部報解説・ 2008年5月8日 (木)
これまでの部報紹介・部報8号(1959年)前編/(米山84)
コイカク沢遭難でまとめた7号以来、戦争を挟んで18年ぶりに出たこれまでで最長期間の部報。山岳部の最高目標だった厳冬期ペテガリ初登(1943・昭和18年)を戦争悪化ぎりぎりまで粘って勝ち取り、戦後早くも再開した日高未踏地帯の最後の踏査記録が満載。またマナスル初登の機運で空前の登山ブームを迎えた1950年代、部員も多く活動も盛んで、日高と大雪の全山冬季縦走という大作戦を貫徹している。中身たっぷりの時代ゆえ、この部報にこぼれた多くの珠玉の記録もあったろうと思う。三回にわけて紹介する。一回目は目次代わりに18年の年報をさらりと駆け足で。
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【総評】
1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点
【年報概要と時代背景】
社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。
次回中編、後編では記事を紹介するが、戦争中、直後の記録はほとんどこの「年報」に簡潔にあるだけ。乏しい記録だが1944、45年の両年にも一週間の冬合宿を続けていたのには驚いた。そして日本の生き残りは着々と復活を遂げていったのが分かる。同じ北大山岳部という入れ物の中、自分の学生時代の年頃の世間に対する相対感覚と重ね合わせると、ルームは戦時でも世間が放っておいてくれたサンクチュアリとして在ったのかもしれない。余談ながら平成20年のいまの大学のほうがよほど「消費経済社会主義政策」に取り込まれてしまっている。その中で当局には見つかりもしないほどこぢんまりと細く強く、山岳部のトーチを繋いでいるように見える。「消費が美徳」、「金が無ければ遊び方も分からない」というご時世にあって、山岳部員が少ないのは当たり前である。
(前編/中編/後編)
【総評】
1941-1958年度の18年分の記録。「冬の日高全山縦走」「冬の十勝大雪縦走」の二大イベントの報告が併せて70p、ペテガリ冬季初登記録を含む日高最後の初登記録五連発記録集「積雪期の日高山脈」が39p。中部日高で最後に残った秘境、ナナシ沢初遡行記含む無雪期記録集、「夏の紀行」が30p。十勝川源流の温泉小屋建設の記録と、犬ソリ研究の二つの報告が32p。追悼が7人で20p。戦死など「物故者略歴」が7p。18年分の「年報」が大量に178pで、合計377p。編集委員は5名の連名。編集後記は杉野目浩。価格は500円。最後のA5判。(敬称略)
【目次】
部報八号の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・・・・原田準平
厳冬期の日高山脈全山縦走・・・・・・・・・・・・・・・西信博
冬の十勝、大雪山縦走・・・・・・・・・・・・・・・・・
積雪期の日高山脈
ペテガリ岳〜一九四三年一月〜・・・・・・・渡辺良一、今村昌耕
イドンナップ岳〜一九四八年一月〜・・・・・・・・・・木崎甲子郎
札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九四九年一月〜・・・・・・・・橋本誠二
コイカクシュ札内岳よりカムイエクウチカウシ山へ〜一九五〇年一月〜・・・・・・・・・・山崎英雄
中ノ岳と神威、ペテガリ岳〜一九五三年一月〜・・・・・・杉野目浩
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
夏の紀行
余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
二つの無名沢遡行記
無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・滝沢政治
無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・西村豪、神前博
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
年報 一九四一〜一九五八
写真6点、附図4点
【年報概要と時代背景】
社会も登山界も激動期なのでそういう背景を並べて、ルームのいきさつをまずはイッキに見てみる。
●1941(昭和16)年度
コイカク沢遭難から年度明けて、五月にこのルートからペテガリをアタックしている。夏メインは日高に大雪に北アルプスに9パーティー出し、冬は日米開戦直後に吹上温泉で冬合宿もやっている。三月には橋本誠二、朝比奈英三がコイカクからルベツネ岳まで迫っている。まだまだ普段どおりの年だ。
● 1942(昭和17)年度
太平洋戦線拡大。マレー、ジャワ、スマトラ占領。
夏メインは日高だけでも6パーティー、このうち渡辺良一、橋本芳郎、菊池徹は無名沢(→コイカク岳)の初遡行を遂げた。冬合宿は一年班ニセコ、二年班愛山渓で行っている。冬季は念願のペテガリ初登を成し遂げ(記事あり)、楽古岳パーティーもある。2月下旬に大雪、3月に谷川、立山へのメイン山行がある。
●1943(昭和18)年度
春ガダルカナル、アリューシャンで敗退、秋には学徒出陣。残雪期には道内全域の山行記録がある。北日高で三つの沢メイン山行はじめ年末の十勝合宿も8日間行っている。積雪期山行は武利武華と楽古に3月に小山行に行っているのみで学徒出陣の影響を受け始めているようだ。
●1944(昭和19)年度
サイパン、テニアン、グアム全滅、秋レイテ沖海戦。特攻攻撃はじまる。東京初空襲。
年末の冬合宿は吹上温泉使用不能のためニセコ馬場温泉で七日間行っているが、他の山行記録は8月の夕張岳とカムエク二つのみ。詳しい事情は書かれていない。全土が空爆にあうのは20年3月10日の東京大空襲から。
●1945(昭和20)年度
春、硫黄島全滅、全国の主要都市で空爆、沖縄で地上戦、夏原爆攻撃で敗戦。ソ連参戦。
この代の幹事に南極の菊池徹氏がいる。このご時勢に年末の十勝冬季合宿を貫徹している。「十二月一七日〜二三日、一四名。非常なる困難を克服しやることが出来た。吹上温泉使用不能のため勝岳荘にて自炊す。」敗戦の混乱の中、食料調達も苦労したはず。
●1946(昭和21)年度
極東国際軍事法廷(東京裁判)が開廷。
夏メインは日高4つ大雪1つの5班、十勝でも一週間の合宿をおこなっている。が、積雪期の山行記録は、翌年度に報告がある。7つの記録があるが、あまり長い山行は行えていない。余市岳でイグルー生活という記録もある。
●1947(昭和22)年度
日本国憲法施行。48年一月、早大隊が東尾根から極地法でペテガリに登頂、厳冬期第二登。
夏山は日高と大雪に全8班。うち中部日高班がコイカク沢の下降途中、巻きの際、転落して花岡八郎が遭難死した。翌48年一月にはイドンナップの冬季初登。
●1948(昭和23)年度
東京裁判結審。49年一月、松濤明が槍の北鎌尾根で遭難死。
主任幹事は菊池三郎。夏は日高6班と中央高地4班、冬春は日高の北トッタベツ岳などの初登含む3班、中央高地3班など。活況だ。(記事あり)
●1949(昭和24)年度
中国共産党、内戦に勝利。ネパールが開国。
主任幹事は前期山崎英雄、後期木崎甲子郎。夏は日高7班と中央高地3班、冬春は中央高地3班など。この年奥村山岳部長(教授)が札内九の沢で遭難死。
●1950(昭和25)年度
中国人民解放軍がチベット侵攻、チベット側登山はこれ以降閉ざされる。朝鮮戦争始まる。フランス隊アンナプルナに初登(8000m峰で初)。51年一月、登歩渓流会の川上亮良厳冬期利尻東稜初登頂。
主任幹事は前期後期とも山崎英雄。夏は日高8班と中央高地2班、冬春は日高3班と中央高地3班など。
●1951(昭和26)年度
サンフランシスコ講和条約調印。英シプトン隊、エベレストのネパール側東南稜を試登(初めて)。
主任幹事は通年野田四郎。夏は日高10班と中央高地2班、冬は山岳部戦後初の集団作戦、十勝大雪(美瑛富士→黒岳)厳冬期縦走。リーダーは木崎甲子郎、計19人。(記事あり)
●1952(昭和27)年度
米占領軍から開放される。今西錦司体長隊マナスル偵察。京大山岳部、知床岳と羅臼岳の厳冬期初登。
主任幹事は通年で有波敏明。夏は日高6、大雪は4班。冬は1940峰と中の岳の厳冬期初登(記事あり)を含む日高2、大雪1、ほか本州道内多数。中の岳はその六日後に札幌山岳会が別ルートで登頂。
厳冬期知床初縦走を終えた帰りに来札の京大山岳部と懇親会。合宿はヘルベチアで十二月中旬一週間と、十勝岳勝岳荘で3月中旬一週間。
●1953(昭和28)年度
英隊エベレストに初登。独墺隊、ナンガパルバット初登。第一次マナスル隊三田幸夫隊長。札幌山岳会羅臼岳ー硫黄山厳冬期初縦走。
主任幹事は木村俊郎。ベチアでの新歓に新入生9名。年末の冬合宿は十勝岳で10日間。夏は新冠川初完全遡行を含む日高7班。大雪2班、冬は日高1班、大雪1班。ほか道内、内地多数3月は穂高や立山〜槍の縦走など北アで3班。5年目部員井上正惟、5月の中ア空木岳で遭難死。8月、一年目部員鈴木康平、剣岳ブナクラ沢で鉄砲水のため遭難死。
●1954(昭和29)年度
青函連絡船「洞爺丸」遭難、水爆実験で第五福竜丸が被曝、自衛隊発足再軍備。第2次マナスル隊堀田弥一隊長断念。伊隊K2初登頂、墺隊チョーオユー初登。翌55年3月、小山義治ら東京北穂会利尻南稜初登。
主任幹事は前期岡本丈夫、後期河内洋佑。夏は日高で7班、大雪で2班。冬は全員でカムエク→幌尻の極地法の主稜線縦走(編成6班)。ほか内地道内多数。
●1955(昭和30)年度
仏隊マカルー初登、英隊カンチェンジュンガ初登
主任幹事は前期長友久雄、後期永光俊一。夏は日高8班。うち滝沢政治パーティーは無名沢から1823南面直登沢初遡行(ただし右岸に逃げている)。大雪、知床1班ずつ。冬は日高2、大雪1、芦別夕張縦走、奥又白。春は日高2、大雪2など10班。
●1956(昭和31)年度
日ソ国交回復。シベリア抑留最後の帰還。日本隊マナスル初登、昭和基地での南極観測出発。スイス隊ローツェ初登、墺隊ガッシャーブルムII峰初登。
主任幹事は前期永光俊一、後期は西信博。夏は日高10班、大雪1班。冬合宿は十勝で6日間。15名参加。これと同時に12月12日から1月8日まで日高全山(トヨニ→幌尻)厳冬期縦走(内容は本文)。リーダー西信博。縦走隊4人、サポート隊三班の計21人。部報8号の看板企画だ。春も日高で2班。
●1957(昭和32)年度
ソ連、史上初の人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
西堀栄三郎隊長らの11人が第一次南極越冬。墺隊ブロードピークを速攻登山で初登。ヘルマンブール、チョゴリザで遭難。
主任幹事は前期高橋利雄、後期安間荘。五月の連休に十勝岳勝岳荘で春合宿(初?)。夏は日高9班。うち酒井和彦パーティーは無名沢から1839峰北面に初遡行。北アで二班。冬山準備合宿を11月下旬に芦別岳で4日間。十二月末に十勝で冬合宿。冬は日高2班、大雪1班、穂高に2班ほか。このほか五月下旬に二ペソツ東壁の初登記録あり。一年目部員前田一夫三月に前穂吊り尾根で遭難死。
●1958(昭和33)年度
米隊ガッシャーブルムI峰初登。翌59年一月キューバ革命、3月チベットで蜂起、鎮圧。ダライラマ、チベットを脱出。59年3月利尻東北稜初登。
主任幹事は五月まで前年より安間荘、翌二月まで酒井和彦、二月以降遠藤禎一。
4月、大雪に温泉小屋建設に向かう。この年は断念。五月新入生歓迎空沼フェスティバル、前年に続きニペソツ東壁を6月に登る。夏山は日高11班、大雪小山行多数、9月芸大山岳部OBの捜索依頼を受ける。11月21ー24と27-31に芦別岳合宿。12月は合宿に先駆け北鎌尾根→奥穂計画で、五班18人の極地法。十勝岳勝岳荘で29人、例年の冬合宿中、四年目部員小竹幸昭と一年目部員加藤幹夫、十勝OP尾根で雪崩遭難死。北鎌隊は急遽下山。その後春山は日高2、知床1、大雪1。
次回中編、後編では記事を紹介するが、戦争中、直後の記録はほとんどこの「年報」に簡潔にあるだけ。乏しい記録だが1944、45年の両年にも一週間の冬合宿を続けていたのには驚いた。そして日本の生き残りは着々と復活を遂げていったのが分かる。同じ北大山岳部という入れ物の中、自分の学生時代の年頃の世間に対する相対感覚と重ね合わせると、ルームは戦時でも世間が放っておいてくれたサンクチュアリとして在ったのかもしれない。余談ながら平成20年のいまの大学のほうがよほど「消費経済社会主義政策」に取り込まれてしまっている。その中で当局には見つかりもしないほどこぢんまりと細く強く、山岳部のトーチを繋いでいるように見える。「消費が美徳」、「金が無ければ遊び方も分からない」というご時世にあって、山岳部員が少ないのは当たり前である。
(前編/中編/後編)
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