書評・出版・
2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7
トレイルラニングという新ジャンル、ここ数年で人気です。山は皆のもの、自分の体ひとつで挑むなら、どんな楽しみ方の人であっても寛容でありたい。けれども僕自身は、「競技であること」、「大勢で登る事」にあまり魅力を感じません。それでトレイルラニングはずっと人ごとだったのですが、職場の若いトレイルラナーの青年に一読を勧められ、またヤマケンが同時代同地域の山やさんなので読んでみました。少し前NHK-BSでやっていたレユニオン島のレースのドキュメンタリ番組も見ました。
やはり興味深いのは、人間の根源の力がその枷をかなぐり捨てて表出する可能性です。著者に寄れば、人に勝ちたい、順位を上げたい、という慾が消えた時、会心の走りが訪れ、更には、野生動物にかえった域を体感するといいます。24時間以上も山と空の境を走り続ければ、未知の境地もあろうと思います。このあたりの心境はたぶん、修験道者の体験した山岳修行や、「炎のランナー」(1981年)で、神に感謝するために走ったスコットランド人宣教師リデルの境地だろうか。ヤマケンさんは感謝の気持ちで笑顔になるといいます。
ヤマケンという人間が素直な性格で、周りの人たちにも恵まれ、当たり前の日常を丁寧に生きる事ができる人なんだと思います。あった事は無いですが。
楽しそうに走っている写真も良い本です。ヤマケンさんを慕って、良いカメラマンが撮っているのだと思います。
さて、私がトレランに馴染めなかった二点、
「競技であること」については、もはやヤマケンさんは競技を越えていました。
「大勢で登る事」については、「一人で走ってもつまらない」と書いています。声援送って、助け合って、喜び合う。もちろんそういう人たちが山を楽しむのに賛成です。山は皆のものだと思います。
モンブラン、富士山、ピレネー、アンドラ、レユニオン。ヤマケンさんの地元は、甲斐駒ケ岳の黒戸尾根、根っからの甲州人です。
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記事・消息・
2015年7月29日 (水)

2015年7月29日日経新聞朝刊 浜名会員寄稿
書評・出版・
2015年7月15日 (水)

「オオカミが厄介者ではなく、自然や生態系を守り維持していくために不可欠な頂点捕食者である」という生物学者の結論を、行政機関と多くの市民が受け入れて、オオカミ復活を実現させたアメリカのイェロウストン国立公園(を含むワイオミング、アイダホ、モンタナ3カ所)の試みを書いたドキュメンタリ。著者は野生生物保護活動家。訳者は、日本でのオオカミ放獣を目指して1990年代から活動している二人。
巻末の年表より
1926年イェロウストン国立公園で最後のオオカミが殺された。
1944年レオポルド博士オオカミ復活を提唱
1978年生物学者ウィーバー氏が公園内への放獣を提唱
1987年公園内への放獣議案提出
1990年オオカミ補償基金(万一家畜被害の保障)用意
1992年「オオカミ投票」で世論作り
1994年最終環境影響評価書が発行され、野生生物局によるオオカミ再導入の最終的な管理規則を発行。周辺牧場主が差し止め訴訟。
1995年裁判所は差し止め請求を拒否、カナダからのオオカミはY.S.国立公園に8頭放獣された。年末までに21頭に。
1996年更に17頭放獣、年末までに51頭に。
2002年オオカミ数目標値に。
増えすぎたエルク(ヘラジカ)は適正数になり、その後オオカミは100頭前後を維持。
***
アメリカでも、オオカミ放獣の実現に立ちふさがる誤解と利害からくる困難は多くあった。あんなに鉄砲を手放すのが嫌で、既得利益のためにはぶっ放すのが好きそうなヒトが多そうなアメリカだものなあ。こつこつと周りの説得を積み上げていくオオカミ導入支持研究者らの行いが書かれています。相手に敬意を払わない「話にならない反対論者」に対しても敬意を失わず対話を重ねる、ということだけが、最終的に多くの人の支持を勝ち得るのだと感じました。だからこそ議論には時間がかかるのです。「俺が正しい、間違ってるお前は黙れ」というのは言論の自由には含まれない言論なんですね。
訳者のあとがきの中で、北米でのオオカミ絶滅と日本のオオカミ絶滅のつながりについて書いてありました。
オオカミを滅ぼした時代の力は毛皮の狩猟圧だった。欧州で人気の毛皮、クロテンやラッコを数百年かけて北米、極東ロシアで獲り尽くし、海を渡って遂に日本を開国させた。その天敵、獲物を減らす厄介者として、ヒトの利益を横取りするものとして、オオカミは懸賞金付きで殺された。その思想が明治日本にも上陸し、1905年オオカミは日本から居なくなってしまった。
明治維新で日本が失ったもの。たくさんありましたが、オオカミを失った事、100年経っていま、シカの増大で日本の山の荒廃要因の一つになっているのだなあ。
前回、オオカミ放獣に関する書評でも書いたけれど、オオカミ放獣は、「シカ害」という人の利益のためではなく、先祖が犯してしまった罪の痛切な反省のためにも、子孫としてするべき落とし前ではないでしょうか。作ったけれど無用になった山の中の幾多の建造物の完全撤廃なども。21世紀は先祖の尻拭いをする時代です。
ウルフ・ウォーズ
オオカミはこうしてイエローストーンに復活した
ハンク・フィッシャー 著
朝倉裕、南部成美 訳
2015.4 白水社
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【オオカミの護符】
明治に失った日本のオオカミ信仰について、もう一冊です。
実家の土蔵の扉に貼ってあったオオカミの護符を追って、多摩丘陵のそして、秩父の山村集落の習俗と農事の伝統を発見していく本です。川崎の宮前区の丘陵地帯は、ほぼ僕と同世代の著者の子供時代には茅葺き屋根の農村最後の時代だった。川崎の宮前にも古い農民社会が40年前まであったのが驚きです。オオカミ信仰の講中登山を辿って、御岳山、さらには秩父へと話は進んでいきます。著者はその映像記録を撮り始め記録映画を作りました。本書はその書籍化。
僕自身、東京に住んで山に登った期間はわずかだったので、御嶽山(みたけやま)も宝登山(ほどさん)も猪狩山(いかりやま)も、三峰山(妙法ヶ岳、白岩山、 雲取山)も、名前も位置もほとんど知りませんでした。奥深い山と思っていた和名倉山も、以前は中腹まで焼き畑が覆っていた写真を見て驚きました。
今とは違う、線路や道路ではなく、山と川で繋がっていた武蔵国の範囲に読後初めて思いを巡らせました。
そしてテーマのオオカミ。オオカミは作物を荒らすイノシシ、シカを食べる農民の味方。
オオカミのお産のうなりを聴くとシカ、イノシシは逃げることから農民の神となった。うなりを聴く事の出来る「心の直ぐなる者」が、その場に赤飯を持っていき、オボタテ(御産立)というお祀りをした。そこからオオカミの護符信仰が始まったのだった。その行事を覚えていた人に出会うのが終盤の山場です。
とても面白い本でした。武蔵一円に暮らす登山愛好家にお勧めです。
オオカミの護符
小倉美恵子
新潮社2011
記事・消息・
2015年7月14日 (火)

20150714北海道新聞夕刊
記事・消息・
2015年7月9日 (木)
坂本直行さんのスケッチブックが北大山岳館に寄贈されました.現在整理中ですが,今秋に公開する予定で準備をすすめています.
【
山岳館収蔵品コーナーへ】

坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月3日朝刊)
坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月8日朝刊)

坂本直行のスケッチブック
(北海道新聞2015年7月9日朝刊)
記事・消息・
2015年7月7日 (火)

本題が「暑気払いを兼ねて平成時代の登山スタイルとそのスピリットを検証する」と冗談のように長たらしいにも拘らず、集合した7名はビールやワインを飲みながら、写し出される映像を観て、適宜疑問質問をぶつけ意見を交わした。それも結構まじめに。そういえばAACHのAはアカデミックのAであるのを思い出した。
6月27日(土)午後2時、琵琶湖畔の相田さん別邸マンションに集合し、スライドショウを観賞。その後、時間のある人々は風呂につかりマンションで1泊して、翌朝は湖畔や山麓を散策するという会でした。

ショウの第一部は鹿島君が作成した彼の時代の山岳部の活動をパワ−ポイントでプレゼン。

第二部は伏見さんの15年上期ネパール報告、期せずしてネパール地震報告となる。合間に名越さんの原真さん(元関西支部長)のネパール追悼登山の報告。それぞれに興味の尽きない画像報告で、コメントに対する質疑応答や感想もまた興味深かった。一通り終わったのは午後6時半を過ぎていた。
なおスタイルとスピリットの検証は今後も継続されるようだ。(記:岸本)
参加は(数字は入部暦年下2桁)
相田(58)、高橋(59)、内藤(59)、伏見(61)、名越(63)、岸本(65)、鹿島(08)
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書評・出版・
2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社
「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。
オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。
そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。
北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。
以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。
オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。
沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。
鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。
オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。
オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。
書評・出版・
2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。
一家が長い船旅で神戸に着き、札幌へ移動する途上、東京で出征兵士を見送る場面に出くわし、100名ほどの見送りの若者が大騒ぎをして大声で歌い万歳三唱しているのを見て「恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それまで観察した日本人は極端なまでに自制的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた。数カ月まえに南京虐殺の記事をアメリカやイギリスの雑誌で読んだときは、大げさなプロパガンダだと思ったが、ふと、事実だろうと思った。」p51)と日記に書いている。時代に身を置いて得た直感を書いている。この時代の人たちはみな、居なくなってしまったが、親日家のマライーニが直感したむきだしの暴力性は異邦人ならではの客観性があったと思う。
以前にも触れた、スパイ冤罪で逮捕された北大生、宮沢弘幸氏のいきさつもある。開戦初日1941年12月8日には、同じ手口で全国で396名も逮捕されたとある。開戦キャンペーンであり、今も変わらない公安機関の特別取締と同じような官僚の仕事ぶりだ。宮沢氏は、マライーニ家や、同じく逮捕された米国人教師レーン夫妻と親交を深めていて、それだけで特高に目をつけられてしまったのだった。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=699札幌での留学期間を終えても、戦争で帰国のめどが立たない。京都大学の講師の職を偶然得て、マライーニ一家は京都へ引っ越す。その後日米開戦。1943年9月8日イタリアではムソリーニが失脚し連合軍と単独休戦協定。北部は忽ちドイツ軍に占領され、ムソリーニがドイツに救出され4日後ナチス傀儡のサロー政権が生まれる。日本と同盟を結ぶこの政権への忠誠を、マライーニ夫妻はそれぞれ別々に尋問され二人とも拒否した。拒否したものは強制収容所に送られる。イタリア降伏後、情報がほとんどない中で、在日イタリア人の間で空気は豹変したという。疑心暗鬼になり、大使館はナチ式の敬礼をした。
「1943年の時点で日本が降伏していれば日本人の戦災死者310万人のほとんどは死なずに済んだ」と、今の私は知っている。イタリアはこの時点で降伏しており、以前は少し羨ましく思っていた。しかし現実は、ドイツ占領下のフランスやオーストリアと隣接していたために、あっという間にナチスに侵攻され、その後のイタリアはファシストとパルチザンが国を二分する内戦になっていたのだった。こちらも過酷だ。だが、そこが無謀な戦いをズルズル続けて、国としての主権も含めて何もかも失った(今もまだない)日本と決定的に違う。戦後70年辿った敗戦後史の行方も含めて。
マライーニ一家と60名ほどの宣誓拒否者の強制収容所は愛知県天白村の松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収して改造した施設だった。約2年間。今なら2年とわかるがその時は何年続くかわからない、特高警察監視の厳しい収容所で、食糧が減らされ、マライーニ一家は幼い娘姉妹3人ともども飢えに飢えた。特高は差し入れのパンを渡さず、地面に埋め人糞をかけておいた、それを掘り出して食べたという。子供も含めた収容者に対する念入りないじめが詳しく書かれている。そこまで居丈高な特高が敗戦の日を境に卑屈な態度に豹変したことも。
日本を愛するあまり、戦後の著書でのF.マライーニの記述は、「収容所時代を「」で括って書いている」という。父、フォスコばかりではなくその後作家になったダーチャでさえ、日本での収容所体験を、まだ書けていないという。
ダーチャ・マライーニは20以上の小説はじめ詩篇などを書き、現在イタリアでもっとも多くの外国語にその著作を訳され、度々ノーベル賞候補に挙がる作家だ。ダーチャの作品のテーマ、「牢獄からの解放」は日本での7歳から9歳を過ごした強制収容所時代の体験の影響が強いことは間違いない。ダーチャは、記憶を容易に文章にできず、ずっと先送りにし続けているが、いつか必ず文章にすると書いていた。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601188
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OBの山行記録・
2015年5月17日 (日)

果てしなく続く白い稜線を一人進む。ピッケルを刺すとまさにその位置から、ズンという重低音と共にとてつもなく巨大な雪庇が落ち、轟音と共に谷底に消えていく。踏み抜いたら助かりようがないなと肝を冷やし、慎重に進む。疲れ切った一日の終わりの夕焼け、雪洞から這い出て見る朝焼けに感動しながら、一歩一歩進んでいく。満身創痍となって辿り着く終着点の襟裳岬で夕焼けを眺めながら、長かった縦走を振り返って佇む。
そんなイメージを頭に浮かべながら、ワクワクしていた。予定していた海外遠征が都合により中止となり、そうだ日高全山に行こうと決めてから日々夢想しては心を弾ませていた。入山前からいい山行になる予感がしていた。
作戦はなるべく軽量化して春の締まった稜線を気持ちよく駆け抜ける。生涯一度の挑戦になるだろうから失敗に終わらないようにはしたいが、そうすると荷物は増えていくばかりだ。なんとか楽古岳までは縦走できるかなという荷物だけ持ち、何もかもうまくいった場合に襟裳岬まで行くこととした。

3/28 日勝峠(5:45)-ペケレベツ岳(9:00)-ウエンザル岳(11:50)-パンケヌーシ分岐(13:45)-・1318コル=C1(15:00)
晴れ。日勝峠駐車場からスノーシューで出発する。気温が高くズボズボになることが多い。早くも膝が痛くなり、下りは泣きながらトボトボと。
3/29 C1(4:10)-芽室岳(6:30)-雪盛山(10:30)-ルベシベ分岐(12:30)-・1696南コル=C2(15:10)
晴れ。序盤は気持ちが良く、後半はシャリバテ。足が痛む。スノーシューの下りが悪いのだろう。・1696を越えてイグルーC2。

3/30 C2(4:10)-1940峰(9:00)-トッタベツ岳(15:15)-・1803西コル=C3(16:40)
晴れ。C2から少し細くアイゼンで行く。夜明け前の締まった雪をサクサクと思いきやバリズボで消耗する。・1712手前から1940峰手前まではスノーシュー。40峰からトッタベツへの標高の高い稜線も、このところの高い気温のせいかズボズボ、バリズボの部分が多く消耗する。夕映えのポロシリが雄大だ。ヒラヒラになってC3に入る。足の爪が割れていた。
3/31 C3(6:30)-カムイ岳北東尾根頭(11:00)-・1563北Co1520南東尾根頭=C4(11:40)
晴れのち曇り。風。朝起きるも風が強く様子を見る。晴れているので意を決して出発。振られる風に体を傾けて歩く。カムイ北東尾根から1ピッチ南下しイグルーC4。夕方から前線通過で雪が降る。
4/1 C4(3:50)-エサオマントッタベツ岳(7:50)-札内JP(8:30)-春別岳(13:00)-・1917南東コル=C5(15:30)
曇りのち雪。夜明け前のガスの中出発。雪庇に気を付けて進むと徐々にガスも晴れ、雪も締まって気持ちよく歩く。春別岳を越えるとガスがかかってきて風も吹き、岩稜はいい雰囲気だ。日高にこんな稜線があったんだなと感心する。・1917の頂上に着くころには視界も悪く雪も降りだす。下りも少し急峻で地図を見ながらコルまで下り、疲れ果てて尾根陰にC5。

4/2 C5(5:35)-カムイエクウチカウシ山(8:15)-・1807(11:00)-1823峰(15:40)-1823峰南東コル=C6(16:20)
晴れ。風。朝は風も強く前日の疲れもあってゆっくり出る。振られる風の中カムエクまで。風は少し弱まるが、ピラミッド峰、1807峰付近は風に煽られないように注意する。午後になるとやはり雪はズボズボになりペースが落ちる。疲労の中、23峰北コル付近でイグルー適地があって少し迷うが少しでも進めることにした。黄昏の23峰南東コルで、翌日からの荒天に備えてきっちりとイグルーを作る。完成するころには月明かりが山を照らし、十勝側には街の灯が見えた。
4/3 C6=C7
吹雪。イグルーから一歩も出ずに過ごす。暴風警報が出た。夜はイグルーのすぐ外でジェット機が飛んでいるような風の轟音に少し不安を感じる。
4/4 C7(5:10)-コイカクシュサツナイ岳(8:30)-ヤオロマップ岳(11:00)-1599峰(14:30)-Co1680南東尾根頭=C8(17:00)
快晴。朝目覚めるとまだ風の音が大きくのんびりしていたが、その後風はピタッと止まり慌ててパッキングして出発。ヤオロから先はまたズボズボになり、雪庇にも気を使う。

4/5 C8(3:15)-ルベツネ山(4:00)-ペテガリ岳(6:30)-中ノ岳北Co1300=C9(10:30)
晴れのち曇り。前日に夜明け前まで丸い月が出ているようになったことがわかり少し早出する。凍ったテントから出ると、月光に照らされた山脈が実に美しい。昨日溶けた雪が氷化し、ルベツネ手前は急峻で固く注意する。ペテガリCカールのコルで真新しい熊の足跡があった。雪庇の陰から出てくるなよと声を掛けながら通過する。ペテガリの頂上ではいよいよここまで来たなと感じる。ペテガリ東尾根分岐から・1469間は細い尾根に大きな雪庇が出ていて注意する。ここを除いた全行程で雪がよく締まって歩きやすく、今日はチャンスだと気持ちよく飛ばすが、風と黒雲が一気に押し寄せてきたので雨に当たる前にと早めにイグルーを作る。
4/6 C9=C10
朝出るもガス、風と霧雨。昼近くになっても回復せず、イグルーを補修して停滞を決める。少しでも進めておきたかったのに動けず1.5停滞してしまった。残り日数を考えて地図をなぞると、楽古岳からの下山が妥当に思えてしまう。誰が決めたのか、日高の主要部である芽室岳から楽古岳を歩けば日高全山として認められることになっている。自分自身それと軽量化を考えて楽古岳まで行けるだけの荷物、何もかもうまくいけば襟裳岬までとの計画を立てた。しかしいざ楽古岳から下山するのかと思うとなんだか釈然としない。この山行をやろうと決め、日々夢想していた頃からいつもゴールは襟裳岬なんだと心は決まっていたのだ。幸運にも翌日からの3日間は天気が良さそうだ。明日以降がんばってみよう。
4/7 C10(3:20)-中ノ岳(4:30)-ニシュオマナイ岳(7:10)-神威岳(8:50)-ソエマツ岳(14:30)-・1529北コル=C11(15:50)
曇りのち快晴。暗いうちから出発するが、中ノ岳まではバリズボ、ズボズボで朝から消耗させられる。前日の雨の影響だろう。停滞前に通過していれば三分の一くらいの労力でいけただろうにと悔やむ。中ノ岳を越えると一転クラストして歩きやすくなる。寒気が入ってきたので、止まっていると寒いが歩いているとちょうど良い。ソエマツを越える頃には雪の状態も悪化して尾根の陰を整地して泊まる。夜、腰が何度かギクリとするがギリギリセーフだった。

12日目の朝。ピリカヌプリより北望。ちょうどモルゲンロートに染まった。
4/8 C11(3:30)-ピリカヌプリ(5:10-30)-トヨニ岳(9:15)-野塚岳(13:00)-オムシャヌプリ(14:50)-オムシャヌプリ東峰南Co1310=C12(15:20)
晴れのち曇りのち雪。風のない引き締まった冷気の中を小気味よく歩くと次第に指先に血は巡り、新しい一日がはじまる。ピリカの山頂に着くころにちょうど山脈はモルゲンロートに燃えた。トヨニから下ってスノーシューにする。オムシャヌプリ手前から雪が降り出し、オムシャ東峰から下ってすぐの岩陰に泊まる。また寒い夜は嫌だなと思ったが、腰も心配なので寒いテントの濡れたシュラフに潜り込む。

久しぶりに自分の顔を見た。
4/9 C12(4:35)-十勝岳(5:20)-楽古岳(9:10)-ピロロ岳(12:00)-広尾岳分岐(15:00)-Co840コル手前=C13(16:00)
快晴のち曇り。風もほとんどないのに楽古岳手前まで防寒着を着たまま歩き驚く。寒いからなのか、身体の発熱能力が低下しているのか。楽古岳から下ってスノーシュー。急な下りは滑っていく。広尾岳分岐を過ぎてどんどん標高を下げ泊まる。あとはもう大丈夫だと安心して酒を飲み干す。
4/10 C13(5:50)-△1121(8:00)-猿留川林道(10:00)-トヨニ湖(16:00)-沼見峠南Co300=C14(18:00)
曇り時々小雪、雨。見栄えの良い三角点1121を最終ピークとする。振り返る山脈は雲の中だ。コンタ尾根を猿留川に下る。林道の上部は橋がなく三度転石徒渉。時折雨宿りしながら荒れた林道の熊の足跡を追い、豊似湖へと登り返す。雪を繋いで豊似湖裏の峠を越え、ずぶ濡れになって林道に出て泊まる。

15日目。雨の中襟裳岬に到着。まだまだ元気だったが、体重は5kg近く減っていた。
4/11 C14(6:30)-襟裳岬(11:30)
雨。百人浜に出てえりも岬まで。
15日間の縦走を終え辿り着いたゴールでは、体重は5kg近く減ってしまっていたがまだまだ歩ける気がした。毎日感動的な山の姿を見ながら歩き、訪れたことのある場所を通っては、あのカールで泊まったなとか、あの沢を登った時はひどい目に遭ったな、などと思い出しながらの気持ちの良い縦走だった。日高での思い出に限らず、多くの仲間の顔が浮かんだ。こんな体験は初めてだったし、他の山域ではこんな気持ちにならなかっただろう。30歳、山を志してちょうど一回り12年の節目の登山だった。これまで山行を共にしたり刺激を与えてくれた仲間たち、山の楽しみ方を教えてくれた先輩方、応援してくれた良き妻と素晴らしい山々に感謝する。
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OBの山行記録・
2015年5月17日 (日)

2014年、自分にとって記念すべきルーム卒業&就職の年。
ところが4月に社会人一発目の山行として現役を誘って企画したニセカウ南稜で雪崩に遭い、入社2週間目で入院した。
(ちなみに大先輩の仁さんは会社役員です。その節はご心配おかけしました!)
おかげで会社の人には名前を憶えてもらえたのであるが、山岳部4年間それなりにやってきたつもりがこの様なので、色々と思う事があった。
週末では出来ないような、真摯に純粋に、全身でぶつかる山登りがしたい。
もがいたりあがいたりしながら山の懐で抱かれたい。憧れの山を、自分のやり方でやりたい。
そんな自分の想いをぶつけられる山行は何かと考え、現役の頃から憧れだったカムエク南西稜が頭に浮かんだ。
山越えして別の土地に辿り着く山行が自分は好きなので静内ダムから札内ダムまでのっこす計画にする。
テントは持たない。(それ以前にテント持って無いけれど!)ツェルトとイグルーで日高の核心部を山越えする。軽いしその方が面白いと思う。
核心部での懸垂と自己確保を想定してロープは6mm×40mを携帯することにした。
6行動4停滞持って入山。今回の為に有給つなげて連休11日を準備した。
今回は天気に恵まれ停滞無しで大晦日下山となった。

12/26 晴れ
最終バス停〈美園〉(17:50)C1(23:30)
バス停から月明かりを頼りに歩く。満天の星。ウトウトしながら、歩く。
ラーメンをたべたり小休止しながら。眠気の限界が来てツェルト張ってC1。
12/27 晴/曇り
C1(7:00)コイボク林道(14:00)C2(17:30)
ひたすら歩く。5万図のコイボク林道の橋の位置は古く実際と一部違う。・410辺りで除雪終わりスノーシュー。5万図「コイボクシ」の「シ」の辺りでC2。ツェルト泊は笹を敷くと暖かい。
12/28 晴れのち曇り
C2(6:30)清和橋(9:00)・1151(13:15)Co1340=Ω3(14:40)
ラッセルはすねくらい。橋が地図と違うので惑うが、思ったより先まできていて清和橋にすぐ着く。ようやく登り。
・1151までズボズボ、笹と倒木が非常にうざく腰まで埋まったりする。・1151から歩き易くなる。
Co1340に良い雪がありイグルー。深夜から翌未明にかけて寒冷低気圧の通過。太平洋に高気圧が張り出しており湿雪。
12/29 雪→ガス→夕方晴れ 稜上視界100程度
Ω3(6:00)シカシナイ山(8:10)・1821(13:00)P1800先=Ω4(13:40)
4時出発でカムエク一気に狙えるかと目論んだが、外はまだ雪。視界が無いので明るくなるのを待つ。
湿った新雪20cm。昨日の疲れがたまっておりペースが上がらない。ラッセルすね〜膝。シカシナイ山から先の稜上は、南側が雪崩斜面で所々樹林内雪庇が張り出す。かといってカンバ帯に寄ると体が埋まって進めない。
スノーシューの爪も決まらずズルズル・ズボズボ・カンバ・ハイマツ地獄。苦しみの連鎖。
予定より大分時間がかかり・1821に着く。ここからは白く美しい稜線。痺れる。
・1564尾根と合流するP1800の少し先のコルに良い雪面があり、ブロック積んでイグルーを建てる。1人でブロックを積むのは大変だ。倍時間がかかる。夕方、突如雲が途切れる。雲海に浮かび夕陽に輝く日高山脈の中にぽつんと自分は立っていた。
夕陽に輝くカムエクを初めてここで目にする。涙が出る。ここまでつらかった。自分だけの宝物を得る。

12/30 ガス 視界〜200程度 風は気にならない程度
Ω4(6:30)カムエク(9:50)八の沢左岸尾根末端(13:00)札内ヒュッテ=C5(18:00)
天場出るとガスッているが視界200程度はとれる。ウンをイグルーにデポして出発。
東側に一部大きな雪庇あるが問題ない。案外何もないなと思いながら進むとP1850手前で先にある核心部がチラリと見えた。「・・・マジ?あれ行くの?」と一人つぶやく。超細く見える。恐竜の背骨の様で物凄い怖い。本当にあんなの行けるのか。不安と期待を抱いて核心部に入る。核心部は殆ど岩稜だが意外と東側を捲いたり出来て、ナイフリッジが2カ所程あるが対処は難しくない。今回は雪が飛ばされていて、雪庇の嫌らしさはそれ程無かった。岩稜地帯が終わると、カムエクまで一気の急登。既に息切れ気味でペースダウン。南側が雪崩斜面になっていて大きな雪庇もあり気は抜けない。残った力を振り絞りやっとピークに立つ。
ここまで本当に長かった。ピークからは左岸尾根を下る。十勝側は概ね晴れていて、カムエクを振り返りながらだばだばと降りる。
ピークからはトレースがあり、AT成功し天場を撤収している北大ワンゲルPと出会う。皆充実した良い表情だった。ヒュッテまで歩きストーブの脇で眠る。この世の天国。
12/31 曇り
C5(8:30)札内ダムゲート(9:30)中札内まであと5kmの所(13:45)
ゲートでタクシー呼ぶのはもったいない。タクシー呼んだらそこで旅は終わる。もっと余韻にひたりたい。というか1人でタクシーは高すぎるので、バス停目指して歩く事にする。上札内に着いたがここまでバス亭は無く7km先の中札内まで歩かないと行けない。
もうここまでくると10km以内はすぐだと思えるので再び歩く・・・が上札内出て2kmの地点で地元のおじさんが拾ってくれバス停まで送ってくれた。
この山行はバス停に始まりバス停に終わる。(あと5kmだったけれど)
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