OBの山行記録・ 2007年3月14日 (水)

【年月日】 平成19年2月25日
【メンバ】清野(76年入部)、真庭(沼田山岳会)
【ルート】 一ノ倉一ノ沢左方ルンゼ〜一、二ノ沢中間稜〜東尾根〜谷川岳山頂
【時 間】指導センター(03:30)一ノ倉出合(04:20)左方ルンゼ(06:30)山頂(15:00)
三峰川の源流で、対岸の尾根の熊を睨みながら、雪崩にやられるのと熊に食われるのはどちらが良いかなどと考えながら、救出のヘリを待っていた時から早一年、ようやくホンチャン復帰ができました。
例年であれば、巨大なブロックで埋め尽くされている一ノ倉出合も、沢の水が汲める程雪がありませんでした。
急雪壁やラビーネンツークを登る部分が多い谷川のルンゼルートも、今年は氷の露出が多く、ラッセルやキノコ雪、ブロック崩壊に悩まされる事も少なく、快適な登攀が楽しめました。
左方ルンゼの上部左岸にメガネと言われる大きな風穴があります。
満月の夜、窓岩(赤岩)のふちに座って笛を吹いた矢野先輩の向こうを張って、此処で笛でも吹こうと思ったのですが......とてもそのような事ができる場所ではありませんでした。

左方ルンゼ取付 積雪が少ないため、滝が例年より10m程高い

F2

核心部 F5 チムニー滝 抜け口の氷が薄くて少々シビアー、おまけにスノーシャワーの洗礼を受ける

F5を抜け上部草付帯を望む

メガネ(風穴)から見下ろす一ノ倉出合 満月の夜に、此処で笛を吹こうと思っていたが、底は急傾斜で一ノ沢に向かって落ち込んでいる、チョット無理かな!?

奥壁と一ノ倉岳

一、二ノ沢中間稜を行く 狭苦しいルンゼから解放され、快適なナイフリッジを行く
例年であれば、巨大なブロックで埋め尽くされている一ノ倉出合も、沢の水が汲める程雪がありませんでした。
急雪壁やラビーネンツークを登る部分が多い谷川のルンゼルートも、今年は氷の露出が多く、ラッセルやキノコ雪、ブロック崩壊に悩まされる事も少なく、快適な登攀が楽しめました。
左方ルンゼの上部左岸にメガネと言われる大きな風穴があります。
満月の夜、窓岩(赤岩)のふちに座って笛を吹いた矢野先輩の向こうを張って、此処で笛でも吹こうと思ったのですが......とてもそのような事ができる場所ではありませんでした。

左方ルンゼ取付 積雪が少ないため、滝が例年より10m程高い

F2

核心部 F5 チムニー滝 抜け口の氷が薄くて少々シビアー、おまけにスノーシャワーの洗礼を受ける

F5を抜け上部草付帯を望む

メガネ(風穴)から見下ろす一ノ倉出合 満月の夜に、此処で笛を吹こうと思っていたが、底は急傾斜で一ノ沢に向かって落ち込んでいる、チョット無理かな!?

奥壁と一ノ倉岳

一、二ノ沢中間稜を行く 狭苦しいルンゼから解放され、快適なナイフリッジを行く
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OBの山行記録・ 2007年3月6日 (火)
三田原山(2347m)の南端Co2300m、前山(1920m)

●2007年2月17日(土)(1ー0)
【ルート】
妙高国際スキー場→三田原山(2347m)の南端Co2300m→(北東面滑降)→南地獄谷→前山→(滝沢尾根滑降)→赤倉観光ホテルスキー場下部
【メンバ】
L:石橋岳志(1982入部)、M:松木博文(1983入部)、山森聡(1986入部)

●2007年2月17日(土)(1ー0)
【ルート】
妙高国際スキー場→三田原山(2347m)の南端Co2300m→(北東面滑降)→南地獄谷→前山→(滝沢尾根滑降)→赤倉観光ホテルスキー場下部
【メンバ】
L:石橋岳志(1982入部)、M:松木博文(1983入部)、山森聡(1986入部)
【行程】
2月17日(土)(晴れ)妙高国際スキー場リフト終点Co1850m(8:45)→三田原山(2347m)の南端Co2300m(10:30-11:00)→南地獄谷(大谷ヒュッテ付近)Co1800m(11:50-12:10)→前山1920m(13:10-35)→滝沢尾根Co1000付近渡渉点(14:40-50)→赤倉観光ホテルスキー場Co1000m付近(15:00-10)→Co730m駐車場(15:20)
【地図】 (五万図)妙高山
【記録】
新潟県妙高市の松木邸(1983入部)をベースに、1日目は妙高(三田原山〜前山)、2日目は黒姫山に行く計画を立てた。当初は清原ババアも同行する予定であったが、家庭の事情でどうしても都合がつかなくなってしまい、石橋兄、松木、山森の3名での山行となった。

東京を早朝出発し、赤倉観光ホテルスキー場の駐車場(下山口)で、地元の松木さんと7:00に集合。写真は、駐車場から望む妙高連峰。左から赤倉山、(南地獄谷)、妙高山(手前が前山)、(北地獄谷)、神奈山である。天気は良く、気分も最高。松木号は集合場所(下山口)にデポし、山森号に乗り換えて、妙高国際スキー場(登山口)へと向かう。

妙高国際スキー場では、杉の原ゴンドラ(1250m,11分,1回券\1000-)と、三田原第3高速リフト(1726m,7分,1回券\500-)の起動力を活用して、Co1850mまで標高差1000m以上を楽をして上がることができる。ゴンドラを降りて、スキー場を快調に滑って、三田原第3高速リフトの乗り場には8:00位に到着したが、リフトがまだ動いていない。しばらく景色を眺めながら待つこととする。下界には雲海が広がり、なかなか幻想的で美しい(写真)。8:30頃には、リフトが動き出した。

リフト終点からは、三田原山の外輪山を目指して、トラバース気味にスキーで登って行く。この日は我々が一番乗りだが、過去のトレースも残っている。歩き出してすぐ、沢型をひとつ越える(写真)。

翌日に行く予定の黒姫山(写真)を左に見ながら登る。途中で、アイスバーンのところがあって、スキーアイゼンを持っている私以外は、シートラして壷足で蹴りこんで登ることにより、アイスバーンを通過する。

乙妻山や北アルプスの山々を背に、三田原山(妙高山の外輪山)を目指して登る山森(写真)。本当に景色が素晴らしい。この斜面もスキーは快調そうだが、南面のため、雪質は、あまり良くない。今回の計画では、三田原山からは北面のパウダー、前山からは樹林帯のパウダーをいただく予定である。期待に胸をふくらませつつ登る。

三田原山(外輪山の南端Co2300m付近)に到着した松木さん(左)と山森(右)。バックは妙高山(2445.9m)。三田原山の最高点(2347m)まではもう少し、外輪山を北に歩く必要があるが、スキー滑降が目的の我々は、計画通り、ここまでとする。

山スキーとスノーボードの若者2人組が、到着したので、北アルプスをバックに写真を撮ってもらう。左から、山森、松木、石橋兄。彼らは、休憩した後、三田原山の最高点(2347m)を目指して歩いていった。スノーボードは、真ん中から2つに割れるタイプで、シールをつけて山スキーのように足につけて歩いて登れるタイプだった。話には聞いたことがあったが、実物は初めて見た。

三田原山から、黒姫山、佐渡山、高妻山、乙妻山を望む。黒姫山の左手に富士山も見えた。

三田原山から、北アルプスの山々を望む。乙妻山の右上には、遠く、槍ヶ岳も見える。写真中央には、剣岳も見えている。

外輪山の内側に向かって滑り込む。北斜面なので、期待通りのパウダーだ。写真はテレマークの石橋兄。

こんな急斜面も、気持ち良く滑れるようになった私(山森)。ゲレンデでスキー技術を磨くと、雪山での楽しさが何倍、何十倍にもなる。本当に!

山スキーは、2003年GWの火打山&焼山北面スキー山行(斎藤、松木、山森、銭谷)以来だという松木さんも、地元の意地で、なかなかの滑り。

外輪山の急斜面を滑り降りたあとは、南地獄谷の緩い傾斜を滑っていく。地図の温泉記号(Co1920m)は、沢が口を空けており、煙がもくもくと立っている(写真)。左岸側を滑り降りるが、崖などに注意しながら、緊張して降りる。

南地獄谷(大谷ヒュッテ付近)Co1800mからは、またシールをつけて、前山(1920m)に向けて登る。前山から妙高山への尾根は、細くてアップダウンが多くブッシュも鬱陶しいので、スキーでの通過は不快調との情報があり、少し憂鬱であった。しかし、現地でのルートファインディングの結果、尾根にはあがらずに、尾根の南側をトラバースしながら登って行き、前山ピーク直前で尾根上にでることができた。前山は眺望が素晴らしい(写真)。

前山から望む、越後三山方面。尾瀬の燧ケ岳や至仏山も見える。この日は、八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、北アルプスまで、ばっちりと見えていたので、数えてはいないが、日本百名山の半分以上が見えていたのではないだろうか?

松木さんのスキーは、昔ながらの真っ直ぐな板に、金具はジルブレッタ300。靴はプラスチック登山靴。ジャンパーは、秀岳荘のナイロンジャンパー。現役時代の装備かと思って聞いたら、ジャンパー以外は、卒業してから新調したんだそうだ。そろそろ、買い替え時ですよ。松木さん! 高橋GGさん(1984入部)も、今年、一式新調したみたいだし...

前山から、滝沢尾根への下りは、最初は少々細いが、ところどころパウダーのたまっている斜面を、気持ちよく滑る。写真は松木さん。

なかなか格好良く写真を撮ってくれてありがとう。撮影:石橋兄、モデル:山森。この滝沢尾根は、例年より2m位雪が少ないそうだ。例年なら、写真のブッシュも全て雪の下で、快適な大斜面なのだろう。しかし、湯ノ丸山で、最強のブッシュスキーを経験済みなので、少々の潅木は気にならない。

快調なツリーランを楽しむ石橋兄。樹林帯はパウダースノーが楽しめる。

Co1000m付近の渡渉点は、笹を掴みながら横滑りで降りて、シールをつけて、何とか残っているスノーブリッジを利用して渡渉。例年の雪なら何でもないのだろうが、雪不足の今年は、ちょっと不快調。渡渉したあとは、左岸のブル道をほぼ同コンタで歩いていくと、赤倉観光ホテルスキー場の下部に出る。ゲレンデを滑って、無事下山。三田原山から先は、他のパーティに会うこともなく、晴天のもと、静かなスキー山行を楽しむことができた。

松木号で、妙高国際スキー場(登山口)へ行って、山森号を回収。お決まりの温泉は、妙高市営の妙高高原ふれあい会館(\450-)。

松木邸では、松木さんの家族も加わり、大宴会。自家製の手打ちそばもごちそうになる。あたたかい布団でぐっすりと眠らせてもらう。翌日は、あいにくの雨のため、黒姫山への山行は中止とする。地元の山岳会で山スキーに登攀に活躍しているという松木さんのお姉さん宅を訪問し、楽しい話を聞かせてもらい、東京へ帰った。これからも、年1回位は、松木家にお世話になって、頚城山塊の山スキーを楽しむことにしよう。
(文責:山森 聡)
2月17日(土)(晴れ)妙高国際スキー場リフト終点Co1850m(8:45)→三田原山(2347m)の南端Co2300m(10:30-11:00)→南地獄谷(大谷ヒュッテ付近)Co1800m(11:50-12:10)→前山1920m(13:10-35)→滝沢尾根Co1000付近渡渉点(14:40-50)→赤倉観光ホテルスキー場Co1000m付近(15:00-10)→Co730m駐車場(15:20)
【地図】 (五万図)妙高山
【記録】
新潟県妙高市の松木邸(1983入部)をベースに、1日目は妙高(三田原山〜前山)、2日目は黒姫山に行く計画を立てた。当初は清原ババアも同行する予定であったが、家庭の事情でどうしても都合がつかなくなってしまい、石橋兄、松木、山森の3名での山行となった。

東京を早朝出発し、赤倉観光ホテルスキー場の駐車場(下山口)で、地元の松木さんと7:00に集合。写真は、駐車場から望む妙高連峰。左から赤倉山、(南地獄谷)、妙高山(手前が前山)、(北地獄谷)、神奈山である。天気は良く、気分も最高。松木号は集合場所(下山口)にデポし、山森号に乗り換えて、妙高国際スキー場(登山口)へと向かう。

妙高国際スキー場では、杉の原ゴンドラ(1250m,11分,1回券\1000-)と、三田原第3高速リフト(1726m,7分,1回券\500-)の起動力を活用して、Co1850mまで標高差1000m以上を楽をして上がることができる。ゴンドラを降りて、スキー場を快調に滑って、三田原第3高速リフトの乗り場には8:00位に到着したが、リフトがまだ動いていない。しばらく景色を眺めながら待つこととする。下界には雲海が広がり、なかなか幻想的で美しい(写真)。8:30頃には、リフトが動き出した。

リフト終点からは、三田原山の外輪山を目指して、トラバース気味にスキーで登って行く。この日は我々が一番乗りだが、過去のトレースも残っている。歩き出してすぐ、沢型をひとつ越える(写真)。

翌日に行く予定の黒姫山(写真)を左に見ながら登る。途中で、アイスバーンのところがあって、スキーアイゼンを持っている私以外は、シートラして壷足で蹴りこんで登ることにより、アイスバーンを通過する。

乙妻山や北アルプスの山々を背に、三田原山(妙高山の外輪山)を目指して登る山森(写真)。本当に景色が素晴らしい。この斜面もスキーは快調そうだが、南面のため、雪質は、あまり良くない。今回の計画では、三田原山からは北面のパウダー、前山からは樹林帯のパウダーをいただく予定である。期待に胸をふくらませつつ登る。

三田原山(外輪山の南端Co2300m付近)に到着した松木さん(左)と山森(右)。バックは妙高山(2445.9m)。三田原山の最高点(2347m)まではもう少し、外輪山を北に歩く必要があるが、スキー滑降が目的の我々は、計画通り、ここまでとする。

山スキーとスノーボードの若者2人組が、到着したので、北アルプスをバックに写真を撮ってもらう。左から、山森、松木、石橋兄。彼らは、休憩した後、三田原山の最高点(2347m)を目指して歩いていった。スノーボードは、真ん中から2つに割れるタイプで、シールをつけて山スキーのように足につけて歩いて登れるタイプだった。話には聞いたことがあったが、実物は初めて見た。

三田原山から、黒姫山、佐渡山、高妻山、乙妻山を望む。黒姫山の左手に富士山も見えた。

三田原山から、北アルプスの山々を望む。乙妻山の右上には、遠く、槍ヶ岳も見える。写真中央には、剣岳も見えている。

外輪山の内側に向かって滑り込む。北斜面なので、期待通りのパウダーだ。写真はテレマークの石橋兄。

こんな急斜面も、気持ち良く滑れるようになった私(山森)。ゲレンデでスキー技術を磨くと、雪山での楽しさが何倍、何十倍にもなる。本当に!

山スキーは、2003年GWの火打山&焼山北面スキー山行(斎藤、松木、山森、銭谷)以来だという松木さんも、地元の意地で、なかなかの滑り。

外輪山の急斜面を滑り降りたあとは、南地獄谷の緩い傾斜を滑っていく。地図の温泉記号(Co1920m)は、沢が口を空けており、煙がもくもくと立っている(写真)。左岸側を滑り降りるが、崖などに注意しながら、緊張して降りる。

南地獄谷(大谷ヒュッテ付近)Co1800mからは、またシールをつけて、前山(1920m)に向けて登る。前山から妙高山への尾根は、細くてアップダウンが多くブッシュも鬱陶しいので、スキーでの通過は不快調との情報があり、少し憂鬱であった。しかし、現地でのルートファインディングの結果、尾根にはあがらずに、尾根の南側をトラバースしながら登って行き、前山ピーク直前で尾根上にでることができた。前山は眺望が素晴らしい(写真)。

前山から望む、越後三山方面。尾瀬の燧ケ岳や至仏山も見える。この日は、八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、北アルプスまで、ばっちりと見えていたので、数えてはいないが、日本百名山の半分以上が見えていたのではないだろうか?

松木さんのスキーは、昔ながらの真っ直ぐな板に、金具はジルブレッタ300。靴はプラスチック登山靴。ジャンパーは、秀岳荘のナイロンジャンパー。現役時代の装備かと思って聞いたら、ジャンパー以外は、卒業してから新調したんだそうだ。そろそろ、買い替え時ですよ。松木さん! 高橋GGさん(1984入部)も、今年、一式新調したみたいだし...

前山から、滝沢尾根への下りは、最初は少々細いが、ところどころパウダーのたまっている斜面を、気持ちよく滑る。写真は松木さん。

なかなか格好良く写真を撮ってくれてありがとう。撮影:石橋兄、モデル:山森。この滝沢尾根は、例年より2m位雪が少ないそうだ。例年なら、写真のブッシュも全て雪の下で、快適な大斜面なのだろう。しかし、湯ノ丸山で、最強のブッシュスキーを経験済みなので、少々の潅木は気にならない。

快調なツリーランを楽しむ石橋兄。樹林帯はパウダースノーが楽しめる。

Co1000m付近の渡渉点は、笹を掴みながら横滑りで降りて、シールをつけて、何とか残っているスノーブリッジを利用して渡渉。例年の雪なら何でもないのだろうが、雪不足の今年は、ちょっと不快調。渡渉したあとは、左岸のブル道をほぼ同コンタで歩いていくと、赤倉観光ホテルスキー場の下部に出る。ゲレンデを滑って、無事下山。三田原山から先は、他のパーティに会うこともなく、晴天のもと、静かなスキー山行を楽しむことができた。

松木号で、妙高国際スキー場(登山口)へ行って、山森号を回収。お決まりの温泉は、妙高市営の妙高高原ふれあい会館(\450-)。

松木邸では、松木さんの家族も加わり、大宴会。自家製の手打ちそばもごちそうになる。あたたかい布団でぐっすりと眠らせてもらう。翌日は、あいにくの雨のため、黒姫山への山行は中止とする。地元の山岳会で山スキーに登攀に活躍しているという松木さんのお姉さん宅を訪問し、楽しい話を聞かせてもらい、東京へ帰った。これからも、年1回位は、松木家にお世話になって、頚城山塊の山スキーを楽しむことにしよう。
(文責:山森 聡)
- コメント (1)
OBの山行記録・ 2007年3月6日 (火)
一切経山(1948.8m)のコル(Co1900m)、高山(1804.8m)

●2007年2月3日(土)〜4日(日)(2ー0)
【ルート】
高湯→賽河原→KO山荘分岐→五色沼→一切経山コル→酸ガ平→浄土平→吾妻小舎C1→鳥子平→高山→土湯
【メンバ】
L:石橋岳志(1982入部)、M:山森聡(1986入部)、清原実(1986入部)、銭谷竜一(1990入部)

●2007年2月3日(土)〜4日(日)(2ー0)
【ルート】
高湯→賽河原→KO山荘分岐→五色沼→一切経山コル→酸ガ平→浄土平→吾妻小舎C1→鳥子平→高山→土湯
【メンバ】
L:石橋岳志(1982入部)、M:山森聡(1986入部)、清原実(1986入部)、銭谷竜一(1990入部)
【行程】
2月3日(土)(晴れ)高湯Co830m(8:15)→スカイラインCo1140m(9:20-30)→KO山荘分岐Co1550m(12:10-20)→五色沼北東Co1800mポコ(強風、13:50)→五色沼西側Co1780m(14:30)→一切経山コル滑り出しCo1860(15:30)→吾妻小舎Co1580m C1(16:40)
2月4日(日)(吹雪)吾妻小舎C1(7:20)→スカイライン(7:30)→鳥子平(スカイライン最高点)Co1620m(8:20-30)→高山1804.8m(10:00)→Co1740m付近滑降開始(10:20)→1024.7mポコ北側(12:40)→林道Co700付近休憩(13:20)→除雪車道Co550(14:10-20)→土湯(14:40)
※2日目に東吾妻山(1974.7m)にも行く計画であったが、悪天候(吹雪)のため断念。
【地図】 (五万図)吾妻山、福島
【記録】
東京組の3人(石橋兄、清原、山森)と、仙台在住の銭谷の計4人で、1泊2日で、東北・東吾妻スキー山行を楽しんできた。

<1日目>
東京、仙台をそれぞれ早朝に出発し、福島西ICに6:00集合。土湯(下山口)に、銭谷号をデポし、石橋兄号で高湯(登山口)に向かう。土湯から高湯へ向かう車窓からは、今回行く東吾妻が良く見えた。高湯の吾妻スキー場は今年から営業を休止してしまっている。リフトの機動力が使えないので、吾妻小舎までは、昨年までと比べて、3時間位、余計に歩かないと到達できない。ゲレンデ跡ではなく、夏道沿いにシールで登高することにする。

古いスキーツアーの標識が、樹木に食い込んでいる。家形ヒュッテというのは、1952年に開設され、1970年頃に雪崩で半壊、1974年には解体された山小屋らしい。このことから、1960年代の標識であろうと想像できる。約40年かけて樹木が成長して、このように標識が食い込んでしまったのだろう。

福島平野をバックに、ブッシュの鬱陶しい夏道をラッセルして進む。登山口で出会ったKO山荘の管理人さんの話によると、今年は極端に雪が少なく、例年の3分の1以下の積雪量とのことであった。

KO山荘分岐近くで見かけた、古いスキーツアーの標識。ニッポンビールと書いてある。サッポロビールのホームページによると、日本麦酒(ニッポンビール)から、サッポロビールへの社名変更が、1964年1月とのことなので、少なくとも43年以上昔に設置された標識だと思われる。ちなみに私の地図では「KO山荘」となっているが、新しい版だと「慶應吾妻山荘」と書いてあるようだ。私は、KOはノックアウトのことだったりしてと想像を膨らましていたが、どうやら慶応義塾大学の関係の山荘のようだ。

Co1750mで尾根に上がったところ。景色が良い。(写真は石橋兄)

五色沼北東Co1800mポコに上がると、立っているがやっとの強風。この強風ではここで撤退かとも考えたが、石橋兄が空身で、五色沼の北側まで偵察に行ってみたところ、強風はポコ周辺の局地的なものと判明。スキーを手で持って、風がないところまで、皆で降りて前進する。(写真は銭谷)

五色沼西側Co1780mで大休止。凍結した五色沼の左(北)には家形山(1880m)、右(南)には一切経山(1948.8m)が聳え立ち、なかなか美しい景色で、見ていて飽きない。

一切経山のコルへの登高中に、家形山や五色沼方面を振り返る。

一切経山のコル周辺は、視界がないとシビアな地形だ。

一切経山のコルにて記念撮影。本日の最高地点である(Co1900m)。ここからは、前大巓とのコル方面に回りこんでから、シールを外して酸ヶ平へスキー滑降。

酸ヶ平も、視界がないとシビアな地形だ。地図で現在地と吾妻小舎へのルートを確認し、メンバ同士でお互いに確認し合う。

酸ヶ平から浄土平への下り(前半)は、斜度もあり、スキーが快調だ。写真はテレマークの石橋兄。

酸ヶ平から浄土平への下り(後半)は、斜度が緩くなり、正面に吾妻小富士を見ながらのスキー滑降となる。写真は、吾妻小富士に向かって軽快なショートターンで滑る清原ババア。吾妻富士の右側の黒い台地(桶沼)の裏側が、本日の目的地の吾妻小舎だ。浄土平から桶沼の裏への回りこみは、再度シールをつけて歩いた。

吾妻小舎は、昨年までは冬でも週末は管理人の方が入っていたそうだが、今年から吾妻スキー場が営業を休止したことから、管理人の方は入らないとのこと。事前に連絡し、素泊まり4800円/人+燃料費は別途支払って、泊めさせてもらった。布団もあるので、装備はほとんど日帰り装備だ。夕食は、キムチ鍋とうどんを作って食べた。山で食うメシはうまい!

石炭ストーブなのだが、つけ方の要領が良くわからず、つくまでに相当苦労した。石橋兄が入部したときは、ヘルベチアヒュッテが「石炭ストーブ」だったそうだが、あとの3人が入部した時は、ヘルベチアヒュッテも空沼小屋も「蒔ストーブ」だったので、石炭ストーブをつけた経験がないのだ。十勝での冬合宿の白銀荘は石炭ストーブだったが、夜のストーブ番はしても、消えているストーブをつけたことはなかったと思う。

<2日目>
夜中から雪が降り続き、翌朝は40cm位、新たに積雪があった。ゾンデ棒での測定で、積雪240cm位。天気は雪。当初計画では、東吾妻山(1974.7m)へも行く予定であったが、悪天候なので断念。直接、高山(1804.8m)へ向かうことにする。高山はピークまで樹林帯なので、吹雪で視界がなくても、何とか乗っ越せるであろうと判断した。

悪天候(雪)の磐梯吾妻スカイラインを、ラッセルを交代しながら道路の最高点(鳥子平)まで進む。

鳥子平から高山への登り。ラッセルが深いので交代しながら頑張って登る。ピーク直下はブッシュが鬱陶しい。

吹雪の高山ピークにて。ピークには電波の反射板が設置されており、ちょっと興ざめ。とにかく風が強いので、シールをつけたまま、風の当たらないところまで南側に降りてから、休憩。

休憩していたら、外国人をリーダとする5人パーティが後ろからやってきた。西吾妻からテント泊3泊4日で縦走してきたという。この日は、我々のトレースを辿って来たという。バージンスノーをいただくために、休憩もそこそこに、我々は滑降を開始した。雪が深いが、傾斜があるところでは、なかなかパウダースキーを堪能できる。快感!

思っていたほどブッシュも鬱陶しくなく、快適なツリーランを楽しむ。ただ、後半は斜度が緩いため、先頭の人はスキーが滑らないので歩く必要があるが、2番目以降の人は、トレース上に立っているだけで、滑っていける。皆で、先頭を譲りあいながら、下る。そうこうしていると、5人パーティが追いついてきて、抜きつ抜かれつしながら下山する。

1024.7mのポコは北側を捲いて、夏道に乗る。この先の夏道は、林道のように大きく切り開かれているので、写真のように、スキーは快調だ。

林道は先頭の人は滑らないが、2番目以降の人はトレース上なら滑るという微妙な傾斜。5人組パーティも含めて、先頭を譲り合いながら下る。長い林道だ。途中、男沼を眺めながら休憩(写真)。

銭谷号に2人乗り、高湯の石橋兄号の回収に行ってもらう。その間、留守番の2人(清原、山森)で、地元福島出身の札幌の斎藤(1987入部)に電話して、土湯での、おすすめの温泉等を紹介してもらう。その結果、お決まりの温泉は、斎藤のいとこの家である「ニュー扇屋」。湯上りには、自家製の「森山の温泉卵」をごちそうになる。とてもおいしい。皆、お土産に「森山の温泉卵」を買って帰った。
(文責:山森 聡)
2月3日(土)(晴れ)高湯Co830m(8:15)→スカイラインCo1140m(9:20-30)→KO山荘分岐Co1550m(12:10-20)→五色沼北東Co1800mポコ(強風、13:50)→五色沼西側Co1780m(14:30)→一切経山コル滑り出しCo1860(15:30)→吾妻小舎Co1580m C1(16:40)
2月4日(日)(吹雪)吾妻小舎C1(7:20)→スカイライン(7:30)→鳥子平(スカイライン最高点)Co1620m(8:20-30)→高山1804.8m(10:00)→Co1740m付近滑降開始(10:20)→1024.7mポコ北側(12:40)→林道Co700付近休憩(13:20)→除雪車道Co550(14:10-20)→土湯(14:40)
※2日目に東吾妻山(1974.7m)にも行く計画であったが、悪天候(吹雪)のため断念。
【地図】 (五万図)吾妻山、福島
【記録】
東京組の3人(石橋兄、清原、山森)と、仙台在住の銭谷の計4人で、1泊2日で、東北・東吾妻スキー山行を楽しんできた。

<1日目>
東京、仙台をそれぞれ早朝に出発し、福島西ICに6:00集合。土湯(下山口)に、銭谷号をデポし、石橋兄号で高湯(登山口)に向かう。土湯から高湯へ向かう車窓からは、今回行く東吾妻が良く見えた。高湯の吾妻スキー場は今年から営業を休止してしまっている。リフトの機動力が使えないので、吾妻小舎までは、昨年までと比べて、3時間位、余計に歩かないと到達できない。ゲレンデ跡ではなく、夏道沿いにシールで登高することにする。

古いスキーツアーの標識が、樹木に食い込んでいる。家形ヒュッテというのは、1952年に開設され、1970年頃に雪崩で半壊、1974年には解体された山小屋らしい。このことから、1960年代の標識であろうと想像できる。約40年かけて樹木が成長して、このように標識が食い込んでしまったのだろう。

福島平野をバックに、ブッシュの鬱陶しい夏道をラッセルして進む。登山口で出会ったKO山荘の管理人さんの話によると、今年は極端に雪が少なく、例年の3分の1以下の積雪量とのことであった。

KO山荘分岐近くで見かけた、古いスキーツアーの標識。ニッポンビールと書いてある。サッポロビールのホームページによると、日本麦酒(ニッポンビール)から、サッポロビールへの社名変更が、1964年1月とのことなので、少なくとも43年以上昔に設置された標識だと思われる。ちなみに私の地図では「KO山荘」となっているが、新しい版だと「慶應吾妻山荘」と書いてあるようだ。私は、KOはノックアウトのことだったりしてと想像を膨らましていたが、どうやら慶応義塾大学の関係の山荘のようだ。

Co1750mで尾根に上がったところ。景色が良い。(写真は石橋兄)

五色沼北東Co1800mポコに上がると、立っているがやっとの強風。この強風ではここで撤退かとも考えたが、石橋兄が空身で、五色沼の北側まで偵察に行ってみたところ、強風はポコ周辺の局地的なものと判明。スキーを手で持って、風がないところまで、皆で降りて前進する。(写真は銭谷)

五色沼西側Co1780mで大休止。凍結した五色沼の左(北)には家形山(1880m)、右(南)には一切経山(1948.8m)が聳え立ち、なかなか美しい景色で、見ていて飽きない。

一切経山のコルへの登高中に、家形山や五色沼方面を振り返る。

一切経山のコル周辺は、視界がないとシビアな地形だ。

一切経山のコルにて記念撮影。本日の最高地点である(Co1900m)。ここからは、前大巓とのコル方面に回りこんでから、シールを外して酸ヶ平へスキー滑降。

酸ヶ平も、視界がないとシビアな地形だ。地図で現在地と吾妻小舎へのルートを確認し、メンバ同士でお互いに確認し合う。

酸ヶ平から浄土平への下り(前半)は、斜度もあり、スキーが快調だ。写真はテレマークの石橋兄。

酸ヶ平から浄土平への下り(後半)は、斜度が緩くなり、正面に吾妻小富士を見ながらのスキー滑降となる。写真は、吾妻小富士に向かって軽快なショートターンで滑る清原ババア。吾妻富士の右側の黒い台地(桶沼)の裏側が、本日の目的地の吾妻小舎だ。浄土平から桶沼の裏への回りこみは、再度シールをつけて歩いた。

吾妻小舎は、昨年までは冬でも週末は管理人の方が入っていたそうだが、今年から吾妻スキー場が営業を休止したことから、管理人の方は入らないとのこと。事前に連絡し、素泊まり4800円/人+燃料費は別途支払って、泊めさせてもらった。布団もあるので、装備はほとんど日帰り装備だ。夕食は、キムチ鍋とうどんを作って食べた。山で食うメシはうまい!

石炭ストーブなのだが、つけ方の要領が良くわからず、つくまでに相当苦労した。石橋兄が入部したときは、ヘルベチアヒュッテが「石炭ストーブ」だったそうだが、あとの3人が入部した時は、ヘルベチアヒュッテも空沼小屋も「蒔ストーブ」だったので、石炭ストーブをつけた経験がないのだ。十勝での冬合宿の白銀荘は石炭ストーブだったが、夜のストーブ番はしても、消えているストーブをつけたことはなかったと思う。

<2日目>
夜中から雪が降り続き、翌朝は40cm位、新たに積雪があった。ゾンデ棒での測定で、積雪240cm位。天気は雪。当初計画では、東吾妻山(1974.7m)へも行く予定であったが、悪天候なので断念。直接、高山(1804.8m)へ向かうことにする。高山はピークまで樹林帯なので、吹雪で視界がなくても、何とか乗っ越せるであろうと判断した。

悪天候(雪)の磐梯吾妻スカイラインを、ラッセルを交代しながら道路の最高点(鳥子平)まで進む。

鳥子平から高山への登り。ラッセルが深いので交代しながら頑張って登る。ピーク直下はブッシュが鬱陶しい。

吹雪の高山ピークにて。ピークには電波の反射板が設置されており、ちょっと興ざめ。とにかく風が強いので、シールをつけたまま、風の当たらないところまで南側に降りてから、休憩。

休憩していたら、外国人をリーダとする5人パーティが後ろからやってきた。西吾妻からテント泊3泊4日で縦走してきたという。この日は、我々のトレースを辿って来たという。バージンスノーをいただくために、休憩もそこそこに、我々は滑降を開始した。雪が深いが、傾斜があるところでは、なかなかパウダースキーを堪能できる。快感!

思っていたほどブッシュも鬱陶しくなく、快適なツリーランを楽しむ。ただ、後半は斜度が緩いため、先頭の人はスキーが滑らないので歩く必要があるが、2番目以降の人は、トレース上に立っているだけで、滑っていける。皆で、先頭を譲りあいながら、下る。そうこうしていると、5人パーティが追いついてきて、抜きつ抜かれつしながら下山する。

1024.7mのポコは北側を捲いて、夏道に乗る。この先の夏道は、林道のように大きく切り開かれているので、写真のように、スキーは快調だ。

林道は先頭の人は滑らないが、2番目以降の人はトレース上なら滑るという微妙な傾斜。5人組パーティも含めて、先頭を譲り合いながら下る。長い林道だ。途中、男沼を眺めながら休憩(写真)。

銭谷号に2人乗り、高湯の石橋兄号の回収に行ってもらう。その間、留守番の2人(清原、山森)で、地元福島出身の札幌の斎藤(1987入部)に電話して、土湯での、おすすめの温泉等を紹介してもらう。その結果、お決まりの温泉は、斎藤のいとこの家である「ニュー扇屋」。湯上りには、自家製の「森山の温泉卵」をごちそうになる。とてもおいしい。皆、お土産に「森山の温泉卵」を買って帰った。
(文責:山森 聡)
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OBの山行記録・ 2007年3月6日 (火)
湯ノ丸山(2101m)

●2007年1月28日(日)(1ー0)
【ルート】
地蔵峠→湯ノ丸山→旧鹿沢
【メンバ】
L:清原実(1986入部)、M:石橋岳志(1982入部)、山森聡(1986入部)

●2007年1月28日(日)(1ー0)
【ルート】
地蔵峠→湯ノ丸山→旧鹿沢
【メンバ】
L:清原実(1986入部)、M:石橋岳志(1982入部)、山森聡(1986入部)
【行程】
1月28日(日)(晴れ)地蔵峠:湯ノ丸スキー場リフト終点Co1840m(11:00)→湯ノ丸山2101m(12:00-15)→2098.5mポコ手前(南側)滑降点(12:20-30)→旧鹿沢スキー場ゲレンデ跡トップ(13:25)→鹿沢温泉(旧鹿沢)駐車場(14:00)
【地図】 (五万図)上田
【記録】

湯ノ丸スキー場のリフトは、たった100m登るだけで500円で、少々高い気がするが、リフトの機動力を活用しない手はない。湯ノ丸山へは、群馬県と長野県の県境の尾根を牧柵沿いにシール登高する。

湯ノ丸山ピークに到着した私(山森)。

山頂にいた人に、写真を撮ってもらう。左から、石橋兄、清原ババア、山森。

湯ノ丸山(2098.5m)から西側の烏帽子岳(2065.6m)を望む。

根子岳(ねこだけ)、四阿山(あずまやさん)方面を望む。四阿山は昨年1月中旬に行った際は、真っ白だったのに、今年はだいぶ黒い。やはり、昨年より相当に雪が少ないのだろう。

湯ノ丸山の北側のポコ手前から滑降開始。まずは山森が一番に飛び出した。

次に清原ババア。

そして石橋兄。

スキーが快調な斜面は、最初の数ターンで終わり。すぐに密林に突入した。ルートファインディングで失敗し、写真の樹林が一番上まで来ているあたりで、密林に突入してしまった。現役時代を含めた、いままでの山スキー経験で、一番不快調なブッシュスキーとなった。途中で、旧鹿沢スキー場のゲレンデ跡に出たが、雪が少ないのと、植林した潅木が成長したのとで、ブッシュが顔を出している斜面を滑ることになる。

旧鹿沢(下山口)から、地蔵峠(登山口)までは、ジャンケンで負けた人が、車道を歩いて車を回収に行く予定にしていたが、一緒に同じルートを下山したスノーボードのパーティの人の好意で、地蔵峠まで車に便乗させてもらって、車を回収してくる。お決まりの温泉は、旧鹿沢の紅葉館。温泉(\500-)とそば(\600-)のセットで、\1000-。

温泉(雲井乃湯)は、なかなか渋い。旧鹿沢温泉紅葉館は、「雪山讃歌」発祥の宿とのこと。昭和3年、西堀栄三郎(後の第一次南極越冬隊隊長)が京大山岳部の仲間と、吹雪で旧鹿沢温泉紅葉館に閉じ込められた際に、退屈しのぎに「雪山讃歌」を作詞したのだという。8年位前までは、鹿沢スキー場が営業していたとのことだが、スキー場が廃業してしまったので、訪れる人も少なく、まさに秘湯といった趣きだ。
(文責:山森 聡)
1月28日(日)(晴れ)地蔵峠:湯ノ丸スキー場リフト終点Co1840m(11:00)→湯ノ丸山2101m(12:00-15)→2098.5mポコ手前(南側)滑降点(12:20-30)→旧鹿沢スキー場ゲレンデ跡トップ(13:25)→鹿沢温泉(旧鹿沢)駐車場(14:00)
【地図】 (五万図)上田
【記録】

湯ノ丸スキー場のリフトは、たった100m登るだけで500円で、少々高い気がするが、リフトの機動力を活用しない手はない。湯ノ丸山へは、群馬県と長野県の県境の尾根を牧柵沿いにシール登高する。

湯ノ丸山ピークに到着した私(山森)。

山頂にいた人に、写真を撮ってもらう。左から、石橋兄、清原ババア、山森。

湯ノ丸山(2098.5m)から西側の烏帽子岳(2065.6m)を望む。

根子岳(ねこだけ)、四阿山(あずまやさん)方面を望む。四阿山は昨年1月中旬に行った際は、真っ白だったのに、今年はだいぶ黒い。やはり、昨年より相当に雪が少ないのだろう。

湯ノ丸山の北側のポコ手前から滑降開始。まずは山森が一番に飛び出した。

次に清原ババア。

そして石橋兄。

スキーが快調な斜面は、最初の数ターンで終わり。すぐに密林に突入した。ルートファインディングで失敗し、写真の樹林が一番上まで来ているあたりで、密林に突入してしまった。現役時代を含めた、いままでの山スキー経験で、一番不快調なブッシュスキーとなった。途中で、旧鹿沢スキー場のゲレンデ跡に出たが、雪が少ないのと、植林した潅木が成長したのとで、ブッシュが顔を出している斜面を滑ることになる。

旧鹿沢(下山口)から、地蔵峠(登山口)までは、ジャンケンで負けた人が、車道を歩いて車を回収に行く予定にしていたが、一緒に同じルートを下山したスノーボードのパーティの人の好意で、地蔵峠まで車に便乗させてもらって、車を回収してくる。お決まりの温泉は、旧鹿沢の紅葉館。温泉(\500-)とそば(\600-)のセットで、\1000-。

温泉(雲井乃湯)は、なかなか渋い。旧鹿沢温泉紅葉館は、「雪山讃歌」発祥の宿とのこと。昭和3年、西堀栄三郎(後の第一次南極越冬隊隊長)が京大山岳部の仲間と、吹雪で旧鹿沢温泉紅葉館に閉じ込められた際に、退屈しのぎに「雪山讃歌」を作詞したのだという。8年位前までは、鹿沢スキー場が営業していたとのことだが、スキー場が廃業してしまったので、訪れる人も少なく、まさに秘湯といった趣きだ。
(文責:山森 聡)
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OBの山行記録・ 2007年3月5日 (月)
● 2007年3月

【ルート】
天の川、上ノ沢林道より大沼経由往復
【メンバ】
米山悟(84年入部)、野入善史(95年入部)、松田圭史(水産WVOB)
【行 程】
3月3日:湯ノ岱温泉→温泉から6キロ車(9:15)→Co535イグルー(14:30)
3月4日:C1(6:00)→大沼(7:30)→七ッ岳(9:00-15)→C1(10:30-11:00)→林道の車(13:30)
七ッ岳は大千軒岳の北にある、独立した山塊。標高こそ1000mを切るが、小さいながら七つの独立峰の名主だ。晴れた日に函館方面から遠くに見え、素人さんならあれは大千軒か?と間違えるほど格好良い山である。ブナの巨木の下にイグルーで泊まった。

【ルート】
天の川、上ノ沢林道より大沼経由往復
【メンバ】
米山悟(84年入部)、野入善史(95年入部)、松田圭史(水産WVOB)
【行 程】
3月3日:湯ノ岱温泉→温泉から6キロ車(9:15)→Co535イグルー(14:30)
3月4日:C1(6:00)→大沼(7:30)→七ッ岳(9:00-15)→C1(10:30-11:00)→林道の車(13:30)
七ッ岳は大千軒岳の北にある、独立した山塊。標高こそ1000mを切るが、小さいながら七つの独立峰の名主だ。晴れた日に函館方面から遠くに見え、素人さんならあれは大千軒か?と間違えるほど格好良い山である。ブナの巨木の下にイグルーで泊まった。
【記録】
営林署の有料タケノコ園だったのに捜索騒ぎが多くて閉鎖された事で少し有名な、上ノ沢林道。湯ノ岱温泉からすぐに最終人家を過ぎ、どこまで車で行けるか走ったら、6キロ地点の沢の中で土木工事をしている現場があり、そこまでだった。ここから七ッ岳大沼まで、沢からゆるやかな尾根を延々15キロという気長な計画だ。
以前は林道歩きなんて楽しい山の前後にあるオツトメだと思っていたが、戦前の部報など読んでいると、林道の無い時代の、大きな川の渡渉や湿地や函を抜けていく苦労と楽しみを知り、それを追体験するのが面白く思うようになった。1日中林道歩きだが、林道が無ければもっと日数がかかる。夏に車で走ったらそれさえも思い至らない。
10キロ進んだ頃に緩い尾根に乗る。気温は6度くらいで暖かい。もう何日も雪が降っていないので根雪の表面は締まっていて、ほとんど潜らない。僕はここまでスキーを引っ張った。尾根に上がると山全体がほとんどブナだった。ブナの山は樹間が整っていて、清々しい。スキーするのにも丁度良い森になる。久しぶりの山で調子が出ないメンバーもいたので、Co530あたりでイグルーを作った。ブナ林の中から目指す七ッ岳を見る天場だ。三角に聳え、形のよい山だ。
林道をショートカットした小高い丘の上に、この山で見かけたブナの中で最も大きく立派な一本がある。その下にイグルーを作った。直径は1.5m以上、高さは18mあまり。広げた枝の幅が、これまた10m近い。イグルーどころか神社を祀りたい位だ。夜は枯れ木で焚き火する。焚き火はお湯がふんだんに出来るので、脱水症状にもよいし、安心して濃い酒を飲める。野入君が上等の酒を持ってきてくれた。この春就職が決まった松田君を祝った。雪の状態、気温などあわせて、4月の様だ。今年は厳冬期が無く、季節が一月進んでしまっている。
朝起きると霧の中だった。視界100m以下の中、小沼を経て大沼まで。このあたりでは林道はあまり林道らしくなく、緩やかなブナの林を行くようだ。霧の大沼の対岸に、七ッ岳直下の標高差100mの壁の足元が見える。最低コル目指して磁石で進み、基部からは時折の晴れ間でコルを確認して、急斜面を登る。前半スキー、後半シートラで稜線にあがり、そこでシーデポして山頂をツボ足で往復する。山頂では、霧の雲海に沈む七ッ岳大沼とブナ林、それに意外に遠くに大千軒岳連峰が真っ白く聳えていた。高曇りと雲海に挟まれ海も見えなかったが、この山が周囲の中で抜き出た孤峰であり、狭くて急斜面に囲まれた山頂が気持ちよかった。
直下の急斜面は落雪ブロックがごろごろしていてあまり突撃滑降出来なかったが、基部から下、C1超えてずいぶん下まではスキーにほどよい傾斜で、楽しく滑って来た。だいたいブナの生えているところはスキーが快調だ。林道をスイコスイコと漕いで下山。町営湯ノ岱温泉は値打ちものだった。広い浴場に高温中温低温の源泉があり、床は湯ノ花で無数の扇模様。しかも350円の低価格だ、泣ける。くつろぎ部屋の雰囲気も相当砕けている。お品書きも豊富だった。偶然にも、結氷の間宮海峡徒歩横断男とも出会ったりして。木古内のあおき食堂でカツ丼を掻ッ込み、海峡を見ながら函館へ。

以前は林道歩きなんて楽しい山の前後にあるオツトメだと思っていたが、戦前の部報など読んでいると、林道の無い時代の、大きな川の渡渉や湿地や函を抜けていく苦労と楽しみを知り、それを追体験するのが面白く思うようになった。1日中林道歩きだが、林道が無ければもっと日数がかかる。夏に車で走ったらそれさえも思い至らない。



直下の急斜面は落雪ブロックがごろごろしていてあまり突撃滑降出来なかったが、基部から下、C1超えてずいぶん下まではスキーにほどよい傾斜で、楽しく滑って来た。だいたいブナの生えているところはスキーが快調だ。林道をスイコスイコと漕いで下山。町営湯ノ岱温泉は値打ちものだった。広い浴場に高温中温低温の源泉があり、床は湯ノ花で無数の扇模様。しかも350円の低価格だ、泣ける。くつろぎ部屋の雰囲気も相当砕けている。お品書きも豊富だった。偶然にも、結氷の間宮海峡徒歩横断男とも出会ったりして。木古内のあおき食堂でカツ丼を掻ッ込み、海峡を見ながら函館へ。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2/26〜27
【ルート】空沼岳〜漁岳(2-0)
【メンバ】L:寺尾(3) AL平塚(3) M吉本(1)
春メイン準山3回目。
【ルート】空沼岳〜漁岳(2-0)
【メンバ】L:寺尾(3) AL平塚(3) M吉本(1)
春メイン準山3回目。
2/26〜27 空沼〜漁(2-0) L:寺尾 AL平塚 M吉本
<Time>
1日目 採石場11:00 空沼小屋13:00〜14:10 真簾沼(=C1)15:15
2日目 C1 5:45 空沼岳6:40 ・1157 8:00 漁岳10:10 Co900台地12:00 国道13:30
<Route>
1日目 快晴 夏道沿いに空沼小屋。そこから磁石をきって真簾沼にあてる。C1。焚火。
2日目 曇時々雪 1210東コルはセッピがでていたが、状態良く行けた。北西コルの方が良い。空沼岳で天気悪化傾向だったが、視界ほぼ∞だったので行けるところまで行く事にする。漁手前Co1240でガスっていたが行けると判断し乗越すことにする。樹林限界Co1240。ハイマツはピークまで出ている。肩手前でシートラ.東尾根Co1160ポコ手前でシートラ解除。後はCo990台地経由で林道にあてて下山。林道は地図よりもっと上まで伸びている。セッピは所々出ているが小さい。
<Party>
春メイン準山3回目。乗越した。
L:漁の下りで梃子摺った。
AL:もうちょっと主体的な判断を。地図なくす。
M:諸動作遅い。登りに弱い。シールワークもうちょっと。ナイフ、コンパス忘れ。
<Time>
1日目 採石場11:00 空沼小屋13:00〜14:10 真簾沼(=C1)15:15
2日目 C1 5:45 空沼岳6:40 ・1157 8:00 漁岳10:10 Co900台地12:00 国道13:30
<Route>
1日目 快晴 夏道沿いに空沼小屋。そこから磁石をきって真簾沼にあてる。C1。焚火。
2日目 曇時々雪 1210東コルはセッピがでていたが、状態良く行けた。北西コルの方が良い。空沼岳で天気悪化傾向だったが、視界ほぼ∞だったので行けるところまで行く事にする。漁手前Co1240でガスっていたが行けると判断し乗越すことにする。樹林限界Co1240。ハイマツはピークまで出ている。肩手前でシートラ.東尾根Co1160ポコ手前でシートラ解除。後はCo990台地経由で林道にあてて下山。林道は地図よりもっと上まで伸びている。セッピは所々出ているが小さい。
<Party>
春メイン準山3回目。乗越した。
L:漁の下りで梃子摺った。
AL:もうちょっと主体的な判断を。地図なくす。
M:諸動作遅い。登りに弱い。シールワークもうちょっと。ナイフ、コンパス忘れ。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2月22〜23日
【山】樽前山(2-0)
L寺尾(3) AL中島(4) M吉本(1)
春メイン準山2回目。
【山】樽前山(2-0)
L寺尾(3) AL中島(4) M吉本(1)
春メイン準山2回目。
<時間>
1日目 国道11:00 樽前北西鞍部15:00〜15:20 C1(小尾根下Co660)15:40
2日目 C1 6:00 鞍部6:20 樽前東峰8:00 ヒュッテ9:00 国道10:00
<ルート>
1日目 苔の洞門を行き、Co410で上に上がる。苔の洞門は岩も下を潜る所で1箇所ザック手渡し。鞍部へ行くが、穴が掘れなかったので小尾根下Co660に夏天で泊まる。小尾根下りはツボ足。視界:樹林限界より上視界50。小尾根の下りは判り難く梃子摺る。天気:晴れ→霧。風:気にならない。
2日目 低気圧が接近していたので風不死と994アタックをカットし、乗越す。外輪に上がった所でシートラ。ヒュッテからトレースがついていた。除雪ナシ。視界:ほぼ無限。天気:高曇り。風:気にならない。
<パーティ>春メイン準山2回目。シートラ乗越し出来た。飲みすぎた。
Ls:視界無いのにやりすぎた。
M:すべてが遅い。シートラ歩き出来た。
1日目 国道11:00 樽前北西鞍部15:00〜15:20 C1(小尾根下Co660)15:40
2日目 C1 6:00 鞍部6:20 樽前東峰8:00 ヒュッテ9:00 国道10:00
<ルート>
1日目 苔の洞門を行き、Co410で上に上がる。苔の洞門は岩も下を潜る所で1箇所ザック手渡し。鞍部へ行くが、穴が掘れなかったので小尾根下Co660に夏天で泊まる。小尾根下りはツボ足。視界:樹林限界より上視界50。小尾根の下りは判り難く梃子摺る。天気:晴れ→霧。風:気にならない。
2日目 低気圧が接近していたので風不死と994アタックをカットし、乗越す。外輪に上がった所でシートラ。ヒュッテからトレースがついていた。除雪ナシ。視界:ほぼ無限。天気:高曇り。風:気にならない。
<パーティ>春メイン準山2回目。シートラ乗越し出来た。飲みすぎた。
Ls:視界無いのにやりすぎた。
M:すべてが遅い。シートラ歩き出来た。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2月3、4日・△1071引き返し(2ー0)
【メンバ】L寺尾(3) AL平塚(3) M米田(1)、 吉本(1)
春メイン準山一回目。
【メンバ】L寺尾(3) AL平塚(3) M米田(1)、 吉本(1)
春メイン準山一回目。
【時間とルート】
2月3日:晴時々雪 車(12:00)〜渡渉終了(13:00)〜Co950=C1(15:40)
寝坊して札幌出発が遅れる。大滝学園から南東に伸びる道の曲がり角に車を停め入山。後で気づいたが、トクシュンベツ川右岸の民家奥にも林道が続いていて、それを利用すればもっと近くまで行けたようだ。雪が少なくトクシュンベツ川は渡れそうにない。Co380に堰堤があって、それを利用して渡渉する。渡渉時シートラ。堰堤から岸に出るところは進入禁止で、扉の周りに鉄針があって越えられないようにしてあった。もちろん無理やり越えたけど、ナスのザックだけ見事に串刺しになる。あはれ。牧場は白くて広く、視界がないと迷いそう。時間がないのでCo950付近に夏テン張ってC1。
2月4日:吹雪 C1(6:00)〜・1071北ポコ引き返し(7:00)〜車(11:00)
前線を伴った低気圧の接近で今日は荒れる予報。一応稜上まで行ってみるが、案の定吹雪で視界も微妙、風も強い。引き返す。Co900〜800の辺りは地図読みが難しかった。牧場は磁石切って突っ切る。堰堤を渡って車まで。
パーティ)春メイン準山一回目。パーティ確認できた、寝坊した
M 諸動作遅い、地図読みまだ 米田:下り頑張れ 吉本:ポカリくさい
AL:地図読み L:特になし
2月3日:晴時々雪 車(12:00)〜渡渉終了(13:00)〜Co950=C1(15:40)
寝坊して札幌出発が遅れる。大滝学園から南東に伸びる道の曲がり角に車を停め入山。後で気づいたが、トクシュンベツ川右岸の民家奥にも林道が続いていて、それを利用すればもっと近くまで行けたようだ。雪が少なくトクシュンベツ川は渡れそうにない。Co380に堰堤があって、それを利用して渡渉する。渡渉時シートラ。堰堤から岸に出るところは進入禁止で、扉の周りに鉄針があって越えられないようにしてあった。もちろん無理やり越えたけど、ナスのザックだけ見事に串刺しになる。あはれ。牧場は白くて広く、視界がないと迷いそう。時間がないのでCo950付近に夏テン張ってC1。
2月4日:吹雪 C1(6:00)〜・1071北ポコ引き返し(7:00)〜車(11:00)
前線を伴った低気圧の接近で今日は荒れる予報。一応稜上まで行ってみるが、案の定吹雪で視界も微妙、風も強い。引き返す。Co900〜800の辺りは地図読みが難しかった。牧場は磁石切って突っ切る。堰堤を渡って車まで。
パーティ)春メイン準山一回目。パーティ確認できた、寝坊した
M 諸動作遅い、地図読みまだ 米田:下り頑張れ 吉本:ポカリくさい
AL:地図読み L:特になし
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部報解説・ 2007年3月2日 (金)

5号後半は千島、樺太の山行記録が特徴。樺太の山は、ソ連国境(北緯50度線)近い地味な山だが、当時の辺境の様子がわかって面白い。
部報5号(1935年)後半分
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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