書評・出版・
2009年5月27日 (水)
大滑降への50年
三浦敬三
実業之日本社
1970
三浦敬三が息子、雄一郎のエベレスト滑降の年に書いた、二人の自伝。三浦親子関連の近年の本は長生きイキイキの秘訣みたいな題のばかりで、違う人向け本のようだ。山登り人として三浦親子のなんたるかを知るにはこれが一番の一冊ではないだろうか。敬三さんの放つ魅力が分かった。この人は西堀栄三郎とか、明治生まれの染め物職人だった僕の祖父を思わせる。そして三浦親子を生み出したのが八甲田だったということがわかる。読後は八甲田を滑る気分が随分違う。
青森に来たので八甲田の黎明期を知ろうと、三浦敬三の本を読んだ。氏によれば八甲田ほどスキー的な山はないとの事。今も大規模なスキー場が無い上に残雪期は普通のスキーヤーがロープウエーで登って、スキーコースを滑る。山スキーとゲレンデスキーの中間のようなスキーが行われる。そのルートにたくさん残るスキーコースの指導票は1953年に敬三さんらが中心になってつけたもの。1968年にロープウエーができてから、その周辺だけを滑る人ばかりになり、以後は指導票を辿って全域を滑りまわる人がすくなくなったそうだ。
1904年生まれの敬三さんは、エベレストのサウスコルから1970年にスキー滑降した息子、三浦雄一郎の快挙以前から、日本のスキー界屈指の滑り手だった。北大スキー部出身でスキーを身につけ、青森営林署に勤めて営林署の「青森林友スキー部」をコーチとして日本一のスキーチームに育て上げて、戦前のオリンピックや国際大会の常連になった。そして八甲田の斜面を滑りまくり、さまざまな悪雪での回転術を試行錯誤して研究に没頭した努力が懇々と記されている。また雄一郎との子供の頃のスキー行や、雄一郎がやがて父と同じく北大スキー部に入り、海外のスキーコンペでめきめき頭角を現していく様なども書いてあり面白い。
北大山岳部は1926年12月にスキー部から独立した。スキー部の初期は山に登らねば滑れなかったし、スキーをはかねば山には登れなかったから、これが分かれた頃というのは、山に登らなくてもスキーができる、競技スキーに熱中する一派が生じ始めたということである。敬三氏は1923(大正12)予科入学、1925(大正14)スキー部に入って、スキーにはまった。当時のスキー部に直滑降、回転、ジャンプのすぐれた選手が多くいた話など、興味深く読んだ。今は木の茂る札幌の三角山の頂上から度胸試しの直滑降斜面があった話、初めてスチールエッジを見た時の衝撃など、最高に面白い。
雄一郎のエベレスト滑降も、突然世間の注目を集めたわけではなく、一つ一つ自分の力を伸ばして、誰もやらない事を目標に選んで、出来る努力を重ねて進んでいく。八甲田の全山一日連続滑降の試みなどから始め、イタリアのスピード滑降競技で腕をあげた。富士山吉田大沢での緊張感いっぱいの初滑降のところは、エベレストよりも緊張して読んだ。この親子、あれこれ指導して育てあげたという関係ではなく、「ついてくるか」「うん行くよ」。「平気さ」「よっしゃ」という少ないセリフで、手を出さない親、負けず嫌いの子の口数少ないながら堅いつきあいだった様子。
とっておきの山
1984
山と渓谷社
「とっておきの山」という山の小文集で、敬三氏の「八甲田サマー・キャンプ」という小文を読んだ。雄一郎が北大の夏休みで青森へ帰ったある夏、一家六人で八甲田の東北斜面にある雪渓の脇にキャンプして、五日間そこでこの親子が朝から晩までスキーをやっていた話だ。弟妹は小さかったので雪渓の脇や周りの藪で終日遊んで過ごし、スキーなどやらない敬三夫人はたき火で毎日炊事をこなした。敬三と雄一郎は来る日も来る日も雪渓で滑った。夏の雪渓はコチンコチンに凍っているので朝起きると斜面一面を父子二人でクワを持って耕し、そこを滑ったという。もくもくと楽しそうに、友達のようにクワ振り、奥深いスキーの奥義を探求するため稽古に打ち込む三浦親子がまぶたに浮かぶ良い話だった。昨年暮、雄一郎氏にお会いする機会があり、その話に感動した旨を話したところ、懐かしそうにされていた。誰も登って来ない夏の八甲田の雪渓で家族ごとテント暮らしの一週間なんて、夢のような家族だと思う。
何故僕は三浦敬三に惹かれるのか?当時のスキー靴の踵は低く、足首はクラクラ、板だって今のものとは比べものにならないくらい原始的だろう。そんな時代に何もかも手作りで、無限の可能性のあるスキー術を探るため、自分の身体一つで稽古に打ち込んだ姿に勇気づけられるのである。メーカーの知恵が注ぎ込まれた兼用靴と最新の板などはいて、滑りが楽しきゃいいだろう、という気分に僕はやはりどうしてもなれない。先日のポロシリ東カール滑降の悪雪、良雪の苦勞工夫の楽しさが忘れられないからだ。ジルブレッタと革登山靴で、どこまでも雪山と対話していきたい、と決意を新たにした。
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書評・出版・
2009年4月6日 (月)
俺は沢ヤだ!
成瀬陽一
東京新聞出版局(2009/3)
1429円
日本の沢、世界の沢を登り込んできた成瀬陽一(充血海綿体)の自伝本。岳人誌で連載されていたころから腹を抱えて笑いながら読んでいたが待望の単行本化。成瀬さんは天然少年仙人のような、世界でも指折りのトップ沢クライマー。これほどの文章の書き手とは失礼ながら存じ上げませんでした。沢を歩きに歩き、登りに登るうち、ことばは脳内に昇華するのでしょう。沢に魅入られるという天才を持ち、少々変態気味の笑えるエスプリのあるあたり、「のだめカンタービレ(漫画のほう)」くらい面白いと思いマス。お勧めデス。このすごい表紙写真は松原(1990入部)撮影の称名川ザクロ谷。水の色、苔壁の造形、光の加減、宗教画のよう。バッハの平均律クラヴィーアが聞こえて来そう。
2000年ころから台湾など海外の沢を研究する海外遡行同人の集まりで毎年お目にかかった。ナルっさんはそのころ日本の名だたる渓谷をアオタイや松っちゃんと登りまくっていたころだ。でも本書にあるとおり、そんな厳しくて楽しい事があらかじめ分かっている名渓をコレクションしても、手の込んだ観光旅行と変わらない。「沢ヤの本懐は未知の谷の解明にあり!立ちはだかる未踏の大滝の向こう側にあり!」と書く。「エベレストよりも高い山はどこにもないが、台湾の渓谷を凌ぐ谷は必ずどこかにある。」台湾の沢の、常識破りな壮絶ぶりは、本書を読めば見なきゃ分からないことだけはわかってもらえると思うが、この台湾へ通った遡行記録の数々が面白い。想像を絶するあの曲がり角の向こう側が見たくて。沢登り魔力の一番芯の部分だと思う。(同行松原の記録は部報14号で読める。)
原生林で突如全裸になって大木にしがみついたり、この森の象徴のようなかわいい顔をしたサンショウウオと同化したい衝動に駆られ丸焼きにして食べた晩(キスまでしといて何故食べる?)、空前絶後の食中毒で苦しむなど、やはり成瀬さんの過剰な熱情の世界は変態の森である。しかし、人生や存在のあり方を語る賢明な知見の数々のことばは変態であろうとも全く構わない。未だ誰も知らない地球のワレメちゃんを探し求める沢ヤは、やはりどう考えても変態で良いのではないだろうか。万国の沢ヤたるものなら、これに同意署名してくれるものと思う。
掲載の記録は黒部川剱沢、称名川ザクロ谷、春川万滝沢、御嶽山赤川地獄谷、台湾三桟渓、ほかギアナ高地、ニューギニア、福建省、四川省、雲南省など。台湾三桟渓の山行には、ルームから松原、日下、石崎が参戦している。
巻末の、沢から無事下りてきた男が古い民家の庭先に降り立つ寓話、心に沁み入りましたネ。
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書評・出版・
2008年12月23日 (火)
原真(1956入部)の初期の著書、「北壁に死す」が、今月「北壁に消えた青春」として再び出版された。(
Amazon)
1961年4月、21歳で鹿島槍北壁で遭難死した弟、原武の遺稿集。事故から47年経ってもあせない、山を真剣に考える若者の手記。遺稿集本文は原武の名古屋大山岳部4年目の春までの山行記録と片思いの恋の記録。日記から1960年代の青春を追想する。山と恋について切々と書き記す個人的な日記。こんな大変なものを出版しても良いものかと2008年の人は思うかもしれない。が、そこが原真一家の凄いところだとつくづく思う。序文は深田久弥。
実はまだこの新版は手にしていないが目次を見ると本文は同じのようだ。過去二冊の「北壁に死す」がある。
最初の「北壁に死す」は、山と渓谷社から1973年発刊、新版「北壁に死す」は同じく同社から1984年に出ている。原真のあとがきがそれぞれに良かったので両方紹介する。
僕が学生時代最も感銘を受けたのは原真の書いた(1973版)後書き「なぜ山へ登るか」の中のことばだ。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」
この一文は後の「乾いた山」や「頂上の旗」に収録されている(いずれも古書店か北大山岳館でご覧あれ)。
新版(1984版)のほうの原真の後書きの「武の逝った日」も凄い。武の亡骸に対面する父母の様子を克明に書き、その後父兄が医師として弟を解剖する様が記されている。とても詳しく書いてあるが、それはここでは書けない。
「父はおどろくべき予定を宣言した。『今夜、大町市民病院で、武の遺体を解剖する。』といったのだ。
たっているのがやっとぐらいにつかれていた私は、父の気力に驚嘆した。
『すべて手配はすんでいる。』
ともいった。その口調には断固たるひびきがあった。
父の態度は、むしろ明るい印象を周囲の人たちにあたえたのではないか。関係者から、遭難の模様を逐一きき、自ずからも山を指さして質問していた。
そのあと、宿へかえって、母と二人になったとき、号泣したらしい。
『武、武。』
といって、棺にすがって、声をあげて泣いたと、あとで母にきいた。
父親とは、なんと悲しい存在であることか。未熟な息子の、死という裏切りにあい、敢然としてその打撃にうち勝たなければならない。」
遭難の日、たまたま北壁別ルートにいた名古屋山岳会のドンちゃんこと加藤幸彦氏は身を粉にして救助と捜索に努めた。このドンちゃんはのちに長野県山岳連盟のギャチュンカン初登頂(1964)で活躍し、三浦雄一郎エベレストスキー隊でも裏方主任として活躍した。1996年、僕はブータンの最高峰チョモラーリに登る老境入りした加藤さんを撮影する機会に恵まれた。64歳とは思えぬパワーだった。(
記録)原さん兄弟との縁はずいぶん後で知った。加藤さんはその後『絶対に死なない」という本を出している。(
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まだ手にしていない「北壁に消えた青春」の書評も心苦しいけれど、最新版の感想はまたいずれ。
清野さん、原武を偲んで北壁行きましょう。
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書評・出版・
2008年3月14日 (金)
秘境西域八年の潜行(上、中、下)
中公文庫1990
980円、1100円、1200円
(現在は「秘境西域八年の潜行 抄」中公文庫BIBLIO 1000円)西川一三(かずみ)が死んだ。
先月2月7日、89歳。戦争中、興亜義塾生を経て、モンゴル僧に扮した諜報員として鎖国中のチベットに潜入、戦争が終わるまで(終わっても)生還するためチベットを彷徨った。むかし満州、モンゴル、トルキスタン、チベットと手を結び、シナを背後から包囲する「ツラン民族圏構想」というのがあった。大戦期(昭和18年)のチベットは中国(国民党政権や共産党)からも独立していて謎のエリア。そんなところへ手ぶらででかけて8年も。しかも後半6年は敗戦のため生き延びるための徒歩旅行だ。この体験の凄さは本を読まなきゃわからない。
チベットの山を狙っていた我々の80年代、開放政策の始まった直後の彼の地の情報は乏しく、この戦前潜伏モノ、西川一三、木村肥佐生らの手記を読んだ。のち1996年にブータン、チベット境のチョモラーリ(7326m)を登った折、この本をギャンツエ〜カリンポン間の、往年のチベット街道の現場で読むという、特上経験をした。西川は「チョモルハリ」を見上げる荒涼とした凍えそうな街道で、1904年の英軍ヤングハズバンドの古戦場跡に思いをはせるのである。僕の訪れたのは夏、地平線まで広がる菜の花畑と駄馬のひく馬車がのどかだった。
岳人4月号171pの岳人時評で江本嘉伸氏が西川氏との思い出などを記している。その中で西川は「チベット人から学ぶことは一つもないです。」「私が学びたいのは蒙古人。次はインド人。次はシナ人。チベット人は最低です。」というのがギャフンとおもしろかった。そうかもしれない。追いはぎに遭い、餓死凍死のすれすれで繋いだ旅だったろう。小野田寛郎氏もルバング島には二度と行きたくないと話していたし、先日お会いした青函トンネルを掘り続けた人も、つらいことばかり思い出すので二度と行きたくない、と。
このような人がまだ生きていたのを知ってはいたが、縁もないのに訪ねるという事にもならず。先月まで同じ時代の空気を吸ってきたという事にかえって違和感がある。亡くなった機会にまた本を開いた。
中公文庫は最近BIBLIOというシリーズになり、全三巻10センチ近くあったのがダイジェスト版の一冊になっているようだ。たしかに全部読むのは常人にはきつい。
尚、同じく同時代のチベット潜行記で、
●チベット潜行十年 (中公文庫)
木村 肥佐生 (著)
780円もコンパクトで良い。この人はダライラマ14世の少年期に会見しているし、ダライラマ自叙伝(My land my people)の日本語訳もしている。こちらもBIBLIO入りしていた。
●チベットわが祖国―ダライ・ラマ自叙伝 (中公文庫BIBLIO20世紀) 1100円
ダライラマ14世(著)、木村 肥佐生 (訳)*追記。昨日(3月16日)からチベットではえらいことになっている。しかしこれは今まで絶えず続いてきたこと。何故今チベットがこうなのか、今更ながら知りたい向きには「チベット我が祖国」の読書をお勧めします。餃子ごときで騒いでいる場合ではない。
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書評・出版・
2008年2月28日 (木)
真の登山家は真の彷徨者である(マンメリー)。山岳部員ならわかる、旅の名作三本の紹介。
●ジャックロンドン放浪記
●チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記
●ダブ号の冒険
●ジャックロンドン放浪記
小学館地球人ライブラリー14(1995.4)
ジャック・ロンドン著、川本三郎訳
犬やオオカミが主人公の小説「ホワイト・ファンク」や「荒野の呼び声」の著者ジャック・ロンドンは、16歳のころ、アメリカの大陸横断鉄道をタダ乗りして渡り歩く放浪者「ホーボー」だった。19世紀末アメリカの、ならず者は殺しても良いという雰囲気。鉄道員に放り出されては裏をかき、放浪罪でデカにつかまればムショ暮らしもする。文無し、毛布無しで酷寒の列車の連結部に隠れて旅、見知らぬ町で智恵と機転で食べ物にありつく青春放浪記だ。手ぶらの人間の、磨けるだけ磨ききった生存性能に憧れた。
犬が主人公の「荒野の呼び声」は、当然ほとんどセリフ無しの小説だがすこぶる良い。こうしたら、こうなった。こうだからだ。といった、淡々としているのに引き込まれる書きっぷりの原点をホーボー経験に見た。100年前の世界は何もかも野放しでおもしろい。
●チェ・ゲバラ モーターサイクル南米旅行日記
エルネスト・チェ ゲバラ (著),棚橋 加奈江 (翻訳)
現代企画室; 増補新版版 (2004/09)
1956年キューバ革命でカストロと知り合う5年前、医学生時代23歳のゲバラが故郷アルゼンチンからチリ、ペルー、ボリビア、コロンビアと、始めはオートバイで、それがポンコツで動かなくなってからはヒッチと密航で旅をする旅行記。あのかっこいいゲバラにそんな青春があったなんて。伝説の革命家の印象とはほど遠い、いかにせびって食べ物と寝床とできればワインをいただけるかという貧乏旅行テクニックが披露されている。人生に必要なものはすべて旅から学んだというゲバラ。1950年代の南米各地の様子も語られていて興味深い。今も大差が無いのだろう。合衆国の植民地体勢に刃向かって殺されたゲバラは21世紀的にはオサマ・ビン・ラーディンと同じだろう。オサマも学生時代に中東大旅行なんかしているだろうか。
ただしこの本、原文に忠実に訳したのだろうが、日本語としては非常に読みにくい訳だ。
●ダブ号の冒険
小学館地球人ライブラリー14(1995.6)
ロビン・リー・グレアム著、田中融二訳
1965年、16歳のロビン少年の5年をかけた単独ヨット世界一周の記録。各地でのとけ込みようが旅行記として良い。冒険モノとして読み始めたが、フィジーで出会った少女パティとの恋愛が冒険の展開も読者の行き先も変えていってしまった。パティがヨットの寄港先に先回りして迎えてくれる。航海の孤独を10代の若さで耐え抜いたロビン。パティ無くして航海は貫徹できなかったろう。全編に、世界や人生にたいし共感する思想があふれている。うなずきながらの読書だ。16歳は世界を知るのに十分な年齢だ。
解説を書いている今給黎教子さんは僕と同年代のヨット家だ。91年に単独無寄港世界一周をやった。この人は子供の時「ダブ号」を読んでヨット道に入ったらしい。計画を遂行するまでの教子さんの気持ちの揺れがよく分かる気がする。
書評・出版・
2007年12月8日 (土)
先週の80周年記念会で配られた力作です。山岳部以前のスキー部時代、1919年(大正8年)からの貴重な写真が338点。2005年から始められた山岳部画像アーカイブス事業では、埋もれたOBの写真を収集してきました。将来は8000点強が会員に閲覧出来るようになるとのこと。ひとまずインクジェットの手作りプリントではありますが、なかなかの出来です。画像収集整理、人物、場所を同定してのキャプション入力と、中村晴彦OB始め関係者の苦労の賜物であります。二年前にでた「目で見る日本登山史(山と渓谷社)」北大山岳部版という感じです。
大正9年十勝岳冬季初登の現場写真です。一番左は加納一郎氏。松川五郎氏など、山岳部草創期の面々です。山岳帽にゲートル。上着のスタイルは様々ですが古い背広を直して使っている人もいます。ピッケルもストックも長いです。
こちらは昭和12年ベチア祭り、神威岳冬季初登などの写真です。ペテガリの冬季初登を目指し、何度かアタックをかけている時代です。有馬洋氏、中野征紀氏、葛西晴雄氏、今村昌耕氏らの、格好をつけていない写真があります。このころからは写真機を使う部員が、くだけた写真もよく撮るようになったようです。
昭和14年暮れ、ペテガリ入山の日。馬そりに乗っての入山です。この面々のうち8名が雪崩で帰りませんでした。足の裏のペタペタは、鋲のカバーでしょうか。
昭和35年冬季カムエク集中。ペテガリからとポロシリからの隊がカムエクを目指す。サポート隊入れて8隊、45人。部員が最も多い時代の大作戦です。編み上げのオーバーシューズにチェックのウールシャツ。山岳帽は毛糸の帽子に変わってきています。ザックはみんな、重そうで凍りそうなキスリングです。尚、この時代の夏の写真はほとんどみんなハンチング(鳥撃ち帽)です。
昭和55年中ノ川→神威岳の山行。白黒写真最後の世代。写真がキマッています。きっと末武カメラマンでしょう。メットにジャージで直登沢。今に通じるスタイルですが、背中のピッケルは相当長いですね。
装備や装束の変遷がとても興味深かったのですが、山並みの姿は今も昔も変わらず、登場する青年達の愉快そうな表情も80年前と変わりません。今はオッサンや老人になっている皆さんの青春写真が満載です。
余談・戦前から昭和30年頃までみんながかぶっていた山岳帽に興味を持ち、先日知り合いの帽子屋さんに頼んで作ってもらいました。耳当て頬当てが、上から下ろせて、いよいよとなったらあごの下でとめられるものです。帽子屋さんも懐かしがっていました(函館・赤帽子屋
http://www.hakodate-town.com/mypage/ha017377)。
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書評・出版・
2007年10月10日 (水)
20年前、優れた処女作「大いなる山大いなる谷」で、あしたのジョーみたいに「山で真っ白になりたいんだ!」と、山への白熱の情熱を記録した志水哲也氏。今は独自の登山ガイド、そして5年前からは写真家として、とことん黒部川に向き合っている。日本各地の凄い滝の写真集。こんな滝を見たことある人には、ゴクリ生唾、何処のラインを行けるのかと。見たことのない人は・・・、どんな感想持つのだろうか?
山と渓谷社/3600円/2007.9.5/A4変形(今なら3000円だそうです)
滝から落ちる水のめくりかえり様、釜の中の泡の煮えくりかえり様は普通じゃない。水量も、地形も大がかりな沢の、大がかりな滝に特有の迫力だ。
知床・カシュニの滝ほか
白神・ヒグラシの滝ほか
飯豊・梅花皮大滝、七滝
奥利根・越後沢中俣大滝、右俣大滝
尾瀬・三条ノ滝
菅平・米子不動(氷)
立山・称名滝
黒部・剱沢大滝
大台ヶ原・西ノ滝
屋久島・竜王滝
称名滝、剱沢大滝、七滝、竜王滝など、七段、八段、おのおの数十メートルという北海道離れした滝の、直登半ばからの視線は他の写真家では撮れない。厳冬期などの空撮も良い。
2003年の10月、志水氏の剱沢大滝のD滝撮影山行に同行した。ここの雪渓が最も少なくなる季節は紅葉の盛り。初雪まで間もなくという季節。D滝までの2週間の撮影中、狭い谷の中で、ほとんど日を浴びることが無かった。高層ビルの谷間のような谷をトラバースして進む特殊空間だった。
志水氏には天性の企画力があり、沢クライマーとしての山岳写真家という、これまで誰もやっていないテーマを快進撃中である。富山名物、ゲンゲの干物をいまも焚き火であぶってかじっているだろうか。
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書評・出版・
2007年10月2日 (火)
海外溯行研究
台湾の谷(1963〜1993)
2007海外溯行同人No.1溯行流程40キロ、溯行日数一週間、高度差3500m、両岸高さ数百mの函、大理石の豪快な滝、釜、滝、釜。こんな沢登りが日本でできるだろうか。未知の沢、凄い沢を追い求めて、ついに台湾にはまった、全国の沢キチたちの会、海外溯行同人の記念すべき報告書第一号である。沢が好きなら、読むべし。
台湾には、黒部や飯豊を何倍も深く、長くした谷があり、九州と同じくらいの大きさの島の真ん中から東半分はほとんどが山。標高3952mの最高峰玉山はちょうど北回帰線の上にあるが、雪の積もる高山だ。台湾山脈全体が、日高と同じ褶曲山脈で、プレートの押しくらまんじゅうで今もぐいぐい押し上げられているアツい島なのである。
同人代表の茂木完治氏らが台湾の沢を始めたのが1982年。80年代は茂木氏や清水裕氏らが所属していた大阪わらじの会と、関根幸次氏のいるわらじの仲間が中心になって台湾五岳(いずれも3000m級の名峰)の各沢を次々溯行した。これには荘再傳氏はじめ台湾の岳人たちの協力が大きい。台湾の山は台湾人の協力無しに入れないためだ。この間に交流を重ねて沢登りも台湾に根付きはじめた。
90年代になると台湾をねらいに定めたメンバーは全国各地から山岳会を越えて集まった。青島靖氏(チーム野良犬)、成瀬陽一氏(充血海綿体)、松原憲彦氏(AACH)を中心に、東面の未知の渓谷に精力的に溯行が成された。
そして1998年、海外溯行同人が結成され、より広く全国の沢好きを台湾溯渓、海外溯渓に巻き込むようになった。この一号はこの前半部分(茂木、関根時代)にあたる。続く二号で90年代の記録が見られる予定。
また1963年日本山岳会関西支部と1967年九州大学山岳部、1982年には大阪山の会がいずれもそれぞれのルートで最高峰玉山を登っている。その記録も収められている。
溯行記録は以下の16本
1982.8/14-17 玉山・沙里仙渓
1983.10/29-11/3玉山・沙里仙渓
1984.4/30-5/4雪山・七家湾渓
1985.4/29-5/5南湖大山・陶塞渓
1985.10/5-10/11関山・唯金渓
1985.12/29-1/5北大武山・隘寮南渓
1986.11/2-11/8大覇尖山・大安渓(下流)
1988.5/3-5/8大覇尖山・大安渓(上流)
1986.11/2-11雪山・大甲渓支流・伊下丸渓(高山渓)
1987.4/29-5/6台北近郊・南勢渓支流・扎孔渓左俣
1988.10/1-11玉山・楠梓仙渓(中退)
1989.10/5-8玉山・楠梓仙渓
1989.8/13-17奇莱主山北峰・塔次基里渓源流
1987.12/28-1/2北大武山・太麻里渓・南大武東渓
1991.12/30-1/6北大武山・太麻里渓・包盛渓
1992.12/25-1/3太麻里渓・北大武東渓
これに加え概念図と丁寧な溯行図で44p分。写真7p、巻末にメンバーの小文集あり。茂木さんの漫画5p付き。全記録の溯行図と写真が豊富な付録CD付き。A5版232p。発行は2007.6/23。
1987年の李登輝総統に変わるまでは、今の台湾からは考えられない厳しい政治体制だった。その困難な時代によく溯行許可などを得たものだと思う。荘氏はじめ、人のつながりが、これまでの台湾溯行の歴史を繋いでいる。
米山は海外溯行同人に98年から加わっていながら、未だ溯渓の機会を得ていないが、以前道ルートからの玉山、太魯閣渓谷のさわりなどを見、原住民族の老人の村を訪れた。台湾の山と人は世界中で唯一日本人と共有できる共通項を持っているのではないかと思える。懐かしく、一際大きい。
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・一般価格2500円(送料別)ただし五冊以上で送料無料。
kaigai_2007@ares.eonet.ne.jpに
● 氏名●冊数●送り先●届け希望日と希望時間を連絡
・ 申し込みを確認したら、出版局より金額(本代+送料)と振込先口座番号を知らせます。
・ 指定口座への振り込みを確認したら本を送ります。とのことです。
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今後は台湾その2,ニュージーランドやグアムの沢、韓国の沢など、まとめていく予定とのこと。
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書評・出版・
2007年6月12日 (火)
『ganさんが遡行(ゆく)北海道沢登り三昧』
岩村和彦著 /共同文化社
全26ルート 初級中級
2100円
昨年夏に紹介した道内沢登り記録集の続編。今回も26本。山域は、I.道央積丹増毛夕張、II.日高、III.道南に絞っている。
ルートはすべて初級者向けである。しかし、これは経験者向けの本でもある。それは、地形図を見てこれはとあてを付け、情報無しで、現地で確かめた沢が沢山盛り込んであるからだ。この過程こそ経験者が共感する楽しみではなかろうか。
ガイドブックを見て行く沢登りはそのうち飽きる。本や雑誌に紹介されているハズレのない沢を一通り登ったって、何の自慢にもなりはしない。沢登りの喜びの本質は、行ってみなければわからないがおもしろそうな未知の沢を嗅ぎつけることであり、結果少々レアな山頂を踏めれば満足だ。この本ではトイレに地形図を持ちこみ、著者が嗅ぎつけ、実地で探り当てた粋な沢の数々が並べられている。この課程が、経験者向きたる所以である。経験者たるもの、日本百名山なんかにうつつを抜かしていてはいけない。地形図をくんくん嗅いで、「オレのライン」をどうデザインするかではないだろうか?
著者は巻末に「山のトイレを考える会」代表とあるが、「山をトイレで考える会」でもあるようだ。
収録ルート
I 道央・積丹・増毛・夕張山塊の沢
●蝦蟇沢→札幌岳●漁川→漁岳●発寒川→871林道●狭薄沢→狭薄山●ラルマナイ川→空沼岳●漁入沢→漁岳●大沢→風不死岳●豊平川本流→1128●幌内府川→余別岳●黄金沢→635●ユーフレ川本谷→芦別岳
このあたりは札幌から近いこともあり、学生の頃大方登った普通のルートだ。でももう昔のことなのでほとんど記憶に残っていない。いつか札幌周辺にでも住んだら老後の楽しみにでも取っとこう。山岳部なら1年班にお勧め。この山域にはサスガに新発見沢は無かった(大沢は知らなかった)。
II 日高の沢
●貫気別川南面沢→貫気別山●芽室川北東面直登沢→芽室岳西峰●額平川北カール直登沢→幌尻岳、戸蔦別岳●カタルップ沢→神威岳●リビラ沢西面→リビラ山●沙流川455左沢→1042●額平川400右股→苦茶苦留志山●パンケヌーシ川5の沢→1753●ウエンザル川北面沢→1073(宇円沙流岳)●コイボクシュメナシュンベツ川→十勝岳●シュウレルカシュペ沢→イドンナップ岳
・・・どうでしょう。山岳部によくある記録のパターンを完全に逸脱しています。どうせブタ沢だろう〜?と思って、挑むのをやめてこなかったか?ここに紹介してあるのはいづれも美しい渓相の沢ばかりなのだそうだ。貫気別やリビラは、この冬行ったばかりなので目を引いた。やはり、道から行ったんじゃあつまんない。良さそうな沢は無いか、良さそうな雪のルートは無いかと探す気持ちが共感する。苦茶苦留志山?おもしろそうだ。芽室の沢やカタルップなどは冬ルートのすぐ隣。気にしたことも無かった沢だ。
しかし、こうして探査した沢の中には、とても御紹介できないブタ沢も数多くあったことだろう。続編では「ブタ沢だけどこのレアピークに行くためにはこれを行くしかなかった!」という沢の特集をぜひ読みたい。
III 道南の沢
●鷲別来馬川裏沢→鷲別岳●泊川→大平山●浄瑠璃沢→冷水岳●松倉川→アヤメ湿原
道南在住者としては、日高のノリでの新発見沢を期待したが、それは僕たち住民がやるべきでしょう。札幌に住んでいると道南は遠い。僕も以前は全く関心が湧かなかった。しかし最近ganさんに加えHYMLの沢好き函館在住メンバーによってこれまであまり知られ無かった美しい沢の報告が相次いでいる。黒松内岳の沢や、大千軒の南の沢など。探せばまだまだあるものなのだ。
実はまだ松倉川に行っていない。函館ももう三度目の夏を迎えてしまった。今年こそは行ってみよう。
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書評・出版・
2007年2月5日 (月)
書評・凍れるいのち 川嶋康男
柏艪社2006.12
1962年暮れからの大雪山で、北海道学芸大学函館校(現・道教大函館校)山岳部が遭難した。10人遭難、リーダー1人のみ生還。北海道山岳史上最悪の事故だった。これまで報告書以来語らなかったリーダー野呂幸司の45年経てのインタビューを元に野呂のその後の人生を含めたノンフィクション。巻頭カラー写真の市根井さんが野呂氏の同期とは初めて知った。
この遭難については、「北の山の栄光と悲劇・滝本幸夫著(1982・岳書房)」という本を現役の頃読んでいた。旭岳から石室へ降る尾根は金庫岩の所でしっかり磁石を見ていても迷いやすい。雪洞が崩壊して吹雪に投げ出されるイメージ。この二つは強く心に残り、山行の際の最悪想定のイメージとして常に持っていた。今回久しぶりにこの遭難の顛末を読んで、別の感想を持った。
この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。
本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。
野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。
最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
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