記事・消息・
2015年2月14日 (土)

2/3道新に掲載された雪崩対策のセミナー記事。山スキー部OB阿部幹雄が代表している雪崩事故防止研究会の救助訓練イベントでスタッフでもあるキンペイ(1974入)が大きく写っている。南極越冬隊の副隊長になった樋口(1980)も研究会のメインスタッフ。当時私が現役時代の1976に昨年逝去された伏島氏(1968入)を中心としてテキスト「雪崩の危険と遭難対策」を作り救助、訓練を実施した。その後彼らが1991復活させ、毎年雪崩対策と救助のセミナーを実践している。

折りしも今月に出版された雪崩災害調査チーム出版の「山岳雪崩大全」(山と渓谷社)は最新の雪崩研究、医療、対策、救助、事故例分析と中身が濃い。巻末の事故例とマップは必見。
なおこのチームは前述の阿部と樋口が当時の雪氷学会道支部長の山田知己氏(1960入)のお墨付きの元2007年に発足。過去13件の雪崩事故を現場に赴き調査、分析している。
2015.2.14高篠投稿(1972入)
記事・消息・
2015年2月3日 (火)
京都駅前セントノーム京都にて
高橋支部長の乾杯発声で午後2時プンクトに開始。初見参の若い人達からまずは自己紹介。しかし2006年とか08年入部と言われても、1950-60年代組にとっては世代をどうずらせても交差比較するものがなく、田中(宏)君と鹿島君の話をただ一から十までフ−ンと聞く。ご出席の相田さんと鹿島君とは50年離れているのだそうだ。フ−ン。
その点関西支部デビューの川井さんは何とな1960年代の残渣があり、スピッツベルゲンやフェゴ島での調査話は、停滞の日のテントの中で聞くようなフ−ンだった。
今回も1名、開催日を失念されていたがそれでも40分遅れで登場。皆様方は笑顔で歓迎。川道さんが、上梓ほやほやの自著「ムササビ」(なんとハードカバーで販価も印刷されているヤツ)を出席者全員に配ったのは15年のサプライズお年玉。トビラに川道さんのサインをもらった一人は、これで高く売れるとさすが関西人というべきかAACH出身者というべきか。
その後はまとまり無く雑談が続き、気が付いたら肩を組んで都ぞ弥生を歌う時間になっていた。午後4時過ぎ散会。それにしても私が今までに会った山岳部出身の若者達は、一様にすがすがしい。数日後の高橋支部長のメールに曰く、若者が来ると倍は楽しい、と。(記と写真:岸本)

出席者14名(敬称略、数字は西暦入部年)
相田58、神戸、高橋(昭)、内藤、渡辺(尚)以上59、伏見61、川道、須田以上62、岸本65、川井74、宮本82、岡島83、田中(宏)06、鹿島08
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書評・出版・
2015年1月16日 (金)

1981年の山と渓谷、北大山岳部の紹介記事が出て来ました。同期入部のGGが大事に持っていました。私もGGも81年はイナカの高校2年生です。この記事を見て北大を目指したのだろうかな?
記事を書いているのはスエタケさん(1978年入部)、撮影は山スキーOBの阿部さんです。山中の写真のコジキジャンバーやコジキオーバーズボンはそのまま数年後も継承していました。センパイのストックの竹製輪っかも秀岳荘です。アイゼン練習は旧Zでしょうか。タニの赤いアイゼンのようです。

部室の小汚い風景が、ストロボの光で現実以上に鮮明で報道写真的な例会の写真です。1970年代末に部室がこの場所に移動してから、今も同じところで同じ営みが続いています(多分)。冬合宿の食事写真では直径18センチのアルミのボウル二つを食器にしているところをスッパ抜かれています。1980年12月末の十勝岳白銀荘の冬合宿の撮影ということでしょう。木造時代の恵迪寮(1983年3月取り壊し)で、北海道型キスリングの日高ザックに裸足でパッキングしているチンネンさん。この木造恵迪寮、受験の時に泊めてもらって飲ましてもらいました。

一年目部員のコジキ服のお尻のツギ写真も紹介して、輝く笑顔の新人だったフジワラさんの姿もあります。昔の桑園駅のホームも懐かし。スエタケさんの文章も、北大山岳部の環境と、継承したものと精神世界を余さず伝えています。
衣類は若干こぎれいになっていますが、基本的に現在も34年前と変わらぬ営みのようです。
書評・出版・
2014年12月7日 (日)

アルピニズムと死
山野井泰史 2014.11
山野井泰史の、「垂直の記憶」以来10年ぶりの本。山野井泰史のことは前の一冊で満腹すぎるほどよく読む事ができました。高校時代からまっすぐにやりたい事を求め、そのための道を進んで来た彼の思う事が、簡潔乍ら誠実な文章で凄く伝わりました。前回はギャチュンカンの生還の少し後に書いたもので、今回は指も無くして握力も体力も無一文になった彼が、また垂直のアルパイン界に戻ってくるこの10年間を書いています。
この本のひとつのテーマは、何故これまで彼は死なずに生き残って来られたのか?という事です。もちろんそんな事は分からないけれど、彼が凄い想像家だというのが強く印象に残りました。
まるで予言者か催眠術師のように、自分の山行のシーンをすべて「言いきり文体」で並べています。
「長いトレッキングの果てにたどり着いた寒々しいベースキャンプ。体調を崩しているが、強い気持ちを維持している」
「悪名高きクレバスだらけのガッシャブルム氷河。確保してくれる人は誰もいない。怪しいルートは決して選ばない。それでも落ちた時の事を考え、両手にアクスを握りながら歩く」
「5700m付近から、ピラミッドのようなガッシャブルムIV峰が見えてくる。緊張のあまり心拍数が上がるが、しっかりと目標の東壁のコンディションを見極めている」
「氷河上のキャンプでは時間はかかるが面倒がらずに水を作り、お茶をたくさん飲む」
「テントから頭を出すと、北から雲が流れているのが見える。この冒険を精一杯楽しもうと決意する」
「暗い時間からアタック。強い孤独感は無くなったが、不安からか、まだ完全には集中しきれていない」
「ハーネスにカラビナとロックピトンは装着するが、動きの邪魔になる細いロープはザックに入れたまま東壁に入って行く」
「黄色の大理石の岩はロックピトンを受けつけないほど硬い箇所が多い。黒い崩れ易い岩が突然現われ、5級の難しさが続くが、冷静にアイゼンの前爪を使って踏み込んで行く」
「登りながら下山予定の北東稜の形状を記憶する」
「核心部と思われる7000mで雲の流れをもう一度見る。再び登攀に集中を戻す」
出かける前に自宅の畳の上で赤毛のアンみたいに想像するそうです。
順調に進んでいない時の事ももちろんたくさん想像するのです。想像しすぎて出発の前夜眠れないことも想像してあるそうです。
ネットも携帯もやらずゆっくり調べて、忙しくない暮らしの中で想像して、山を準備し自分の方法で向き合う姿です。
そして山に入ったら研ぎすました五感ですべての気配を受け止め、判断するよろこびを満喫しています。
表題の「アルピニズム」と「死」それぞれに簡潔な言葉があります。楽しいだけの山登り、絶対安全な山登りに対して。
山野井泰史の歴史と存在は特別なものだけど、言っていることにはすべて共感しています。人生をこれだけ垂直アルピニズムに捧げて、生き残っている登山家が同時代同世代にいて、誇らしい気持ちになります。山好きの読者は、自分とは比べ物にならない人生だとは思いながらも、強く憧れる登山家の姿ではないかなと思う。
前回書評↓
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=102
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書評・出版・
2014年11月26日 (水)

日本山岳会の年報、「山岳 2014年 第109年」に安間荘会員(1955年入部)が載せた論文を紹介します。安間さんは長く富士山の地質、積雪防災関連の調査に当たる仕事をしています。「スラッシュ雪崩」という聞きなれない雪崩現象があり、1972年3月20日に24人が亡くなった大規模遭難の際、このスラッシュが起きていた可能性を指摘し、遭難当事者や生還者に聞き取り取材をした上でまとめた力作です。
特殊な雪崩なだけにあまり知られておらず、当時の遭難も登山者の未熟のせいにされた節があり、十分な総括と反省対策がなされていません。40年前は、たまたま登山者が多く大事故になりましたが、その後も毎年起こっている可能性はあります。無知のままならば今後も死亡事故が起こるかもしれません。以下にその概要を抜粋します。
≪スラッシュ雪崩≫
初冬や春先、積雪の時期に気温の高い南風で雨が降り、積雪層の下、氷面の上に大量の水分がたまり、ずぶずぶの氷水の状態になる。ラッセル歩行すれば下半身が氷水漬けになり、低体温化し、疲労凍死の危険が高まる。不安定な層になるから雪崩の危険も高い。そのデブリは氷水とシャーベット状で速度もあり埋没は致命的。
古来富士山麓で時折発生した「雪代(ゆきしろ)」という災害はこのスラッシュ雪崩とそれによる土石流災害であることが近年の研究で明らかになってきた。
生還者の話によれば「積雪層の下底部に轟々と水が流れ、斜面下部の雪崩の通った谷状地に滝を作って激しく濁流が流れ、渡るのが困難だった」というほどになる。
≪1972年3月20日の遭難≫
富士山の過去の遭難で10人以上の死傷者があったのは4件、うち二回は吉田大沢の11月の新雪表層雪崩で、3月はこの一件のみ。
南岸を通る速度の速い低気圧の暴風雪のため、20日下山途中、低体温症で24人亡くなった。静岡頂山岳会7人、清水労山11人、平塚登高会3人、平塚日産車体山岳会2人、個人山行者1人。遭難パーティーと同行しながら生還した人5人だけ。
清水労山パーティー
御殿場ルートの六合(2750m)でテント泊したがミゾレ交じりの暴風雪で早朝六合目避難小屋に移り、午前10時、そこから普通なら2~3時間で下れるはずの太郎坊駐車場目指して下った。が1時間もしないうち意識障害を起こし次々倒れた。何人かがスラッシュ雪崩に浚われ先頭のリーダーのみが奇跡的に生還した。
静岡頂山岳会パーティー
宝永山肩(2700m)にテント泊していたが朝9時半、暴風雪で撤収し下山。4合目付近で次々倒れデブリにものまれ、二人がかろうじて下山、捜索を呼ぶ。
≪その伝えられ方≫
当時は雪のスラッシュ化そのものの認識が、登山者にも砂防関係者にも社会にもマスコミにもなく、報道では「甘く見た結果」というようなもので終わった。死者にも生還者にも辛いものとなった。その後ここに計画されていたスキー場建設にも水を差すとされた。(ここにその後できたスキー場は、スラッシュ雪崩による損壊で、その後閉鎖されている)。
富士山におけるスラッシュ(融雪)雪崩と
積雪のスラッシュ化に起因する山岳遭難事故
ー富士山に特徴的な雪氷気象と遭難の特異性ー
安間 荘
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記事・消息・
2014年11月14日 (金)
11月8日(土)夕刻。
開催1週間前に相田さんが、前日に内藤さんが、それぞれまるで休戦ラインのように38度の発熱で、常連2名不参加。取って代わるように安間さんが急遽参加され、また宮本君も初参加とあって、例年とは違った雰囲気になるのかと思いきや、「最近は一滴も飲んでない、もう欲しくもない」と私に告白していた名越さんが、のっけから美味しそうに日本酒に口をつけ、寄せ集めた流木に火をつけ、なんらいつもと変わらぬ風景が展開。
安間さんの空沼小屋保存の経緯と現状のお話に、私もこの件については「札幌」が妙に静かなのは何故かと思っていたが、ブツだけじゃあいかんともし難いものがあることを知りました。空沼小屋では、後に想いでとなることを色々と紡いだ日々もあったのにねえ。

ごく軽い地震でなぎさが揺らめき、酔いと焚き火で体がほてり、曇り夜空からぼんやりと出た円いお月様が、湖面にきらめく残像を作った。ご老人達はコップ片手に世相を切り、エスプリを飛ばし、かつ自照も忘れず語り合い。数刻後そろそろマンションに引き上げて暖かいお風呂で締めましょうと言っても、都ぞ弥生と山の四季を未だ歌っていない、と。遊び盛りの六歳児だねえ、ったく。
11月9日(日)、早朝目覚めると予報通り木々が濡れており、比良登山に出かけるのは中止と決定。マンションで朝食をいただき、9時半には現地解散。再会を約しそれぞれの目的地へと別れました。
追記:当日の写真は画像アーカイブスのホームページ2014年内に貼り付けてあります。
(記:岸本、写真:高橋、伏見、福本)
参加者(敬称略): 安間(荘)、吉田(勝)、高橋(昭)、田中(英)、渡辺(尚)、伏見、名越、福本、宮本、岡島、岸本の計11名
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記事・消息・
2014年11月3日 (月)
参加者は峠越え:OB〜7名 車で:OB〜8名、ゲスト2名。翌朝3名。
現役はチャリと車で計12名。合計32名。

13時過ぎにはご飯作りを始めたので15時過ぎにはヘルベチアの女神様にまず乾杯!さらに全員が揃った17時前に前夜祭スタート。乾杯の音頭は紅一点の1年目(未成年なので酒にあらず)!

乾杯(OB達)
ここ数年現役はタダでOBが余計に負担するということで、その代わり「手抜きせずにうまい料理を」という伝統になってきた。

そこで今回はレシピも買出しも現役生に全てまかせて腕をふるわせる。手作りつまみ、ラーメンサラダ、キムチ鍋や炊き込みご飯のメインメニューに、OB持参の鮭や酒、ワイン。山岳館でのイベント残りのウィスキーなど、差入れも豊富。ホルモン2kgの差入れ含めて焼肉をやる頃には、かなり酔いが回る。恒例の現役の紹介や山の歌で焚き火の回りの宴が盛り上がる。

屋根上より朝の風景
紅葉が終わって葉は落ちていたが、夜も昼も実に暖かい祭日和だった。翌朝にもOBら3名が朝食の差し入れも持ってきてくれて、腹いっぱいごちそうになる。

朝食後の仕事は薪割り、小屋掃除、ワックス掛けそして今回は北側屋根にのみ付いていた苔をこそぎ落とした。

祭りと言っても日曜に全員で記念写真とるのが唯一のセレモニー。
簡易水道の水も快調に出ていて、トイレの便槽も直り、小屋もまだまだ健在。
現役も増え、意義ある交流もできて賑やかで楽しい祭であった。今後とも多くのOB、現役、一般の利用者が利用して頂けることを願っている。
記事・消息・
2014年10月24日 (金)

20141022極地研の白石所長(1967入)の記事が10/22道新夕刊に。南極での豊富な経験により、アジアでの議長が選ばれたのは初めてと評価されている。(道新夕刊11面)
書評・出版・
2014年9月18日 (木)

甲府に住むようになって、北岳バットレスの直登ライン、第4尾根が気になり始めた。沼田の清野センパイを呼んで、歴史解説付きで取りついた。1930年代のバットレス第1尾根〜5尾根初登攀時代、そしてその積雪期初登に執念を燃やした東京商科大(一橋大)の小谷部全助の物語を話題にした。
小谷部の最後は敗戦の年の暮れ、肺結核で富士見のサナトリウム。見舞いに訪れたザイルパートナー森川眞三郎も肺結核のためそこで絶命、それをみて数時間後に後を追うように息絶えたという話。この頃の八ヶ岳山麓サナトリウムと言えば、風立ちぬはじめ数々の名作に出てくるあそこです。

数年前原真さんが亡くなったとき、形見分けにどうぞ、と、奥さまに書棚の本をいただいた。原さんの書棚は別に書庫があるほど膨大だが、たまたまその頃手元に置いていた中から、この一冊をいただいた。
その巻頭の、バットレス登攀にかけた小谷部のことばを引用する。
「南アルプスの巨魅、北嶽の東面には知る人も稀な素晴らしい大岩壁が天空を制して居る。多くの困難なるヴアリエーシヨンルートが次ゝと開拓され盡くした昨今、嚴冬の裝い嚴めしい此の壁のみは、喧噪の登山界から恰も取り殘されたかの如く、太古の靜寂の裡に久遠の雪煙をなびかせて居たのであつた。

或るものはかかる立派な岩壁の幾つかが、尚未登の儘殘されて居たのを知つてか知らずか、早くもヴアリエーシヨンルートに見切りをつけて夲邦登山界の行き詰まりを論じ、遠征熱に浮かされて居る。確かに夲邦山嶽に於けるヴアリエーシヨンルートは行き詰まりに近く、主要な箇所に於て最早容易に初登攀の望めなくなつた事は認めざるを得ない。そして今期に於る吾ゝの登攀が所謂行詰りへの道を、更に一歩進めた事も肯く事が出來る。然し乍ら行詰まりと言ふ事は、山嶽界と言ふ樣な大きな觀點から眺めた場合に初めて通用するもので、之を個別的に解し、若い吾ゝが激しい登攀への精進を怠り、遠征の名に陰れて安逸を貪る如き卑怯な態度をとらぬ樣注意すべきである。即ち先輩乃至は他の團體が既に登つたからと云つて、その爲に直ちに爾餘の者の登攀能力がそれ以上に進むと言ふ樣な事は考へられない。」
小谷部率いる山岳部は、1935年12月、第五、第三尾根の厳冬期初登、1937年1月第一尾根、第4尾根の厳冬期初登を果たした。ベースキャンプは池山吊尾根の・2950(このころは八本歯の頭とは呼ばれていなかったようだ)。ちなみにBCは根拠地。
このバットレスが未踏だった時代、芦安から夜叉神峠を越えて荷を運び、池山尾根を登って12月24日から1月10日まで。楽しかったろうなあ!若くして病死して、無念だったろうなあ。
この連休の第4尾根登攀記です。混んでいたけど良いルートでした。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-510390.html
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書評・出版・
2014年9月10日 (水)

北大の片隅にあった柔道場で、僕らと同時代に続いていた、柔道部の熾烈な青春記。山岳部の青春と比べ乍ら読んだ。よく、死のリスクがあるのに何故山に登るのか問われるが、もちろんある意味で楽しいからである。でも、高専柔道の練習は「楽しくない」と言い切る。全然違う。恵迪寮で高らかに笑っていた飯田さん、花村さん、こんな稽古をしていたんだ!俺、知らなかったです。
北大含めた全国の旧七帝国大学では、戦前から続く寝技中心の高専柔道という過酷な柔道が継承されていた。才能や体格に左右される立ち技ではなく、練習量だけが勝敗を決める寝技中心の柔道だ。そもそも立ち技で投げ飛ばしても、経験者どうしなら受け身を取って反撃するから、絞め技で気絶させるか関節技で腕を折るかしなければ実戦の武術とは言えない。なるほど。主流派の講道館ルールと違うからオリンピックに出られるわけでもなく、勝敗結果が新聞にでるわけでもない。毎年、七帝戦で勝つためだけに苦しい稽古を続ける。練習量だけが勝敗を分けるということは、残酷で、逃げ場がないということだ。
試合シーン読めば無意識に歯ぎしりだ、寝技シーンは読んでいるだけで耳がギョウザになりそうだ!ファイトのシーンはたいへん読ませる。
増田青年が過ごす昭和61年の札幌北区のお店の記憶がよみがえった。梅ジャンのまさもと、宝来、みねちゃん、屯田、札幌会館、カネサビル、深マン、女子寮乱入。ラグビー部の木村、応援団瀧波、統計の山元先生、懐かしい。
20歳前後の青年は一年間で体も心も凄く成長する。その様が描かれている。報われない青春かもしれない。4年間守りに徹する(カメ)の稽古だけをする者も居る。レギュラーになれないのに4年間稽古をやめず続ける人への敬意がある。それから、センパイ達、柔道部の先達達への敬意と憧れだ。男が男にぐっと来る瞬間が捉えられている。それに男達が本当によく泣く。これにはもらい泣きだ。こちらは梶原一騎モノ漫画で育った世代なのだ。
「七帝柔道」をカチャカチャやって少し調べてみると、この時代は七帝戦史でも京大東北大が連戦引き分けの珍しい二年間で、長い歴史の中でも北大がどん底の時代だったのだ。増田青年たちがどん底の青春を戦いそして歴史は続いて行った。今年の夏もやっていたのだ。
「勝ちたいのう」
「一本でも多く乱取りしたほうが勝つんで」
和泉さんの台詞が心に残った。
大学は、とことん何かに打ち込み、研究の方法を身につけていく場だ。それが柔道を通した猛稽古でも良いと思う。遠い昔から先輩によって受け継がれた尊いものを後世に伝えて行く。山岳部もそこは同じなんだ。それが果たせれば大学にいた意味があると思う。この年頃に一生懸命身に付けたものの大きさは、後になるほどわかる。
山岳部は年間100日近く山に行った。未熟なことをやって滝壺で溺れたり、滝で落ちて死んだり、雪崩で埋まって死んだりの事故が時々あった。だから計画の検討を部員皆で毎晩延々やった。山に行かない日はこればかりだった。身体的鍛練では無いけれど、これをやった共通の体験が、何十年も違うOBとの一体感を作っているという点が同じだと思った。
大学がどれだけグローバル化とかなんとか変わろうとしても、変わってはいけないものは変わってはいけないと思う。
七帝柔道記
2013/3
増田 俊也
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