現役の報告・ 2006年11月15日 (水)
【月 日】11月12日(1-0)
【メンバ】澤田拓郎(3)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【ルート】十勝岳温泉→旧Z→旧D→H→三峰山往復
冬の十勝、準山が始まりました。今年は二年目がいなくなってしまったので、三年班です。
【メンバ】澤田拓郎(3)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【ルート】十勝岳温泉→旧Z→旧D→H→三峰山往復
冬の十勝、準山が始まりました。今年は二年目がいなくなってしまったので、三年班です。
11/12悪天・旧DZ〜上ホロカメットク、三峰山往復(1ー0)
<時間とルート>
十勝岳温泉(7:25)〜旧Z(8:00)〜H(9:20)〜上ホロ(9:40)〜三峰(11:00)〜H(11:45)〜旧Z(12:40)〜十勝岳温泉(13:10)
旧DZ経由でHまで。雪少なくスノーシュー置いていく。Hから上ホロアタック。視界2〜300、風はふられない程度。Hに戻り、三峰アタック。視界2〜300、ふられる風。Hからは旧DZ経由で温泉まで。
デポ旗はHの降り口と、上ホロアタック途中の白くてガケから落ちそうな所にそれぞれ1本。三峰アタック途中の広い所にも1本打ったが、不要だった。
<パーティ>
冬メイン3年班準山1回目。風の強い中行動できた、旧DZでBSできた
澤田、寺尾:特になし 平塚:目出帽忘れ
<時間とルート>
十勝岳温泉(7:25)〜旧Z(8:00)〜H(9:20)〜上ホロ(9:40)〜三峰(11:00)〜H(11:45)〜旧Z(12:40)〜十勝岳温泉(13:10)
旧DZ経由でHまで。雪少なくスノーシュー置いていく。Hから上ホロアタック。視界2〜300、風はふられない程度。Hに戻り、三峰アタック。視界2〜300、ふられる風。Hからは旧DZ経由で温泉まで。
デポ旗はHの降り口と、上ホロアタック途中の白くてガケから落ちそうな所にそれぞれ1本。三峰アタック途中の広い所にも1本打ったが、不要だった。
<パーティ>
冬メイン3年班準山1回目。風の強い中行動できた、旧DZでBSできた
澤田、寺尾:特になし 平塚:目出帽忘れ
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現役の報告・ 2006年11月15日 (水)
2006年度夏・岩メイン 屏風岩 滝谷 報告
【月 日】8月23日〜29日
【メンバ】L寺尾祐信(3) AL澤田拓郎(3) M平塚雄太(3)佐藤海太(2)
【ルート】T4尾根、屏風岩 雲稜ルート、屏風岩 東稜ルート、滝谷 ドーム中央稜、屏風岩 ディレッティシマ
遅くなりました。冬になってしまいそうですが、現役の夏、岩メイン山行のかけこみ報告です。
【月 日】8月23日〜29日
【メンバ】L寺尾祐信(3) AL澤田拓郎(3) M平塚雄太(3)佐藤海太(2)
【ルート】T4尾根、屏風岩 雲稜ルート、屏風岩 東稜ルート、滝谷 ドーム中央稜、屏風岩 ディレッティシマ
遅くなりました。冬になってしまいそうですが、現役の夏、岩メイン山行のかけこみ報告です。
23日 上高地に集合する。そこで、佐藤がワンタッチアイゼンを夏用登山靴に荷作り紐で固定しようとしていた上、バイルとハンマーを間違えていた事が発覚。皆で罵る。
24日 移動
晴れ・上高地(5:15)→横尾(8:15)→偵察(10:00〜17:00)
上高地から横尾までは林道並みの道。佐藤だけ猿に囲まれ威嚇される。屏風岩に登るには横尾のほうが良いので横尾をBCとする事にする。偵察に向かう。が、一度1ルンゼ出合を行き過ぎてしまう。
●澤田ー佐藤Party
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。澤
2p 40m IV+ 澤
ルンゼをコンテで行く。
3p 30m III チムニー〜スラブ 佐
●寺尾ー平塚Party
ほとんど上と一緒。T4尾根は寺リードで1p登ったところでクレッター落としたため回収して帰る。
25日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 雲稜ルート)
晴 BC(3:20)→T4取付き(4:30〜5:00)
T4尾根(5:00〜6:30) 佐澤佐
雲稜ルート(6:30〜14:30)
1p 50m V コーナー〜凹角内のハングを越えテラスまで。澤
2p 20m IV A0 ピナクルテラス〜ピナクル。佐
3p 10m III ピナクル〜扇岩テラス 澤
4p 30m A1 スラブ状をA1 佐
5p 20m IV+〜VーA1 A1でハングしたまで行き、ハングに頭をおさえられつつTrしテラスまで。フレークは脆い。澤
6p トポの情報により、ルンゼを渡り、登られていないフェースをハーケンをうちこえようとする。が、チェックしようとして勢いよく引っぱりすぎてハーケンが抜け、1m程下のテラスに着地。危ない。その場にハーケンでビレイ点を作り、澤田が行く。 佐
6p再 トポで「悪い」とかかれているルンゼを少し登り、Trして佐藤の3m程上のテラスまで。こちらが正解。上からロープを投げ、ゴボウっぽく抜ける。澤
7p 45m VA0 ルンゼ状スラブ 澤
8p目はハーケンを自分で打ってA0するようなことはなさそうなので佐藤にリードを続行して良いと判断する。
8p 30m IV ルンゼ状スラブ 佐
9p 10m IVA0 草付凹角を1段上まで 澤
9p目は上に抜けるのでなければ登る価値は無い。
下降(15:00〜17:30)→BC(18:50)
下降は大テラスからAbしたら早いとの情報だったが、大テラスからのAbはロープの流れ、落石を考慮し扇岩テラスまで澤田のみ登り返し。T4まで、6pAb。T4は3回25mAb、50m×2回Ab。下降途中、佐藤がネーベンをわすれていた事が発覚。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 東稜ルート)
晴 BC(4:30)→T4取付き(4:30〜5:00)
澤田Pに先を譲って遅れて出発。
T4尾根〜東稜ルート(6:10〜16:10)
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。寺
2p 40m IV+ 平塚がビレイ点でウンコする。場所判断ミス。寺
ルンゼをコンテで行く。平
3p 30m III チムニー〜スラブ 寺
東稜ルート
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。人工だからか時間がかかっているように思えた。平
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下まで。3mmシュリンゲの人工が怖い。寺
3p 30m IV,A1~A0 ハング下を左に行き、ランペ。ちょっと伸ばす。A0のところで時間かかる。平
4p 40m IV,A1 小ハング〜フェース。トポの5p目途中まで。寺
5p 15m III やさしい草付。平
6p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。寺
下降(16:10〜18:10)T4尾根(18:10〜30)〜BC着(20:10)
下降の際、平塚のロープワークが雑でロープ絡まらせる。さらにT4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスでセルフを取らずに手を離した。
26日
●澤田ー佐藤Party(休養+移動)
晴時々曇。夜から小雨+雷。夕方までは寝ている佐藤に砂糖をふりかけたり、猿と交流したりしつつ休養。夕方、涸沢に移動し、北穂に上がる夏道を少し偵察。ハングした岩の下で寝る、なかなか快調。
●寺尾ー平塚Party(休養)
晴時々曇。夜から小雨+雷。澤田Pが行ったあとかわいい女3人+黒い男1人のPartyがキャンプ場に来る。あのヤローはなんなんだ!!
27日
●澤田ー佐藤Party(滝谷 ドーム中央稜)
ガス時々晴れ。後、雨。
涸沢(3:10)→北穂南峰()→取付き(8:00〜30)
ドーム中央稜(8:30〜12:10)
南峰(13:00)→涸沢(14:15〜15:20)→BC(16:45)
取り付まではほぼ計画通り。ガスっており、少々迷う。ラッペル支点多い、三級のクライムダウンはロープ出しても良かった。先行パーティーをまって出発。
1p 40m IV チムニー〜カンテを少しのぼりテラスまで、アンカーは岩角。チムニーに挟まってきつい。澤
2p 20m IV+ リッジ〜左スラブ〜テラス リードはA0 佐
3p 35m I リッジ 澤
4p 15m III+ 凹角〜チムニー 佐 短いが重いのできる。
5p 20m V 凹角からCSのチムニー〜テラス 澤
6p 25m V〜V+ 凹角〜ハング。ハング直上 澤
ドーム中央稜は硬く、フリーで抜けれるルートで快適。取り付きまではふみあとは判然としない。社会人パーティーも迷っていてルンゼ内をラッペルしていた。
その後ドーム頭から縦走路へルンゼをCdし、北穂南峰でグダグダし、涸沢でおでんジャンケンする。涸沢はお姉ちゃんがたくさんいて、癒される。雨のやんだ隙を突きBCまで夏道を下る。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 ディレッティシマ敗退)
晴時々雨 BC(3:15)→T4取付き(4:40)
ディレッティシマの取付きを探すのに手間取る。雪渓の残っている1ルンゼをつめていく。取付きまでに少し岩登り。平塚にシュリンゲ垂らす。
ディレッティシマ敗退(6:00〜16:00)
1p 45m V フェース〜脆い階段状。トポの1,2pをつなげる。右の凹角に入らずにフェースを直登したため難しくなった。寺
2p 20m III,A1 小ハングを越える。リード中時計落とす。平
3p 30m IVー,A1 垂壁〜スラブのはずだったが、途中支点が一ヶ所抜けていてエイドでいけないところがあった。ツルツルだったのでフリーで抜けたり、ハーケンを打ったりはできなかったので、セルフをいっぱいまで伸ばし、振り子のようにして左のリスにつかまりバランスをとりながらハーケンを打つがささらず、詰まった土をハンマーで掘ってそこにエイリアンをきめてギリギリで左に抜ける。あとは脆い岩を横断バンドまで。時間かけた。フォローは支点の抜けているところだけ片方のザイルで確保してもう片方でゴボウ。のちの人のために抜けている支点のところはシュリンゲを垂らして残置した。寺
4p 50m A1 スラブの人工。寺
5p 40m IVー,A1 コーナー沿い。一部アメリカンエイド。リード落石落とす。ハングしていたためにビレイヤーの背中を石が通っていった。平
6p 35m A2 ルーフ越え。興奮した。ザイルの流れがロクスノに出てきそうだった。平塚のビレイにキレる。寺
ここで時間切れのために敗退。3,6pのリードに時間かけすぎた。平塚のスピードはだいぶ早くなっていた。
下降(16:00〜18:00)ーBC着(19:00)
横断バンドまで降りて横断バンドの踏み跡をT4まで行き、T4から降りる。そっちのほうが早いと思う。懸垂中に平がトポを落とす。幸い横断バンドに落ちたので回収できた。ディレッティシマは脆い残置が多く、東稜や雲稜に比べるとあまり登られていないようだった。
28日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 東稜ルート)
曇り→ガス→小雨
T4(5:30〜7:10)疲労と湿り気のためか難しく感じる
東稜(7:40〜13:20)
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。澤
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下を左へ。佐
3p 35m IV,A1 小リッジ上を左上〜右TRし小ハングをエイドで小テラスまで。澤
4p 35m IV,A1 フェース〜右TR〜フェース〜ピナクルテラスまで。佐
5p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。澤
下降(13:20〜15:45)→BC着(16:45)
下降は4pラッペル。T4まで佐藤に降りてもらう。が、T4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスで佐藤がセルフを取らずにロープをルベルソから解こうとする(本人曰く「平塚さんのウンコのせいだ。」)。前日の疲れはあった。
T4では平塚の排泄物にロープがつく、不可抗力。悲惨。エイドには慣れた。東稜はピンの距離も近く、エイド入門という雰囲気。
●寺尾ー平塚Party(休養)
澤田Pが行ったあと北九州市立大の素敵な女性×3がキャンプ場に来る。鼻の下を伸ばす。
29日 下山
横尾発(7:40)ー上高地着(10:00)
澤田Pは休養。寺尾Pは天気があまり良くない予報でモチベーションも低かったため下山することに。岩メインの最後はいつもこうなる気が…
<Party>
L-s 寺尾:クレッタ落とし、偵察のときでよかったね。
澤田:ドーム取り付きまで迷い、時間をかけてしまう。
M 平塚:道間違い。時計とトポ落とす。ビレイの意識甘い。ウンコの意識甘い。
佐藤:ハーケン設置、確認方法は慎重に…。ラッペル中の手放しなど緊張感の維持が課題。ビレイ中リード が頑張っているときは集中してほしい。
24日 移動
晴れ・上高地(5:15)→横尾(8:15)→偵察(10:00〜17:00)
上高地から横尾までは林道並みの道。佐藤だけ猿に囲まれ威嚇される。屏風岩に登るには横尾のほうが良いので横尾をBCとする事にする。偵察に向かう。が、一度1ルンゼ出合を行き過ぎてしまう。
●澤田ー佐藤Party
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。澤
2p 40m IV+ 澤
ルンゼをコンテで行く。
3p 30m III チムニー〜スラブ 佐
●寺尾ー平塚Party
ほとんど上と一緒。T4尾根は寺リードで1p登ったところでクレッター落としたため回収して帰る。
25日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 雲稜ルート)
晴 BC(3:20)→T4取付き(4:30〜5:00)
T4尾根(5:00〜6:30) 佐澤佐
雲稜ルート(6:30〜14:30)
1p 50m V コーナー〜凹角内のハングを越えテラスまで。澤
2p 20m IV A0 ピナクルテラス〜ピナクル。佐
3p 10m III ピナクル〜扇岩テラス 澤
4p 30m A1 スラブ状をA1 佐
5p 20m IV+〜VーA1 A1でハングしたまで行き、ハングに頭をおさえられつつTrしテラスまで。フレークは脆い。澤
6p トポの情報により、ルンゼを渡り、登られていないフェースをハーケンをうちこえようとする。が、チェックしようとして勢いよく引っぱりすぎてハーケンが抜け、1m程下のテラスに着地。危ない。その場にハーケンでビレイ点を作り、澤田が行く。 佐
6p再 トポで「悪い」とかかれているルンゼを少し登り、Trして佐藤の3m程上のテラスまで。こちらが正解。上からロープを投げ、ゴボウっぽく抜ける。澤
7p 45m VA0 ルンゼ状スラブ 澤
8p目はハーケンを自分で打ってA0するようなことはなさそうなので佐藤にリードを続行して良いと判断する。
8p 30m IV ルンゼ状スラブ 佐
9p 10m IVA0 草付凹角を1段上まで 澤
9p目は上に抜けるのでなければ登る価値は無い。
下降(15:00〜17:30)→BC(18:50)
下降は大テラスからAbしたら早いとの情報だったが、大テラスからのAbはロープの流れ、落石を考慮し扇岩テラスまで澤田のみ登り返し。T4まで、6pAb。T4は3回25mAb、50m×2回Ab。下降途中、佐藤がネーベンをわすれていた事が発覚。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 東稜ルート)
晴 BC(4:30)→T4取付き(4:30〜5:00)
澤田Pに先を譲って遅れて出発。
T4尾根〜東稜ルート(6:10〜16:10)
T4尾根
1p 30m IV 凹角をテラスまで。寺
2p 40m IV+ 平塚がビレイ点でウンコする。場所判断ミス。寺
ルンゼをコンテで行く。平
3p 30m III チムニー〜スラブ 寺
東稜ルート
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。人工だからか時間がかかっているように思えた。平
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下まで。3mmシュリンゲの人工が怖い。寺
3p 30m IV,A1~A0 ハング下を左に行き、ランペ。ちょっと伸ばす。A0のところで時間かかる。平
4p 40m IV,A1 小ハング〜フェース。トポの5p目途中まで。寺
5p 15m III やさしい草付。平
6p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。寺
下降(16:10〜18:10)T4尾根(18:10〜30)〜BC着(20:10)
下降の際、平塚のロープワークが雑でロープ絡まらせる。さらにT4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスでセルフを取らずに手を離した。
26日
●澤田ー佐藤Party(休養+移動)
晴時々曇。夜から小雨+雷。夕方までは寝ている佐藤に砂糖をふりかけたり、猿と交流したりしつつ休養。夕方、涸沢に移動し、北穂に上がる夏道を少し偵察。ハングした岩の下で寝る、なかなか快調。
●寺尾ー平塚Party(休養)
晴時々曇。夜から小雨+雷。澤田Pが行ったあとかわいい女3人+黒い男1人のPartyがキャンプ場に来る。あのヤローはなんなんだ!!
27日
●澤田ー佐藤Party(滝谷 ドーム中央稜)
ガス時々晴れ。後、雨。
涸沢(3:10)→北穂南峰()→取付き(8:00〜30)
ドーム中央稜(8:30〜12:10)
南峰(13:00)→涸沢(14:15〜15:20)→BC(16:45)
取り付まではほぼ計画通り。ガスっており、少々迷う。ラッペル支点多い、三級のクライムダウンはロープ出しても良かった。先行パーティーをまって出発。
1p 40m IV チムニー〜カンテを少しのぼりテラスまで、アンカーは岩角。チムニーに挟まってきつい。澤
2p 20m IV+ リッジ〜左スラブ〜テラス リードはA0 佐
3p 35m I リッジ 澤
4p 15m III+ 凹角〜チムニー 佐 短いが重いのできる。
5p 20m V 凹角からCSのチムニー〜テラス 澤
6p 25m V〜V+ 凹角〜ハング。ハング直上 澤
ドーム中央稜は硬く、フリーで抜けれるルートで快適。取り付きまではふみあとは判然としない。社会人パーティーも迷っていてルンゼ内をラッペルしていた。
その後ドーム頭から縦走路へルンゼをCdし、北穂南峰でグダグダし、涸沢でおでんジャンケンする。涸沢はお姉ちゃんがたくさんいて、癒される。雨のやんだ隙を突きBCまで夏道を下る。
●寺尾ー平塚Party(屏風岩 ディレッティシマ敗退)
晴時々雨 BC(3:15)→T4取付き(4:40)
ディレッティシマの取付きを探すのに手間取る。雪渓の残っている1ルンゼをつめていく。取付きまでに少し岩登り。平塚にシュリンゲ垂らす。
ディレッティシマ敗退(6:00〜16:00)
1p 45m V フェース〜脆い階段状。トポの1,2pをつなげる。右の凹角に入らずにフェースを直登したため難しくなった。寺
2p 20m III,A1 小ハングを越える。リード中時計落とす。平
3p 30m IVー,A1 垂壁〜スラブのはずだったが、途中支点が一ヶ所抜けていてエイドでいけないところがあった。ツルツルだったのでフリーで抜けたり、ハーケンを打ったりはできなかったので、セルフをいっぱいまで伸ばし、振り子のようにして左のリスにつかまりバランスをとりながらハーケンを打つがささらず、詰まった土をハンマーで掘ってそこにエイリアンをきめてギリギリで左に抜ける。あとは脆い岩を横断バンドまで。時間かけた。フォローは支点の抜けているところだけ片方のザイルで確保してもう片方でゴボウ。のちの人のために抜けている支点のところはシュリンゲを垂らして残置した。寺
4p 50m A1 スラブの人工。寺
5p 40m IVー,A1 コーナー沿い。一部アメリカンエイド。リード落石落とす。ハングしていたためにビレイヤーの背中を石が通っていった。平
6p 35m A2 ルーフ越え。興奮した。ザイルの流れがロクスノに出てきそうだった。平塚のビレイにキレる。寺
ここで時間切れのために敗退。3,6pのリードに時間かけすぎた。平塚のスピードはだいぶ早くなっていた。
下降(16:00〜18:00)ーBC着(19:00)
横断バンドまで降りて横断バンドの踏み跡をT4まで行き、T4から降りる。そっちのほうが早いと思う。懸垂中に平がトポを落とす。幸い横断バンドに落ちたので回収できた。ディレッティシマは脆い残置が多く、東稜や雲稜に比べるとあまり登られていないようだった。
28日
●澤田ー佐藤Party(屏風岩 東稜ルート)
曇り→ガス→小雨
T4(5:30〜7:10)疲労と湿り気のためか難しく感じる
東稜(7:40〜13:20)
1p 15m III,A1 小ハング〜フェース。澤
2p 40m A1 フェースの人工、ハング下を左へ。佐
3p 35m IV,A1 小リッジ上を左上〜右TRし小ハングをエイドで小テラスまで。澤
4p 35m IV,A1 フェース〜右TR〜フェース〜ピナクルテラスまで。佐
5p 30m III+,A1 ピナクル上の垂壁〜右に抜ける。澤
下降(13:20〜15:45)→BC着(16:45)
下降は4pラッペル。T4まで佐藤に降りてもらう。が、T4尾根2p目ラッペル後の立てるテラスで佐藤がセルフを取らずにロープをルベルソから解こうとする(本人曰く「平塚さんのウンコのせいだ。」)。前日の疲れはあった。
T4では平塚の排泄物にロープがつく、不可抗力。悲惨。エイドには慣れた。東稜はピンの距離も近く、エイド入門という雰囲気。
●寺尾ー平塚Party(休養)
澤田Pが行ったあと北九州市立大の素敵な女性×3がキャンプ場に来る。鼻の下を伸ばす。
29日 下山
横尾発(7:40)ー上高地着(10:00)
澤田Pは休養。寺尾Pは天気があまり良くない予報でモチベーションも低かったため下山することに。岩メインの最後はいつもこうなる気が…
<Party>
L-s 寺尾:クレッタ落とし、偵察のときでよかったね。
澤田:ドーム取り付きまで迷い、時間をかけてしまう。
M 平塚:道間違い。時計とトポ落とす。ビレイの意識甘い。ウンコの意識甘い。
佐藤:ハーケン設置、確認方法は慎重に…。ラッペル中の手放しなど緊張感の維持が課題。ビレイ中リード が頑張っているときは集中してほしい。
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記事・消息・ 2006年11月15日 (水)
11月11〜12日、於:滋賀近江舞子の琵琶湖畔にて
京阪神は暖かくうららかな日が続き、街中では最近まで半そで姿で歩く若者を見かけた。ところが月見の宴を予定した11月11日は何と朝から雨。雷も鳴るという荒天。しかし我々はひるまない。午後3時に琵琶湖畔に出てみると、眼前の竹生島が小雨にぼんやり霞み、背景の比良連山は雨雲の中といったバーベキューパーティーにはもってこいの日和。おまけに人馴れした鴨が炭火の近くまで遊びにきたので、すぐに鍋も用意するという気合の入れよう。ただねぎを買ってこなかった。
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
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OBの山行記録・ 2006年11月6日 (月)
現役と三日間登攀合宿。ザイル手繰っちゃ山の話、雑炊食っちゃ山の話。
【ルート】
上ホロカメットク山周辺・新ZをBCにして、化物岩、上ホロ正面壁、八ツ手岩の登攀
【メンバ】
A班:斉藤清克(87入部),米山悟(84入部),澤田卓郎(3)
B班:勝亦浩希(4)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【日程】
11月3日〜5日
現役は80年代とは変わって、冬の登攀をやるようになっていた。この季節の十勝は、内地でいえばちょうど八ヶ岳のスケールの登攀稽古場のようなものに映った。まだ冬の始まりで天気に恵まれたので、良い条件で三本のルートを登った。視界無し猛吹雪で行動する練習場だった厳冬の十勝連峰とは別の山だった。
●11/3:化物岩・高曇り後ガス
札幌(5:30)→十勝岳温泉発(9:15)→BC→化物岩左ルートとりつき(11:15)→終了(13:30)→旧DZ経由→BC(14:30)
*B班は右ルート
新ZにBC設営。すぐ上の化物岩はだいたい右と左の二つルートがある。A班は左、B班は右。澤田がトップ。1p目:三級凹角を登る。2p目:2級少し回り込んでテラスへ。3p目:三級+。通常のルートよりもカンテの更に左ルート。ちょっと変な体勢になるバンド状。化物岩の上で勝亦たちと合流して旧Dまで稜線のハイマツをこいでそこから下降。旧DZの雪は申し訳程度。砂礫は凍り付いていてアイゼンはきまる。雪のうっすらつもったZ谷は、なんだかバルトロ氷河のキャンプ地みたいだ。
●11/4:上ホロ正面壁三段ルンゼ・ガス後快晴
BC(6:20)→上ホロ北西稜→三段ルンゼとりつき(8:10)→終了(12:00)→上ホロカメットク山(12:20-50)→上ホロ小屋のコルから下降ルンゼ(下部は左岸)→BC(14:30)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)
夜のうちにBCは小雨、山は真っ白に雪化粧して、岩壁にはびっしりエビのしっぽが付いてハクが付いた。北西稜を顕著な黒い岩峰までたどって、急な斜面をトラバースして三段ルンゼ取り付きへ。砂礫の急斜面は凍り付き、前爪刺してのこの50mほどの横這いが結構怖かった。本日のトップは齋藤。
1p目:四級40m。チムニーの先に黄緑色のかぶった氷柱。アイスアックス利かせて登る核心。そのあと雪のルンゼ。2p目:四級+30m。雪のルンゼの先に黒い洞穴の様なチムニー。齋藤は大股開きの谷側向き突っ張りで登り、最後右にアックス利かして脱出。僕はそこのとこアブミをかけて抜ける。その後30mほど雪のルンゼをノーザイルで登り、最後に3p目、チムニー2連発。四級−30m。
十勝の通過点だと思っていた上ホロが、今日はグランドジョラスと化した。正面壁は凄い。下降は上ホロ避難小屋のあるコルから。上は急だが旧DZより緩い。谷の中は落石が来るので、左岸の高台を通って下りた。勝亦たちは敗退。氷の発達がまだまだだったとのこと。
●11/5:八ッ手岩右ルート・高曇後ガス
BC(6:00)→八ツ手岩右ルートとりつき(7:20)→終了(9:30)→コルにて(〜11:00)→懸垂×2→BC(13:30-14:00)→十勝岳温泉(14:20)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)
正面壁はきのうの晴天で、日の当たる所は黒く、日陰は白く縞になっている。八ッ手岩はほとんど黒い。取り付きの尾根も雪は少ないが、砂礫ががっちり凍り付いていて、アイゼンがきまる。他パーティーがいたが、幸い左ルートを行ってくれた。
1p目:四級30m。ジェードル後小バンド。コケモモの泥壁にアックスがきまる。バンドの一枚岩が嫌な感じ。僕だけ鐙をつかう。ここは度胸が要る。核心はここだけ。2p目:二級。3p目40m:フェイスをトラバースしてコルまで。ここから、今日も中央クーロアールに取り付いている勝亦パーティーを谷越しに観戦する。ここから見る正面壁は絶景だ。正面から見ると凄い所を登っている。
下降は最高点のピナクルを右に捲き、その先のピナクルから懸垂50m×2ピッチ。落石多く、注意する。雪面に下りてからも落石を警戒し、流路を避ける。勝亦Pは取り付きを右寄りに換えて2p登ったが、そこまでで引き返し。ファイトが及ばず、時間切れとのこと。悔しかろうなあ。
季節が早かった上に気温が二,三度と、冬登攀というにはシビアさは無かったが、氷があまり使えないため、岩登り主軸の登攀になった。雪があればあったで、別の難しさになりそう。齋藤はよく登る。現役はロープの扱いに慣れていて、安心感がある。
上ホロ荘の露天でのんびりして帰る。朝晩の食費が三日間で300円/一人というのには感動した。
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部報解説・ 2006年10月31日 (火)
部報2号の紹介、後半分です。
東大雪の沢をつなぐ原始林彷徨山行や、部報では初の利尻や芦別の積雪期記録に加え、国後のチャチャヌプリ、アリューシャン・アッツ島見聞録など、戦前の北洋時代ならではの記録が並んでいます。
【部報2号(1929)前編の続き】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
金井さんの店でラムネ十本
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
昭和二十六年度の冬山は、部の総力を挙げて行う十勝岳から大雪山への縦走が計画された。冬山合宿で十勝岳の泥流スロープの猛烈な風雪は既に充分体験されていたが、美瑛岳に向かう這松の枝すら一本も見当たらない吹きさらしの尾根を黒岳まで進むことになる。長期間の尾根上の行動に耐える装備が必要だった。山岳部二十数年の歴史とともに研究され使用された製品も既に疲れ果て、大幅な改良や補強が必要で、そのうえ
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
スフのマフラー
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入部して、あれこれと装備を集めたり話を聞いたりしているとドイツ語が氾濫しているのには一寸驚きだった。リックだと思っていたものはルックザックと言わねばならず、足に履く爪はシュタイックアイゼンだった。これは適当な訳語がないので致し方なく、固有名詞はそのまま使うのも無理はない。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)
平成18年10月7日
参加者:坂野、石村夫人、木村
東京支部岳友:佐藤
コース
国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半
国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半
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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)
平成18年8月19日
参加者:坂野、大井、八木橋夫妻、木村
東京支部岳友:井上
コース
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
北大探検部が函館郊外の戸切地(へきりち)川上流部に道内最長の鍾乳洞を発見した。今年6月の発見以来、10回以上通って詳細な地図を描いている。先週末、現役探検部員4人と潜ってきた。テラ・インコグニータ(未知の地)を探る喜びを知る現役に逢ってオレはうれしい。
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