾンデ棒で積雪量を測定したところ、230cmであった。

スキーを履いてのラッセルは、平均すれば膝位であったが、深いところでは腰までもぐった(写真)。こんなにラッセルが深くては、仮に晴天だったとしても、日帰りでは、とても乗鞍岳ピークまでは届かないだろう。悪天候(雪)なので、かえって、(途中引返しの)あきらめがついた。男女の2人パーティの方は、我々より先に、引返して下山したようだ。

タンネの背丈も低くなってきて風が当たり出した。また、ラッセルが深いわりには緩い傾斜がしばらく続きそうなので、もう少し頑張って歩いても、それに見合う下りのスキーが期待できそうもない。そこで、Co2270m付近で引返すことにする。気温は-10℃で、あいかわらず雪が降り続いている。写真は、テルモスの熱いお茶を飲む私(山森)。

清原家では、筑摩地方に伝わる「こおりもち」を、行動食として差し入れしていただいた。これは、つきたての餅を水につけて、2〜3ヶ月間、冬の軒先につるして乾燥させてつくる保存食だそうだ。写真は、熱いお茶を飲みながら「こおりもち」をほおばる石橋兄。

シールを外して、兼用靴を滑降モードにして、スキーゴーグルを着用して、いざ出発。「深雪パウダーをいただき!」と、意気込んで、真っ先に飛び出してみたものの、雪が深く傾斜が緩いので、直滑降でも滑らない。結局、傾斜が緩いところでは、登りのトレースを直滑降で滑るしかない。しかし、傾斜があるところでは、各自、思い思いにターンを刻んだ。

石橋兄は、優雅にテレマークターン。

清原ババアは、華麗にパラレルターン小回り(ショートターン)。

私(山森)も、なんとかパラレルターン小回り(ショートターン)のつもり。

お決まりの温泉は、スキー場近くの「湯けむり館」。日帰り入浴700円。露天風呂もあって、なかなか良い雰囲気だった。帰りも山形村の清原実家に立ち寄り、野沢菜や餅など、清原家で収穫した作物をおみやげにもらって、中央道で帰宅。一般道で雪道を来た往路がウソのように、復路は渋滞もなく、高速で、あっと言う間に東京に着いた。
この3人は、登り(現役時代より体力が衰えたので遅い)、下り(現役時代よりスキー技術が上達したので早い)ともに足がそろっていて、山行の指向も合っているので、山スキーのパートナーとして最高のメンバである。今シーズンは、このメンバを中心に活動予定。楽しみだ。
(文責:
山森 聡)
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七本のマッチ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
夏山や冬山が終わると必ず報告会があった。報告会はルームで行ってい
た。当時は活動していた部員は二十名位だったので少し窮屈だったがか
えって熱気が入った。
昭和二十七年の夏山ではとんでもない報告があって仰天した。それは、
入部が一年ずつ違うK、T、Cの三人が糠平川から幌尻、エサオマンに登
り札内川を下る普通のルートだったのだが彼らは初日にハコ巻きに失敗
して入水し、荷物を全部濡らしてしまったという。慌ててマッチを取り出して
干したが使い物になるのはたった七本。これから先、キャンプは七回しなけ
ればならない。マッチは一日一本で済ませることにして登山を続けて予定を
完遂というのである。
そもそも当時は未だビニール袋は開発されていなかったので大事な物は小
さな行李に入れて油紙すなわち和紙に油を沁みこませた紙に包んだ。油紙
はビバークなどでも雨よけのシートのように使われた。しかしマッチだけは缶
に入れるのが常識。缶は紅茶の四分の一ポンドの空き缶が最良だった。当
時もリプトンの空き缶はあった。茶筒はどこの家にもあったが絶対に不可。
被せ蓋なので水が入るのである。紅茶の缶は内蓋が押し蓋で四角な上蓋も
かかるので最適だった。
さて、マッチ一本で焚き火を起こすには、まずテントを張って風を避け、一人は
ローソクを持ち、一人は紙で作った付け木も持ち、もう一人が慎重にマッチを擦
ったという。三人総がかりだったようである。
この報告は先輩諸氏から手厳しい非難を受けたが、当時は夏山で初日に沢の
増水に肝をつぶしてクーキが抜けて帰ってきたり、ワラジが不調で登るのを止
めて帰ったなんていう、さまにならない話も残っていた中、一日一本のマッチで
の登高の決断と火の着け方の工夫には敬服した。
他のパーティーに逢うなんて事のほとんどなかった頃の日高である。
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ビバークの後は小屋への荷揚げのお駄賃
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
三年目の夏山は本州に出てみることにした。パートナーは同輩の石谷邦君
で、彼は富山県出身かどうかは定かではないが剣岳には少々の知識があ
った。
夏山山行にするにはそれなりの計画でないと、なんともサマにならないので
白萩川のゾロメキ発電所から入ってブナクラ谷〜小窓尾根を乗越して三ノ窓
から剣沢へ抜ける計画として小生がリーダを務めることになった。参考になる
記録がなかなか見つからないので藤平正夫氏の早月尾根冬期登攀記録を
手掛かりにした。
この年も出発から雨でゾロメキ発電所の工事小屋に一拍、徒渉に苦労しなが
らブナクラ谷の中州というかテラス状の出っ張りを猫の額ほど平にしてテント
で一拍。時折豪雨の来る小雨の中、小窓尾根に取り付いてブッシュを分け、
岩場を越えるなど、北海道とはかなり勝手の違う登高だった。
池ノ平への下り位置を早まり、ブッシュや岩はますます激しくなりアンザイレン
などにも手間取って、いくらも進まぬうちに日は暮れかけ、キャンプできそうな
ところを見つける可能性もうすいので、急傾斜だがヤブの中に突き出た小さな
岩の脇にビバークすることにした。
夜中に転落しないように足元の潅木を細引で束ね、なんとか小さな場所は確
保できたが、二人とも寝込んでしまっては転落の危険あり。交代で相棒の寝
返りの監視を約束したが、結果的には二人とも殆ど眠れなかった。
夕食は沢で飯盒に一本炊いて持って登ったのだがビバークした所には水はな
い。小雨は降っているのに集めることも出来ない。翌日の行動に備えて飯盒は
枕の下にして夕食は抜いた。
相変わらず驟雨に見舞われながらもゾロメキ発電所を出発してから六日目には
三ノ窓の雪渓を降って剣沢小屋を経て乗越小屋に到着。小屋には佐伯トン先輩
が滞在していた。
彼は林学なので立山をフィールドにして卒論を書いていたそうである。
苦あれば楽あり。翌日は彼のお使いで芦峅寺まで下りて米と炭一俵をとりに行
ったり、その後は荷揚げのお礼とばかりに長次郎の雪渓、八峰で岩登り、剣岳
などを案内して貰い、悠々の時を堪能した。しかし、あのブナクラ谷で翌年の夏
には石谷、加納、鈴木のパーティーは鉄砲水に遭遇し、鈴木康平君を失った。前
者二人もその後病死して今はなし。
あの谷は未だに小生の心にキズになっている。
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平成18年12月16日
参加者:石村夫妻、石本、八木橋、平田、木村
東京支部岳友:井上、志賀、吉川
コース
東京支部編「関東山地日帰り縦走36ルート集」No.2による
その日のこと
十二月十六日。昨今珍しいインディアンサマーの、うららかな日和に九名集まる。石村夫妻、
石本、八木橋、平田、会友の井上、志賀、吉川に小生を合わせて九人。吉川さんは井上女
史の友人で再び現れ今後も参加の模様。前回このルートは雪で依田君一人の参加だったの
で同じルートだが皆で歩いてみることにした訳である。
今年は紅葉が永いようで緩やかな山腹はまるで直行さんの絵のようだった。八木橋君は橋
場バス停まで車で来たので頂上から一人でバック。他は予定ルートの定峰へ。歩き易い下
りで、日高の夏山の話などに興じながら快適に進み、予定のバスの一つ前に乗車して、早
い帰りとなる。車中では「部報は、未だ出ないのかなあ」との声しきり。
「裏はなし」は、今回から小生と同世代の後輩の話へと進んで行く。
所用時間 三時間五十分
正味歩行 三時間十五分
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平成18年11月11日
参加者:坂野、石村夫妻+娘+お孫、坂本、山崎、木村
東京支部岳友:松沢
コース
今回は時期が支部恒例の行事と近かったので、幹事の意向で月見の会とセットで行う
ことになった。ハイクの後に月見、月見単独参加も歓迎という。
しかし、当日の予報は朝からの雨。予定の「御林山」に登るのは止めにして集合地点の
武蔵五日市駅から街道筋の史跡や風景の探勝に切替えた。
その日のこと
沿海地方は相当の豪雨だったそうだが、雨にもめげず雨具を付けて集まったのは、坂野、
石村夫妻とお孫さん連れの娘さん、坂本、二十七年入部初参加の山崎、常連の会友、
松沢。前述のように、この日は街道遊歩に変更。この地は松沢君の縄張り同然とあって
早朝には電話を受けていたので彼に案内人になってもらった。遊歩について述べる要は
なかろうが特筆すべきことが一件発生した。
坂本君が目前見えた城山へ雨の中、一人で向かってみたくなったようだ。何とかと同じで
高い所への意欲よし。ダイエットの効果か、ヘルマンブールよろしく四三四メートルの最高
峰?を極めたようだ。
コースの終点の造り酒屋からは、秋川の銘酒「喜生(きしょう)」をぶら下げ、月見の宴に参
加で格好もつく。全天、曇り、しかも下弦の月の宴については別途報告もあろう。
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平成18年10月21日
参加者:大井、石本、大村、浜名、木村
東京支部岳友:佐藤、二人
コース
東京支部編「関東山地日帰り縦走36ルート集」No.12による
その日のこと
十月二十一日集合場所の御岳駅には、東京支部の浜名幹事が珍しく新聞記者クラブ
の友人二人を連れて現れ、大井、石本、大村、常連の佐藤と合わせて八人となる。初
参加の記者クラブの二人は参加が定着したらその名を明かすことにする。
前回このルートへは大雨の中、坂野君と二人だけで頂上から古野駅へ逃げ降ったのだ
が、今回は眺望は優れないものの雨はなく計画の縦走ルートを完成できた。ただし、小
生Yashiは下り後半で足が棒になりヒラヒラになる寸前。
この夏トッタベツのカールにケルンを積みに行った大村君の話でBカールに神谷君の記
念のスプーンを矢野君が埋めてくれたことを知る。矢野君の話ではカールには大石が転
がっていてケルンを積む必要はなかったそうである。五十三年前の一月、ピパイロ岳へ
の前進キャンプを張った折には転石は気にならなかったので、この辺りでも積雪はかなり
のものかと再認識した次第。
ところで白倉バス停に降り着き、バスは待たずタクシーで武蔵五日市へ。浮いた時間は
有効にとやら、近くで一杯となる。記者クラブの二人は流石に巷の話題が豊富。新しい顔
ぶれが入りマンネリ解消の一日となる。
少々バテても裏話は未だ続く。
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部報4号前半分の書評です。大雪も日高も、これまでに足跡のない山域を求め、新しい発見が意気盛んに記録されています。
部報4号(1933年)前編
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
部報4号(1933年)前編
【総評】
1931/10−1933/10の2年分の山行記録と13の紀行など。坂本直行氏の天然色油彩スケッチ画を含む。編集長は徳永正雄。価格は1円50銭、284ページ。積雪期大雪山のガイド的小文から始まる。登山史的側面としては、いよいよ夏の中部日高の険悪な沢の探査が進む。中ノ川周辺、ペテガリのアプローチなどが最先端の報告である。日高の登山史を年譜としてまとめている。アイゼン、ピッケル研究、高所生理などの技術研究も部報では初。前半部の山場は中野征紀氏のシュンベツ川カムエク直登沢探査だろうか。
【時代】
1931年は満洲事変が始まり、翌32年3月に満洲国建国。5.15犬飼首相暗殺、ナチスが政権政党に。33年3月、日本は国連を脱退。
● 積雪期の大雪山彙ー特に直井温泉(愛山渓温泉)を中心としてー
佐々保雄、村山林二郎
これまで層雲峡と天人峡からに限られた大雪山の登山口に愛山渓を強く勧める一文。1920〜22年の間に板倉氏らによって冬季初登された中央大雪の高地群はこの10年ほど顧みられなかったとある。たしかに東大雪やニペ、武利武華が多い。大雪山中央部が人臭くなったためとある。ほんの10年前は冬季初登だったのに、早い。温泉発見者の直井さんは権利を売り渡して、南米に移住したという話が「斗南の翼広げては」。
●冬の熊根尻山塊とウペペサンケ山 豊田春満
クマネシリとウペペサンケの、積雪期初登頂記録。1931年暮れ12月30日から1月7日まで5人で。この山行では芽登温泉からクマネシリ山塊を目指したがあまりに雪が少なく敗退、続いてウペペサンケを南西面シーシカリベツ川から入山、登頂に成功する。
続く3月17日から22日、再びクマネシリ4山にヌカナン川から挑戦する。ヌカナン川から西クマネシリの南の郡界尾根1250mあたりにあがり、そこから西クマネシリを踏んで、クマネシリと、ピリベツをダブルアタックしてBCに下る。翌日、南クマネシリを北北西の尾根からアタックする。
昨年12月に僕もこの山域を登った。やはり雪が少なく、イグルーをあきらめタンネで小屋がけしたが、寒かった。当時は林道が無かったから敗退も仕方ない。
●一月のニペソツ山ー十勝川よりー 徳永正雄
1932年12月31日から1月5日まで、4人の冬季初登記録。十勝川水系ニペソツ川支流ワッカレタリベツ川(ニペ南南西面)からのアタック。このときまでに積雪期の二ペソツは31年、32年の5月に幌加音更川側から登られている。積雪量の少ないこの山域は、音更川、十勝川とどちらも大きな川からのアプローチで、渡渉が大きな問題だった。登山成功は造材林道の延伸が大きいとある。この時代、丸山を「中ニペソツ山」と呼んでいる。陸地測量部の地形図が大いに違っていて、その点の記述が多い。沢をつめ、急になったら、更に急な側面を登って尾根に上がるのが、この時代の戦法である。「ワッカレタリベツ」は白き水の川の意味。かなり上流まで白濁しているという。最期の訳注
「今後のニペソツ山のスキー登山としては、音更川本流から入る事だ。三股から奧にもう一つ天幕を張れば、ニペソツ、石狩、音更の三頂が一日行程の範圍内にあるから非常に面白いと思ふ。音更川本流には相當上流迄林内歩道があるが、少くも三股迄道が出來て橋がかゝらないと、川が大きい上に降雪量の尠い關係から、ベースキャンプを上流に設ける迄が仲々困難な仕事だらうと思ふ。併し早晩この登山の行はれるであらう事を確信する。」予言の通り、幌加音更川の林道開発は進み、今は冬季西面の記録はあまり見ない。
●支湧別川よりの武利岳ー五月及び二月の登山紀行 伊藤紀克、本野正一
「武利岳はもつと攀られていゝ山であるのに,之迄(略)記録は甚だ貧しい物であった」とあるが、これまでの部報を見る限り、結構記録は多い気がする。珍しい故、部報に多く載るという事か。支湧別側より、1932年5月と33年2月の山行。
5月28日〜ほとんど6月山行の風情だが、アイゼンやピッケルも使っている。スキーは途中、やっぱりよけいな荷物と化す。白滝から支湧別岳→武利岳。アタック後の天場上では残雪スキー大会に興じる。武利の北のジャンクションピーク(1758m)をニセイチャロマップ岳と呼んではどうか、とある。以前どこかでこの名で呼んでいる記録を読んだことがあり、僕はひとりそう呼んでいる。その後猛烈な藪こぎに往生するが、屏風岳を越えて層雲峡へ。
2月も白滝支湧別川からのアタック。
●幌尻嶽・イドンナップ岳・カムイエクウチカウシ山 中野征紀、相川修
このころまだ未知だった額平川、新冠川、シュンペツ川上流部夏期の探査山行。イドンナップも初めての記録だ。
「未だ人の歩いて居ない澤、未だ人の登って居ない峰、例へ其れが如何に容易な峰であつてもー(略)ー最初に其れを行くことは何と大きな期待であらう。全く此の額平川には相當の期待を持つて居た。」幌尻を乗っ越して新冠川を下ると、アイヌの小屋など見つけ、アイヌの踏み跡に導かれていく。
「其処からは左岸を高く搦まなくてはならなかつた。けれども微かな踏後が、殆どそれを期待せずには見出されまいと思はれる踏跡が、縷々として函の上を、泥付きの急斜面を、或は苔蒸した岩の傍を登り降りして私達を導いて行って呉れた。此れも忘れることの出来ない澤歩きの妙であった。而も私達は舊土人の跡を辿るのであり、舊土人は熊の足跡を追ふて居るのであり、そして再び熊が之れを通ふことでもあらう、所々に山の親爺の糞が置き忘れられてあつた。」アイヌの踏み後を辿る旅は、本当の前人未踏以上におもしろいことだったと思う。そして初めて見るイドンナップからの日高主稜線の眺めに賛辞を送っている。シュンベツ川からのカムエクはなんとカムエク沢左股に入り込んでいる。日高で最も難関の沢である。
「其処から沢は岩壁の中を電光形に落ちる瀧の連続であつた。其の曲がりの度に深い滝壺を湛えて居た。其れは絶対に人を寄せ付け様ともしなかつた。」隣の尾根を苦労して登っている。カムエク沢の初記録と思われる。カムエクを超え、坂本直行の牧場へ下山。
以下、後半は次回。
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川ー中ノ岳ー中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
年報(1931/10−1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
【
部報4号(1933年)後編へ続く】
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神楽峰(2029.6m)
●2006年12月23日(土)(1ー0)
【ルート】
かぐら・みつまたスキー場/かぐら第1高速リフト終点(Co1680m)→運休中リフト(かぐら第5ロマンス)終点(Co1830m)=神楽峰(2029.6m)→和田小屋(Co1370m)→みつまたロープウェー山頂駅(Co880m)
【メンバ】
L:山森聡(86入部)、M:清原実(86入部)
【行程】
12月23日(土)(曇り→小雪) みつまたロープウェー山麓駅Co620m(10:20)→(みつまたロープウェー、みつまた第2高速リフト、かぐらゴンドラ、かぐら第1高速リフトを乗り継ぎ)→かぐら第1高速リフト終点Co1680m(11:10)→シール取り付け(11:20-30)→運休中リフト終点Co1830m(12:10-20)→稜線と尾根の分岐点Co2000m(12:55)→神楽峰山頂2029.6m(13:15-35)→稜線と尾根の分岐点Co2000mシール取り外し(13:55)→(パウダー大滑降)→運休中リフト終点Co1830m(14:10)→(パウダー大滑降)→和田小屋(14:30-15:30)→(ゲレンデ滑降、途中みつまた第3リフトで登り返し)→みつまたロープウェー山頂駅Co880m(16:00)→(ロープウェーで下山)→山麓駅Co620m(16:30)
【地図】(五万図)越後湯沢、苗場山
【記録】
いよいよスキーシーズンに突入した。AACH東京支部忘年会(2006-12-8)で、同期の清原ババアと今シーズンは月2回を目標に山スキーに通うことで合意し、その第一弾として、今シーズンの足慣らしに、越後/苗場・神楽峰スキー山行に行ってきた。
12/23(土)早朝4:10に横浜を出発し、武蔵野市の清原ババア邸(5:30)を経由して、関越道の湯沢IC経由で、みつまた駐車場に9:00到着。駐車場代\1000-。リフト券は湯沢IC近くのコンビニ(セブンイレブン)で、一日券(\4000)+食事券(\1000)+ドリンク券のセットで\4500の引換券を購入。駐車場には9:00に着いたものの、リフト購入(引換)の行列に1時間以上も並ぶはめになり、ロープウエーに乗車できたのは10:20で、リフト終点到着は11:10になってしまった。教訓として、スキー場からの入山は前夜移動の駐車場での車中泊とし、始発のロープウェー等に乗るようにすれば、リフト券購入待ちで時間を無駄にすることはないと思う。

この日は、冬型の気圧配置。朝方は高曇りで、晴れ間も見えていたが、リフト終点に到着した頃には、山々には雲がかかってしまった。写真は、かぐら第1高速リフト終点から、運休中リフト(かぐら第5ロマンス:3/17〜5/6運行予定)方面を望む。10分ほど、先行パーティのトレースを同コンタで進む。トレースが運休中のリフト乗場を目指しているのではなく、尾根上を登っていることが確認できたので、シールを取り付ける。積雪130cm(ゾンデ棒で測定)。スキーを外すと腰まで潜った。

先行パーティのトレースを活用して、シール登高する私(山森)。トレースを活用できない場合は、ラッセルが必要なので、時間と体力が余計に必要となるであろう。この日は、山スキーヤー、テレーマーカー、スノーボーダー(登りはスノーシュー)合わせて、少なくとも5パーティ約30名程度が、神楽峰へ向かったと思われる。

タンネの背丈が低くなるところまで登ると、小雪が舞ってきた。視界も100m位しかない。お気楽な春山スキーとは違って、シビアな冬山登山をしていると実感した。清原ババアが、「十勝みたいだなぁ〜」とつぶやいている。確かに、冬合宿で、悪天候の三段山を目指しているような雰囲気だ。あの頃は、スキーが下手だったので、深雪の中を斜滑降とキックターンで降りてきた記憶がある。いくらスキーが上達したとはいえ、この深雪でパラレルターンができるのか少々不安になる。

尾根と稜線の分岐点に出てからは、ちょっとしたアップダウンを繰り返すと、神楽峰山頂だ。天気が良ければ、苗場山が、かっこ良く見えるのであろうが、あいにく視界はない。それはそれで冬山らしくて良しとしよう。登頂を祝って硬い握手。ピークでは20分もゆっくりしていたが、他のパーティもおらず、貸切でのんびりできた。ピークで飲む、テルモスの熱いお茶は、うまいぜ!

尾根と稜線の分岐点までは、シールを着けたまま戻る。いよいよシールを外しての大滑降だ。清原ババアは、いきなり華麗な「小回り」で一気に降りていった。私は、最初は深雪に戸惑ったが、ちょっとこつをつかむと、深雪のなか、「大回り」で滑り降りることができた。初めて、滑っていて浮力というものを感じることができた。これが「パウダー」か? こんな快感を味わうことなしに、現役時代にはパウダーを斜滑降とキックターンで降りていたなんて、もったいないことをしていたもんだ。写真は私(山森)。

慣れてくると、清原ババアほどではないが、私も深雪のなかの「小回り」もそれらしく出来るようになってきた。清原ババアも、社会人になってからゲレンデでレッスンを受けて、スキー技術に磨きをかけたそうである。AACH部報14号(2006年12月発行)に、「恒例の春山スキー」と題して、どうやって私が苦手なスキー術を克服したかについて書かせてもらったが、社会人になったらゲレンデでレッスンを受けて、スキー技術を磨くことを強くお勧めする。雪山の楽しさが何倍〜何十倍にもなる。写真は私(山森)。

現在はゲレンデレストランである和田小屋は、スキー場が出来る前は、山小屋だったとのことで、現在でも、宿泊もできる。小屋の中には、昭和30年頃のスキー登山の写真が壁に多数飾ってあって、興味深い。当時は、革靴にカンダハー、竹ストックだったようだ。食事券(\1000)+ドリンク券を活用して、和田小屋で1時間の大休止。15:30には、宿泊者以外は、全員退去を命じられ、スキー場を「大回り」や「小回り」で快調に滑降して下山。(1回、シングルリフトで登り返す必要があるが、リフト待ちの大行列。)

お決まりの温泉は、国道17号で三国峠を越えてしばらく下ったところの、猿ヶ京温泉センター。江戸時代の風情と自然を楽しむ「日帰り温泉施設」で、1260円。全館(廊下・階段はもちろん洗い場まで)畳敷きで、なかなか渋い。露天風呂を囲む池で鯉を眺めて殿様気分の「東屋の湯」、茶屋風空間に大壷を据えた打たせ湯の「利休の湯」、江戸の浮世風呂に薄明かりが差し込む「砂利の湯」を堪能し、風呂上りには無料の「手作りところてん」を食べ、畳で横になって少々休養してから、東京に帰った。写真は「利休の湯」の大壷でご満悦の清原ババア。
冬型の気圧配置のため、視界も悪く小雪が舞って天候には恵まれなかったが、ピークも踏めて、快調なパウダースキーと渋い温泉を堪能できて、今シーズンの足慣らしとしては、申し分のない「初滑り山行」であった。
(文責:
山森 聡)
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