OBの山行記録・ 2007年3月5日 (月)
● 2007年3月
【ルート】
天の川、上ノ沢林道より大沼経由往復
【メンバ】
米山悟(84年入部)、野入善史(95年入部)、松田圭史(水産WVOB)
【行 程】
3月3日:湯ノ岱温泉→温泉から6キロ車(9:15)→Co535イグルー(14:30)
3月4日:C1(6:00)→大沼(7:30)→七ッ岳(9:00-15)→C1(10:30-11:00)→林道の車(13:30)
七ッ岳は大千軒岳の北にある、独立した山塊。標高こそ1000mを切るが、小さいながら七つの独立峰の名主だ。晴れた日に函館方面から遠くに見え、素人さんならあれは大千軒か?と間違えるほど格好良い山である。ブナの巨木の下にイグルーで泊まった。
【ルート】
天の川、上ノ沢林道より大沼経由往復
【メンバ】
米山悟(84年入部)、野入善史(95年入部)、松田圭史(水産WVOB)
【行 程】
3月3日:湯ノ岱温泉→温泉から6キロ車(9:15)→Co535イグルー(14:30)
3月4日:C1(6:00)→大沼(7:30)→七ッ岳(9:00-15)→C1(10:30-11:00)→林道の車(13:30)
七ッ岳は大千軒岳の北にある、独立した山塊。標高こそ1000mを切るが、小さいながら七つの独立峰の名主だ。晴れた日に函館方面から遠くに見え、素人さんならあれは大千軒か?と間違えるほど格好良い山である。ブナの巨木の下にイグルーで泊まった。
【記録】
営林署の有料タケノコ園だったのに捜索騒ぎが多くて閉鎖された事で少し有名な、上ノ沢林道。湯ノ岱温泉からすぐに最終人家を過ぎ、どこまで車で行けるか走ったら、6キロ地点の沢の中で土木工事をしている現場があり、そこまでだった。ここから七ッ岳大沼まで、沢からゆるやかな尾根を延々15キロという気長な計画だ。
以前は林道歩きなんて楽しい山の前後にあるオツトメだと思っていたが、戦前の部報など読んでいると、林道の無い時代の、大きな川の渡渉や湿地や函を抜けていく苦労と楽しみを知り、それを追体験するのが面白く思うようになった。1日中林道歩きだが、林道が無ければもっと日数がかかる。夏に車で走ったらそれさえも思い至らない。
10キロ進んだ頃に緩い尾根に乗る。気温は6度くらいで暖かい。もう何日も雪が降っていないので根雪の表面は締まっていて、ほとんど潜らない。僕はここまでスキーを引っ張った。尾根に上がると山全体がほとんどブナだった。ブナの山は樹間が整っていて、清々しい。スキーするのにも丁度良い森になる。久しぶりの山で調子が出ないメンバーもいたので、Co530あたりでイグルーを作った。ブナ林の中から目指す七ッ岳を見る天場だ。三角に聳え、形のよい山だ。
林道をショートカットした小高い丘の上に、この山で見かけたブナの中で最も大きく立派な一本がある。その下にイグルーを作った。直径は1.5m以上、高さは18mあまり。広げた枝の幅が、これまた10m近い。イグルーどころか神社を祀りたい位だ。夜は枯れ木で焚き火する。焚き火はお湯がふんだんに出来るので、脱水症状にもよいし、安心して濃い酒を飲める。野入君が上等の酒を持ってきてくれた。この春就職が決まった松田君を祝った。雪の状態、気温などあわせて、4月の様だ。今年は厳冬期が無く、季節が一月進んでしまっている。
朝起きると霧の中だった。視界100m以下の中、小沼を経て大沼まで。このあたりでは林道はあまり林道らしくなく、緩やかなブナの林を行くようだ。霧の大沼の対岸に、七ッ岳直下の標高差100mの壁の足元が見える。最低コル目指して磁石で進み、基部からは時折の晴れ間でコルを確認して、急斜面を登る。前半スキー、後半シートラで稜線にあがり、そこでシーデポして山頂をツボ足で往復する。山頂では、霧の雲海に沈む七ッ岳大沼とブナ林、それに意外に遠くに大千軒岳連峰が真っ白く聳えていた。高曇りと雲海に挟まれ海も見えなかったが、この山が周囲の中で抜き出た孤峰であり、狭くて急斜面に囲まれた山頂が気持ちよかった。
直下の急斜面は落雪ブロックがごろごろしていてあまり突撃滑降出来なかったが、基部から下、C1超えてずいぶん下まではスキーにほどよい傾斜で、楽しく滑って来た。だいたいブナの生えているところはスキーが快調だ。林道をスイコスイコと漕いで下山。町営湯ノ岱温泉は値打ちものだった。広い浴場に高温中温低温の源泉があり、床は湯ノ花で無数の扇模様。しかも350円の低価格だ、泣ける。くつろぎ部屋の雰囲気も相当砕けている。お品書きも豊富だった。偶然にも、結氷の間宮海峡徒歩横断男とも出会ったりして。木古内のあおき食堂でカツ丼を掻ッ込み、海峡を見ながら函館へ。
営林署の有料タケノコ園だったのに捜索騒ぎが多くて閉鎖された事で少し有名な、上ノ沢林道。湯ノ岱温泉からすぐに最終人家を過ぎ、どこまで車で行けるか走ったら、6キロ地点の沢の中で土木工事をしている現場があり、そこまでだった。ここから七ッ岳大沼まで、沢からゆるやかな尾根を延々15キロという気長な計画だ。
以前は林道歩きなんて楽しい山の前後にあるオツトメだと思っていたが、戦前の部報など読んでいると、林道の無い時代の、大きな川の渡渉や湿地や函を抜けていく苦労と楽しみを知り、それを追体験するのが面白く思うようになった。1日中林道歩きだが、林道が無ければもっと日数がかかる。夏に車で走ったらそれさえも思い至らない。
10キロ進んだ頃に緩い尾根に乗る。気温は6度くらいで暖かい。もう何日も雪が降っていないので根雪の表面は締まっていて、ほとんど潜らない。僕はここまでスキーを引っ張った。尾根に上がると山全体がほとんどブナだった。ブナの山は樹間が整っていて、清々しい。スキーするのにも丁度良い森になる。久しぶりの山で調子が出ないメンバーもいたので、Co530あたりでイグルーを作った。ブナ林の中から目指す七ッ岳を見る天場だ。三角に聳え、形のよい山だ。
林道をショートカットした小高い丘の上に、この山で見かけたブナの中で最も大きく立派な一本がある。その下にイグルーを作った。直径は1.5m以上、高さは18mあまり。広げた枝の幅が、これまた10m近い。イグルーどころか神社を祀りたい位だ。夜は枯れ木で焚き火する。焚き火はお湯がふんだんに出来るので、脱水症状にもよいし、安心して濃い酒を飲める。野入君が上等の酒を持ってきてくれた。この春就職が決まった松田君を祝った。雪の状態、気温などあわせて、4月の様だ。今年は厳冬期が無く、季節が一月進んでしまっている。
朝起きると霧の中だった。視界100m以下の中、小沼を経て大沼まで。このあたりでは林道はあまり林道らしくなく、緩やかなブナの林を行くようだ。霧の大沼の対岸に、七ッ岳直下の標高差100mの壁の足元が見える。最低コル目指して磁石で進み、基部からは時折の晴れ間でコルを確認して、急斜面を登る。前半スキー、後半シートラで稜線にあがり、そこでシーデポして山頂をツボ足で往復する。山頂では、霧の雲海に沈む七ッ岳大沼とブナ林、それに意外に遠くに大千軒岳連峰が真っ白く聳えていた。高曇りと雲海に挟まれ海も見えなかったが、この山が周囲の中で抜き出た孤峰であり、狭くて急斜面に囲まれた山頂が気持ちよかった。
直下の急斜面は落雪ブロックがごろごろしていてあまり突撃滑降出来なかったが、基部から下、C1超えてずいぶん下まではスキーにほどよい傾斜で、楽しく滑って来た。だいたいブナの生えているところはスキーが快調だ。林道をスイコスイコと漕いで下山。町営湯ノ岱温泉は値打ちものだった。広い浴場に高温中温低温の源泉があり、床は湯ノ花で無数の扇模様。しかも350円の低価格だ、泣ける。くつろぎ部屋の雰囲気も相当砕けている。お品書きも豊富だった。偶然にも、結氷の間宮海峡徒歩横断男とも出会ったりして。木古内のあおき食堂でカツ丼を掻ッ込み、海峡を見ながら函館へ。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2/26〜27
【ルート】空沼岳〜漁岳(2-0)
【メンバ】L:寺尾(3) AL平塚(3) M吉本(1)
春メイン準山3回目。
【ルート】空沼岳〜漁岳(2-0)
【メンバ】L:寺尾(3) AL平塚(3) M吉本(1)
春メイン準山3回目。
2/26〜27 空沼〜漁(2-0) L:寺尾 AL平塚 M吉本
<Time>
1日目 採石場11:00 空沼小屋13:00〜14:10 真簾沼(=C1)15:15
2日目 C1 5:45 空沼岳6:40 ・1157 8:00 漁岳10:10 Co900台地12:00 国道13:30
<Route>
1日目 快晴 夏道沿いに空沼小屋。そこから磁石をきって真簾沼にあてる。C1。焚火。
2日目 曇時々雪 1210東コルはセッピがでていたが、状態良く行けた。北西コルの方が良い。空沼岳で天気悪化傾向だったが、視界ほぼ∞だったので行けるところまで行く事にする。漁手前Co1240でガスっていたが行けると判断し乗越すことにする。樹林限界Co1240。ハイマツはピークまで出ている。肩手前でシートラ.東尾根Co1160ポコ手前でシートラ解除。後はCo990台地経由で林道にあてて下山。林道は地図よりもっと上まで伸びている。セッピは所々出ているが小さい。
<Party>
春メイン準山3回目。乗越した。
L:漁の下りで梃子摺った。
AL:もうちょっと主体的な判断を。地図なくす。
M:諸動作遅い。登りに弱い。シールワークもうちょっと。ナイフ、コンパス忘れ。
<Time>
1日目 採石場11:00 空沼小屋13:00〜14:10 真簾沼(=C1)15:15
2日目 C1 5:45 空沼岳6:40 ・1157 8:00 漁岳10:10 Co900台地12:00 国道13:30
<Route>
1日目 快晴 夏道沿いに空沼小屋。そこから磁石をきって真簾沼にあてる。C1。焚火。
2日目 曇時々雪 1210東コルはセッピがでていたが、状態良く行けた。北西コルの方が良い。空沼岳で天気悪化傾向だったが、視界ほぼ∞だったので行けるところまで行く事にする。漁手前Co1240でガスっていたが行けると判断し乗越すことにする。樹林限界Co1240。ハイマツはピークまで出ている。肩手前でシートラ.東尾根Co1160ポコ手前でシートラ解除。後はCo990台地経由で林道にあてて下山。林道は地図よりもっと上まで伸びている。セッピは所々出ているが小さい。
<Party>
春メイン準山3回目。乗越した。
L:漁の下りで梃子摺った。
AL:もうちょっと主体的な判断を。地図なくす。
M:諸動作遅い。登りに弱い。シールワークもうちょっと。ナイフ、コンパス忘れ。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2月22〜23日
【山】樽前山(2-0)
L寺尾(3) AL中島(4) M吉本(1)
春メイン準山2回目。
【山】樽前山(2-0)
L寺尾(3) AL中島(4) M吉本(1)
春メイン準山2回目。
<時間>
1日目 国道11:00 樽前北西鞍部15:00〜15:20 C1(小尾根下Co660)15:40
2日目 C1 6:00 鞍部6:20 樽前東峰8:00 ヒュッテ9:00 国道10:00
<ルート>
1日目 苔の洞門を行き、Co410で上に上がる。苔の洞門は岩も下を潜る所で1箇所ザック手渡し。鞍部へ行くが、穴が掘れなかったので小尾根下Co660に夏天で泊まる。小尾根下りはツボ足。視界:樹林限界より上視界50。小尾根の下りは判り難く梃子摺る。天気:晴れ→霧。風:気にならない。
2日目 低気圧が接近していたので風不死と994アタックをカットし、乗越す。外輪に上がった所でシートラ。ヒュッテからトレースがついていた。除雪ナシ。視界:ほぼ無限。天気:高曇り。風:気にならない。
<パーティ>春メイン準山2回目。シートラ乗越し出来た。飲みすぎた。
Ls:視界無いのにやりすぎた。
M:すべてが遅い。シートラ歩き出来た。
1日目 国道11:00 樽前北西鞍部15:00〜15:20 C1(小尾根下Co660)15:40
2日目 C1 6:00 鞍部6:20 樽前東峰8:00 ヒュッテ9:00 国道10:00
<ルート>
1日目 苔の洞門を行き、Co410で上に上がる。苔の洞門は岩も下を潜る所で1箇所ザック手渡し。鞍部へ行くが、穴が掘れなかったので小尾根下Co660に夏天で泊まる。小尾根下りはツボ足。視界:樹林限界より上視界50。小尾根の下りは判り難く梃子摺る。天気:晴れ→霧。風:気にならない。
2日目 低気圧が接近していたので風不死と994アタックをカットし、乗越す。外輪に上がった所でシートラ。ヒュッテからトレースがついていた。除雪ナシ。視界:ほぼ無限。天気:高曇り。風:気にならない。
<パーティ>春メイン準山2回目。シートラ乗越し出来た。飲みすぎた。
Ls:視界無いのにやりすぎた。
M:すべてが遅い。シートラ歩き出来た。
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現役の報告・ 2007年3月2日 (金)
【年月日】2007年2月3、4日・△1071引き返し(2ー0)
【メンバ】L寺尾(3) AL平塚(3) M米田(1)、 吉本(1)
春メイン準山一回目。
【メンバ】L寺尾(3) AL平塚(3) M米田(1)、 吉本(1)
春メイン準山一回目。
【時間とルート】
2月3日:晴時々雪 車(12:00)〜渡渉終了(13:00)〜Co950=C1(15:40)
寝坊して札幌出発が遅れる。大滝学園から南東に伸びる道の曲がり角に車を停め入山。後で気づいたが、トクシュンベツ川右岸の民家奥にも林道が続いていて、それを利用すればもっと近くまで行けたようだ。雪が少なくトクシュンベツ川は渡れそうにない。Co380に堰堤があって、それを利用して渡渉する。渡渉時シートラ。堰堤から岸に出るところは進入禁止で、扉の周りに鉄針があって越えられないようにしてあった。もちろん無理やり越えたけど、ナスのザックだけ見事に串刺しになる。あはれ。牧場は白くて広く、視界がないと迷いそう。時間がないのでCo950付近に夏テン張ってC1。
2月4日:吹雪 C1(6:00)〜・1071北ポコ引き返し(7:00)〜車(11:00)
前線を伴った低気圧の接近で今日は荒れる予報。一応稜上まで行ってみるが、案の定吹雪で視界も微妙、風も強い。引き返す。Co900〜800の辺りは地図読みが難しかった。牧場は磁石切って突っ切る。堰堤を渡って車まで。
パーティ)春メイン準山一回目。パーティ確認できた、寝坊した
M 諸動作遅い、地図読みまだ 米田:下り頑張れ 吉本:ポカリくさい
AL:地図読み L:特になし
2月3日:晴時々雪 車(12:00)〜渡渉終了(13:00)〜Co950=C1(15:40)
寝坊して札幌出発が遅れる。大滝学園から南東に伸びる道の曲がり角に車を停め入山。後で気づいたが、トクシュンベツ川右岸の民家奥にも林道が続いていて、それを利用すればもっと近くまで行けたようだ。雪が少なくトクシュンベツ川は渡れそうにない。Co380に堰堤があって、それを利用して渡渉する。渡渉時シートラ。堰堤から岸に出るところは進入禁止で、扉の周りに鉄針があって越えられないようにしてあった。もちろん無理やり越えたけど、ナスのザックだけ見事に串刺しになる。あはれ。牧場は白くて広く、視界がないと迷いそう。時間がないのでCo950付近に夏テン張ってC1。
2月4日:吹雪 C1(6:00)〜・1071北ポコ引き返し(7:00)〜車(11:00)
前線を伴った低気圧の接近で今日は荒れる予報。一応稜上まで行ってみるが、案の定吹雪で視界も微妙、風も強い。引き返す。Co900〜800の辺りは地図読みが難しかった。牧場は磁石切って突っ切る。堰堤を渡って車まで。
パーティ)春メイン準山一回目。パーティ確認できた、寝坊した
M 諸動作遅い、地図読みまだ 米田:下り頑張れ 吉本:ポカリくさい
AL:地図読み L:特になし
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部報解説・ 2007年3月2日 (金)
5号後半は千島、樺太の山行記録が特徴。樺太の山は、ソ連国境(北緯50度線)近い地味な山だが、当時の辺境の様子がわかって面白い。
部報5号(1935年)後半分
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。
● 北千島 初見一雄
1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。
アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。
尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。
樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。
このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。
●三月の石狩川 石橋恭一郎
1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。
ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」
●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」
やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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記事・消息・ 2007年2月28日 (水)
2月25日、宮井さん(81入部)が亡くなった。そのお通夜が小樽で2月27日あった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
会場にはその日の山の装備が置いてあった。ナダレヒモやAACHと書いた赤のデポ旗、自作デストロイヤーの目出帽、予備のハンガロン、細かく防水パックしたマッチろうそく、水線とコンタラインを書き込んだ地形図など、山岳部現役の基本そのままの個人装備を一つずつビニール袋でパッキングしてある。几帳面な性格を思い出した。僕が入部した春、この装備の意味を一つ一つ説明して揃える面倒を見てくれたのは宮井さんだった。
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
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記事・消息・ 2007年2月18日 (日)
1990年2月10日オロフレ山で雪庇を落として雪崩に埋まり遭難死した小松健の追悼で今年も6人集まった。
現場はオロフレ峠の自動車道から100mほど登った所。今年は米山,キンタ、ディック、シェイク、梶川、小ノムラだった。斎藤はインフルエンザで断念!天気がよかったのでいつもより長くウダウダしていた。酒をまいて、カメラーデンリートを歌った。小松も生きていれば子供ぐらいいるだろうか。今日のメンツは総じて晩婚組(あるいは晩年未婚)で、そのせいもあって現役時代と代わり映えのしない様子だった。トシに一度しか集まらないのに相変わらず別れ際はさっぱりしたものだ。
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現役の報告・ 2007年2月16日 (金)
【月 日】2/10〜12(3-0)
【ルート】十勝三股→石狩岳→十石峠→十勝三股
【メンバ】L:勝亦浩希(4) AL:平塚雄太(3)
【ルート】十勝三股→石狩岳→十石峠→十勝三股
【メンバ】L:勝亦浩希(4) AL:平塚雄太(3)
<時間とルート>
●1日目 十勝三股(6:40)ー岩間温泉(10:40-11:30)ー・1578(15:20)=Ω1
晴れ。十勝三股のバス停でC0。林道を行き、岩間温泉で足湯。1578東尾根への渡渉はスノーブリッジ。1578付近でイグルーC1。
●2日目 Ω1(6:30)ーJP手前Co1760付近=Ω2(9:20)
曇り時々雪。・1488付近からシーズリつぼ時々スキー。Co1700に上がったところにデポ旗打ち捨て。少し行ってシートラEP。時間が多めにかかったことと、天気が微妙だったことからのっこしはやめることにする。JP手前Co1760付近で雪洞を掘ってΩ2。
●3日目 Ω2(6:15)ー石狩岳南峰(8:30)ーシュナイダー頭(9:10)ー音更山(10:30)十石峠(12:40)ー十勝三股(16:30)
曇り時々雪。気になる風。JPへの登りは局地風。石狩南峰からは少し西側を下って岩交じりのトラバース。音更山東コル手前からスキー。十石峠からのくだりは南東尾根を下り、途中から南にきって林道に当てる。スキー快調。
<パーティ>
よく歩いた。
●1日目 十勝三股(6:40)ー岩間温泉(10:40-11:30)ー・1578(15:20)=Ω1
晴れ。十勝三股のバス停でC0。林道を行き、岩間温泉で足湯。1578東尾根への渡渉はスノーブリッジ。1578付近でイグルーC1。
●2日目 Ω1(6:30)ーJP手前Co1760付近=Ω2(9:20)
曇り時々雪。・1488付近からシーズリつぼ時々スキー。Co1700に上がったところにデポ旗打ち捨て。少し行ってシートラEP。時間が多めにかかったことと、天気が微妙だったことからのっこしはやめることにする。JP手前Co1760付近で雪洞を掘ってΩ2。
●3日目 Ω2(6:15)ー石狩岳南峰(8:30)ーシュナイダー頭(9:10)ー音更山(10:30)十石峠(12:40)ー十勝三股(16:30)
曇り時々雪。気になる風。JPへの登りは局地風。石狩南峰からは少し西側を下って岩交じりのトラバース。音更山東コル手前からスキー。十石峠からのくだりは南東尾根を下り、途中から南にきって林道に当てる。スキー快調。
<パーティ>
よく歩いた。
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部報解説・ 2007年2月14日 (水)
積雪期の札内川からのアタック山行、夏のペテガリ周辺渓谷探査の当時最先端の記録。ヒマラヤを見据えた極地法研究が、他大学山岳部では始まっている頃。石狩岳でやってみようかなどとも書いてあるが、全体には北大は今と変わらぬ、少人数軽量長旅アタック山行が主流である。
部報5号(1935年)前半分
●一月の石狩連峰 徳永正雄
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
● ペンケヌシ岳 西村 正
【総評】
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。
【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。
●一月の石狩連峰 徳永正雄
1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。
「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。
今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」
音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。
● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫
吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」
● 一月の札内川上流 照井孝太郎
1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。
コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。
股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。
小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。
カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」
その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。
コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。
39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。
この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。
その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。
● ペテガリ岳 石橋恭一郎
この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。
1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。
・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。
三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。
山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」
このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」
慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。
● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。
● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。
西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」
パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。
下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。
以下、後半分は次回です。
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点
(解説前編/後編)
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