記事・消息・
2015年10月9日 (金)

2015年10月9日北海道新聞夕刊
記事・消息・
2015年9月2日 (水)

毎年お盆過ぎ、北大山の会の会員が集まる八ヶ岳山麓の親睦会があります。そこで、ペテガリ岳冬季初登者、今村昌耕氏(97歳)から、ペテガリ初登(1943年1月)のとき巻いたゲートルを最近見つけたと見せて頂きました。ゲートル(guêtre)とは、巻き脚絆です。大戦中の兵が脛に巻いていた包帯状の脚絆です。1930〜40年代の登山では一般的でした。兵だけではなく、労働者の作業着として、また戦争末期には日本男子のユニフォームとなった様です。靴の上から巻き始めて足首をきつく巻き、太さが変わるところで二度折り返してふくらはぎのところは緩く巻くのがコツで、長時間行軍の足の鬱血を防いだとの事です。靴にゴミや雪が入らず、ズボンの裾も薮に引っ掛かりません。

そのゲートルは、ペテガリ初登の3年前、8名の遭難者を出した1940年のペテガリ登山隊に選ばれながら、直前の十勝合宿中に手指に凍傷を負って不参加になったため命拾いをした塩月陽一氏から託されたものだそうです。塩月氏は両親が上海に住んでいたので、その訪問の際手に入れたというノルウエイ製の新素材ゲートルでした。当時の巻き脚絆は薄茶色のネル製が多かったが、そのゲートルは黒く、伸縮する生地で、二度の折り返しが不要な、画期的なものでした。最後に留める部分もヒモで縛るものではなく、小さな金具でした。かねて今村さんが希望していて、卒業時に下さったとのこと。今見れば、古びたゲートルですが、当時ありふれていたものとは違う、「舶来の特別品」だったものに今村さんが修繕した縫い跡も多く、愛着深く使ったのでしょうか。今村さんは、コイカク山頂のイグルーで出発の朝このゲートルを巻いて、往復15時間のペテガリ岳冬季初登アタックに出たのです。
冬季ペテガリ岳初登は昭和18(1943)年1月です。北大山岳部は、1920年代のスキー部時代の黎明期を経て、大正15(1926)年の独立創部以来、北海道山岳の冬季初登を続けて来ました。深い谷、遠く痩せた稜線に阻まれ、最後の最後に残ったのが冬季ペテガリ岳でした。日高の谷は長く深く、登る尾根の麓にとりつくまでに今でも丸一日林道をラッセルします。奥の方まで川幅が広く、雪崩の危険が比較的少ない札内川が、当時のほぼ唯一の冬季ルートでした。そこから比較的早く主稜線に登れる、コイカクシュ札内岳への登路を採ると、最終キャンプのコイカク山頂からペテガリ岳までの往復は15時間です。この稜線は細く両側が切れ落ち、雪庇の常習地帯で日高でもとりわけ難しい区間です。
ペテガリへの初登計画はその何年も前から北大山岳部至上の大イベントとして企画されていました。昭和15(1940)年には、コイカクシュ札内岳直下で精鋭8人が死亡した雪崩遭難事故が起きています。未踏のまま日米戦争に突入、登山など許されない時代に差し掛かるぎりぎり最後の冬の成功でした。当時他大学で流行り始めていた極地やヒマラヤ攻略式の団体登山法ではありません。最終キャンプにイグルーを使うなど、北大本来の少人数軽量登山の技法でした。3年前に多くの友を失くし、国は先行きの見えない戦争のさ中であり、この時を逸したらもう機会は無いだろうという時の大成功です。山岳部の仲間たち、それに遭難者遺族の喜びは今思っても大きなものだったと思います。
今村さんはその年のうちに半年繰り上げ卒業し2年の海軍軍医の軍役中の後半10ヶ月、駆逐艦『楓』に乗りフィリピン方面に出征しました。バシー海峡で航空機攻撃を受けて52人の戦死者が出る中、目を負傷し台湾の高雄海軍病院から病院船で送還されました。その後再び楓に復帰し、呉軍港対岸の瀬戸内の小島の陰で空爆を避けていた8月6日の朝を迎えました。額帯鏡を付け乗組員の鼓膜を検査していた時、たった一つの小さな船窓からものすごい閃光が差し込み、続いて轟音。甲板に上がって、広島の空に高く登るキノコ雲を見たそうです。広島まで直線距離で30キロの位置でした。5日ほどして島の住民が広島から親戚などを連れて帰りました。島には医者が居らず、艦長命令で手当をしました。外傷は少なく比較的元気でしたが次々に亡くなったそうです。図らずも急性原爆症の病態を知ったといいます。

北大山岳部は戦後、ペテガリ冬季初登の成功を繋いで、日高冬季全山縦走、南極観測、ヒマラヤ・チャムラン峰初登、ダウラギリ・冬季8000米峰初登へと活動を繋げました。しかし今村さんは、戦後は山登りの世界からすっかり離れて結核研究、診療や結核対策の仕事に没頭し、山岳部の活動とは長く離れました。仲間の世代の多くが戦死し、戦後の社会の変革期の特殊な給与体系だったこともあり、山に行く余裕は時間的にも金銭的にも全く無い時代が長く続いたそうです。
「終戦後の社会環境を知るものには、社会人として登山を続けられる状況ではなかった事を御理解いただけるでしょう」。
「大正生まれの私たちの世代は、運命的で悲劇的な太平洋戦争を担った世代です。戦争で生き残りはしたが、その後もとうとう山登りに復帰することはできなかった。大変な災厄の時代だった。しかし生き残ったものは祖国復興に努力し、戦死者のおかげで今の復興があったと、両面共に名誉な大正生まれとも思っています」と話していました。※
風格ある国内の山で、冬季未踏として残ったのはおそらくペテガリが最後の山では無かろうか。山岳部員の誰もが憧れる冬のペテガリ岳。その初登にまつわる話を、もう失くしたと思っていたゲートルをきっかけに聞きました。そしてその後、死線を越えてきた長い人生の末、戦争終結70年の夏に、八ヶ岳山麓のカラマツ林でこんなお話を聞く事が出来ました。(2015.8.23)
※今村さんは、日本における結核研究、診療のメッカと言われる東京、清瀬の中の結核予防会・結核研究所に19年、後には都内の所属の診療所長の仕事を勤める傍ら、東京・山谷地区の日雇労働者の集落にある都の無料診療所での専門外来の週一日の担当を現役時代から合わせて通算40年間続けました。山谷地区で発生する結核患者は、以前は日本の高罹患率のワースト2でした。都の委託契約として文字通りライフワークとして続け、その役割の必要のない状態にしてつい先年引退しました。
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書評・出版・
2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7
トレイルラニングという新ジャンル、ここ数年で人気です。山は皆のもの、自分の体ひとつで挑むなら、どんな楽しみ方の人であっても寛容でありたい。けれども僕自身は、「競技であること」、「大勢で登る事」にあまり魅力を感じません。それでトレイルラニングはずっと人ごとだったのですが、職場の若いトレイルラナーの青年に一読を勧められ、またヤマケンが同時代同地域の山やさんなので読んでみました。少し前NHK-BSでやっていたレユニオン島のレースのドキュメンタリ番組も見ました。
やはり興味深いのは、人間の根源の力がその枷をかなぐり捨てて表出する可能性です。著者に寄れば、人に勝ちたい、順位を上げたい、という慾が消えた時、会心の走りが訪れ、更には、野生動物にかえった域を体感するといいます。24時間以上も山と空の境を走り続ければ、未知の境地もあろうと思います。このあたりの心境はたぶん、修験道者の体験した山岳修行や、「炎のランナー」(1981年)で、神に感謝するために走ったスコットランド人宣教師リデルの境地だろうか。ヤマケンさんは感謝の気持ちで笑顔になるといいます。
ヤマケンという人間が素直な性格で、周りの人たちにも恵まれ、当たり前の日常を丁寧に生きる事ができる人なんだと思います。あった事は無いですが。
楽しそうに走っている写真も良い本です。ヤマケンさんを慕って、良いカメラマンが撮っているのだと思います。
さて、私がトレランに馴染めなかった二点、
「競技であること」については、もはやヤマケンさんは競技を越えていました。
「大勢で登る事」については、「一人で走ってもつまらない」と書いています。声援送って、助け合って、喜び合う。もちろんそういう人たちが山を楽しむのに賛成です。山は皆のものだと思います。
モンブラン、富士山、ピレネー、アンドラ、レユニオン。ヤマケンさんの地元は、甲斐駒ケ岳の黒戸尾根、根っからの甲州人です。
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記事・消息・
2015年7月29日 (水)

2015年7月29日日経新聞朝刊 浜名会員寄稿
書評・出版・
2015年7月15日 (水)

「オオカミが厄介者ではなく、自然や生態系を守り維持していくために不可欠な頂点捕食者である」という生物学者の結論を、行政機関と多くの市民が受け入れて、オオカミ復活を実現させたアメリカのイェロウストン国立公園(を含むワイオミング、アイダホ、モンタナ3カ所)の試みを書いたドキュメンタリ。著者は野生生物保護活動家。訳者は、日本でのオオカミ放獣を目指して1990年代から活動している二人。
巻末の年表より
1926年イェロウストン国立公園で最後のオオカミが殺された。
1944年レオポルド博士オオカミ復活を提唱
1978年生物学者ウィーバー氏が公園内への放獣を提唱
1987年公園内への放獣議案提出
1990年オオカミ補償基金(万一家畜被害の保障)用意
1992年「オオカミ投票」で世論作り
1994年最終環境影響評価書が発行され、野生生物局によるオオカミ再導入の最終的な管理規則を発行。周辺牧場主が差し止め訴訟。
1995年裁判所は差し止め請求を拒否、カナダからのオオカミはY.S.国立公園に8頭放獣された。年末までに21頭に。
1996年更に17頭放獣、年末までに51頭に。
2002年オオカミ数目標値に。
増えすぎたエルク(ヘラジカ)は適正数になり、その後オオカミは100頭前後を維持。
***
アメリカでも、オオカミ放獣の実現に立ちふさがる誤解と利害からくる困難は多くあった。あんなに鉄砲を手放すのが嫌で、既得利益のためにはぶっ放すのが好きそうなヒトが多そうなアメリカだものなあ。こつこつと周りの説得を積み上げていくオオカミ導入支持研究者らの行いが書かれています。相手に敬意を払わない「話にならない反対論者」に対しても敬意を失わず対話を重ねる、ということだけが、最終的に多くの人の支持を勝ち得るのだと感じました。だからこそ議論には時間がかかるのです。「俺が正しい、間違ってるお前は黙れ」というのは言論の自由には含まれない言論なんですね。
訳者のあとがきの中で、北米でのオオカミ絶滅と日本のオオカミ絶滅のつながりについて書いてありました。
オオカミを滅ぼした時代の力は毛皮の狩猟圧だった。欧州で人気の毛皮、クロテンやラッコを数百年かけて北米、極東ロシアで獲り尽くし、海を渡って遂に日本を開国させた。その天敵、獲物を減らす厄介者として、ヒトの利益を横取りするものとして、オオカミは懸賞金付きで殺された。その思想が明治日本にも上陸し、1905年オオカミは日本から居なくなってしまった。
明治維新で日本が失ったもの。たくさんありましたが、オオカミを失った事、100年経っていま、シカの増大で日本の山の荒廃要因の一つになっているのだなあ。
前回、オオカミ放獣に関する書評でも書いたけれど、オオカミ放獣は、「シカ害」という人の利益のためではなく、先祖が犯してしまった罪の痛切な反省のためにも、子孫としてするべき落とし前ではないでしょうか。作ったけれど無用になった山の中の幾多の建造物の完全撤廃なども。21世紀は先祖の尻拭いをする時代です。
ウルフ・ウォーズ
オオカミはこうしてイエローストーンに復活した
ハンク・フィッシャー 著
朝倉裕、南部成美 訳
2015.4 白水社
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【オオカミの護符】
明治に失った日本のオオカミ信仰について、もう一冊です。
実家の土蔵の扉に貼ってあったオオカミの護符を追って、多摩丘陵のそして、秩父の山村集落の習俗と農事の伝統を発見していく本です。川崎の宮前区の丘陵地帯は、ほぼ僕と同世代の著者の子供時代には茅葺き屋根の農村最後の時代だった。川崎の宮前にも古い農民社会が40年前まであったのが驚きです。オオカミ信仰の講中登山を辿って、御岳山、さらには秩父へと話は進んでいきます。著者はその映像記録を撮り始め記録映画を作りました。本書はその書籍化。
僕自身、東京に住んで山に登った期間はわずかだったので、御嶽山(みたけやま)も宝登山(ほどさん)も猪狩山(いかりやま)も、三峰山(妙法ヶ岳、白岩山、 雲取山)も、名前も位置もほとんど知りませんでした。奥深い山と思っていた和名倉山も、以前は中腹まで焼き畑が覆っていた写真を見て驚きました。
今とは違う、線路や道路ではなく、山と川で繋がっていた武蔵国の範囲に読後初めて思いを巡らせました。
そしてテーマのオオカミ。オオカミは作物を荒らすイノシシ、シカを食べる農民の味方。
オオカミのお産のうなりを聴くとシカ、イノシシは逃げることから農民の神となった。うなりを聴く事の出来る「心の直ぐなる者」が、その場に赤飯を持っていき、オボタテ(御産立)というお祀りをした。そこからオオカミの護符信仰が始まったのだった。その行事を覚えていた人に出会うのが終盤の山場です。
とても面白い本でした。武蔵一円に暮らす登山愛好家にお勧めです。
オオカミの護符
小倉美恵子
新潮社2011
記事・消息・
2015年7月14日 (火)

20150714北海道新聞夕刊
記事・消息・
2015年7月9日 (木)
坂本直行さんのスケッチブックが北大山岳館に寄贈されました.現在整理中ですが,今秋に公開する予定で準備をすすめています.
【
山岳館収蔵品コーナーへ】

坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月3日朝刊)
坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月8日朝刊)

坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月9日朝刊)
記事・消息・
2015年7月7日 (火)

本題が「暑気払いを兼ねて平成時代の登山スタイルとそのスピリットを検証する」と冗談のように長たらしいにも拘らず、集合した7名はビールやワインを飲みながら、写し出される映像を観て、適宜疑問質問をぶつけ意見を交わした。それも結構まじめに。そういえばAACHのAはアカデミックのAであるのを思い出した。
6月27日(土)午後2時、琵琶湖畔の相田さん別邸マンションに集合し、スライドショウを観賞。その後、時間のある人々は風呂につかりマンションで1泊して、翌朝は湖畔や山麓を散策するという会でした。

ショウの第一部は鹿島君が作成した彼の時代の山岳部の活動をパワ−ポイントでプレゼン。

第二部は伏見さんの15年上期ネパール報告、期せずしてネパール地震報告となる。合間に名越さんの原真さん(元関西支部長)のネパール追悼登山の報告。それぞれに興味の尽きない画像報告で、コメントに対する質疑応答や感想もまた興味深かった。一通り終わったのは午後6時半を過ぎていた。
なおスタイルとスピリットの検証は今後も継続されるようだ。(記:岸本)
参加は(数字は入部暦年下2桁)
相田(58)、高橋(59)、内藤(59)、伏見(61)、名越(63)、岸本(65)、鹿島(08)
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書評・出版・
2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社
「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。
オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。
そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。
北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。
以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。
オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。
沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。
鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。
オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。
オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。
書評・出版・
2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。
一家が長い船旅で神戸に着き、札幌へ移動する途上、東京で出征兵士を見送る場面に出くわし、100名ほどの見送りの若者が大騒ぎをして大声で歌い万歳三唱しているのを見て「恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それまで観察した日本人は極端なまでに自制的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた。数カ月まえに南京虐殺の記事をアメリカやイギリスの雑誌で読んだときは、大げさなプロパガンダだと思ったが、ふと、事実だろうと思った。」p51)と日記に書いている。時代に身を置いて得た直感を書いている。この時代の人たちはみな、居なくなってしまったが、親日家のマライーニが直感したむきだしの暴力性は異邦人ならではの客観性があったと思う。
以前にも触れた、スパイ冤罪で逮捕された北大生、宮沢弘幸氏のいきさつもある。開戦初日1941年12月8日には、同じ手口で全国で396名も逮捕されたとある。開戦キャンペーンであり、今も変わらない公安機関の特別取締と同じような官僚の仕事ぶりだ。宮沢氏は、マライーニ家や、同じく逮捕された米国人教師レーン夫妻と親交を深めていて、それだけで特高に目をつけられてしまったのだった。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=699札幌での留学期間を終えても、戦争で帰国のめどが立たない。京都大学の講師の職を偶然得て、マライーニ一家は京都へ引っ越す。その後日米開戦。1943年9月8日イタリアではムソリーニが失脚し連合軍と単独休戦協定。北部は忽ちドイツ軍に占領され、ムソリーニがドイツに救出され4日後ナチス傀儡のサロー政権が生まれる。日本と同盟を結ぶこの政権への忠誠を、マライーニ夫妻はそれぞれ別々に尋問され二人とも拒否した。拒否したものは強制収容所に送られる。イタリア降伏後、情報がほとんどない中で、在日イタリア人の間で空気は豹変したという。疑心暗鬼になり、大使館はナチ式の敬礼をした。
「1943年の時点で日本が降伏していれば日本人の戦災死者310万人のほとんどは死なずに済んだ」と、今の私は知っている。イタリアはこの時点で降伏しており、以前は少し羨ましく思っていた。しかし現実は、ドイツ占領下のフランスやオーストリアと隣接していたために、あっという間にナチスに侵攻され、その後のイタリアはファシストとパルチザンが国を二分する内戦になっていたのだった。こちらも過酷だ。だが、そこが無謀な戦いをズルズル続けて、国としての主権も含めて何もかも失った(今もまだない)日本と決定的に違う。戦後70年辿った敗戦後史の行方も含めて。
マライーニ一家と60名ほどの宣誓拒否者の強制収容所は愛知県天白村の松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収して改造した施設だった。約2年間。今なら2年とわかるがその時は何年続くかわからない、特高警察監視の厳しい収容所で、食糧が減らされ、マライーニ一家は幼い娘姉妹3人ともども飢えに飢えた。特高は差し入れのパンを渡さず、地面に埋め人糞をかけておいた、それを掘り出して食べたという。子供も含めた収容者に対する念入りないじめが詳しく書かれている。そこまで居丈高な特高が敗戦の日を境に卑屈な態度に豹変したことも。
日本を愛するあまり、戦後の著書でのF.マライーニの記述は、「収容所時代を「」で括って書いている」という。父、フォスコばかりではなくその後作家になったダーチャでさえ、日本での収容所体験を、まだ書けていないという。
ダーチャ・マライーニは20以上の小説はじめ詩篇などを書き、現在イタリアでもっとも多くの外国語にその著作を訳され、度々ノーベル賞候補に挙がる作家だ。ダーチャの作品のテーマ、「牢獄からの解放」は日本での7歳から9歳を過ごした強制収容所時代の体験の影響が強いことは間違いない。ダーチャは、記憶を容易に文章にできず、ずっと先送りにし続けているが、いつか必ず文章にすると書いていた。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601188
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