函館近くの低いながらもよい山。どちらも記録というほどでもないですが。
9月恵山、10月、川汲の台場山。仕事でいったので静止画はありませんが、良い天気でした。
恵山(618m)
【ルート】
賽の河原駐車場から山頂往復
【行程】
9月28日駐車場(10:30)→山頂(12:00-13:00)→駐車場(14:00)
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晴天
岩崎元朗氏の選んだ新日本百名山のひとつ、恵山の登山会を撮影に行った。新日本百名山は、中高年でも登れる良い山を、と岩崎氏が深田百名山の半分くらいを選びなおした選択だ。今年中に全山登る見込みで全国をまわっている。
恵山は名山ながら沢も、雪のルートも特になく、どうやって登ろうかと思っていたので、ちょうど良い機会だ。賽の河原の駐車場は本州ならばすでに標高2500mの植生だ。黒い実を付けた緑の芝生のガンコウランが一面に生え、その緑が硫黄を含む白い地面との縞々になっている。道は歩きやすく整備されている。噴火口を回り込む急な登りはカラコルムのような岩山、山頂部に着けばまたガンコウランの箱庭のような平地だ。
一行100人という集団登山ながら、岩崎氏はこういう登山には慣れていて、10人以内くらいのグループに分かれて3分は離れて歩きましょうとか、いろいろそれなりの気遣いがある。山頂で岩崎氏選定の日本百名谷、産女川と万滝川の話などをした。函館の山好きの人多数とお知り合いになれた。
100人と分かれたあと、一人の山頂も楽しんだ。三方が海。漁船団が椴法華沖の辺りに白い筋を流してのどかだ。確かに新百名山にふさわしい盛りだくさんの山だ。
函館在住60年以上の知り合いの話では1954年頃、賽の河原周辺に硫黄鉱石を採る飯場があって、小さな露天風呂も作ってあったという。そのころもガンコウランの実が一面になっていたそうだ。
下山して恵山海岸の浜の湯に浸かる。海岸の防波堤に漁師が漁師のために作った、ひと風呂あびるコーナーだ。混浴でお賽銭箱あり。風呂をでると近くで昆布を干していたおばちゃんに真昆布とガゴメ昆布と三石昆布の三つを並べて、違いについてあれこれ話を聞いた。でかいやつを一枚くれた。おばちゃんありがとう。僕と同じタビ靴を履いていた。
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台場山(491m)
【ルート】
川汲峠旧道→山頂往復
【行程】
10月20日旧道を車で峠までそこから山頂往復
紅葉の撮影に行く。函館近くの穴場を幾つか聞いたうちの一つ。台場山は戊辰戦争のとき、榎本軍が森に上陸後、渡島半島東海岸を南下して函館に攻め込む際戦った古戦場で、山頂に台場が築いてあるという。それに加えて今はトンネルが通って整備されている川汲峠の旧道が、電話局の電波塔の管理道路として残っていて、その道も見てみたかった。
借りるのに一週間かかった管理道路の鍵でゲートを開け、旧道を軽自動車で行く。30年ほど前まで現役だった道は、舗装してはあるが細い。中程で、若いクマが逃げていくのに会った。クマは木に登り、上で様子を見ている。撮影することができた。木陰からこちらを伺い、ソロリソロリ木を降りてきて、ちらりとこちらを横目で見て藪に消えるまで40秒ほど。耳が丸く、大きかった。
峠に車を置き、台場山最高点までは笹の伸びた踏みあとを10分ほど登る。山頂は8畳間ほどの四角い土塁が築いてあり、新撰組愛好家による手製の看板などが立ててあった。ここに大砲を担ぎ上げたのか。四方は見晴らしが良く、函館山も遠くに見える。1868年10月、土方歳三もここにいた。日本の内戦は、こんな山岳戦が主体になるのだ。肝心の紅葉はまだ早く、紅い寿種もあまりなくヤマウルシの紅を撮って帰った。
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2005ヘルベチア祭り&ピクニック
山の会宿泊参加者:三角、矢野ヘルス、吉田ハチ、伏島コーシャク、高田グジュ、高篠オジジ、小泉アキオ、八木キンペイ、中村ゲット9名
日帰り参加者:藤木チャビン、山崎クンクン、白濱カリ公
現役8名 内1年生2名(内女子1名)
1972入 高篠 記
今年は暖かく紅葉も残っている中、天気予報がはずれて何とか雨も降らず
焚火を囲んで交流が出来た。西会長は急遽孫が産まれるとかでキャンセル。
鐙部長も急患か?来れない代わりに差入れ頂く。乾杯の発声は最年少の
1年目が担い、次々に年齢順にOBまで恒例の自己アピール。
今年のグルメはちくわやチーズ、野菜サラダの手作りつまみから始まり、ダッジオー
ブンによるビーフのポトフやカレースープ。さらに鱈チゲ鍋、途中からピザチーズを
入れた不可思議だが妙にうまいスープも味わう。さらに私が持参したビールサーバー
により生ビールを20リッターも飲み干し、皆大いに満足。少々今年は割高?
現役が歌をあまり知らないというので腹が一杯になってからは、歌集を片っ端から
歌いまくる。寮歌まで歌う頃には夜もふけて、山の四季や都ぞ弥生で最後を締め
たか記憶がない。
翌日は河原に去年の台風で倒れたイタヤカエデが硬くて薪に最高なので、森林
管理署の了解済みで薪作り。我が堀川林業のチェンソーが活躍し、さらに4年前
から小屋脇に置きっぱなしの丸太も皆で全部割って1年分くらい確保。何しろ最近
利用者が少なく2年に1回の薪納品が4年目になっても余ってるのにさらに増えて
しまったから、またまた私の仕事が上がったりだ。
現役は昼前には赤岩に向かう。三角さんとクンクンら日帰り組と峠越えの道の確認に
行く。折りしも造材会社が風倒木処理で入っていて、歩道が分からなくなっていたが
教えてもらい、何とか発見する。やはり峠まではかなり倒木があり進めない、草も伸
びているので堀川林業の出番のよう。森林管理署に金出してもらって来春には実行
を約束する。
今回幹事の不行き届きでメーリングリストのみ伝え、郵送連絡を忘れクンクンらから
注意を受ける。申し訳無し。それでも現役以上の数が集まり何とか賑やかになった。
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高い山はるかな海―探検家ティルマンの生涯
J.R.L.アンダーソン (著), 水野 勉 単行本 (1982/11) 山と渓谷社
ヒマラヤ探検時代から黄金時代に活躍したイギリスの探検家、W.H.ティルマンの生涯をうまくまとめた伝記です。ティルマンの人生全体を俯瞰できて良い本です。
残念ながら絶版で、今度はさすがの北大山岳館蔵書にも見あたりませんでした。(追記:その後入りました)文庫本にでもならないものか。毎度絶版本の書評ばかりで恐縮です。「読めない本の書評シリーズ」これは新分野かもしれません・・・。
冬の黒部剣岳の登攀者、大阪の和田城志氏を訪ね、24時間近く酒を飲んだり風呂を浴びたりして(和田氏は住宅街の庭に手製の露天風呂がある)山の話をしたその中で、H.W.ティルマンの生涯をまとめたこの本を読めと勧められました。既に絶版、古本屋で買い求めました(インタネットは古書を探すのに革命的に便利になった)。
探検家シプトンと共に有名なティルマンは、戦前のイギリス統治下のヒマラヤ探検時代にガルワールの名峰ナンダデヴィに初登し、1938年にはエベレスト北面のアタックをわずかに残して帰還、戦後は中央アジア、ネパール、ビルマと空白部を歩き、50代半ばで高峰登山を諦めてからはヨットを使った遠洋航海+山登りを始め、パタゴニア、南極海、グリンランド、バフィン、シュピッツベルゲン・・・と80歳で行方不明になるまで探検を続けた。彼の最後の航海の船の名はアナヴァン(前へ)でした。
イギリス人だ!と痛切に思うのは彼の戦争体験だ。1898年生まれの彼は第一次大戦の西部戦線で奇跡的に生き残り、第二次大戦では探検家の名声を一切利用せず、40歳過ぎの「老兵」として過酷な空挺部隊に志願、アルバニアや北イタリアに降下してパルチザンと共にドイツ軍と実戦を戦った。戦争と聞けばどう逃げるかを考えるのが現代日本人の発想だろうが、ティルマンは戦争が始まると探検を切り上げて急いで帰国します。
時代の常識、イギリスという特殊国の事情、ご本人の資質などあまりにも日本のこの時代と違います。しかし、彼のやり方に深く共感しました。自分の体で背負える規模の遠征を良しとし、ノート用紙一枚で説明できないような計画を立てない。物資を持ち込まず現地の小麦を使って自分でパンを焼く。自転車でアフリカを横断し、小さなヨットで地球を縦断する。科学技術や組織ではなく、人の身体に付けられる能力だけを使って企画し実行し通しました。旅行、山旅は、装備を省き、主体的に、自分の知力、技能を最大限生かし切ってこそ価値あるものになるし、力も高まる。
僕もいつかヨットを始めるかも知れないと予感しました。ティルマンの人生を読んだだけで、自分の人生の先までが楽しみになり勇気が湧くという本です。現在日本では、ティルマンの著作は「ナンダデヴィ登頂」始めすべて絶版、この伝記さえも絶版とあっては全くがっかりだ。図書館で探せば、あるいは見つかるかも知れません。
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沢の二回戦の報告です。
9月27日(1ー0) 二回戦 札的川
L中島(3 AL平塚(2
<時間とルート>
C0地点(4:30)〜入渓(5:20)〜6の沢出合(8:30)〜6の沢F2(10:15)〜
6の沢出合(10:30)〜ピーク(12:20〜50)〜登山口(15:00)
林道途中のゲート手前でC0。ところどころ崩壊している林道を行く。2の沢出合堰堤より入渓。大滝まで堰堤がいくつかある。全てまけるが、一箇所いやらしい。大滝は三段ある。一段目、二段目は楽に直登可。三段目は左岸を巻く。三段目だけザイル出す、Lリード。残置豊富で、FIXロープもある。3の沢出合まで快調。4の沢出合を過ぎてすぐに二段の滝。一段目6mは左岸もいけるし中もいける。2段目8mははじめ左岸を捲こうとするも一回降りる。空身で左岸を捲き、ザック吊り上げ。その後二段の滝、一段目直登可。ちょっと難しい。2段目左岸の岩盤(泥壁→岩→草つき)を登る。沢に戻る時、木をピンにしてab。6の沢に入るとすぐに小滝が出てくるが、問題ない。その後3段の滝がある。一段目は空身で右岸直登、ザック吊り上げ。ちょっと難しい。次の二段目の滝が困難。ALが直登しようとし中段まで行くが引返し。続いてLが左岸を捲こうとするも、大きくなりそうで危険なため途中でabで引返し。次にALが右岸を捲こうとするも、脆く危険なため途中でabで引返し。そのまま一段目の滝も含めてabで引き返す。そのまま本流に戻り、本流を登る事にする。本流に入ってからも滝が出て来る。6mF左岸まく。次に6mF、ザイル出す。ALリードで空身で登り、ザック吊り上げ。その後水量多い方をつめていき、ピークまで。上部はもろくつかめるブッシュも少ない上急なため、すごく怖い。やぶこぎはちょっと。後は夏道下山。浦臼山より手前で林道になった。
<パーティ>沢二回戦。
慎重な判断できた、登攀力不足もあるが事前の情報不足だった
L:慎重な判断できた
AL:慎重な判断できた、地図読みBAD、ALとして頑張った
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関東山地日帰り縦走ー36ルート集
北大山の会東京支部編
東京支部にて木村俊郎会員がリーダとなって続けてきた「OnrDayHikeが1冊の本になりました。
北大山の会会員へ特別価格でご提供していますので、ご希望の方は東京支部幹事までお申し込
み下さい。
本体価格 1冊1,500円
送料1冊290円、2冊340円、3〜5冊450円、6〜9冊590円、10冊以上無料
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大倉山の惨劇
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和25年に入部した頃、山岳部のルームは学生会館の2階であった。学生会館は正門を入ってすぐ左手の木造2階建てで、いくつかの部やサークルが同居していた。1階の散髪屋が鍵を預かっていたので部員はいつでも入ることができた。
山岳部は突き当たりの部屋で独立したような感じの所だった。真ん中に大きなテーブルがあってその周りの椅子に座ってタムロしていたものだ。
テーブルの上にはルームノートがあって、その大学ノートには所感だの論評だの申し送りなどが気儘に書かれていた。入部間もなくに、めくってみたその1ページに奇妙なイラストがあった。
雪のスロープの上の方に人がポツンと立っていて、下の方には数人が縄にからまってもつれている。1番下の人は足を空に向けて大の字にして、首が雪に刺さっていた。これは解説を聞かなければ理解できない絵だったが、その内ぼつぼつ人が入ってきてノートを一瞥しての話はこうだった。
大倉シャンツェのランディングバーン、現在のラージヒルでの滑落停止の練習の絵だという。アンザイレンして、どんどん登ってゆきトップがシャンツェの踏切台に近づいてザイルを解いたら、ラストがにわに下に向かって飛び込んでしまったというのだ。ジッヘルする間もなく皆で数珠繋ぎになって滑落した。再結晶質の雪はかなり鋭くて二の腕や肩は擦過傷で悲惨。なかでもザイルのラストは、どういうわけか雪に首が刺さってかなりのダメージを受けたそうである。ザイルを解いていたトップだけが上に残って雪に突き立てたピッケルを掴んでニヤリとしている絵だという。
ニヤリとしていたのがスキーの名手との誉れ高いK先輩だったらしい。Kというよりは俗称のP先輩といったほうが通りがいいかもしれない。
ところで、その後小生は同輩のNを誘って、このランディングバーンでの練習にでかけてみた。バケツの様な大きなカッティング、そして滑落など数回試みて少々飽きて帰途につき、振り返って見たらランディングバーンは凸凹ズタズタで哀れな形になっていた。
しかし、管理人はいたのかどうか、見咎められることもなく、未だおおらかな時代だった。
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こくわ会から出た駒
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和39年に小生、日本橋の本社に転勤になったある日の夕方電話がきた。「山ケンだが」という。電話番号は山の会の名簿で見たのだろうから、その時は40年代に入っていたかも知れないが。
電話は「今、銀座の近のレインボーグリルにいる。山の会の古老が集まっているから、出て来ないか」というものだった。
時間は少し早かったけれど銀座は会社のすぐ先なので早速ズッコケて出掛けてみた。行ってみると山口健児、桜井信雄、小平俊平、大和正次、福島建夫、他数人の古老が札幌から来られた渡辺千尚(ダブサン)大先輩を囲んでいた。
話は一寸横道にそれるが、渡辺先輩は幅があったので俗称ダブなのだが、面と向かってはダブとも言えないので「ダブさん」とよんでいたが御本人はルームノートなどには一寸バター臭く「ダブソン」とサインしていたそうである。
このレインボーという店は、昭和15年に「こくわ会」で盛大なパーティーをやった所だという。そもそも「こくわ会」とは、いったい何であろうとケゲンな顔をしていた小生に山ケン先輩が、とうとう語り出したのが以下の話である。
東京在住の会員が初めての会合をもったのは昭和7年、東京駅の待合室だったという。東京の大学山岳部OBは適当な会を作って山に行ったり集会などもやっている。北大のUターン組は東京に母体もないので、この時の人達が主になって以前集まっていたのが「こくわ会」なのだそうだ。
その名は、第3回の折に栃内先生が上京したというので銀座の千疋屋フルーツパーラーに集まった折にこの会にも名前を付けようということになり、栃内先生と面識のあった千疋屋のご主人が「北海道にはコクワというユニークな果物がある」と言ったことから、この会を「こくわ会」と呼ぶことにしたそうである。山の会の初期の会報にはこの名称が登場してくるので、これは事実であろう。
そして冒頭に述べたグリル・レインボーでの昭和15年の会合の折に「もはや北海道のコクワを強調することもあるまい」ということで北大山の会を名乗ることにしたという。
これが支部の始まりであろうが昭和40年頃の会合やスキーの会の通知状は「北大山の会」としていた。東京支部の名称が明確になったのは、山岳部創立50周年記念にカナディアンロッキー登山を東京支部として編成した頃からであろう。当時、会則を見直して会則の第5条に「支部をおくことができる」を確認、対処して「東京支部」の名称が定着したといえよう。
ともあれ支部の発祥ともいうべき「こくわ会」を知る第一世代、すなわち明治の香りの残る先輩は、既に東京にはおられないのではなかろうか。
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山を下りたら昭和の御世だった
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
山の会東京支部で昭和40年頃の中心的な長老は山口健児(山ケン)先輩だったといって語弊はなかろう。
その頃は支部の行事として穂高、剣岳、北岳などの夏山に出掛けたものだが、剣岳では台風の余波で前剣から退却して剣沢小屋での停滞となった雨の日、つれづれなるままに山ケン先輩の語る山岳部創立と当時は次のようなものだった。
大正15年11月に山岳部の発会式があった。先ずは冬季スキー合宿の計画が大きな行事だったという。候補地は新見温泉、小森五作、和辻廣樹の二人が現地の偵察までして決定したという。
12月22日早朝、札幌駅を出発、9時過ぎには蘭越駅に着き初心者をシンガリにして夕方には温泉に着いた。
合宿では三段山で風雪に逢ったり、スロープで快適に滑ったり目国内岳に登ったりと結構なものだったそうで、29日にワイスホルンに登る人たちと別れて蘭越の駅に戻った。
そして新聞を見たら「元号が昭和だった」という。
語り手の山ケン先輩はこの合宿でE班だったとの記録があり、部員章はNo.8である。
因みにNo.1は、時の山岳部長栃内吉彦教授である。蛇足ながら小生は同教授との面識はないが、初めて夏山でチロロ川を遡行して北トッタベツ、トッタベツ、幌尻へ登ったが、そのいずれだったかの頂上のケルンの下に埋められたマヨネーズの瓶の中に先生の名刺が入っていた。慎重に蓋を締めて埋め戻したのでシンマルを感激させた初代山岳部長の足跡は、今もあのケルンの下に残っているだろう。
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9月22日
参加者:木村、(東京支部岳友)内田
当日のこと
当日は雨のため集合場所の相模湖駅にて中止と決め、解散。伊豆諸島に台風が接近。テキサス州にも超大型ハリケーン接近と、賑やかな気象状態だった。今日は里山の部であるが従来の縦走ハイクと同様、天候に不安のある場合は今後とも案内者や世話人、所謂リーダ役が予定の集合場所で中止や短縮コースへの切替えを決めることにする。勿論、中止濃厚の場合は家を出ないのも賢い。
今回は何とも判断のつき難い天気。現れたのは内田女史。7月に天山に行きひと息ついたところだとのこと。早速、駅前の喫茶で話を聞く。出入り1ヵ月と少し。ポベーダ峰7439mを目指して6800mまでキャンプを進めたが、ここでテントから出られないくらいの風雪で3日間の停滞。止むなく撤退したそうである。「残念でしょうが、お見事、」ということで、来期のOneDayHike の予定と出来たての関東山地縦走36ルート集を渡してお開きとなる。
電車を待つ間などの、つれずれなるままに思い出す、山の会の昔話を書き直して里山ハイクでの一口話として文章をまとめてみた。雨の日でも往時を思い出して一笑いできるかも知れない。
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H17年7月23日 歩行時間4時間50分
参加者:大森、黒川、石本とご子息2人、木村
コース:JR青梅線軍畑駅下車、東側の踏み切りを渡って都道を北へ向かい700mほど歩き都道と別れて左手の平溝川沿いの道を行くと高源寺脇の導標が登山口となる。
右側の道を行くとあとは一本道で常福院へ向かい本堂の裏を一寸登った所が高水山頂である。常福院は一谷の合戦に於いて馬を背負って「ひよどり越え」を下ったという武将畠山重忠の信心が篤かったと伝えられている。
頂上から広い尾根の縦走路を行き急坂を少し下り一寸上り返した所が岩茸山で、奥武蔵方面の展望が開ける。縦走路に戻って南に進み723mの隆起を巻いて少し登った所が惣岳で、青渭神社がある。この神社は養老律令の施工細則を集大成した法典「延喜式」に記載されているという古社である。杉林に続く植林を下った水場が真名井天神である。尾根をどんどん進み慈恩院の境内に出ると、ここはもう御嶽駅の裏手である。
メンバー:笠山の次が畦ケ丸の縦走で今回は二回目の里山ハイク。縦走もハイクと同様、駅前に集まったのは大森、黒川、石本とご子息2人に小生を合わせて6名。大森、黒川とは久々の顔合わせ、メンバーに申し分はない。真夏なのに意外と涼しいと思っていたらのぼるにつれて山は霧に包まれて幻想的な山道を快適に歩く。少々の急坂露岩なども現れなかなかのもの。
今日の話題は何といっても沖縄県の孤島に在勤しているサンゴや珊瑚礁を相手に奮闘している大森君の海の中とヤンバルの茂みの中の話。余り聞いたことのない話にまきこまれてしまった次第。これから四日ほどの予定で友人と飯豊の無人小屋を辿るそうだ。ー最敬礼ー
ところで、里山ハイクは時間的に余裕が出る。休みは山の会の昔話など興ずるゆとりができた。次に項を改めてご披露しょう。
高水山山頂で
幻想的な霧の中を惣岳へ
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