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書評・出版・ 2007年2月5日 (月)

書評・凍れるいのち/(米山・1984)

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書評・凍れるいのち 川嶋康男
柏艪社2006.12

1962年暮れからの大雪山で、北海道学芸大学函館校(現・道教大函館校)山岳部が遭難した。10人遭難、リーダー1人のみ生還。北海道山岳史上最悪の事故だった。これまで報告書以来語らなかったリーダー野呂幸司の45年経てのインタビューを元に野呂のその後の人生を含めたノンフィクション。巻頭カラー写真の市根井さんが野呂氏の同期とは初めて知った。


この遭難については、「北の山の栄光と悲劇・滝本幸夫著(1982・岳書房)」という本を現役の頃読んでいた。旭岳から石室へ降る尾根は金庫岩の所でしっかり磁石を見ていても迷いやすい。雪洞が崩壊して吹雪に投げ出されるイメージ。この二つは強く心に残り、山行の際の最悪想定のイメージとして常に持っていた。今回久しぶりにこの遭難の顛末を読んで、別の感想を持った。

この遭難の数々の過失を80年代の現役だった僕や、その後の山行経験を積んだ僕が検証するのは容易い。しかし、24歳の野呂が、それまでに築いたすべてを失って深い孤独にあった事、そこから這い上がるその後の人生は想像にあまりある。当時の函学大山学部は、函館東高校時代から高校生離れした登山経験を積んでいた野呂が、ハイキングクラブからの脱皮をさせて4年目、第一級の大学山岳部レベルにしようとしていた矢先の事故だと初めて知った。野呂が唯一人生き残ってしまったのは、仲間を見捨てたわけではなく、様々な消耗する仕事を尽くした最後に帰還できるだけの、ずば抜けた体力を野呂だけが持っていた事もわかる。

本書でわかるのは、野呂のその後の人生。両足首切断のあと鍛錬し、1984年のインスブルックパラリンピックで活躍するまでになった。そして別れた10人とのその後のつきあい。著者は原真の言葉を引用している。「二十代の山仲間との友情を、そのままの状態で長く保たせる事は実際には難しい。しかし、死んでしまった仲間には、そのようなわびしい思いは起こらない。彼らは、人生の白熱の時に死に、残された者の心に、決して老衰することのない青春の姿で生きている。彼らの思い出は、常に未来を感じさせる。死んだ仲間への悲しみは、時経るにしたがって親しみに変わり、時には羨望に変わることさえある。(頂上の旗・1988筑摩書房)」45年間黙ってきたというが、もちろん報告書も出ているし、なすべき事はしている。黙ってきたのは死んだ仲間の家族の為だろう。

野呂が樺太の知取出身で、引き上げ船泰東丸に乗りそびれたおかげでソ連に撃沈されずにすんだ話、五稜郭近くの引き揚げ者住宅に居た話など僕には興味深い。

最後に。ノンフィクションの手法なのかもしれないけれど、全体に会話体のセリフが多く、どれもリアリティーに欠けて興ざめする。山では皆そんなに喋らない。「旭岳から元気をもらったぞ」などという日本語は、当時は無かった今時多用されることばだと思うし、会話に関して少々創作しすぎの印象がある。山のドラマやノンフィクションなどを見て、足を突っ込んだ者としていつも感じる違和感だ。ただ、それは山と無縁の大多数の人にとっては些末な事かもしれない。この題材でノンフィクションを企画した著者が、45年間沈黙を守った野呂から取材出来た点を評価する。
  • コメント (4)

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コメント一覧
函館東高資料集管理人   投稿日時 2007-8-1 14:52
函館東高資料集なるホームページを作成してます。

この度、OB情報として野呂幸司氏と「凍れるいのち」をHP上に紹介しました。

その関連として貴プロク゜のリンクを張らせてもらいましたので、お知らせいたします。

よろしくお願いします。
ちんぐるま   投稿日時 2007-7-29 13:38
 読み終えて、どうもすっきりしませんでした。野呂さんのインタビューのもとに書かれたたのですからご本人の思いと違うものではないと思いますが・・・。感想をのべさせていただきます。
 山行において難易度の高い行程をクリアすることは達成感や満足感を得ることになると思いますが、それにより他の山岳部とレベルを比べるとか競うのは疑問です。また、教員時代のことで田舎の農村中学を受験校にしたとありますが、それがその地域にとって良いとはかぎらない場合もあります。当時、同僚の教員はやっかんで非難したとの記述がありますが、職場ではいろいろな意見がありますし、職員会議という話し合う場もあります。自分の考えに固執するあまり他の意見に耳を傾けることが出来なくなると共に働くことができません。登山においても教員時代においてもその後の生命保険会社の業務成績のこともそうですが、常に他者と競うという姿勢が感じられました。この本では遭難でご子息を亡くされたご遺族の思いがあまり記述されておらず、突き進んでいく主人公の姿だけが大きく描かれ、残念に思いました。
 
米山   投稿日時 2007-3-10 23:26
確かに、部報10号では、愛山渓から白雲経由石狩岳、三国山、十勝三股への二年班パーティーの記録がありますね。まだ天気が良かった12月27日、忠別岳付近で会ったようです。部報10号は全体に記録が簡潔で、他の記録を見ても最小限の記述です。1965年3月、6人帰らなかった札内川10ノ沢雪崩遭難の年に出た部報で、ほとんどがその遭難捜索報告ですから、やはり編集に余裕も無かったことでしょう。

その札内川パーティーの沢田さんの遺書にも、山スキー部と行き会ったが、お互いにあいさつをすることも無く別れてしまった。あのときあいさつをしておけばよかった。と書いてありましたが、どうもルームは昔から山の中で他のパーティーにあってもあまり情報交換などしない傾向だったかもしれませんね。

「凍れるいのち」に関して当時同時代に登っていた人の感想が、ほとんど聞こえてこないという話をきいています。
末武晋一   投稿日時 2007-3-10 11:40
著書の中で野呂さんが北大山岳部を強く意識していたらしい記述があり、気になった。しかも野呂パーティーは忠別岳で北大山岳部のパーティーと会っている。しかし当時の部報10号には野呂パーティーに対する記載は全くない。遭難報告書「旭岳」によると捜索を含め、当時AACHの関与は全くなかったようだ。他の組織に干渉しないことは当然だが、これだけの規模の遭難、しかも同じ大学山岳部。当時のルームの現役たちはどんな見方をしたのだろうか。
 
 
 
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