部報4号の後半の目玉はなんといっても中部日高、中ノ川の谷と冬の稜線への踏査。遠き山、ペテガリはまだはるかに望むばかりだ。秀峰1839峰への積雪期アタック初記録もある。
【
部報4号(1933年)前編の続き】
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
● 神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
● 日高山脈登山年譜 徳永正雄
● アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
● 高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
● 雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
・一八三九米峰 石橋正夫
部報4号(1933年)後半
● 札内嶽よりカムイエクウチカウシ山に到る山稜縦走及び十勝ポロシリ岳 石橋正夫
1932年7月、トッタベツ川入山、札内岳からカムエクまでの十日間の稜線記録。その後8の沢を降り、スマクネンベツ川から十勝幌尻岳超えてオピリネップ沢を降りる。
エサオマンからカムエク北のコルまでの山稜はこれまで未踏。かなりひどいハイマツの部分もあったが、何より当てにしていた雪渓が無く、水に困った。
「九ノ澤上流の瘤につく。此の東北斜面は緩斜面で、相當の殘雪と平地がある。此處はエサオマントツタベツ嶽とカムイエクウチカウシ山との間では、キャンプ地として最良の處だ。こゝで二日振りで飯を焚いて喰つた。それは長い間の尾根の歩きにもかゝはらず、米の代りに干飯を持ち、少量しかパンを持つて行かず、春からの天候不良の爲、殘雪の多い事を期待して出掛けたが案に相違して飯が焚けず、前日でパンを喰ひつくした事による。」日高稜線の藪こぎ覚悟の山行ながら、記録無し、人跡無しの魅力が彼らを誘う。
● 元浦川―中ノ岳―中ノ川 本野正一
1933年7月10日-22日3人+人夫1、初めてのベッピリガイ沢遡行、中ノ岳登頂、中ノ川北東面沢下降記録。夏期の中部日高はこれまで、部報3号で中ノ川の遡行を断念して帰る記録がある。まだまだザイルを持って岩登りして登るというセンスではなく、懸垂下降もせず捲きルートを探す通過方法なので、中ノ川などは未踏のままである。今回も中ノ岳北東面沢を大変な苦労をしてノーザイルで下り、途中ビバークで一泊している。だが、着実に未踏の沢を踏破していく。中ノ岳登頂は部報では初記録。やはりみんなの憧れは美しいペテガリにあり、なんとかアプローチできないかとルートを検討している。遠い山だったのだ。今回も計画ではペテガリへの稜線の往復を考えていたが無理と判断している。
静内川水系のベッピリガイ沢へのアプローチは隣の元浦川からピリガイ山を乗っ越して行く。今はダムの底の静内川中流域の通過が困難なためである。ベッピリガイ沢のキャンプ地での記述
「恐らくは登山者も、漁りを生業にしてゐるアイヌも、絶えて訪れた事のないであらう、コイカクシユシビチヤリ川の上流に入り込んでゐるのだ。幾重にも重なり合つて日高の其等の澤を包んでゐる山々、身動きする毎に大きな反響を起こしさうな程、靜まり返つてゐる日高の山々よ。僕達は憧れてゐた南日高の山懷に抱かれる事が出來たのだ。何がなしに涙の出るやうな感傷と、明日からの戰ひに對する新しいファイティングの湧くのを感じた」。当時、コイカクシュシピチャリ川という名称があった。ベッピリガイ沢の下流である。今はもう無い名だ。
函の通過に
「・・・オーバーハングで登行不能となつたので卷くのを斷念して戻る。こんな事をしてゐる中に一時間半を費やした。筏を組まうとしたが、適當な材が見當たらない。凾の終はりが見透せるので、遂に泳いで渡ることにした。米などすつかりルックにしまひ込み、ルックを背負つたまゝ泳ぎ出す。」というのはいささかショックだ。泳ぐより先に筏という選択肢?当時はまだビニール袋が無かった。防水は油紙(油を和紙に染み込ませた物)のみ。米を濡らしてはまずかろう。このパーティーは稜線でのキャンプに水を運ぶため、ゴムの水枕を持って行ってこれがすこぶる快調だったとある。当時としては、なかなかのアイディアだと思う。
●神威嶽と中ノ川(ルートルオマップ川) 中野征紀
1933年2月、中ノ川遡行ソエマツ岳の北国境尾根往復の記録と1933年8月、中ノ川から神威岳の北東面沢からの登頂記録。遂に中ノ川左半分の様子が明らかになる。地図の間違いが多いとのことで独自の地図を示し、細かく符号を付けて解説している。
冬季記録2月5日から12日までは中ノ川を遡行し、神威ソエマツ間の1440峰北面のルンゼから南側の尾根に取り付いて1440に登り、引き返している。登っているのが神威岳でなくてすっかり落胆したとある。この季節に谷の中を歩く山行を今はもうしないが、結構奥までスキーでいけるものだ。同年8月はやはり10日をかけて中ノ川の神威岳北東面沢をアタック。ただし最後の核心は行けず、1440経由で稜線に上がり神威岳をアタックした。これにより中ノ川上流の様子を解明した。日高側に比べ十勝川の川の名にはアイヌ名が少ない、中ノ川のアイヌ名は「ルートルオマップ」であると書いてある。今もこの名を知る人は知るが、定着することは無かった。三股までは砂金取りや釣りの和人が多く出入りしたためだろう。
●日高山脈登山年譜 徳永正雄
1923年芽室川から芽室岳を往復した山岳部の前身、恵迪寮旅行部のち山岳部メンバーによる記録を日高の純登山初記録として、以下1933年8月までの日高の全記録。丁度10年ながら、日高の未踏山域は着実に踏破されていく。この時代に山岳部員だった人達の幸運をただ羨むのみ。
●アイスピッケルとシュタイクアイゼンの材質に就て 和久田弘一
おそらく工学部金属学科と思われる筆者による非常に専門的な低温下で使うピッケルアイゼンの組成について論じた小文。門外漢には殆ど意味不明だが、おもしろいのは鍛造の仕方を細かく書いてあるところ。当時、アイゼンピッケルは鍛冶屋に鍛造してもらったようなのだ。
「アイゼンの製作中特別に注意すべき事は、火造り温度と、火造り後燒入れを行ふ前の燒なましである。何しろ一本の丸棒から之れを製作するのであるから、火造り後内部に不均衡な力が存在してをり・・・・」という具合。見れば巻末の広告欄には「PICKEL UND STEIG EISEN KADOTA SAPPORO MINAMI 1,NISHI11」などというおしゃれな広告もある。鍛冶屋に注文して鍛造していたのだ。私も数年前、国内最後のピッケル鍛冶の二村さん(愛知県豊田市)に鍛造してもらった。一本の丸棒からみるみるピッケルの頭が出来上がっていくのを見学させてもらった。このような装備に関する学術的考察研究の章は部報4号が最初だ。
●高山に於ける風土馴化作用と酸素吸入に就て 金光正次
続いて高所生理学に関する学術的考察の章。1933年当時、まだ日本でヒマラヤの高峰に出掛けていた登山隊は無い。1931年京大山岳部はカブルー遠征の準備をしたが頓挫。先鞭は1936年の立教大山岳部のナンダ・コートだ。
1924年マロリー、アーヴィン行方不明のエベレスト隊、1931パウル・バウアーのカンチェンジュンガ隊も未遂に終わっている。が、これらの報告書を読み、8000mでの高所生理を解説し、最新鋭の酸素吸入器の検討をしている。にもかかわらず、具体的なヒマラヤ高峰への憧憬一つとして書き留めていない。当時のAACHのヒマラヤ観はまだまだ現実感が薄かったのだろうか。たぶん日高の未踏の山河の方に夢中だったのだろう。
●雪の日高山脈雑抄
・一月の戸蔦別川 金光正次
1933年正月山行の戸蔦別川から幌尻、エサオマン、ピパイロアタック計画の随想。天候に恵まれず、戸蔦別岳のアタックのみで帰っている。1929年の幌尻冬季初登山行の時のほとんど壊れかけていた小屋を使う。記録に依れば既にOBの坂本直行氏も参加している。連日の焚き火で無心になったり月光の林を見詰めたりと、今も変わらぬ「焚火トリップ」をしている。
「月の光で見る景色は幻想的なものだ。榛の木の淡い影、針葉樹の黒々と横たはる太い影の織合ふ中に雪の面は薄緑の螢光を發してゐるが木立の中には墨を流したやうな闇が漂つてぢつと見詰めてゐるとその中に引き込まれさうな不氣味さを感ずる。無心に焚火を弄るもの、呑みかけの紅茶の椀を手に、ゆらめく焔を見詰めてゐるもの、皆それぞれの想ひを過去の追憶に、現實に、或いは奔放な幻想の世界に馳せてゐるのであらふ。瞑想の谷間は月光を浴びて夢想者の彷徨を限りなく誘つて行つた。」・一八三九米峰 石橋正夫
1933年3月中旬、コイカクの尾根から登って39アタックの記録。これだけ格好良い山だが部報で初登場。やはり中部日高は遠かったのだろう。当時はコイカクシュサツナイ岳(沢)をコイボクサツナイ岳(沢)と呼んでいる。コイカク〜ヤオロ間のバリズボを苦労して抜け、スキーを持ち上げる考察などを記している。残念ながらヤオロマップから39間の左右に出る雪庇を踏み抜き、転落、引き返している。
「鞍部の最低部から一八三九米峰の一つ手前の瘤との間は地圖に記してある以上に痩せ且つ雪庇が斷片的に山稜の左右に交互して出てゐた。先頭は既に稜の右側の雪庇の上を通つて次に左側に出てゐる雪庇の方へ移つて了つてゐた。二番が右側の雪庇から稜へ渡らうとした時その雪庇が切れ、空中に投げ飛ばされ、もうもう立ち上る雪煙のあとから表層雪崩に乘つて、ころがり落ちて行つた。二百米も流れてから流れの外側になげ出された。雪崩はなほも下へゝとうねりつゝ流れて行つた。けれども幸ひなことには帽子と眼鏡を失つた位で別に負傷はしなかつた。落ちた方は助かつてしまへば今の事件が遠い夢の如く思はれたが、落ちなかつた者にとつて同じ状態にある幾つかの雪庇をさけて行く事は非常な心配があつたらう。友はこれ以上進むことに反對した。」部報初の重大事故記録だが。この日は気温が高く、また雪庇に対する認識も甘かったとしている。
「一つの谷のしほれたテントの中で疲勞が焦燥と歸心ともつれ合つてゐた。――その中で一人は家に歸つた夢を見てゐた。もう一人は物凄く搖れるメリーゴーランドに乘つた夢を見て居た。外では夜霧が氷結して種々竒怪な形になつて谷を埋めて居た。」年報(1931/10ー1933/10)
写真九点、スケッチ五点、地図6点
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部報4号(1933年)前編へ続く】
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【月 日】12/27〜1/3(7-1)
【ルート】静内ダム〜シビチャリ山〜1839南西稜〜1839峰〜ヤオロマップ⇔1823峰アタック〜コイカク〜夏尾根
【メンバ】L:澤田拓郎(3) AL:寺尾祐信(3) M:平塚雄太(3)
冬メイン3年班、無事貫徹!
(写真・23よりカムエク)
(1)12月27日 雨→小雨〔L通過〕
静内ダム(10:15)〜高見ダム(13:30-14:30)〜高見橋分岐(18:10)=C1
静内ダムにゲートがあり、そこにC0。朝方雨が強く、雨が弱まるのを待って出発。林道は除雪が入っている。雪も少ない。工事関係者や北電の車が出入りしていて、運が良ければ乗せてもらえるかも。途中ALが足の痛みを訴え、高見橋分岐でC1.
(2)12月28日 曇→晴〔冬型〕
C1(6:30)〜サッシビチャリ沢川出合(10:45-11:00)〜・741先コル=C2(13:20)
林道をサッシビチャリ沢川出合まで行き、そこからブル道使って・741先コルまで。ブル道はこの辺は錯綜気味にあちこちあるが、崩壊している箇所もある。崩壊している箇所は軽くまけて問題ない。ALの足の痛みがひどくなり、その日は・741先コルまでにして泊まる。
(
(3)12月29日 快晴(少し風あり)〔冬型〕
C2(6:30)〜Co.920ポコ(7:30)〜Co.1340付近=C3(11:30)
稜上行きシビチャリ手前Co.1340まで。Co.1200〜1300は岩がうっとうしいが問題ない。
(写真/朝焼け萌ゆるペテガリ)
(4)12月30日 快晴(シビチャリから先少し風あり)〔冬型緩み〕
C3(6:45)〜シビチャリ(9:00)〜・1742JP東コル=Ω4(12:00)
稜上を・1742東コルまで。・1742手前コルまでブッシュがうっとうしい。・1742先は細くなっている所もある。コルでイグルー作ってΩ4。今年は雪が少なくブッシュが出てきたが、3人用ぐらいのイグルーなら何とか作れた。(写真・シビチャリ手前から1839峰)
(5)12月31日 快晴(ヤオロ辺りから先風強し)〔高気圧圏内〕
Ω4(7:00)〜39(9:00)〜ニセヤオロ(12:30)〜コイカク(16:10)〜夏尾根上Co.1340=C5(17:10)
Ω4から先にも細い所あり。39ピークでALに「足の痛みは大丈夫か」と聞いて「大丈夫」という答えだったのでのっこしをかけることにする。39からの下り1ヶ所BS。その後細い所やセッピあり。バリズボでうっとうしい。ニセヤオロからスノーシューも使える。ヤオロ〜コイカクで風強くなる。ヤオロから先、ALが足の痛みで遅れ気味だった。コイカク周辺にΩ掘るという計画だったが、最近の気象条件から風下斜面に入ると危ない(雪崩)と考えやめる。夏尾根を下ってCo1340付近を頑張って整地してC5。途中藪との戦いでMのストックが無残な姿になる。
写真・1839峰山頂)
(6)1月1日 晴(風強し)→曇→夜間雪〔圏内→気圧の谷通過〕
C5(6:30)〜Co1580(7:30-8:10)〜C5=C6(8:30)
足の痛いALは天場に残って、L、Mの2人で23At.を試みる。夏尾根をCo1580まで行き少し時間待ちするが、風強く引き返し。夜には雪が降った。
(7)1月2日 ガス→ガスが徐々に晴れてきて昼頃から快晴〔弱い冬型〕
C6(7:15)〜コイカク(8:30)〜23(12:00-15)〜コイカク(15:00)〜C6=C7(15:30)
朝方風強く出発遅らせる。夏尾根ルート上にLがうん○をデポし、朝から萎える。他パーティも通るのに。コイカク岩稜手前で視界2〜300だったが、尾根が確認できたので行く。コイカク岩稜は日高側をまくなどで対処、問題ない。・1643付近は所々細い。・1643下りでBS。・1643〜1823はセッピがちょろちょろ出ている。大きくなると判断が難しそうだった。帰りは来た道。
(写真・1823峰山頂直下)
(8)1月3日 快晴〔圏内〕
C7(6:30)〜夏尾根末端(8:00)〜札内ダム=車(10:20)
他パーティのトレースがあり、それを辿ってさくさく下山。コイカクシュ札内川は渡渉4,5回。函は左岸と右岸まき、堰堤は左岸を捲く。札内ダムには立派な管理所があって、管理人が正月も常駐していた。そこから人里までの交通手段は無いけど、最終人家にはなり得る。
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山わたる風
伊藤健次
2006.7.21
A5版1800円
山スキー部OB、同世代の写真家伊藤健次の写真文集。2002〜2004年、朝日新聞(北海道版)で連載していたものの再編集とのこと。本人からの年賀状で推薦してあったので買った。
写真の動物たちがどれも表情を持っている。木の穴の中であくびするテン、降る雪を見上げるエゾシカ、草の茎を振り回すリス、広い風景の中のエゾシカの群れにさえ表情がある。こういう絵はなかなか撮れる物ではない。山を登る技術あっての過ごす時間であり、過ごした時間あっての写真だと思う。
デルスゥ、劉連仁・・・。北海道の天然に身を置けば連想する人への感傷も共感できる。
画と写真の違いはあるが、串田孫一、上田哲農を思い起こす間があると思う。同世代の写真家が北海道の天然をテーマに良い画文集を出したのがうれしい。この10数年、僕が寄り道ばかりしている間に伊藤健次は確かな経験を積んで確かな言葉を手に入れたと思った。
同世代といえば、恵迪寮で同じ部屋だった佐川光晴が今回も芥川賞を逃した。賞は逃しても小説がおもしろければそれで良いけれど。
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『北海道中央分水嶺踏査記録〜宗谷岬から白神岬まで〜』
発行:日本山岳会北海道支部
2006.10.14
A5版188ページ/1000円
昨年貫徹した、日本山岳会の日本列島中央分水嶺踏破計画というのがあった。その一環、北海道支部の2004年から2006年にかけて2年半の記録集。宗谷岬から白神岬まで約1130km。201回の山行、延べ968人を掛けて繋いだ。編集代表の高澤光雄氏に部報14号の返礼に頂いた。
道のない部分がほとんどなので、冬季と残雪季が稼ぎどころだ。この割合も、踏破距離も北海道が全国でダントツらしい。当然ながらマイナーな稜線の貴重な記録が山盛りである。一回あたりの山行人数は一人の区間もあり20人近くの区間もある。メンバーをみると中心実働メンバーは10人前後。山行日数は長くて4日、殆どは日帰りか一泊でコツコツ繋げた。なるべく沢山の人が参加する趣旨なので、長期の計画で一気に稼げなかったという。
日本山岳会といえば近年は実際に山に登らぬサロン的印象が強かった。それは若手がいないからである。にもかかわらずこれだけの快挙を挙げているのは、長く山行経験を積んだメンバーが豊富な為であろう。このテーマは一見地味だが玄人向きでやりがいあるおもしろいテーマだということが、文章を読めばわかる。当人達の達成感はさぞや大きい物だろうと思う。経験豊かな熟年メンバーだからこそ価値を知り、貫徹できる良い課題を見つけた物だと思う。
これだけの大作戦なのだから、もっと若い世代も巻き込んでできれば良かったと思う。しかしそもそも今や広い世代を抱える山登り集団自体が存在しないのではあるが。日本山岳会がこれからどうなっていくべきなのか少し考えた。「最も伝統あるただの一山岳会」で居続けられるのは、今回の主力メンバーの世代で最後ではなかろうか。今後はフランス山岳会やドイツ山岳会のように、より公共性の強い、すべての登山者の為になる、日本を代表する山岳組織の役割を担う事を期待している。その意味で他団体の投稿など緩やかな参加を認めた「きりぎりす」を発行している日本山岳会青年部の活動に注目している。
以前から宗谷岬〜襟裳岬の踏破をライフワークにしていた日本山岳会北海道支部長にしてルームOBの新妻徹氏(1950年入部)自身が今回、率先して結構な区間を繋いでいる。日本山岳会北海道支部が北大山の会のように名実ともに「実際に山に登らぬサロン」となっていないのは、新妻氏のようにマジな山をやめない熟年登山者実働部隊がいるからこそであろう。
初踏査や顕著な記録などの歴史も盛り込んで全域を解説した高澤光雄氏によるパート、今は現役を退いた先達の、回想を含む寄稿文なども随所に添えて(野田四郎OB〈1947年入部〉の十勝大雪冬季初縦走回想もある)、単なる報告書以上のおもしろい本になっている。今後はオホーツク/太平洋の分水嶺、樺太の分水嶺も視野に入れているとか。期待している。
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●2007年1月8日(月・祝)(1ー0)
【ルート】
乗鞍高原温泉スキー場=位ヶ原の手前Co2270m付近
※当初計画では、乗鞍岳(3025.6m)をアタック予定であったが、悪天候のため、樹林限界手前で引返し。
【メンバ】
L:山森聡(86入部)、M:石橋岳志(82入部)、清原実(86入部)
【行程】
1月8日(月・祝)(雪)乗鞍高原温泉スキー場リフト終点Co2000m(10:50)→Co2150m付近(11:40-50)→位ヶ原の手前Co2270m付近(12:30-13:00)→リフト終点Co2000m(13:15)→スキー場駐車場Co1550m(13:30)
【地図】(五万図)乗鞍岳
【記録】
1月でも比較的天気が良いという北アルプス最南端の乗鞍岳(3025.6m)へのスキー山行を計画した。前日(1/7)の昼過ぎに東京を出発し、長野県東筑摩郡山形村の清原ババアの実家でC0(シーゼロ)。この日は大雪のため中央道は小淵沢ICから先が通行止。そこから一般道(国道20号)で行ったので、到着が予定より大幅に遅れた。それにもかかわらず、農家の清原家では自家製のごちそう三昧で、感謝。暖かい布団でぐっすり眠る。
翌朝(1/8)も、冬型の気圧配置ではあるが、山形村は曇りで、時折、青空も見える。期待を高めつつ出発するが、山が近づくにつれ、残念ながら雪模様。そこで、悪天時の樹林帯の予備ルートとして計画していた「安房山(2219.4m)」の登山口である「中の湯温泉」に向かう。しかし、国道から中の湯温泉への分岐口のゲートに旅館のおじさんがいて、宿泊者以外は通せないし、付近に駐車もできないという。仕方がないので、安房山は断念し、乗鞍岳の樹林限界手前引返しで、行ける所まで行くことにする。
乗鞍高原温泉スキー場駐車場(Co2000m)からは、リフト3本を乗り継いでCo2500mまで上がる予定であったが、最上部のリフトは大雪のため昨日から運休中であるという。仕方がないので、3本目のリフト横は歩いて登ることにし、1回券(300円)を2枚購入し、リフトに乗る。
2本目のリフトを降りると、運休中だった最上部のリフトが動き出した。その場でリフト代を現金で払いCo2500mへ。まずは1本、すばらしいパウダーが手付かずで残っているゲレンデを、空身で1本滑る。浮力を感じながら、小回りで気持ち良く滑りおりることができた。
安房山へ行こうとしたり、ゲレンデのパウダーを1本滑ったりしていたので、3本目のリフト終点(Co2500m)を出発したのは10:50と遅くなった。天気は雪。気温は-8℃。5分ほど先に、男女の2人パーティが出発。そのパーティとラッセルと交代しつつ、シール登高する。リフト終点から上部も、タンネが切り開かれてスキーコースになっている。北海道・十勝の、リフトのない「国設三段山スキー場」と同じような感じである。Co2150m付近での休憩時に、ゾンデ棒で積雪量を測定したところ、230cmであった。
スキーを履いてのラッセルは、平均すれば膝位であったが、深いところでは腰までもぐった(写真)。こんなにラッセルが深くては、仮に晴天だったとしても、日帰りでは、とても乗鞍岳ピークまでは届かないだろう。悪天候(雪)なので、かえって、(途中引返しの)あきらめがついた。男女の2人パーティの方は、我々より先に、引返して下山したようだ。
タンネの背丈も低くなってきて風が当たり出した。また、ラッセルが深いわりには緩い傾斜がしばらく続きそうなので、もう少し頑張って歩いても、それに見合う下りのスキーが期待できそうもない。そこで、Co2270m付近で引返すことにする。気温は-10℃で、あいかわらず雪が降り続いている。写真は、テルモスの熱いお茶を飲む私(山森)。
清原家では、筑摩地方に伝わる「こおりもち」を、行動食として差し入れしていただいた。これは、つきたての餅を水につけて、2〜3ヶ月間、冬の軒先につるして乾燥させてつくる保存食だそうだ。写真は、熱いお茶を飲みながら「こおりもち」をほおばる石橋兄。
シールを外して、兼用靴を滑降モードにして、スキーゴーグルを着用して、いざ出発。「深雪パウダーをいただき!」と、意気込んで、真っ先に飛び出してみたものの、雪が深く傾斜が緩いので、直滑降でも滑らない。結局、傾斜が緩いところでは、登りのトレースを直滑降で滑るしかない。しかし、傾斜があるところでは、各自、思い思いにターンを刻んだ。
石橋兄は、優雅にテレマークターン。
清原ババアは、華麗にパラレルターン小回り(ショートターン)。
私(山森)も、なんとかパラレルターン小回り(ショートターン)のつもり。
お決まりの温泉は、スキー場近くの「湯けむり館」。日帰り入浴700円。露天風呂もあって、なかなか良い雰囲気だった。帰りも山形村の清原実家に立ち寄り、野沢菜や餅など、清原家で収穫した作物をおみやげにもらって、中央道で帰宅。一般道で雪道を来た往路がウソのように、復路は渋滞もなく、高速で、あっと言う間に東京に着いた。
この3人は、登り(現役時代より体力が衰えたので遅い)、下り(現役時代よりスキー技術が上達したので早い)ともに足がそろっていて、山行の指向も合っているので、山スキーのパートナーとして最高のメンバである。今シーズンは、このメンバを中心に活動予定。楽しみだ。
(文責:
山森 聡)
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七本のマッチ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
夏山や冬山が終わると必ず報告会があった。報告会はルームで行ってい
た。当時は活動していた部員は二十名位だったので少し窮屈だったがか
えって熱気が入った。
昭和二十七年の夏山ではとんでもない報告があって仰天した。それは、
入部が一年ずつ違うK、T、Cの三人が糠平川から幌尻、エサオマンに登
り札内川を下る普通のルートだったのだが彼らは初日にハコ巻きに失敗
して入水し、荷物を全部濡らしてしまったという。慌ててマッチを取り出して
干したが使い物になるのはたった七本。これから先、キャンプは七回しなけ
ればならない。マッチは一日一本で済ませることにして登山を続けて予定を
完遂というのである。
そもそも当時は未だビニール袋は開発されていなかったので大事な物は小
さな行李に入れて油紙すなわち和紙に油を沁みこませた紙に包んだ。油紙
はビバークなどでも雨よけのシートのように使われた。しかしマッチだけは缶
に入れるのが常識。缶は紅茶の四分の一ポンドの空き缶が最良だった。当
時もリプトンの空き缶はあった。茶筒はどこの家にもあったが絶対に不可。
被せ蓋なので水が入るのである。紅茶の缶は内蓋が押し蓋で四角な上蓋も
かかるので最適だった。
さて、マッチ一本で焚き火を起こすには、まずテントを張って風を避け、一人は
ローソクを持ち、一人は紙で作った付け木も持ち、もう一人が慎重にマッチを擦
ったという。三人総がかりだったようである。
この報告は先輩諸氏から手厳しい非難を受けたが、当時は夏山で初日に沢の
増水に肝をつぶしてクーキが抜けて帰ってきたり、ワラジが不調で登るのを止
めて帰ったなんていう、さまにならない話も残っていた中、一日一本のマッチで
の登高の決断と火の着け方の工夫には敬服した。
他のパーティーに逢うなんて事のほとんどなかった頃の日高である。
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ビバークの後は小屋への荷揚げのお駄賃
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
三年目の夏山は本州に出てみることにした。パートナーは同輩の石谷邦君
で、彼は富山県出身かどうかは定かではないが剣岳には少々の知識があ
った。
夏山山行にするにはそれなりの計画でないと、なんともサマにならないので
白萩川のゾロメキ発電所から入ってブナクラ谷〜小窓尾根を乗越して三ノ窓
から剣沢へ抜ける計画として小生がリーダを務めることになった。参考になる
記録がなかなか見つからないので藤平正夫氏の早月尾根冬期登攀記録を
手掛かりにした。
この年も出発から雨でゾロメキ発電所の工事小屋に一拍、徒渉に苦労しなが
らブナクラ谷の中州というかテラス状の出っ張りを猫の額ほど平にしてテント
で一拍。時折豪雨の来る小雨の中、小窓尾根に取り付いてブッシュを分け、
岩場を越えるなど、北海道とはかなり勝手の違う登高だった。
池ノ平への下り位置を早まり、ブッシュや岩はますます激しくなりアンザイレン
などにも手間取って、いくらも進まぬうちに日は暮れかけ、キャンプできそうな
ところを見つける可能性もうすいので、急傾斜だがヤブの中に突き出た小さな
岩の脇にビバークすることにした。
夜中に転落しないように足元の潅木を細引で束ね、なんとか小さな場所は確
保できたが、二人とも寝込んでしまっては転落の危険あり。交代で相棒の寝
返りの監視を約束したが、結果的には二人とも殆ど眠れなかった。
夕食は沢で飯盒に一本炊いて持って登ったのだがビバークした所には水はな
い。小雨は降っているのに集めることも出来ない。翌日の行動に備えて飯盒は
枕の下にして夕食は抜いた。
相変わらず驟雨に見舞われながらもゾロメキ発電所を出発してから六日目には
三ノ窓の雪渓を降って剣沢小屋を経て乗越小屋に到着。小屋には佐伯トン先輩
が滞在していた。
彼は林学なので立山をフィールドにして卒論を書いていたそうである。
苦あれば楽あり。翌日は彼のお使いで芦峅寺まで下りて米と炭一俵をとりに行
ったり、その後は荷揚げのお礼とばかりに長次郎の雪渓、八峰で岩登り、剣岳
などを案内して貰い、悠々の時を堪能した。しかし、あのブナクラ谷で翌年の夏
には石谷、加納、鈴木のパーティーは鉄砲水に遭遇し、鈴木康平君を失った。前
者二人もその後病死して今はなし。
あの谷は未だに小生の心にキズになっている。
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平成18年12月16日
参加者:石村夫妻、石本、八木橋、平田、木村
東京支部岳友:井上、志賀、吉川
コース
東京支部編「関東山地日帰り縦走36ルート集」No.2による
その日のこと
十二月十六日。昨今珍しいインディアンサマーの、うららかな日和に九名集まる。石村夫妻、
石本、八木橋、平田、会友の井上、志賀、吉川に小生を合わせて九人。吉川さんは井上女
史の友人で再び現れ今後も参加の模様。前回このルートは雪で依田君一人の参加だったの
で同じルートだが皆で歩いてみることにした訳である。
今年は紅葉が永いようで緩やかな山腹はまるで直行さんの絵のようだった。八木橋君は橋
場バス停まで車で来たので頂上から一人でバック。他は予定ルートの定峰へ。歩き易い下
りで、日高の夏山の話などに興じながら快適に進み、予定のバスの一つ前に乗車して、早
い帰りとなる。車中では「部報は、未だ出ないのかなあ」との声しきり。
「裏はなし」は、今回から小生と同世代の後輩の話へと進んで行く。
所用時間 三時間五十分
正味歩行 三時間十五分
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平成18年11月11日
参加者:坂野、石村夫妻+娘+お孫、坂本、山崎、木村
東京支部岳友:松沢
コース
今回は時期が支部恒例の行事と近かったので、幹事の意向で月見の会とセットで行う
ことになった。ハイクの後に月見、月見単独参加も歓迎という。
しかし、当日の予報は朝からの雨。予定の「御林山」に登るのは止めにして集合地点の
武蔵五日市駅から街道筋の史跡や風景の探勝に切替えた。
その日のこと
沿海地方は相当の豪雨だったそうだが、雨にもめげず雨具を付けて集まったのは、坂野、
石村夫妻とお孫さん連れの娘さん、坂本、二十七年入部初参加の山崎、常連の会友、
松沢。前述のように、この日は街道遊歩に変更。この地は松沢君の縄張り同然とあって
早朝には電話を受けていたので彼に案内人になってもらった。遊歩について述べる要は
なかろうが特筆すべきことが一件発生した。
坂本君が目前見えた城山へ雨の中、一人で向かってみたくなったようだ。何とかと同じで
高い所への意欲よし。ダイエットの効果か、ヘルマンブールよろしく四三四メートルの最高
峰?を極めたようだ。
コースの終点の造り酒屋からは、秋川の銘酒「喜生(きしょう)」をぶら下げ、月見の宴に参
加で格好もつく。全天、曇り、しかも下弦の月の宴については別途報告もあろう。
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平成18年10月21日
参加者:大井、石本、大村、浜名、木村
東京支部岳友:佐藤、二人
コース
東京支部編「関東山地日帰り縦走36ルート集」No.12による
その日のこと
十月二十一日集合場所の御岳駅には、東京支部の浜名幹事が珍しく新聞記者クラブ
の友人二人を連れて現れ、大井、石本、大村、常連の佐藤と合わせて八人となる。初
参加の記者クラブの二人は参加が定着したらその名を明かすことにする。
前回このルートへは大雨の中、坂野君と二人だけで頂上から古野駅へ逃げ降ったのだ
が、今回は眺望は優れないものの雨はなく計画の縦走ルートを完成できた。ただし、小
生Yashiは下り後半で足が棒になりヒラヒラになる寸前。
この夏トッタベツのカールにケルンを積みに行った大村君の話でBカールに神谷君の記
念のスプーンを矢野君が埋めてくれたことを知る。矢野君の話ではカールには大石が転
がっていてケルンを積む必要はなかったそうである。五十三年前の一月、ピパイロ岳へ
の前進キャンプを張った折には転石は気にならなかったので、この辺りでも積雪はかなり
のものかと再認識した次第。
ところで白倉バス停に降り着き、バスは待たずタクシーで武蔵五日市へ。浮いた時間は
有効にとやら、近くで一杯となる。記者クラブの二人は流石に巷の話題が豊富。新しい顔
ぶれが入りマンネリ解消の一日となる。
少々バテても裏話は未だ続く。
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