書評・出版・ 2013年11月18日 (月)

岳人12月号に載せてもらった書評です。字数制限校正前のもと原稿です。
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著者は北海道の山と海で長く知られた冒険家だ。ニセコの新雪滑降スキーヤーの雪崩事故を現場で20年以上かけて押しとどめて来た。それから知床でシーカヤックによる岬越えを100回以上ガイドした。どちらも一級の天然世界を滑る自由、漕ぐ自由、本当の冒険に対する敬意のために、行政、観光、漁業、学者、環境派、さまざまな「冒険者以外」の人たちに頭を下げ、その矢面に立ち、過去と未来のすべての冒険者の代弁をする役割を引き受けて、ある程度の成果をおさめて来た。とても尊いことだと思う。
「人々はいきなり自然に目覚め、アウトドアマンになった。そして修練を積まずに冒険に踏み出し始めた。アウトドア文化とは都会人の自然願望をコマーシャリズムが煽ることによって生まれた文化であり、その意味で都市文化のひとつといえるのではないだろうか」
青春時代に手作りの冒険をして育ったあとニセコと知床でやってきた「アウトドア文化」時代。強い違和感を感じながらその前線に立ち続けた。カンダハー、バンド締めのシール、漁師用雨合羽など、古くからの道具に言及する。秘境探検の黎明期から使われてきた原始的な山道具は、今では時代遅れなのだろうか。
私は著者新谷さんに一度お会いしたことがある。ニセコのエリア外新雪滑降をする人が増えて雪崩による死亡事故が急増し、それをなんとかしなければと苦闘していた1992年だった。新谷さんはカンダハーの締め具に革登山靴だった。良質な雪のあるニセコへアメリカから滑りに来ていたイヴォン・シュイナード氏の案内をしていた。氏は最先端の登山用品を作るパタゴニア社の代表にして登山家。登山道具開発の専門家だ。その彼が新谷さんの足下に敬意を払っていたのをよく憶えている。
単純な締め具カンダハーを私も学生のとき使ったが、その頃は新谷さん以外使っている人を見なかった。昔からの道具は、初心者には簡単に使えない。修練を積むうち身体の延長となり、山での自由な行動の手足と化して働く。最近の道具はそれがなく、いつまでも「借り物」だ。偽りの全能感で山に向かい、最も忘れてはいけない「山への畏怖」を培うことができない。それはビーコンやGPSも同じだ。長く登っている者はその安っぽさがわかる。便利なモノについて行けないのではない。それを持つと山で最も大切なことが損なわれるということを知っている。
「90年代後半から2000年の始めは今日へとつながる混乱の時代の始まりだったように思う。人々は多様な価値観という言葉に惑わされ、苦労せず手にした知識を勘違いし、努力することを忘れた。しかし借り物は所詮、借り物でしかない。そして事故が続いた。」
もう一点道具に頼らない著者に共感する点が、イグルーで雪山を登る話だ。雪の質を見て、知恵を使って作るイグルーは、習得すれば無敵の天場だが、いまはそれを修練する人はいない。私は、自分と仲間のほかには著者しか知らない。
著者の山から海への転身を意外に思う向きもあるかもしれない。しかし、北海道では両者は冒険の場として自然に連続している。知床では海抜0mの無人地帯でスキーを担いで泳いで徒渉して取り付くこともあるし、増毛や積丹では沢を下れば人家抜きで海へ直行の所もある。だから高所登山に区切りをつけたあと、北海道育ちの著者がカヌーに転じたことに納得する。それは、ハロルド・ウィリアム・ティルマンがエベレスト探検から手を引いた後、ヨットで南氷洋にでかけ、氷雪の未踏峰を登る探検を綴った評伝「高い山・はるかな海」に対する敬意からも。北海道は千島を通してアリューシャンと繋がり、サハリンを通してシホテアリンと繋がっている。その脈絡を読んで欲しい。
ナンセン、デルスー・ウザーラ、ティルマンはじめ、アリューシャン、パタゴニア、ネパールの住民など、天然世界の波形に合わせて前進する人々の尊いことばの数々が語られる。そしてティルマンについて書かれた「高い山 はるかな海」という本について、私が著者に共感する逸話があった。貸した本はたいてい返って来ないがこの本は何人に貸しても必ず帰ってくる、とある。今は絶版で手に入らないこの本を私も、後輩、同志に私も何度も貸した。今は来年カラコルムに行く友人が読んでいるところだ。帰ってくれば誰かに読ませたくなる本なのだ。
「雪崩の危険は吹雪の間かその直後」
「制度で知識と技術を学ばせることはできる。しかし経験は教えられない。これだけは自分で積まねばならない」
「経験を積めば用心深くなり慎重になる。そして、ときに経験が役に立たないことも知る。」
「準備を怠ってはならない。何ひとつ忘れてはならず、余計なものを持ってはならない」
全編、経験から得た価値ある短いことばに満ちている。
長く冒険とそれをとりまく社会に現場で関わって来た男の、つぶやくような、告白するような文章が、ひとつひとつ心に降り積もるような本。
書評・出版・ 2013年11月15日 (金)
久しぶりに岳人の感想です。
●ニセコの新谷さんの新刊、「北の山河抄」の書評を米山が書きました。p126です。
●なんといっても山スキー部の近郊スキー大縦走の記事があり〼。(p94)
冷水小屋から入って札幌岳〜空沼岳〜漁岳〜中山峠(〜無意根/悪天で一度下に降りる)〜余市〜春香〜手稲と逆Cの字に山小屋つないで巡る豊平川集水域を回る夢の計画。札幌に住んでいればいつかはやってみたいもの。在田さんが山登っている姿初めて拝見しました。急げばもっと短時間になりそうだけど、これはこのスピードで楽しそう。いつかやってみたい。美しい計画です。山スキー部はスキー部からの独立50年だったんだ。
●松原君(1990)の7年ぶりという沢記録載ってました。(p103)
男体山北面の金剛峡〜御真仏薙遡行記録です。誰も行かない堰堤27連発をぐっとこらえて「意外にもスケールある岩溝状」など堪能の模様。米山も夏に奥秩父の主峰国師岳に良い登路はないかと金山沢を登って、堰堤14連発の憂き目にあいました。もとはよさそうな谷なのですが。男体山も行くならこれで行くしかないですね。冬は登山禁止だそうなので。
●けっこうおもしろい連載だったニッポン百名山(樋口一郎氏)が遂に最終回でした。(p187)
筑波山と富士山。富士山は素人が登りたがり、ちょっと山になれた頃は馬鹿にして登らない「富士山軽視」という「通過儀礼」を通り、登り込んだ人にはその深い意味と奥行きを知って真価を知るようになるという、富士山は岳人の成熟度を測るバロメーター説には納得しました。まったくその通り!私は30年かかりました。
●利尻仙法師稜の紹介記事で、ことし春BSの番組で東稜(東北稜だったかな?)脇の谷を滑り降りた佐々木大輔氏が利尻の思い出を書いている。15歳で北尾根を山スキーアタックしていたんだ!(p65)
●少し前連載していた剱岳幻視行(和田城志氏)間もなく単行本化されるそうです。木本さんの連載だったクライマー魂今読んでいます。お二人とも敬愛する先輩です。おいおい読書感想文を載せたいと思います。
●ニセコの新谷さんの新刊、「北の山河抄」の書評を米山が書きました。p126です。
●なんといっても山スキー部の近郊スキー大縦走の記事があり〼。(p94)
冷水小屋から入って札幌岳〜空沼岳〜漁岳〜中山峠(〜無意根/悪天で一度下に降りる)〜余市〜春香〜手稲と逆Cの字に山小屋つないで巡る豊平川集水域を回る夢の計画。札幌に住んでいればいつかはやってみたいもの。在田さんが山登っている姿初めて拝見しました。急げばもっと短時間になりそうだけど、これはこのスピードで楽しそう。いつかやってみたい。美しい計画です。山スキー部はスキー部からの独立50年だったんだ。
●松原君(1990)の7年ぶりという沢記録載ってました。(p103)
男体山北面の金剛峡〜御真仏薙遡行記録です。誰も行かない堰堤27連発をぐっとこらえて「意外にもスケールある岩溝状」など堪能の模様。米山も夏に奥秩父の主峰国師岳に良い登路はないかと金山沢を登って、堰堤14連発の憂き目にあいました。もとはよさそうな谷なのですが。男体山も行くならこれで行くしかないですね。冬は登山禁止だそうなので。
●けっこうおもしろい連載だったニッポン百名山(樋口一郎氏)が遂に最終回でした。(p187)
筑波山と富士山。富士山は素人が登りたがり、ちょっと山になれた頃は馬鹿にして登らない「富士山軽視」という「通過儀礼」を通り、登り込んだ人にはその深い意味と奥行きを知って真価を知るようになるという、富士山は岳人の成熟度を測るバロメーター説には納得しました。まったくその通り!私は30年かかりました。
●利尻仙法師稜の紹介記事で、ことし春BSの番組で東稜(東北稜だったかな?)脇の谷を滑り降りた佐々木大輔氏が利尻の思い出を書いている。15歳で北尾根を山スキーアタックしていたんだ!(p65)
●少し前連載していた剱岳幻視行(和田城志氏)間もなく単行本化されるそうです。木本さんの連載だったクライマー魂今読んでいます。お二人とも敬愛する先輩です。おいおい読書感想文を載せたいと思います。
記事・消息・ 2013年11月12日 (火)
シュウはネパール服で。ニセコ町の職員だそうで羊蹄山の近くにドームハウスを買い、春には結婚するそうだ。
記事・消息・ 2013年11月9日 (土)
峠越え:7名 車利用:10名、現役:13名(4年目1名、1,2年目6名ずつ) 以上宿泊30名、
日帰り:5名 合計35名が参加
海外遠征や現役の参加の可能性など中身が濃い話が続いたが、全員が自己紹介する前に酔いが回る。ハーモニカ、笛が登場したり、歌を歌った。翌日が現役2年目のG島君の20歳の誕生日で手作りの抹茶シフォンで祝い、ハッピーバースデーを歌った。
小屋前での記念写真後、現役は薪割り、床のワックス掛け後10時過ぎに解散。
記事・消息・ 2013年11月6日 (水)
書評・出版・ 2013年10月31日 (木)

2012年春、8000m峰14座を登った日本で初めての登山家竹内さんの、半生の自伝。以前書籍紹介した「初代・竹内洋岳に聞く」はまだ2009年5月にチョーオユーとダウラギリを残した時点での本だったけれど、ほぼ竹内洋岳を描ききっていた。厚い本だけどおもしろく、すぐ読めました。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=629
今回はその14峰完登をうけての執筆で、前回聞き語りだった本ののエッセンスが自筆としてまとめられ、チョーオユーとダウラギリ以降の稿が書かれている。
8000m登山というジャンルはエネルギーを使う無駄な筋肉をつけないために
、特にトレーニングをしないという話、日常意識するのは歩き方だという点は興味深い。二本の足を交互に動かして前進する歩行術こそ、普段おろそかにしていて、奥が深いのではないかと常々思う。これは8000mに限らない。山登りは皆そうだと思う。
「登山は想像のスポーツです。頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただそのために、登山家はひたすら想像をめぐらします。無事に登頂する想像も大事ですが、うまく行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければ、それを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。」はとても大切なことばだと思った。
「街の中に潜む見えない危険」で、登下校中の小学生の列に車が突っ込むという事故がなぜ続くのかという話に、それは一列になって歩くから、前の子について歩くことばかり考えて、車を見なくなるからというある保育園のプロの仮説を紹介。「他者から管理されることによって、察知したり、回避したりする力が使われなくなってしまうことがあるのではないか・・・」というくだりに強く共感した。山登りで最も危機感覚を磨けるのは、頼れる人がいない、そして登山道や山小屋の無い、全く管理されていない山中ではなかろうか。
表題の哲学という言葉は大袈裟だと本人も書いているし、僕も始めそう思ったけど、「危険」と「想像」と「歩行術」に関する思索は哲学といえると思いました。
前回も書いたが、山に登りたいという気持ちから手を挙げ先輩について行き、経験を積んで誘われる友人との出会いも生かして歩いてきた気負わないけどぶれていない姿勢を読み取った。このペースの竹内さんだからできたことではないかと云う気がする。
14座とか100名山とか90歳とか、メディアに出やすい数字に、山登りに熱心な人ほどそれほど感じないと思う。そうは言ってもね、8000mの山を死なずに14も登って帰ってくるなんて、やはりこれはなかなかできません。歴史を知っていれば、それに一度でも8000mに行ってみれば。それは本当にそう思う。
書評・出版・ 2013年4月10日 (水)

図書館には絶版になっていた本がたくさんあります。
冠松次郎と云えば今世紀初頭に黒部川を歩きまわり、名著もたくさん。黒部好きなら大好きな登山家ですが、なんと富士山の本も書いていました。山麓の甲府に来ると、こういう本が見つかります。昭和23年の版。厳冬期含め四季を通じ登っていて、どのルートも書いていて、山麓の風物も紹介している。全くよく歩いています。
「富士山は眺むべき山で登る山ではないと云ふてこれに登らず、その遠景を見て満足してゐる者は眞の自然愛好者と云ふ譯には行かない。」
「富士山を眺めてその實體に觸れず、而して富士山の景觀を語らんとすることは難い。あの豪壯荒涼たる風象に接して、さて飜ってこれを顧みその縹渺とした姿を描くところに、兩端を盡したる喜びがある。その山の實體に觸れず、委曲に接せずして山に親しむと云ふことはありえないのである。」
山登りが好きで好きで、どうしても書いてしまいたくて書いたような、こういう本が大好きだ。山の古い本は、輝きがあせない。
子供二人との8月末の山行記録で
「八合目の小舍についたのは午近い頃で、持參した飯盒の飯を茶碗に分けて澁茶をかけ、ツクダニと福神漬とで腹いっぱい押し込んだら、子供たちは忽ち元氣を盛り返した。」富士登山、お茶碗持っていったんかー。
1943(昭和18)年の元旦に、もう少し大きくなった息子と御殿場ルートから砂礫を飛ばすつむじ風を突いて山頂アタックしています。1883年生まれだから60歳。戦争中だけど、このころまではまだ国民は戦争に負けると思ってなくて、本土が焦土になるなんて予想していなかった。原発事故から2年たったちょうど今頃は似ているかもしれません。山岳部のペテガリ初登もちょうどこの月のこと。
「それにしても、何と云ふすばらしい氣持なのだ。あの廣大な裾野を上り、氷壁のやうな山體を、ひと足ひと足に刻みながら、今この頂に上りついて、我を繞る浩蕩たる山川風物の大觀に接した氣持ちは。私たちにでも、この高嶺は、この嚴冬の眞中に、雪の衾を延べ、氷の扉を開いて、水晶宮のやうな燦蓮としたうてなに迎へてくれるのだ。」

なくなった登山道、村山道と須山道についても歩いたうえで書いています。
お中道も、山麓も、それに周縁の山の山行も。良い本を見つけました。
水晶宮のやうな燦蓮とした『うてな』・・・。
こんな古書の書評を書いても誰も読めませんが図書館などにはあるかもしれません。
記事・消息・ 2013年4月9日 (火)





記事・消息・ 2013年2月5日 (火)

京阪神のこの冬は、ごく普通に寒く1月26日の京都は時に雪が舞っていた。会場は京都駅八条口前のホテル。福井からの田中さんは雪による列車運行の乱れを勘案し昼にはホテルに着いておられた様子。
午後3時ごく普通に内藤支部長の乾杯の発声で開始したが、出席者予定者が一人足りず、もしやと思ってご自宅に電話したら電話口に出られた。日にちを間違え1週間前に一度宴会場に来た、との告白もあり、日本は今やごく普通にこう言う時代になったと感慨しばし。
記事・消息・ 2012年11月15日 (木)
3日夕刻、空は雲に覆われているも雄松浜あたりは打ち寄せる波も穏やかで、対岸の島影には薄っすらと夕陽が当たっている。湖畔での焚き火準備におさおさ怠り無く、愛用のノコやショベルを持参した須田さんがザックから道具を取り出すのももどかしく、そのノコを掴んだ内藤さんは、目星をつけた枯れ木に切りかかった。(記:岸本)