書評・出版・
2014年11月26日 (水)
日本山岳会の年報、「山岳 2014年 第109年」に安間荘会員(1955年入部)が載せた論文を紹介します。安間さんは長く富士山の地質、積雪防災関連の調査に当たる仕事をしています。「スラッシュ雪崩」という聞きなれない雪崩現象があり、1972年3月20日に24人が亡くなった大規模遭難の際、このスラッシュが起きていた可能性を指摘し、遭難当事者や生還者に聞き取り取材をした上でまとめた力作です。
特殊な雪崩なだけにあまり知られておらず、当時の遭難も登山者の未熟のせいにされた節があり、十分な総括と反省対策がなされていません。40年前は、たまたま登山者が多く大事故になりましたが、その後も毎年起こっている可能性はあります。無知のままならば今後も死亡事故が起こるかもしれません。以下にその概要を抜粋します。
≪スラッシュ雪崩≫
初冬や春先、積雪の時期に気温の高い南風で雨が降り、積雪層の下、氷面の上に大量の水分がたまり、ずぶずぶの氷水の状態になる。ラッセル歩行すれば下半身が氷水漬けになり、低体温化し、疲労凍死の危険が高まる。不安定な層になるから雪崩の危険も高い。そのデブリは氷水とシャーベット状で速度もあり埋没は致命的。
古来富士山麓で時折発生した「雪代(ゆきしろ)」という災害はこのスラッシュ雪崩とそれによる土石流災害であることが近年の研究で明らかになってきた。
生還者の話によれば「積雪層の下底部に轟々と水が流れ、斜面下部の雪崩の通った谷状地に滝を作って激しく濁流が流れ、渡るのが困難だった」というほどになる。
≪1972年3月20日の遭難≫
富士山の過去の遭難で10人以上の死傷者があったのは4件、うち二回は吉田大沢の11月の新雪表層雪崩で、3月はこの一件のみ。
南岸を通る速度の速い低気圧の暴風雪のため、20日下山途中、低体温症で24人亡くなった。静岡頂山岳会7人、清水労山11人、平塚登高会3人、平塚日産車体山岳会2人、個人山行者1人。遭難パーティーと同行しながら生還した人5人だけ。
清水労山パーティー
御殿場ルートの六合(2750m)でテント泊したがミゾレ交じりの暴風雪で早朝六合目避難小屋に移り、午前10時、そこから普通なら2~3時間で下れるはずの太郎坊駐車場目指して下った。が1時間もしないうち意識障害を起こし次々倒れた。何人かがスラッシュ雪崩に浚われ先頭のリーダーのみが奇跡的に生還した。
静岡頂山岳会パーティー
宝永山肩(2700m)にテント泊していたが朝9時半、暴風雪で撤収し下山。4合目付近で次々倒れデブリにものまれ、二人がかろうじて下山、捜索を呼ぶ。
≪その伝えられ方≫
当時は雪のスラッシュ化そのものの認識が、登山者にも砂防関係者にも社会にもマスコミにもなく、報道では「甘く見た結果」というようなもので終わった。死者にも生還者にも辛いものとなった。その後ここに計画されていたスキー場建設にも水を差すとされた。(ここにその後できたスキー場は、スラッシュ雪崩による損壊で、その後閉鎖されている)。
富士山におけるスラッシュ(融雪)雪崩と
積雪のスラッシュ化に起因する山岳遭難事故
ー富士山に特徴的な雪氷気象と遭難の特異性ー
安間 荘
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記事・消息・
2014年11月14日 (金)
11月8日(土)夕刻。
開催1週間前に相田さんが、前日に内藤さんが、それぞれまるで休戦ラインのように38度の発熱で、常連2名不参加。取って代わるように安間さんが急遽参加され、また宮本君も初参加とあって、例年とは違った雰囲気になるのかと思いきや、「最近は一滴も飲んでない、もう欲しくもない」と私に告白していた名越さんが、のっけから美味しそうに日本酒に口をつけ、寄せ集めた流木に火をつけ、なんらいつもと変わらぬ風景が展開。
安間さんの空沼小屋保存の経緯と現状のお話に、私もこの件については「札幌」が妙に静かなのは何故かと思っていたが、ブツだけじゃあいかんともし難いものがあることを知りました。空沼小屋では、後に想いでとなることを色々と紡いだ日々もあったのにねえ。
ごく軽い地震でなぎさが揺らめき、酔いと焚き火で体がほてり、曇り夜空からぼんやりと出た円いお月様が、湖面にきらめく残像を作った。ご老人達はコップ片手に世相を切り、エスプリを飛ばし、かつ自照も忘れず語り合い。数刻後そろそろマンションに引き上げて暖かいお風呂で締めましょうと言っても、都ぞ弥生と山の四季を未だ歌っていない、と。遊び盛りの六歳児だねえ、ったく。
11月9日(日)、早朝目覚めると予報通り木々が濡れており、比良登山に出かけるのは中止と決定。マンションで朝食をいただき、9時半には現地解散。再会を約しそれぞれの目的地へと別れました。
追記:当日の写真は画像アーカイブスのホームページ2014年内に貼り付けてあります。
(記:岸本、写真:高橋、伏見、福本)
参加者(敬称略): 安間(荘)、吉田(勝)、高橋(昭)、田中(英)、渡辺(尚)、伏見、名越、福本、宮本、岡島、岸本の計11名
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記事・消息・
2014年11月3日 (月)
参加者は峠越え:OB〜7名 車で:OB〜8名、ゲスト2名。翌朝3名。
現役はチャリと車で計12名。合計32名。
13時過ぎにはご飯作りを始めたので15時過ぎにはヘルベチアの女神様にまず乾杯!さらに全員が揃った17時前に前夜祭スタート。乾杯の音頭は紅一点の1年目(未成年なので酒にあらず)!
乾杯(OB達)
ここ数年現役はタダでOBが余計に負担するということで、その代わり「手抜きせずにうまい料理を」という伝統になってきた。
そこで今回はレシピも買出しも現役生に全てまかせて腕をふるわせる。手作りつまみ、ラーメンサラダ、キムチ鍋や炊き込みご飯のメインメニューに、OB持参の鮭や酒、ワイン。山岳館でのイベント残りのウィスキーなど、差入れも豊富。ホルモン2kgの差入れ含めて焼肉をやる頃には、かなり酔いが回る。恒例の現役の紹介や山の歌で焚き火の回りの宴が盛り上がる。
屋根上より朝の風景
紅葉が終わって葉は落ちていたが、夜も昼も実に暖かい祭日和だった。翌朝にもOBら3名が朝食の差し入れも持ってきてくれて、腹いっぱいごちそうになる。
朝食後の仕事は薪割り、小屋掃除、ワックス掛けそして今回は北側屋根にのみ付いていた苔をこそぎ落とした。
祭りと言っても日曜に全員で記念写真とるのが唯一のセレモニー。
簡易水道の水も快調に出ていて、トイレの便槽も直り、小屋もまだまだ健在。
現役も増え、意義ある交流もできて賑やかで楽しい祭であった。今後とも多くのOB、現役、一般の利用者が利用して頂けることを願っている。
記事・消息・
2014年10月24日 (金)
20141022極地研の白石所長(1967入)の記事が10/22道新夕刊に。南極での豊富な経験により、アジアでの議長が選ばれたのは初めてと評価されている。(道新夕刊11面)
書評・出版・
2014年9月18日 (木)
甲府に住むようになって、北岳バットレスの直登ライン、第4尾根が気になり始めた。沼田の清野センパイを呼んで、歴史解説付きで取りついた。1930年代のバットレス第1尾根〜5尾根初登攀時代、そしてその積雪期初登に執念を燃やした東京商科大(一橋大)の小谷部全助の物語を話題にした。
小谷部の最後は敗戦の年の暮れ、肺結核で富士見のサナトリウム。見舞いに訪れたザイルパートナー森川眞三郎も肺結核のためそこで絶命、それをみて数時間後に後を追うように息絶えたという話。この頃の八ヶ岳山麓サナトリウムと言えば、風立ちぬはじめ数々の名作に出てくるあそこです。
数年前原真さんが亡くなったとき、形見分けにどうぞ、と、奥さまに書棚の本をいただいた。原さんの書棚は別に書庫があるほど膨大だが、たまたまその頃手元に置いていた中から、この一冊をいただいた。
その巻頭の、バットレス登攀にかけた小谷部のことばを引用する。
「南アルプスの巨魅、北嶽の東面には知る人も稀な素晴らしい大岩壁が天空を制して居る。多くの困難なるヴアリエーシヨンルートが次ゝと開拓され盡くした昨今、嚴冬の裝い嚴めしい此の壁のみは、喧噪の登山界から恰も取り殘されたかの如く、太古の靜寂の裡に久遠の雪煙をなびかせて居たのであつた。
或るものはかかる立派な岩壁の幾つかが、尚未登の儘殘されて居たのを知つてか知らずか、早くもヴアリエーシヨンルートに見切りをつけて夲邦登山界の行き詰まりを論じ、遠征熱に浮かされて居る。確かに夲邦山嶽に於けるヴアリエーシヨンルートは行き詰まりに近く、主要な箇所に於て最早容易に初登攀の望めなくなつた事は認めざるを得ない。そして今期に於る吾ゝの登攀が所謂行詰りへの道を、更に一歩進めた事も肯く事が出來る。然し乍ら行詰まりと言ふ事は、山嶽界と言ふ樣な大きな觀點から眺めた場合に初めて通用するもので、之を個別的に解し、若い吾ゝが激しい登攀への精進を怠り、遠征の名に陰れて安逸を貪る如き卑怯な態度をとらぬ樣注意すべきである。即ち先輩乃至は他の團體が既に登つたからと云つて、その爲に直ちに爾餘の者の登攀能力がそれ以上に進むと言ふ樣な事は考へられない。」
小谷部率いる山岳部は、1935年12月、第五、第三尾根の厳冬期初登、1937年1月第一尾根、第4尾根の厳冬期初登を果たした。ベースキャンプは池山吊尾根の・2950(このころは八本歯の頭とは呼ばれていなかったようだ)。ちなみにBCは根拠地。
このバットレスが未踏だった時代、芦安から夜叉神峠を越えて荷を運び、池山尾根を登って12月24日から1月10日まで。楽しかったろうなあ!若くして病死して、無念だったろうなあ。
この連休の第4尾根登攀記です。混んでいたけど良いルートでした。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-510390.html
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書評・出版・
2014年9月10日 (水)
北大の片隅にあった柔道場で、僕らと同時代に続いていた、柔道部の熾烈な青春記。山岳部の青春と比べ乍ら読んだ。よく、死のリスクがあるのに何故山に登るのか問われるが、もちろんある意味で楽しいからである。でも、高専柔道の練習は「楽しくない」と言い切る。全然違う。恵迪寮で高らかに笑っていた飯田さん、花村さん、こんな稽古をしていたんだ!俺、知らなかったです。
北大含めた全国の旧七帝国大学では、戦前から続く寝技中心の高専柔道という過酷な柔道が継承されていた。才能や体格に左右される立ち技ではなく、練習量だけが勝敗を決める寝技中心の柔道だ。そもそも立ち技で投げ飛ばしても、経験者どうしなら受け身を取って反撃するから、絞め技で気絶させるか関節技で腕を折るかしなければ実戦の武術とは言えない。なるほど。主流派の講道館ルールと違うからオリンピックに出られるわけでもなく、勝敗結果が新聞にでるわけでもない。毎年、七帝戦で勝つためだけに苦しい稽古を続ける。練習量だけが勝敗を分けるということは、残酷で、逃げ場がないということだ。
試合シーン読めば無意識に歯ぎしりだ、寝技シーンは読んでいるだけで耳がギョウザになりそうだ!ファイトのシーンはたいへん読ませる。
増田青年が過ごす昭和61年の札幌北区のお店の記憶がよみがえった。梅ジャンのまさもと、宝来、みねちゃん、屯田、札幌会館、カネサビル、深マン、女子寮乱入。ラグビー部の木村、応援団瀧波、統計の山元先生、懐かしい。
20歳前後の青年は一年間で体も心も凄く成長する。その様が描かれている。報われない青春かもしれない。4年間守りに徹する(カメ)の稽古だけをする者も居る。レギュラーになれないのに4年間稽古をやめず続ける人への敬意がある。それから、センパイ達、柔道部の先達達への敬意と憧れだ。男が男にぐっと来る瞬間が捉えられている。それに男達が本当によく泣く。これにはもらい泣きだ。こちらは梶原一騎モノ漫画で育った世代なのだ。
「七帝柔道」をカチャカチャやって少し調べてみると、この時代は七帝戦史でも京大東北大が連戦引き分けの珍しい二年間で、長い歴史の中でも北大がどん底の時代だったのだ。増田青年たちがどん底の青春を戦いそして歴史は続いて行った。今年の夏もやっていたのだ。
「勝ちたいのう」
「一本でも多く乱取りしたほうが勝つんで」
和泉さんの台詞が心に残った。
大学は、とことん何かに打ち込み、研究の方法を身につけていく場だ。それが柔道を通した猛稽古でも良いと思う。遠い昔から先輩によって受け継がれた尊いものを後世に伝えて行く。山岳部もそこは同じなんだ。それが果たせれば大学にいた意味があると思う。この年頃に一生懸命身に付けたものの大きさは、後になるほどわかる。
山岳部は年間100日近く山に行った。未熟なことをやって滝壺で溺れたり、滝で落ちて死んだり、雪崩で埋まって死んだりの事故が時々あった。だから計画の検討を部員皆で毎晩延々やった。山に行かない日はこればかりだった。身体的鍛練では無いけれど、これをやった共通の体験が、何十年も違うOBとの一体感を作っているという点が同じだと思った。
大学がどれだけグローバル化とかなんとか変わろうとしても、変わってはいけないものは変わってはいけないと思う。
七帝柔道記
2013/3
増田 俊也
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書評・出版・
2014年7月24日 (木)
ナンガパルバットに三度、全部別の難ルートから挑んで全部山頂目前敗退、冬剱、冬黒部横断の山行40回。こんな無茶で一辺倒な志向で押し通してきて生き残っている。みな、唯一無二の登山家として認識してる。とうとう和田さんの山人生自伝が出版されてしまった。そして恐る恐る読んでしまった。
和田さんは学生の頃からあこがれの登山家だ。当時の「岩と雪」に、冬黒部横断の山行を「学生山岳部員こそ挑め」と書いていた記事を覚えている。冬の黒部川をパンツ一枚で渡渉するその記事を、じじい(同期高橋君)がやや興奮して話題にしていたのが僕にとって一番古い記憶。そのころ、1987年は、和田さんにとって転機になった年だったのだと、この本を読んで知った。
はじめの剱沢大滝探検行の下りで流れた1970年の「夜明けのスキャット」が、全篇通じて読書脳の片隅で鳴り続けていた。何より和田さんの言葉は音楽のように豊かだ。詩人だったとは。言葉は登攀中、ラッセル中に練られ、熟成され、形になるのではないか。山で黙々と過ごすとき、いつも心で言葉を探している。
1976年に剱沢大滝に再開した時のことば。「久しく遠かったこの大自然の絶景は、私の日々に育まれた想像(いや妄想と言うべきか)を裏切るどころか、遥かに凌駕して今ここに存在する。この幽深の絶峡に役不足のものはひとつもない。切り立つ岩壁は重々しく濡れた鈍色(にびいろ)の光沢を放つ狩衣(かりぎぬ)だ。山襞の残雪は矢折れ傷ついた白銀の鎧だ。低く垂れ込めた霧雲は猛々しい灰色の母衣(ほろ)だ。側壁に反響する瀑音は軍馬にまたがる鬨(とき)の声だ。雨と飛沫に煙るモノトーンの景色は、琵琶法師の語る源平絵巻の亡霊武者を彷彿とさせた。」あの剱沢の絶景を言葉でこれでもかと尽くす。
剱沢大滝を、登攀はおろか、目で見た人も多くはあるまい。間違いなく日本一の秘境の一つだ。僕は2003年秋、剱沢大滝のTV撮影に関わった。和田さんの後輩で1976年に剱沢大滝を彼と初登攀した片岡泰彦さんと1991年ヒマラヤでご一緒して以来、何度も山に行く縁になっていた。あるとき、剱沢大滝を遡行した数少ない登攀者、松原憲彦とともに片岡さんに誘われ、大阪の和田さんの自宅に酒を飲みに行った。和田城志と山の話ができることに、すごく期待した。名古屋から長着に羽織も着て近鉄に乗った。昼に訪れ、晩になり、風呂に入りながら飲み、朝まで飲んで、少しウトウトして、また飲んで昼過ぎになった。100パーセント山の話で。
「今な、どこの山に行きたいんや!今行きたいルート、ぱっと言えるか?それが大事なんや。」
「ウィリアム・ハロルド・ティルマン。この人の伝記は、『高い山はるかな海』いう本や。」
本棚には、表紙がとれそうになった付箋だらけの「ナンガパルバット」(ヘルリコッファアー1954)があった。剱沢と黒部横断について集めた資料や整理した写真の数数を見せてもらった。
本のあとがきで、家族に、会社の仲間に、死んだ山の仲間に、生きている仲間に、「ありがとう、ごめんなさい」とたくさん書いていた。これを読んであの翌朝のことを思いだした。夜中に庭で飲んでいたので、山の話で声がでかくなり、何時だったか「うるさいぞ!」と近所から声が聞こえた。一同反省して屋内に入ってまた山の話を続けた。翌朝、和田さんは近所の家を一軒一軒全部まわって謝って歩いていた。近所の人で怒っている人はいなかったようだ。この本のあとがきのあいさつが、あの朝の和田さんの姿そのもので、すこしおかしかった。
和田さんてどんな山登ってきたんだろう。なぜ暗くて、危険な山行ばかり続けるのだろう。どうやって職場と折り合いつけて、毎回2週間も厳冬期の剱に行けるんだろう。問いの納得いく快答は無いが、こんな文章があった。
「社会で生きるということは、それなりの役割を果たすということだ。私は、山の負債を山で返そうとしていた。積雪期の剱沢大滝完登は、私を後ろめたく勇気付けた。しかし、人は多分認めない。それが私には心地よかった。なぜ、こんな危険で不快な登山をするのか。雪崩と悪天候、頂上の爽快さもない陰湿な冬の谷底にうごめいて、何が面白いのか。あたりまえの疑問だ。私自身が分からないのだから。」
引用だらけになってしまってキリがないから引用しないけど、174pから176pのアルピニズムについては、同じことを思った。「ビビる山か、そうでないか」。付箋を貼った個所が多すぎて、そんなメモ書きもきりがない。
たくさん載せられている詩は、また何度か読み返すうち意味が変わって理解できると思う。
今月末にある登山家の追悼会で、和田さんと久しぶりにお会いできる予定です。
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記事・消息・
2014年5月12日 (月)
北大山岳部と親交があり、マライーニ氏とイグルー山行もした元北大学生、宮澤弘幸氏のスパイ冤罪逮捕事件、名誉回復の件で、新しい動きがありました。
五月の連休中に、宮澤弘幸実妹、高齢の秋間美江子さんと支援者が北大との名誉回復についての話し合いを持ちました。北大は当初関わりを避けていましたが、事件を冤罪と認識し、「北大宮沢記念賞(仮称)」を創設、一年次に英語を除く語学に秀で、かつグローバルな学生が二年次にこの章を授与する事を決めました。
退学処分にした件についての謝罪や卒業認定に関しての特別事項は特にありませんでしたが、秋間さんは冤罪を認めてもらえた事で心が少し晴れたようだとのことです。
北米在住の秋間さんは、30年前、登山家の山野井泰史氏が北米の山で遭難した際救助に関わった縁で、山野井氏の父上の携わる反戦労組関連の市民団体とつながり、支援をうけることになったということです。今回の名誉回復に、山野井父が精力的に働いてくださいました。
宮澤氏は山岳部員ではなかったのですが、外国に興味を持ち、外国人留学生や宣教師と積極的に交わり、ソ連との国境地帯などをよく旅行していたため、特高警察に冤罪をしかけられ、真珠湾攻撃の日に見せしめで逮捕されたようです。
山が好きだったイグルー友達として、宮沢氏の名誉回復を私は喜んでいます。
5月8日朝日新聞北海道版
5月11日北海道新聞社説
NHK北海道放送
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%AE%AE%E6%BE%A4%E5%BC%98%E5%B9%B8%E3%80%80%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%96%B0%E8%81%9E&ie=utf-8&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&hl=ja&client=firefox-a
OBの山行記録・
2014年5月11日 (日)
シューパロ岳は、芦別、夕張山脈の西列にある鋭峰群のひとつ。南北の衝立みたいな細いリッジに10以上のピナクルが尖って最高点シューパロに続く。山頂手前には100mほどの岩壁バットレスもある。山深いので積雪期に目指す人はいないし、無雪期は尚更。登攀記録は見た事が無い。シューパロ岳に登るなら、このリッジが正面玄関だろうと、8年前から計画をしていた。
(4月20日撮影 1415より斉藤)
2014年5月4日(日)〜6日(火)
米山(1984), 斎藤(1987), 新宮(1984ワンゲル入部)
北大山岳館で海外登山史編纂の座談会を終えて、つるで飲んだあとサイトー宅で前夜泊して、夕張川に向かう。シューパロダムはサイトーが90年代に地質調査で何度も通ったところだそうだ。今は大きなダムになって、上流の村落は水没していた。シングーは30年になる旧友だ。最後に一緒に登ったのは98年の針ノ木岳西稜だった。あれも、誰も行かない鈍い光を放つ美しいルートだった。その後ソロモン群島の地質調査などしていて、もう何年も日本にいなかった。
雪と土砂崩れでシューパロ川林道はすぐに車で行けなくなる。林道20キロ。むかし長い林道入山は嫌なものだったが、広い夏道だと思えば楽なものだし悪くない。車が通らなくなって久しい林道は、足元にも優しいし、きれいなものだ。まして春、芽吹きや雪解けの水や、遠く残雪の山を垣間見ながらゆく林道は楽しい。鳥の声も、露頭の中生代の層理面も。スキーは要らなかったが、誰もデポしようと言い出さず、とうとう20キロ運んでしまった。始めは雪があればはいたりしたが、無くても潜らないので面倒くさくなり、シートラのままになった。
林道終点は法面崩壊で笹薮急斜面になっていたが、雪解けの水流で岸辺が無いからまだ沢底には降りられない。薮を漕ぐと、先に林道が地図通りまだ続いていた。その行き止まりCo600mでC1とする。イグルー作るには雪の密度が重く気温が高過ぎなので、壁3段積んで、下2段掘って、屋根は開きにできるツエルトをタープ状にして小屋掛けする。この時期無理にイグルー作っても屋根はすぐ落ちるし、雨で雫が垂れるので残雪期イグルーはこれで良い。張り綱止めるのにスキーが唯一役立った。アクスも二本ずつあって止めるに困らない。焚き火ゴンゴンで肉を焼いてバーボン。北斗七星が真上だ。シングーが紙巻きタバコを巻いて配る。焚き火の脇では、昔のように喫煙者になる。先月別れた彼女の置き土産らしい。明日の稜線は未知だ。歯が立たずスゴスゴ帰るかもしれない。行ってみなくては分からない。(写真シューパロBC)
4時には明るい。右岸雪の上を行く。水流は減っている。ほどなく標高700m二股、ここから東の沢に入る。べったり雪でスタスタ高度を稼ぎ、稜線へ。南方、夕張岳や西岳が見えて来た。稜線間際の笹薮下にアイヌネギ群落発見。匂い立つが、これから未踏ルートに向かうとき、山菜採りの気分にはならない。稜線は基本、雪が無い。いくつもの小ピークを上り下りしながら、掴み易い薮を掴んで進む。ハイマツの弾性も協力的だ。一カ所だけもろい岩、高度感ありブッシュ切れの数mをザイル出すが他は全部ノーザイルで延々行く。(写真・急斜面のトラバース)
1009分岐のピークを超えると、西側の急斜面に雪が残って繋がっている。ピナクル上り下りを避けて、この雪で巻いて行く。バットレスの手前のピナクルの手前で稜線に戻ると、バットレスのルートが見えた。サイトーが振り向いて、「もらった!」とひとこと。右側、東側の雪を巻いて行ける。初めて貫徹のメドが立った。記録無く、地図だけ見て来た計画だ。先がどうなるか分からない楽しみだ。バットレスの基部から見上げる。もし直登するなら、1、2p分の壁だ。西側のリッジが弱点に見える。東側急雪面のトラバースは、個々に孤独に登る。偽ピークを越えて最高点へ。8年越しの計画貫徹だ、うれしいなあ。北に中岳が初めて見えた。芦別夕張の主脈が並列している。懐かしく、美しい山脈だ。1989年の4月、端から端までスキーで歩いた稜線を目で辿る。1415峰の北西面の断崖が凄い。(写真・バットレスと東面の雪面トラバース)
下りは高度感ある急斜面の下り延々。バックステップで下る事多し。1009分岐から南西の沢へ、アイゼンもハーネスもとっ外してシリセードで高差300mを一気に絶叫ダイビングする。途中で急停車してアイヌネギ収穫も忘れず。谷の雪は標高700m二股で登路と合流するまで繋がっていた。西日の差し込む谷。逆行の若葉の中をベースキャンプへ。北上5キロ、南下3キロの未知のナイフリッジを、手際よくしとめたのではないだろうか。天気は後半悪い予報だったが、一日持った。風は強かったが直射日光が無く助かった。夜、焚き火のとき雨が降り始める。イグルーの壁は一日でずいぶんガタガタしていたので直す。酒飲んでネギ汁飲んで疲れて眠る。(写真・山頂三人 後ろは中岳)
下山の日、林道の雪は更に少なくなっていた。サイトーとシングーは頻繁にスキーに換えて歩くが、僕は面倒でシートラで通す。若葉の芽吹き、雪解け、蛇行の浸食、アンモナイトの中生層を見ながら下る。腰を下ろして30年ぶりに地質学教室の先生方の名前と顔を話題にしたり。延々20キロを黙々23キロ担いで歩くと、自動で動く自分の二本の足が、驢馬の馬車で、その荷台で揺られて運ばれている心持ちになる。考察や思索も進む。一日林道歩きとはいえ、林道が無ければこの増水河川のアプローチ、一日では不可能だし、足という名の乗り物に載ってしまえば楽なものだ。(写真・BC焚き火)
湯の元温泉に浸かり、三笠のみよし食堂でジンギスカン定食をガツガツ食べる。タカシノさんちに寄ったら丁度誕生日とのことで、ホタテやウニやおいしいものをたくさん食べさせてもらった。誕生日僕と一日違いなのね。札幌のサイトー宅でC3すると、ユキちゃんがモツアルトのトルコ行進曲ソナタを弾いて、計画貫徹と50の誕生日を祝福してくれた。
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書評・出版・
2014年2月1日 (土)
去年北海道版ネーチャー雑誌に大野(1997入)さんのインタビュー記事が載っていた
雑誌が手に入らなくてだいぶ時間が経ったが本人に了解を得て記事のコピーをもらった。ニセコ町で自然エネルギー担当で活躍しているそうだ。
カッツン(2003入)の結婚式で同席して、羊蹄山の近くのドームハウスを手に入れたと話していた。
山岳部時代のことも話している。冬は山へは行ってないそうだが、札幌からニセコに移住したので、スキー含め登りだすようだ。
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