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書評・出版・ 2021年1月26日 (火)

著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。

サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。

白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。

やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。  

書評・出版・ 2020年12月16日 (水)

日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。

そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。

1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。


本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。

「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」
また原さんの本をよみたくなった。

  尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税  

記事・消息・ 2020年11月11日 (水)

今回はコロナ対策としてOBには案内は出さず現役のみで企画、開催。
ヴェチア幹事の佐藤君(4年目)からの報告を混ぜてレポートします。

参加者は現役13名、2013以降の若手OB7名 水産4年1名。指導のため特別参加のOBは井ノ上、石川部長と私。現役と若手OB2人は昼間は赤岩で登ってから到着。
17時頃から前夜祭。部長から挨拶と小屋生活や山行を通しての山仲間の意義を、私から作った小屋管理マニュアルの説明の後、幹事(オレンジ帽子)が乾杯。料理は2年目シェフ田中君により、豚汁、唐揚げ、大根の煮物、サラダ等。



現役と若手OBら。3年目がいないが1年目が4名いて全体で15名近くと何とか部員数は維持。若手OBに協力してもらって2年班のリーダースタッフをお願いしたい。



女子が3名も。焚き火を囲んで自己紹介、山の四季などを歌いお開き、一部の者は日付をまたいで話し込んでいた。
我々OB3名は19時頃に退座して帰ったが、その前に現役は山の四季含め、カメラーデンリートも知らないというので2〜3曲と、森田君(1973入)が現役2年目に作った「ヘルヴェチアコンパの歌」も歌唱指導してきた。部室には1993発行の歌集「山の四季も」あるというが、山と歌は我々には切っても切れないものなのだが〜OBの指導が必要か。



ヴェチア祭り記念集合写真、ロゴと国旗は佐々木ロタ(1955)の90周年の際の労作。本祭としてヴェチアの女神に祈りを捧げ、集合写真を撮り解散。



小屋大掃除での床ワックスがけ。以前より木目が浮き出てきた。




前日私が砂利を積んだダンプで小沢を越えて砂利敷き。山の会会計に了解を得ての作業でバイト代として現役にもカンパをしてきたが、途中でぬかるみにはまり動けず、結局レッカーを救助要請して高いものになってしまった。

書評・出版・ 2020年9月29日 (火)


東海大山岳部で2006年、若くしてK2登頂を果たした小松由佳さんは、その後山をやめてシリアの遊牧民を撮影するフォトグラファになった。なぜ山をやめたのか、以前はそれを知りたかったが、今は少しわかる。K2登頂生還者というオリンピック並の金メダルは、その後自分の山登りを若々しく無邪気に正直に続けていくのには重すぎるものだったのかもしれないと推測する。信頼できる仲間、積み上げた技術と体力、高所で酸素が切れてもヤラれなかった才能、これだけそろえても更に強い運が加わらなければK2から生還はできない。彼女は賢明で、成功のあと、足りたものを知り、無理に世間の期待や相場に合わせて「高所登山中毒」に陥ることなく、自分の別のテーマにすっと移行したのではないか。




家族を大切にし、伝統の中に価値を見出し幸福に暮らすシリアの家族を撮影した写真集、「オリーブの丘へ続くシリアの小道で」は、彼女の新しい世界をみせてくれた。しかし、2011年に始まった民主化運動を弾圧するシリアの内戦はその後地獄と化して、今現在も10年近く続く終わらない悪夢だ。シリアに関わった彼女は、幸せだった人たちのその後の窮状を危険な治安機関の制限のなか撮影、あるいは取材し続ける。

https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=745&cid=7

帯に角幡氏とヤマザキマリ氏の推薦文が。探検家角幡氏はわかるが、ヤマザキマリの応援はなるほどと思った。小松氏は、シリアの60人もの大家族の末っ子男性と結婚し、元ベドウィン(遊牧民)の砂漠伝統家族の仲間入りをするという、思い切った人生を選択していて、この点が「モーレツ!イタリア家族」の一員になったヤマザキ氏や、イギリス人と結婚し最近おもしろい本を連発しているブレディみかこ氏に通じるたくましさがある。本著の前半はそんなベドウィン風の古き良きイスラム的大家族の幸福な魅力が語られるのだが、今世紀最悪のシリア内戦の当事者として、ストーリーは続いていく。

思うに彼女は、選ばれてしまった人なのだ。強剛登山家が4人に一人の確率でがあっけなく死んでしまうことで有名な死の山K2から、仲間と才能と努力と運に恵まれて生還した運命といい、地獄と化すなんて想像もしなかったほんの数年前の幸福な時代のシリアを知った上で、今の惨状を知ってしまった運命といい、本人も予期しなかったことではないか。
しかし、アフガンの故・中村哲氏も言っていた、「見てしまった、知ってしまった、放っておけない」これが彼女の運命ではないかと思う。そして運命は、弱い人間を選びはしない。大学山岳部で山登りにとことん打ち込み、強い心を持った彼女だから、今こうしてシリアの内戦から逃げずに歩んでいけるのだ。そしていま最もやりがいのある仕事、ちいさな二人の子供と歩む実り多い人生を過ごしているさなかだと思う。
「山岳部員出身」というちかしさから、20代の数年間を山登りのことばかりを考えて過ごしたという共感から、彼女の人生をひとごとと思えない。彼女は、自分で選んだ人生の舵を決して離していない。船は波に漂うが、舵だけは自分で握り続け続けている。子どもたちのビレイを続けながら。その姿がとても尊い。

人間の土地へ
小松由佳
2020/9 
集英社インターナショナル

書評・出版・ 2020年4月15日 (水)

大西良治著「渓谷登攀」が出版された。ガイド本を除いて、沢登りの本としては成瀬陽一氏「俺は沢ヤだ」以来の事だろうか。いや、「外道クライマー」以来か。
 登山者人口が増え、情報もそれなりに流れるようになりかつてのハードル高さも減じて夏道登山だけに飽き足らずクライミングや雪山、そして沢登りにも手を染める人達も徐々に増えてきたように思う。それにしても、このような特殊な本にまで手が伸びるとは到底思えず、出版元の山と渓谷社の英断を称えたいし、こうして沢登りの深部が紙媒体として残ったことを祝いたい。装丁も、表紙からして配色やI滝と文字の配置よろしく洗練されており、編集者の労をねぎらいたい思いだ。目次等、背景が黒で文字を浮かばせたそれらは、渓谷内のゴルジュを意識したものだろうか。

台湾渓谷での沢登り(溯渓)や日本の険谷遡行に多少なり関わってきた身として、この本がどういった価値を持つ本なのかを語ってみたい。

著者である大西良治氏については御当人の開設する「SOLOIST」を参照頂くとして、ここでは客観的な補足に留めたい。クライミングに魅入られて入れ上げる多くの人々が、登山総体の中での一ジャンルに過ぎないクライミングという行為自体を目的としてしまうだけに満足する中で、大西氏はクライミングを手段としてこれまで通過やトレースが許されてこなかった大滝や不明だったゴルジュを解明し、時に新ラインを引いて我々オールドスクール出の溯行愛好家を驚かせた。またそれらが主として単独で成された点に尚、驚かされた。
まずは国内掲載の「日本の渓谷」について。25本の掲載があるが、私の少ない経験に照らしてもどれをとっても一筋縄ではいかない険谷群の羅列である。登攀的要素が強く、単独でロープを出すとなれば「ソロイスト」という制動ギアを使用した登り返しの必要な倍手間を喰うシステムとなるし(赤川地獄谷、オツルミズ沢、池ノ谷、梅花皮沢滝沢、剱沢等)また、泳ぎを強いられる谷(不動川やザクロ谷、五十沢)では水流への引き込まれを回避できる確実な方法がないために“賭け”ざるを得ない場面も現れる。増してや滝や高捲きのフリーソロ部分では絶対に落ちられない。一本一本が遡行愛好家の究極の目標たり得るものばかりであるが中で「日本の渓谷」のハイライトは『称名川』、の項である。入口とも言える称名滝(しょうみょうのたき)が世紀末周辺に登られ出すや、次に注目されたのが当時未踏を誇った「称名廊下」であった。探検家である角幡唯介氏や北大探検部卒の故・澤田実氏、そして上記成瀬氏もこの「日本最後の地理的空白地帯」に注目して懸垂下降しては廊下部分の踏査をし、写真を残していた。成瀬氏に至っては計画の発案者である青島靖氏と共に称名滝落ち口からの溯行や、称名廊下終点からの下降とトライアルを重ねたものの水量の多さやスケールの大きさから「今までの溯行スタイルを越えた何かを掴まえること」が初溯行には必要となるだろうと記録に書き残し中退している。これら動きに連動してか、大西氏もこの称名廊下にエントリーして、氏としては”不本意ながらも”初めての偵察やエスケープ路の確保をした上、初溯行を成功させた。それらにも飽き足らず、更には称名滝(フリー)登攀から称名廊下、そして源頭の室堂までの溯行を(デポを置きながらも)ワンプッシュで完成させ、区切りとしている。誰の手も借りることなく。これら一連の行為に投じられた情熱や労力の総量たるや、計り知れないものがある。

この本に紹介された記録には、幾本かの重要な意味を含んだ山行が採用されている。それは、引き返しの効かない地点を意志的に踏み越え、困難を乗り越えた末に生還している点である。しかも“良いスタイル”で。台湾の大渓谷に踏み込むにあたって、谷中でトラブルやアクシデントに見舞われた際にはその奥深さ故に救援は全く見込めず、自力で対処し行くか戻るかの判断を迫られることもあり、何があってもパーティー内で処理し、覚悟を持って入渓する点は多少なり救援の見込めるヒマラヤ登山以上の心理的ハードルがある。その意味で「台湾の渓谷」での記録はその“ある地点”言い換えれば「境界」をどれも踏み越えているし、称名滝右壁登攀、そして「CANYONING」の項では剱沢や恰堪溪(チャーカンシー)の1st descent、Gloomy Gorgeの2nddescentもソレに該当している。
尚、我々が行っていた二十世紀末の台湾溯渓は、同行する現地の嚮導者の人数や力量もあって実にオーソドックスな遡行スタイルに終始し、困難な滝やゴルジュ帯が現れれば一日掛かりの大高捲きを敢行して回避し自然、日数に制約を受けた“そこそこの”中規模渓谷までの溯渓に限られていた。しかし世紀改まり、台湾溯行の際の嚮導者、人数等の制約事が良好に改善されたことも手伝って且つ日本からは精鋭達が集い、この魅力溢れる台湾島の未踏大渓谷群にありったけの情熱や力量を注ぎ込むことが出来た結果、たった一本の渓谷に二週間にも渡る沢登りとしては長期の日程を投じて高捲きを極力排した完成度の高い溯渓が次々と成された成果が、この本にある。規模の大きな台湾渓谷での高捲きは溯行に際して日数を食い潰す排すべきスタイルであり、高捲きを選択せず些か強引な手段を採ってでも中を通過した方が遡行は遥かに捗ることを示した。高いクライミング能力を武器に、ボルトの使用すらも排し、且つ不明部分をつくることなく行程を早く進められる。そのことは、前記青島・成瀬両氏が長渓、豊坪渓を三度に分散して完溯したのに比べ、彼らは(途中入渓だったとしても)ワンプッシュで左俣を成し遂げたことにも現れている。

渓谷溯行で現れる、一見して通過不能と見える鬼気迫る暗いゴルジュや廊下が人生の苦悩の、登攀困難な滝が人生の困難を象徴するならば、これまで殆どの人達に高捲かれ内院を覗かれず未知として残されてきたそれら空白部分に、著者である大西氏は時に単独で怯むことなく挑んで最も数多くそれら困難を乗り越えてきた人物といえる。

ただ本人が単調な表現の繰り返しを避けるのに苦労したと言っていた通り、志水哲也の「大いなる山 大いなる谷」が発刊された際に柏瀬祐之氏(「山を登りつくせ」の著者)が指摘したのと同じこと思ったのも正直なところである。それと、我々が台湾の沢登りを現地語で「溯渓」と呼称した言葉がここには殆ど現れなかった点は、我々が積み重ねた溯渓と氏が行った台湾溯行とが地続きで(水脈で繋がってい)ない感じを受けたのは少々残念であった。
とは言え、アルパインクライミングにも引けを取らない沢登りの可能性を未来に提示した点で、本書は価値ある一書である。素晴らしい大判の写真を目にするだけでも本書で展開された行為の迫力の一端に触れられる。

私が台湾溯行に手を染めた頃、極秘入手したその広げたゲジゲジ台湾地図を前にして解明される未来などまずやって来まい、そう手前勝手に思い込んでいた1990年代初頭時から凡そ30年、21世紀を迎えて主たる水系はあらまし溯行され解明されてしまった! 驚くと同時に、そんな同時代を生きて目の当たりにすることが叶ったのは幸いだった。
最後に名誉の為に申し添えたいのだが、日本の険谷登攀はじめ、称名滝、称名廊下、そして台湾大渓谷のこれからを将来に向けて世紀末の段で既に提示していた青島靖氏(大阪市大山岳部OB)の先見の明について、ここに記して本文を締めたい。【20200413記】

記事・消息・ 2020年2月24日 (月)

日時:2020年1月25日(土)
場所:京都三条木屋町 温石 左近太郎 参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、神戸(59)、高橋(59)、田中英(59)ご夫妻、内藤(59)、渡邉(59)、川道(62)、須田(62)、岸本(65)、池上(70)、宮本(82)、岡島(83)、多田(86) 合計15名
報告:岡島(文)、宮本(写真)

 会場の「温石 左近太郎」は、典型的な京都の「ウナギの寝床」であり、3回続けて会場になったためか、慣れ親しんだルームを思い浮かべた。12:30開催で、実に4時間にわたり、30年の入部年度差にもかかわらず、あちこちで話が咲き続けた。会費もなく遭難対策もない、親睦の集まりであるが、最後は肩を組み山の四季で締めた。

「若いOBの参加をもっと呼び掛けるように。」との川道支部長の号令を受け、脈のありそうな数名に直接コンタクトを取るものの、皆々ご家庭の用事があるとの事で残念ながら「ご盛会をお祈りします。」とのご返事。新しい面子が得られない中で、池上宏一さんが久しぶりに関西支部の集まりに顔を出された。

 昨年10月の湖北合宿の報告に記した朝比奈英三先生と川道支部長とのアラスカ大学での件を池上さんが目にされ、1972年マッキンレーの下山後にアラスカ大学に川道さんを訪ねて行かれたことを懐かしむコメントをAACHのメール連絡に載せられた。私も30年近く前にデナリ公園でキャンプしたときにマッキンリーを北面から望んだことがあり、部報12号に掲載されているマッキンリー遠征のダイジェスト版を読み直した。

 カヒルトナ氷河からウェストバットレス経由で頂上アタックはノーマルルートを辿るが、登頂後の下山が他所では考えられない行程となっている。詳細は「寒冷の系譜」にも記されており、越前谷さん達が語っている様にルームのセンスに徹した「3年班」と位置づけている。また東晃先生がこの長いワンデリングを褒めておられた事も嬉しい。まさに冬山メイン山行で、十勝川からトムラウシを登って石狩川に乗越すスタイルをアラスカで実践されたのだと思った。

 池上さんは1980年のバルンツェにも登頂されている。この時の装備開発と気象研究が2年後の冬期8000m峰につながった経緯が「寒冷の系譜」に詳しく報告されている。 そして更に、越前谷さんが「池上の作った膨大な事務局ファイルというのは、全部記録として残っている。このファイルはAACHが初めて立派な登山報告書を作る上に貢献した。」と評価されている。その談の通り池上さんは、1本締めのアタックザックに収めたマッキンリー遠征のアルバムと地図を持参して下さった。

 アルバムには写真とスケッチが丁寧に整理されており、報告書で見た覚えのあるチロリアンブリッジでクレバスを越える写真が、何故か目に焼き付いている。
 さて、関西支部の報告というよりも池上さんを巡る“寒冷の系譜”を断片的に追った内容になったが、関西支部の常連メンバーは益々ご健勝につき詳細報告は割愛させて頂きたく。終わりに、今回欠席の連絡を頂いた窪田さん、伏見さん、福本さん、米澤さん、石松さん、川井さん、中谷さん、鈴井さん、三瓶さん、またの機会にお会いしましょう。

記事・消息・ 2020年2月6日 (木)

2018年9月20日に京都駅前のビアホールで「甚暑祓い/豊穣祈願」の飲み会を開いた。この年の関西は梅雨時から尋常ではない暑さが続き、関西支部の先輩の何人かは、参ったと弱音を吐いておられたので、少し涼しくなったら顔を合わせ気分転換をはかるのも良いのではと急遽集合を設定したもの。(飲み会参加者:安間、相田、高橋(昭)、田中(英)、内藤、伏見、川道、岸本)

勿論皆様お元気でいつものようにジョッキ片手に近況雑談で盛り上がりました。席上、安間さんから空沼小屋の現状を話していただき、胆振東部地震がありスタートが遅れたがこれから北大当局を説得し、空沼小屋及びヘルベチア小屋を有形文化財として登録申請するように進めてゆくとのこと。

記事・消息・ 2020年1月14日 (火)

現役のヴェチア幹事岡崎君から第92回ヘルヴェチア祭りが10/27に催され、写真とレポートが来たので遅くなったが編集しました。



OBは川道(1962入)、小野寺(65)、高橋(66)、安藤(70)、岩間(70)、中村(88)の6名、 現役は15名、若手OB2名他2名で計26名。峠越えは若手OB神谷(2015)1人のみ。主任幹事の笠井(4)の挨拶で前夜祭スタート。現役は今年は1年目6人が入部し将来は明るい。途中小雨もあったが焚き火を囲む。OBからの酒や料理の差し入れが例年より多くありがたい。例年の現役ワンコイン、OBからは3000円の会費で間に合う。メニューは生ハムにクラッカー、ラーメンサラダ、鍋、ポテトサラダ、牛丼、とりわさ等。
朝は昨晩の鍋にうどんを入れて朝食。11時ごろまで小屋の掃除や薪割り、煙突掃除など。手こずった薪割り用の切株数個残して記念撮影。11時半ごろ解散。




北海道新聞20200112別冊

道新記者が当日取材しにきて、丁度1/12日曜版別冊に山小屋の鎖という題で2面に渡り特集を組んでくれた。




ヴェチア幹事の岡崎君や小泉前会長、空沼小屋の保存を考える会の安間会長のコメントもあり、なかなかの小屋PR記事になっている。14年前理学部博物館で催された山小屋展の再現ともいえる記事。写真入りのインタビュー記事の在田氏は山スキー部OBで当時の館長。

記事・消息・ 2019年11月2日 (土)

日時:2019年10月19〜20日
場所:奥琵琶湖キャンプ場
参加者(敬称略、入部年西暦下二桁):吉田(57)、相田(58)、高橋(59)、田中英(59)、内藤(59)、川道(62)、須田(62)、米澤(69)、奥様タップティムさん、石松(73)、宮本(82)、岡島(83) 合計12名

記録的短時間大雨情報が千葉県に発表されるなど、10月19日土曜日は関西地方も天候が不安定。今夜は外でのBBQは無理かなと思案しながらJR湖西線の安曇川駅に向かい宮本さんと合流する。天候は回復に向かい12時過ぎに駅に着く頃には雨は上がった。
安曇川は琵琶湖に流れ込む二番目に大きな河川で、比良山系の雪解け水が流れ出す春先には、「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる全層循環を引き起こす要因の一つであると、以前の月見の会で伏見さんがレクチャーされた事を思い出す。
我々先発隊は先ず、淡水魚専門の養殖場でイワナを仕入れる。養殖池にはニジマスやビワマス、鮎やコイがたくさん泳いでいた。次のスーパーで酒や肉、野菜の買い出し中に石松さんと遭遇。石松さんに永原駅での須田さんの迎えをお願いし、宮本号は今回のベースキャンプとなる奥琵琶湖キャンプ場へと直行する。

ここ湖北の西浅井町は、柴田勝家と羽柴秀吉の合戦となった賤ヶ岳が直ぐ東にあり、西方は鯖街道など御食国の若狭から朝廷に水産物を貢いだ街道も多い。また今回のベースの最寄りの集落である永原は、隣町の塩津と合わせて古代から琵琶湖の水運の要衝であった。更に、北方の山並みの向こうは越の国となり、敦賀・舞鶴からは小樽行きの船便(北前船)が蝦夷ヶ島に通っている。現代は塩サバに代わって、大飯・高浜の原子炉から赤坂山を越えて高圧送電線を電気が送られて来る。ちなみにこの辺りは関西では貴重な山スキーのエリアである。

今回の会場は薪ストーブ、キッチン、冷蔵庫、ベッド、風呂、ウォシュレットトイレ付の別荘風の2階建てのコテージ。玄関前のバルコニーを宴会場として、テーブルと椅子を並べ、夕食や炭起こしの準備をしている間に12名全員が集合し、午後4時に開宴となった。イワナの塩焼き、焼肉、鳥鍋、鯖寿司、マス寿司と饗宴が続き、米澤奥様のタップティムさんが華を添えて、インターナショナルな会話が弾んだ。

雲も晴れ、月も望めた9時過ぎに山の四季を歌い屋内へ移動。その後、高橋さんが準備された空沼小屋とヘルべチアヒュッテを巡るスライドショーの上演となった。またこの会に先立って芦峅寺の佐伯トンコのご長男である高男氏を訪問され、関西支部の山小屋に置かれていたヒュッテン・ブッフやアルバムを持参された。小屋ノートの緒言は吉田さんで始まり、途中には富山での雪氷学会の折に立ち寄られた木崎ジミーの筆跡もあり、最後は高橋さんの文で終わっていた。

 高橋さんが探されていた物の一つは、芦峅寺の山小屋「北大山の会関西支部ヒュッテ」に掛けられていた伊吹良太郎さんの墨跡の看板でした。しかし残念ながら見つからなかったとのこと。確か30年ぐらい前の山の会会報に看板が写った写真付きの記事が載っていた記憶がある。「関西支部の名越ら悪童たちがまた今年もやって来た・・・」と記した恐らくトンコの寄せ書きだったと思う。私の手元にはこの会報は見当たらなかったが、平成11年に編纂された北大山の会会報の総集編を捲ると、昭和53年12月第46号「中野征紀前会長追悼号」10頁(p472)に「芦峅寺の山小屋」の題で関西支部の一文がある。

また、平成7年に編集された「芦峅の自然児・トンコ−佐伯富男追悼集−」に寄せられた思い出話しも芦峅寺の山小屋での場面であったのかも知れない。また別の機会に、芦峅寺のトンコの山小屋の資料が公開されることを期待したい。その他の話題として、伊吹さんが編纂された「行手は北山その彼方−京都一中山岳部85年の歩み」(2003年12月発行)の資料の紹介もあった。

伊吹さんの京都一中時代の貴重な写真をはじめ北大に関する章もあり、一行を紹介します。「当時は一中から三高へ進むのが一般的なコースであった。しかし、『謀反』を起こして北を目指す人たちがいたのだ。その中で、最初にブランキスト線−津軽海峡を越えたのは加納一郎(大正5年)ではないだろうか。・・・」このような会話が盛り上がる中、夜は更け11時過ぎ、7時間にも及んだ大宴会はお開きとなった。

翌朝はパンとサラダ付きベーコンエッグ、スープとコーヒーの朝食で始まる。合宿なので自炊である。朝食の後、皆さんの近況と今後の抱負を語って頂いた。
吉田:学生のヒマラヤでのフィールドワークを企画しています。ゴンドワナ地質環境研究所まで。
相田:六甲山を越えて有馬温泉に通っています。
田中:クルージングの海外旅行を楽しんでいます。同期会が段々と閉会し、世代を超えた山の会の集まりは大切な時間です。

内藤:家内と孫の世話をしています。若い人向けの料理も作って食べさせています。
川道:大学院生の海外での学会発表の支援をしています。川道国際学術交流協会まで。
ムササビの写真集を米国で出版するための編集中です
須田:自給自足の農業を営んでいます。
米澤:タイと日本の季節の渡りをしています。

タップティム:タイにいらしたときはぜひ遊びに来てください。
石松:定年後で余裕が出てきたので出席しました。アルバイトで足腰を鍛えています。
宮本:災害情報に関するインフラ整備の事業を立ち上げています。
岡島:冬山は雄山東尾根を考えています。
湖畔のベースキャンプを10時に撤収し、永原の駅前で散会となった。吉田さん、相田さん、内藤さん、川道さん、須田さん達と湖西線の客車のコンパートメントに二班に分かれて座り、車窓から琵琶湖の向うの横山岳、伊吹山、鈴鹿山脈を眺めながら話に花が咲いた。

川道さんの50年来の秀岳荘のアタックザックの話に始まり、51年ぶりにロシアとジョージアの国境にあるウシュバ南峰(カフカス山脈)下の氷河で見つかった小林年さんのザックの話に発展。ネンさんがザックを落とした理由として、秀岳荘のザックなら背負い紐が切れたのではなく、バックルの留め金のピンが革バンドの穴から外れたのではないか?

 「ネンさんの岩登りの上手さは特別だ。」と川道さんが回想。その後は、写真家の星野道夫さんと朝比奈先生との交流の話も出た。「旅をする木」に記されている内容ですが、動物研究者でアラスカ大学に学んだという共通項で繋がった川道さんの話を聞くと、星野道夫と朝比奈先生の繋がりがぐっとリアルに感じられた。(注:低温研の朝比奈先生はアラスカ大学北極生物研究所のアドバイサリー・コミッティの一員として、留学中の川道とお会いしました)。合宿帰りの汽車の中の様な、ゆったりとした時間が流れた。
まだ陽も高いので、私は途中の叡山坂本で下車し、比叡山延暦寺を越えてキララ坂を下って修学院離宮の側に降りた。明後日の10月22日は即位礼。風水害が治まりますよう鎮護国家を祈念しながら帰路に就いた。
(文:岡島、写真:高橋、宮本)

書評・出版・ 2019年10月19日 (土)

熱源
川越宗一 文藝春秋社 2019.8
日露の文明に飲み込まれたかに見えるサハリン島の樺太アイヌと、独露の圧政にあり123年間独立を喪失していたポーランドの、19世紀から1945年の物語。
クライマー、ヴォイテク・クルティカの評伝をきっかけに、ポーランド関連本をこれで5冊目ハシゴしている。巨大なロシア文明に飲み込まれた東西の少数民族文化の数々に興味がある。19世紀はその滅びゆく最後の時期にして学術記録も残された時期。興味深いテーマの史実が盛り込まれたフィクションで、この秋の新刊。フィクションを思って手にとったけれど、かなりの部分が史実で驚いた。
以前からなんとなく思っていたが樺太の北緯50度線は、ただ日露が半分に引いた線ではなく、もともと南のアイヌと、北のニブフ(ギリヤーク)との大体の境だったのだろうか。


1875年の樺太千島交換条約での樺太アイヌの北海道への半強制移住、1904年日露戦争の日本軍による南樺太侵攻と40年間の統治、そして1945年のソ連南樺太侵攻。この時代に翻弄されて生きた樺太アイヌのヤヨマネクフと、1795年以降国を亡くしていたリトアニア・ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキ。遠く離れていたが流刑地としてのサハリン島で出会う両者。

読みすすめるうち、ブロニスワフの姓、ピウスツキと、ペテルブルクでのナロードニキの先輩革命家、ウリヤノフの名に既視感を感じてはいた。後半になって、実在有名人がたくさん出てくるに至って、ブロニスワフもヤヨマネクフも、実在の人物だったのを初めて知った。二人だけではなく、登場し生き生きと描かれる樺太アイヌたちのほとんども、民俗学者ブロニスワフによって記述され記録された人々だった。

登山愛好家の読者として注目するのは、1912年白瀬矗の南極探検隊の犬ぞり担当者として参加したヤヨマネクフの働きだ。わが主人公は歴史上ではこの役割によって名を留めているが、少数民族として南極隊に参加する動機とその葛藤、消えゆく存在とみなされることへの反発など、心の内がずっと描かれている。同じく終章で登場するウィルタ族の若く優秀な射手もまた、対照的なひとつのあり方として描かれていた。

この本で一番読みたかったくだりは、ヤヨマネクフがブロニスワフの録音機に、未来に向かって話した「願い」とも「祈り」ともいえる言葉だ(p249)。
「もしあなたと私たちの子孫が出会うことがあれば、それがこの場にいる私たちの出会いのような幸せなものでありますように」
「そして、あなたと私たちの子孫の歩む道が、ずっと続くものでありますように」

19世紀は近いようで遠い。自分の先祖でどんな人生を送ったか伝え聞いているのはせいぜい三代前までではないだろうか。1964年生まれの私なら父は1934年生まれ、祖父は1905年、曽祖父は1870年代、知っているのはそこまでだ。そして先祖の数は3人だけではない。母方にもその母方にもいて、2の階乗の和で増えていく。2+4+8+16ヤヨマネクフの同時代でも16人の直接の先祖がいるはずだが、ほぼ知らない。自分が「純粋な日本人」だと思っている多くの人も、明治初期の4代前の16人全員の生涯を知っている人は多くはないはずだ。アイヌもコリアンも無関係と思っていても、そうではないのだ。自分は旧家の10代目です、という人がいても、2の10乗=1024人のうちせいぜい一人の素性を知っているだけだ。子孫に伝えられなかった、多くの先祖たちの人生を思う。

「熱」という言葉は要に何度も出てくるこの作品のテーマだ。21世紀になり、姿を消したかに見える樺太アイヌの独自環境に根ざした暮らしぶりや習俗。しかし文化、物語は形を変えて残っている。見えないエネルギーの象徴として、「熱」が語られるのだろうか。

先週ちょうどラジオの音楽番組で、アイヌ音楽家のOKIがトンコリを奏でるのを聴いた。90年代半ば以降になって、ようやくアイヌ文化の価値を差別的偏見を通さずに評価する時代になった気がする。30年ほど前の北海道では、今では考えられない、ここに書きたくもないほどの差別的な体験を見たことがある。人が差別的になるときに、両者の無知を思う。作品中の主人公たちが人生通じて、無知からの脱却のために学校を作ろうと努力をし続けたことが印象的だ。

日本統治時代には近代化の開発が進み、ロシア統治時代にはかなり放置される傾向があったように思う。樺太の山河は幸か不幸かロシア統治下で21世紀にも物理的に比較的未開発のままだ。もし戦後も日本領だったら、高度経済成長期やバブル期に今の天然山河は失われていただろう。北大山岳部的には、すぐ近くにある「システム外」の秘境山域を、どこまでも山スキーとイグルーで北上していきたいと思うのである。アイヌ、ニヴフ、ウィルタたちの伝説を読み返しその世界を空想しながら。
 
 
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