書評・出版・
2014年9月10日 (水)

北大の片隅にあった柔道場で、僕らと同時代に続いていた、柔道部の熾烈な青春記。山岳部の青春と比べ乍ら読んだ。よく、死のリスクがあるのに何故山に登るのか問われるが、もちろんある意味で楽しいからである。でも、高専柔道の練習は「楽しくない」と言い切る。全然違う。恵迪寮で高らかに笑っていた飯田さん、花村さん、こんな稽古をしていたんだ!俺、知らなかったです。
北大含めた全国の旧七帝国大学では、戦前から続く寝技中心の高専柔道という過酷な柔道が継承されていた。才能や体格に左右される立ち技ではなく、練習量だけが勝敗を決める寝技中心の柔道だ。そもそも立ち技で投げ飛ばしても、経験者どうしなら受け身を取って反撃するから、絞め技で気絶させるか関節技で腕を折るかしなければ実戦の武術とは言えない。なるほど。主流派の講道館ルールと違うからオリンピックに出られるわけでもなく、勝敗結果が新聞にでるわけでもない。毎年、七帝戦で勝つためだけに苦しい稽古を続ける。練習量だけが勝敗を分けるということは、残酷で、逃げ場がないということだ。
試合シーン読めば無意識に歯ぎしりだ、寝技シーンは読んでいるだけで耳がギョウザになりそうだ!ファイトのシーンはたいへん読ませる。
増田青年が過ごす昭和61年の札幌北区のお店の記憶がよみがえった。梅ジャンのまさもと、宝来、みねちゃん、屯田、札幌会館、カネサビル、深マン、女子寮乱入。ラグビー部の木村、応援団瀧波、統計の山元先生、懐かしい。
20歳前後の青年は一年間で体も心も凄く成長する。その様が描かれている。報われない青春かもしれない。4年間守りに徹する(カメ)の稽古だけをする者も居る。レギュラーになれないのに4年間稽古をやめず続ける人への敬意がある。それから、センパイ達、柔道部の先達達への敬意と憧れだ。男が男にぐっと来る瞬間が捉えられている。それに男達が本当によく泣く。これにはもらい泣きだ。こちらは梶原一騎モノ漫画で育った世代なのだ。
「七帝柔道」をカチャカチャやって少し調べてみると、この時代は七帝戦史でも京大東北大が連戦引き分けの珍しい二年間で、長い歴史の中でも北大がどん底の時代だったのだ。増田青年たちがどん底の青春を戦いそして歴史は続いて行った。今年の夏もやっていたのだ。
「勝ちたいのう」
「一本でも多く乱取りしたほうが勝つんで」
和泉さんの台詞が心に残った。
大学は、とことん何かに打ち込み、研究の方法を身につけていく場だ。それが柔道を通した猛稽古でも良いと思う。遠い昔から先輩によって受け継がれた尊いものを後世に伝えて行く。山岳部もそこは同じなんだ。それが果たせれば大学にいた意味があると思う。この年頃に一生懸命身に付けたものの大きさは、後になるほどわかる。
山岳部は年間100日近く山に行った。未熟なことをやって滝壺で溺れたり、滝で落ちて死んだり、雪崩で埋まって死んだりの事故が時々あった。だから計画の検討を部員皆で毎晩延々やった。山に行かない日はこればかりだった。身体的鍛練では無いけれど、これをやった共通の体験が、何十年も違うOBとの一体感を作っているという点が同じだと思った。
大学がどれだけグローバル化とかなんとか変わろうとしても、変わってはいけないものは変わってはいけないと思う。
七帝柔道記
2013/3
増田 俊也
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書評・出版・
2014年7月24日 (木)

ナンガパルバットに三度、全部別の難ルートから挑んで全部山頂目前敗退、冬剱、冬黒部横断の山行40回。こんな無茶で一辺倒な志向で押し通してきて生き残っている。みな、唯一無二の登山家として認識してる。とうとう和田さんの山人生自伝が出版されてしまった。そして恐る恐る読んでしまった。
和田さんは学生の頃からあこがれの登山家だ。当時の「岩と雪」に、冬黒部横断の山行を「学生山岳部員こそ挑め」と書いていた記事を覚えている。冬の黒部川をパンツ一枚で渡渉するその記事を、じじい(同期高橋君)がやや興奮して話題にしていたのが僕にとって一番古い記憶。そのころ、1987年は、和田さんにとって転機になった年だったのだと、この本を読んで知った。
はじめの剱沢大滝探検行の下りで流れた1970年の「夜明けのスキャット」が、全篇通じて読書脳の片隅で鳴り続けていた。何より和田さんの言葉は音楽のように豊かだ。詩人だったとは。言葉は登攀中、ラッセル中に練られ、熟成され、形になるのではないか。山で黙々と過ごすとき、いつも心で言葉を探している。
1976年に剱沢大滝に再開した時のことば。「久しく遠かったこの大自然の絶景は、私の日々に育まれた想像(いや妄想と言うべきか)を裏切るどころか、遥かに凌駕して今ここに存在する。この幽深の絶峡に役不足のものはひとつもない。切り立つ岩壁は重々しく濡れた鈍色(にびいろ)の光沢を放つ狩衣(かりぎぬ)だ。山襞の残雪は矢折れ傷ついた白銀の鎧だ。低く垂れ込めた霧雲は猛々しい灰色の母衣(ほろ)だ。側壁に反響する瀑音は軍馬にまたがる鬨(とき)の声だ。雨と飛沫に煙るモノトーンの景色は、琵琶法師の語る源平絵巻の亡霊武者を彷彿とさせた。」あの剱沢の絶景を言葉でこれでもかと尽くす。
剱沢大滝を、登攀はおろか、目で見た人も多くはあるまい。間違いなく日本一の秘境の一つだ。僕は2003年秋、剱沢大滝のTV撮影に関わった。和田さんの後輩で1976年に剱沢大滝を彼と初登攀した片岡泰彦さんと1991年ヒマラヤでご一緒して以来、何度も山に行く縁になっていた。あるとき、剱沢大滝を遡行した数少ない登攀者、松原憲彦とともに片岡さんに誘われ、大阪の和田さんの自宅に酒を飲みに行った。和田城志と山の話ができることに、すごく期待した。名古屋から長着に羽織も着て近鉄に乗った。昼に訪れ、晩になり、風呂に入りながら飲み、朝まで飲んで、少しウトウトして、また飲んで昼過ぎになった。100パーセント山の話で。
「今な、どこの山に行きたいんや!今行きたいルート、ぱっと言えるか?それが大事なんや。」
「ウィリアム・ハロルド・ティルマン。この人の伝記は、『高い山はるかな海』いう本や。」
本棚には、表紙がとれそうになった付箋だらけの「ナンガパルバット」(ヘルリコッファアー1954)があった。剱沢と黒部横断について集めた資料や整理した写真の数数を見せてもらった。
本のあとがきで、家族に、会社の仲間に、死んだ山の仲間に、生きている仲間に、「ありがとう、ごめんなさい」とたくさん書いていた。これを読んであの翌朝のことを思いだした。夜中に庭で飲んでいたので、山の話で声がでかくなり、何時だったか「うるさいぞ!」と近所から声が聞こえた。一同反省して屋内に入ってまた山の話を続けた。翌朝、和田さんは近所の家を一軒一軒全部まわって謝って歩いていた。近所の人で怒っている人はいなかったようだ。この本のあとがきのあいさつが、あの朝の和田さんの姿そのもので、すこしおかしかった。
和田さんてどんな山登ってきたんだろう。なぜ暗くて、危険な山行ばかり続けるのだろう。どうやって職場と折り合いつけて、毎回2週間も厳冬期の剱に行けるんだろう。問いの納得いく快答は無いが、こんな文章があった。
「社会で生きるということは、それなりの役割を果たすということだ。私は、山の負債を山で返そうとしていた。積雪期の剱沢大滝完登は、私を後ろめたく勇気付けた。しかし、人は多分認めない。それが私には心地よかった。なぜ、こんな危険で不快な登山をするのか。雪崩と悪天候、頂上の爽快さもない陰湿な冬の谷底にうごめいて、何が面白いのか。あたりまえの疑問だ。私自身が分からないのだから。」
引用だらけになってしまってキリがないから引用しないけど、174pから176pのアルピニズムについては、同じことを思った。「ビビる山か、そうでないか」。付箋を貼った個所が多すぎて、そんなメモ書きもきりがない。
たくさん載せられている詩は、また何度か読み返すうち意味が変わって理解できると思う。
今月末にある登山家の追悼会で、和田さんと久しぶりにお会いできる予定です。
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書評・出版・
2014年2月1日 (土)

去年北海道版ネーチャー雑誌に大野(1997入)さんのインタビュー記事が載っていた

雑誌が手に入らなくてだいぶ時間が経ったが本人に了解を得て記事のコピーをもらった。ニセコ町で自然エネルギー担当で活躍しているそうだ。

カッツン(2003入)の結婚式で同席して、羊蹄山の近くのドームハウスを手に入れたと話していた。

山岳部時代のことも話している。冬は山へは行ってないそうだが、札幌からニセコに移住したので、スキー含め登りだすようだ。
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書評・出版・
2013年11月18日 (月)

岳人12月号に載せてもらった書評です。字数制限校正前のもと原稿です。
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著者は北海道の山と海で長く知られた冒険家だ。ニセコの新雪滑降スキーヤーの雪崩事故を現場で20年以上かけて押しとどめて来た。それから知床でシーカヤックによる岬越えを100回以上ガイドした。どちらも一級の天然世界を滑る自由、漕ぐ自由、本当の冒険に対する敬意のために、行政、観光、漁業、学者、環境派、さまざまな「冒険者以外」の人たちに頭を下げ、その矢面に立ち、過去と未来のすべての冒険者の代弁をする役割を引き受けて、ある程度の成果をおさめて来た。とても尊いことだと思う。
「人々はいきなり自然に目覚め、アウトドアマンになった。そして修練を積まずに冒険に踏み出し始めた。アウトドア文化とは都会人の自然願望をコマーシャリズムが煽ることによって生まれた文化であり、その意味で都市文化のひとつといえるのではないだろうか」
青春時代に手作りの冒険をして育ったあとニセコと知床でやってきた「アウトドア文化」時代。強い違和感を感じながらその前線に立ち続けた。カンダハー、バンド締めのシール、漁師用雨合羽など、古くからの道具に言及する。秘境探検の黎明期から使われてきた原始的な山道具は、今では時代遅れなのだろうか。
私は著者新谷さんに一度お会いしたことがある。ニセコのエリア外新雪滑降をする人が増えて雪崩による死亡事故が急増し、それをなんとかしなければと苦闘していた1992年だった。新谷さんはカンダハーの締め具に革登山靴だった。良質な雪のあるニセコへアメリカから滑りに来ていたイヴォン・シュイナード氏の案内をしていた。氏は最先端の登山用品を作るパタゴニア社の代表にして登山家。登山道具開発の専門家だ。その彼が新谷さんの足下に敬意を払っていたのをよく憶えている。
単純な締め具カンダハーを私も学生のとき使ったが、その頃は新谷さん以外使っている人を見なかった。昔からの道具は、初心者には簡単に使えない。修練を積むうち身体の延長となり、山での自由な行動の手足と化して働く。最近の道具はそれがなく、いつまでも「借り物」だ。偽りの全能感で山に向かい、最も忘れてはいけない「山への畏怖」を培うことができない。それはビーコンやGPSも同じだ。長く登っている者はその安っぽさがわかる。便利なモノについて行けないのではない。それを持つと山で最も大切なことが損なわれるということを知っている。
「90年代後半から2000年の始めは今日へとつながる混乱の時代の始まりだったように思う。人々は多様な価値観という言葉に惑わされ、苦労せず手にした知識を勘違いし、努力することを忘れた。しかし借り物は所詮、借り物でしかない。そして事故が続いた。」
もう一点道具に頼らない著者に共感する点が、イグルーで雪山を登る話だ。雪の質を見て、知恵を使って作るイグルーは、習得すれば無敵の天場だが、いまはそれを修練する人はいない。私は、自分と仲間のほかには著者しか知らない。
著者の山から海への転身を意外に思う向きもあるかもしれない。しかし、北海道では両者は冒険の場として自然に連続している。知床では海抜0mの無人地帯でスキーを担いで泳いで徒渉して取り付くこともあるし、増毛や積丹では沢を下れば人家抜きで海へ直行の所もある。だから高所登山に区切りをつけたあと、北海道育ちの著者がカヌーに転じたことに納得する。それは、ハロルド・ウィリアム・ティルマンがエベレスト探検から手を引いた後、ヨットで南氷洋にでかけ、氷雪の未踏峰を登る探検を綴った評伝「高い山・はるかな海」に対する敬意からも。北海道は千島を通してアリューシャンと繋がり、サハリンを通してシホテアリンと繋がっている。その脈絡を読んで欲しい。
ナンセン、デルスー・ウザーラ、ティルマンはじめ、アリューシャン、パタゴニア、ネパールの住民など、天然世界の波形に合わせて前進する人々の尊いことばの数々が語られる。そしてティルマンについて書かれた「高い山 はるかな海」という本について、私が著者に共感する逸話があった。貸した本はたいてい返って来ないがこの本は何人に貸しても必ず帰ってくる、とある。今は絶版で手に入らないこの本を私も、後輩、同志に私も何度も貸した。今は来年カラコルムに行く友人が読んでいるところだ。帰ってくれば誰かに読ませたくなる本なのだ。
「雪崩の危険は吹雪の間かその直後」
「制度で知識と技術を学ばせることはできる。しかし経験は教えられない。これだけは自分で積まねばならない」
「経験を積めば用心深くなり慎重になる。そして、ときに経験が役に立たないことも知る。」
「準備を怠ってはならない。何ひとつ忘れてはならず、余計なものを持ってはならない」
全編、経験から得た価値ある短いことばに満ちている。
長く冒険とそれをとりまく社会に現場で関わって来た男の、つぶやくような、告白するような文章が、ひとつひとつ心に降り積もるような本。
書評・出版・
2013年11月15日 (金)
久しぶりに岳人の感想です。
●ニセコの新谷さんの新刊、「北の山河抄」の書評を米山が書きました。p126です。
●なんといっても山スキー部の近郊スキー大縦走の記事があり〼。(p94)
冷水小屋から入って札幌岳〜空沼岳〜漁岳〜中山峠(〜無意根/悪天で一度下に降りる)〜余市〜春香〜手稲と逆Cの字に山小屋つないで巡る豊平川集水域を回る夢の計画。札幌に住んでいればいつかはやってみたいもの。在田さんが山登っている姿初めて拝見しました。急げばもっと短時間になりそうだけど、これはこのスピードで楽しそう。いつかやってみたい。美しい計画です。山スキー部はスキー部からの独立50年だったんだ。
●松原君(1990)の7年ぶりという沢記録載ってました。(p103)
男体山北面の金剛峡〜御真仏薙遡行記録です。誰も行かない堰堤27連発をぐっとこらえて「意外にもスケールある岩溝状」など堪能の模様。米山も夏に奥秩父の主峰国師岳に良い登路はないかと金山沢を登って、堰堤14連発の憂き目にあいました。もとはよさそうな谷なのですが。男体山も行くならこれで行くしかないですね。冬は登山禁止だそうなので。
●けっこうおもしろい連載だったニッポン百名山(樋口一郎氏)が遂に最終回でした。(p187)
筑波山と富士山。富士山は素人が登りたがり、ちょっと山になれた頃は馬鹿にして登らない「富士山軽視」という「通過儀礼」を通り、登り込んだ人にはその深い意味と奥行きを知って真価を知るようになるという、富士山は岳人の成熟度を測るバロメーター説には納得しました。まったくその通り!私は30年かかりました。
●利尻仙法師稜の紹介記事で、ことし春BSの番組で東稜(東北稜だったかな?)脇の谷を滑り降りた佐々木大輔氏が利尻の思い出を書いている。15歳で北尾根を山スキーアタックしていたんだ!(p65)
●少し前連載していた剱岳幻視行(和田城志氏)間もなく単行本化されるそうです。木本さんの連載だったクライマー魂今読んでいます。お二人とも敬愛する先輩です。おいおい読書感想文を載せたいと思います。
書評・出版・
2013年10月31日 (木)

2012年春、8000m峰14座を登った日本で初めての登山家竹内さんの、半生の自伝。以前書籍紹介した「初代・竹内洋岳に聞く」はまだ2009年5月にチョーオユーとダウラギリを残した時点での本だったけれど、ほぼ竹内洋岳を描ききっていた。厚い本だけどおもしろく、すぐ読めました。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=629今回はその14峰完登をうけての執筆で、前回聞き語りだった本ののエッセンスが自筆としてまとめられ、チョーオユーとダウラギリ以降の稿が書かれている。
8000m登山というジャンルはエネルギーを使う無駄な筋肉をつけないために
、特にトレーニングをしないという話、日常意識するのは歩き方だという点は興味深い。二本の足を交互に動かして前進する歩行術こそ、普段おろそかにしていて、奥が深いのではないかと常々思う。これは8000mに限らない。山登りは皆そうだと思う。
「登山は想像のスポーツです。頂上まで行って、自分の足で下りてくる。ただそのために、登山家はひたすら想像をめぐらします。無事に登頂する想像も大事ですが、うまく行かないことの想像も同じように大事です。死んでしまうという想像ができなければ、それを回避する手段も想像できません。私たち登山家は、どれだけ多くを想像できるかを競っているのです。」はとても大切なことばだと思った。
「街の中に潜む見えない危険」で、登下校中の小学生の列に車が突っ込むという事故がなぜ続くのかという話に、それは一列になって歩くから、前の子について歩くことばかり考えて、車を見なくなるからというある保育園のプロの仮説を紹介。「他者から管理されることによって、察知したり、回避したりする力が使われなくなってしまうことがあるのではないか・・・」というくだりに強く共感した。山登りで最も危機感覚を磨けるのは、頼れる人がいない、そして登山道や山小屋の無い、全く管理されていない山中ではなかろうか。
表題の哲学という言葉は大袈裟だと本人も書いているし、僕も始めそう思ったけど、「危険」と「想像」と「歩行術」に関する思索は哲学といえると思いました。
前回も書いたが、山に登りたいという気持ちから手を挙げ先輩について行き、経験を積んで誘われる友人との出会いも生かして歩いてきた気負わないけどぶれていない姿勢を読み取った。このペースの竹内さんだからできたことではないかと云う気がする。
14座とか100名山とか90歳とか、メディアに出やすい数字に、山登りに熱心な人ほどそれほど感じないと思う。そうは言ってもね、8000mの山を死なずに14も登って帰ってくるなんて、やはりこれはなかなかできません。歴史を知っていれば、それに一度でも8000mに行ってみれば。それは本当にそう思う。
書評・出版・
2013年4月10日 (水)

図書館には絶版になっていた本がたくさんあります。
冠松次郎と云えば今世紀初頭に黒部川を歩きまわり、名著もたくさん。黒部好きなら大好きな登山家ですが、なんと富士山の本も書いていました。山麓の甲府に来ると、こういう本が見つかります。昭和23年の版。厳冬期含め四季を通じ登っていて、どのルートも書いていて、山麓の風物も紹介している。全くよく歩いています。
「富士山は眺むべき山で登る山ではないと云ふてこれに登らず、その遠景を見て満足してゐる者は眞の自然愛好者と云ふ譯には行かない。」
「富士山を眺めてその實體に觸れず、而して富士山の景觀を語らんとすることは難い。あの豪壯荒涼たる風象に接して、さて飜ってこれを顧みその縹渺とした姿を描くところに、兩端を盡したる喜びがある。その山の實體に觸れず、委曲に接せずして山に親しむと云ふことはありえないのである。」
山登りが好きで好きで、どうしても書いてしまいたくて書いたような、こういう本が大好きだ。山の古い本は、輝きがあせない。
子供二人との8月末の山行記録で
「八合目の小舍についたのは午近い頃で、持參した飯盒の飯を茶碗に分けて澁茶をかけ、ツクダニと福神漬とで腹いっぱい押し込んだら、子供たちは忽ち元氣を盛り返した。」富士登山、お茶碗持っていったんかー。
1943(昭和18)年の元旦に、もう少し大きくなった息子と御殿場ルートから砂礫を飛ばすつむじ風を突いて山頂アタックしています。1883年生まれだから60歳。戦争中だけど、このころまではまだ国民は戦争に負けると思ってなくて、本土が焦土になるなんて予想していなかった。原発事故から2年たったちょうど今頃は似ているかもしれません。山岳部のペテガリ初登もちょうどこの月のこと。
「それにしても、何と云ふすばらしい氣持なのだ。あの廣大な裾野を上り、氷壁のやうな山體を、ひと足ひと足に刻みながら、今この頂に上りついて、我を繞る浩蕩たる山川風物の大觀に接した氣持ちは。私たちにでも、この高嶺は、この嚴冬の眞中に、雪の衾を延べ、氷の扉を開いて、水晶宮のやうな燦蓮としたうてなに迎へてくれるのだ。」

なくなった登山道、村山道と須山道についても歩いたうえで書いています。
お中道も、山麓も、それに周縁の山の山行も。良い本を見つけました。
水晶宮のやうな燦蓮とした『うてな』・・・。
こんな古書の書評を書いても誰も読めませんが図書館などにはあるかもしれません。
書評・出版・
2011年9月15日 (木)
今号、寄稿しました。またルームや北海道などゆかりの人の記事が多かったので紹介します。
○まぼろしの道を探り先人の足跡と知恵を伝える山岳同人たがじょ 米山悟 P42
青森で山登りにつきあってもらっている山岳同人たがじょの紹介記事を書きました。ふるさとや居住地の山を登り込むってのがやっぱりまっとうな山好きというものではないでしょうか。遠くの百名山ばかりに出かけてはいけません。
○アラスカの氷河に過ごした2カ月。悲喜笑涙交々 谷口けい P66
この記事に、この春亡くなった白石君の姿がありました。遭難地デナリの隣のフランシス山、谷口さんも登っていたのですね。白石、栗原君とのベースキャンプでの最後の交流が書かれていました。「誇闘夢現」ということばを残しています。米山は谷口さん、大木さんと、10年くらいまえのお正月に穂高山荘冬期小屋でお会いした事があります。
○北の山河抄10 新谷暁生 P94
ニセコのシーカックガイド、新谷さんの連載。今回は焚き火と漁師合羽について。知床での焚き火に関する無理解と、なんちゃって環境行政に対する理を尽くしたボヤキに完全に同意。雨の中で薪を集め、火をおこすことでしか得られない知見と叡智が確かにある。それをやった事も無い者がなんでも勝手に地球にやさしく決めてくれるな。
○冬期初登攀の頃の加藤幸彦さんの思い出 高田光政 P99
ブリティッシュコロンビア在住だった加藤幸彦さんが亡くなった。前穂北尾根4峰正面壁冬期初登。1960年代に名古屋山岳会で活躍したクライマー、1964ギャチュンカン長野岳連隊初登者。1970年三浦雄一郎エベレスト滑降隊のサポートのあと、ベトナムの戦場で米軍にラジカセを売る商売に転身、63歳の1996年、ブータンチベット国境のチョモラーリ7326mに登頂。その後69歳でチョーオユーをくわえ煙草で登っている。96年のチョモラーリで2カ月ご一緒した。豪快な人柄、ルートを見る目、人を見る目どれも感嘆した。原真さんとの付き合いも古く、弟、原武氏の鹿島槍北壁遭難のときには隣ルートを登っていて、いち早く捜索に駆けつけたという縁もあった。この夏、カナディアンロッキーに行く機会があり、お声をかけようかと思っていたところだった。
著書:「絶対に死なない」加藤幸彦 講談社 2005
○登山クロニクル 南日高トヨニ岳〜神威岳
この正月の田中バイエルンと山スキー部同期のOB山行が載っています。さすが山スキー部。シートラして苦行のラッセルご苦労様です。
○現代アルピニズムのプロファイル 極北の岩峰シャーク・トゥース
高さ2000m前後の山でもグリンランドだとタイヘンな山容だ、氷河も長大。標高差1000mの壁がうようよ。21世紀の壁クライマーにはここらへんがまだまだ宝の山。世界の最先端の若いやつが何しているかわかるこのシリーズはボケないためにも楽しみな企画。
○成瀬陽一の大滝巡攀その10 高瀑132m
先月に続き四国の大滝。遂にカラー1ページを獲得。見よ。この滝の巨大さと人の小ささよ。文章そのままの、心の中は常時花満開の人である。この夏、海の日三連休の挑戦。ギリギリの佐藤氏はウルタルにも行くけど大滝も登る。青島さんの三脚4本は凄い。もっとカラーで載せてください。
○新説・独創的登山術 日本の登山には山の水を味わう楽しみも 澤田実 P182
探検部OB澤ッチョの連載。今回初めて知った、サブタイトルは「独創的登山術」だそうだけど、あったりまえの話ばっかりじゃんと思っていたのは北大生だけか?今回は水の味。花崗岩はうまい。堆積岩はまずい。石灰岩は苦いとのこと、なるほど組成元素を見れば確かにそうかも。僕も地質学教室出身なのに気がつかなかった。
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書評・出版・
2011年7月11日 (月)

坂本直行 はるかなるヒマラヤ 自伝と紀行
編集 高澤光雄
2011年7月
北海道出版企画センター
http://www.h-ppc.com/single.php?code=366坂本直行氏の1967年のヒマラヤ山麓スケッチ旅行の紀行「はるかなるヒマラヤ」、それに自伝「山と絵と百姓と」を中心にまとめた。どれも限られた読者媒体で以前連載されたもの。生前本人が本としての出版を楽しみにしていたとのことで、氏と交流の深い北海道登山史研究家・高澤氏による編集。
「原野から見た山」、「雪原のあしあと」など代表的な画文集で触れられていない直行さんの生い立ちから山岳部時代のことなどが詳しい。長男、登氏による直行さん通史「日高のいごっそう坂本直行伝」も収録。
「山と絵と百姓と」は直行さんの自伝。少年時代から絵を描くことと植物を育てるのと山登りが好きだったいきさつなど。「昔の登山」はいかなものだったかと思っているのでとても興味深く読んだ。
「当時はまだ地下足袋がなかった。草鞋をはく時には高丈という底の厚い足袋をはいたが、底が破れると自分でこっそり修繕してはいた。」東北北海道で地下足袋の事を「たがじょ」というが、これのことだったのかと知る。
「『オイおめえ!登りに滑らなくて下りに滑るワックスちゅうものがあるそうだ』『たわけるねえ、そんなうめえ話があるもんか』しかしこれは本当だった。」シールができる以前の話だ。この人達はただのスキーで山に登っていたのだ。「シールは僕達の登行時間を半分以下に短縮した。」これが大正末期から昭和初期にかけて。ちょうど北大山岳部が誕生した時期に当たる。
「はるかなるヒマラヤ」は、1967年、開拓農民をやめ、画家になってからヒマラヤトレッキング(当時そういう言葉はなかったそうだ)に行き、絵を描くその紀行。このころはまだまだ今とは違い外貨制限もあり、山麓旅行する人も今ほど多くはない。横浜から船でマドラスへ。そこから延々鉄路でネパール入りする行程は、今では夢だ。直行さんは山を見るのがとても好きだ。「雪原のあしあと」だったかで、広尾線の客車の凍った窓をごしごしこすって日高を見ているような物好きな人は直行さんあんたくらいだと地元で言われた話があった。子供のころ幻燈で見たヒマラヤの映像以来、60年。初めてヒマラヤを見る。「山を眺めて涙を流す感傷などは、私はもっていないつもりだった。しかし、夕日に赤く映えるヒマラヤを現実に見た瞬間、溢れ出る涙をおさえることができなかった。私は恥しくて仲間から離れて、ひそかに涙を拭った。」
長い行程、ネパールの貧しい農民ややせ馬を見る度、自身の貧困開拓農民時代をだぶらせる。作物や植物を見ては、その生産性の低さや貧困ぶりを読み取る。農民の目だ。シェルパの食べるツァンパ(麦焦がし)と同じものを直行さんの子供のころは香煎(こうせん)といって、街をふれ歩いて、売っていた人の記憶があるという。「『コウセンヤーコウセン』と巧みな抑揚でふれ歩くあの声が、こんなところで思い出されるとは」日本も昔はツァンパ食っていたんだ。
「マライーニときびだんご」は、イタリア人留学生でペテガリ遭難の時(1940年)直行さんと現場に駆け付けたあのマライーニが、キビ団子をたいそう気に入って、夜中にごそごそ子供みたいに探って食べていた話が紹介してあっておもしろかった。あの悲壮な遭難現場の夜だけに。この人達の底の明るさを感じた。きびだんごの味は時代が下って落ちたらしい。10銭のは、どのくらいうまかったのだろうか。
誰もが一度は憧れるけれどその苛酷な暮らしを知るとよくまあ35年もという開拓農民生活。直行さんはそりゃ苦労だったろうけど、まったく後悔しているフシが無い。子供を自立させ、築いたものがすべて再び原野に戻っていってもそれで受け入れる。好きなことをとことんやったものだけに訪れる無敵の境地だろう。そして直行さんの行動に子供のころからブレーキをかけてきた「おやじ」の存在は結構大きかったのだな、と思う。長男が、高校を出て、後を継がずに町へ出ることになったとき、それを許した直行氏にそれを感じた。
1906年生まれ、ご長男は1937年生まれ。ほぼ僕の祖父と父の同世代なので、重ねて読んだ。明治生まれの僕の祖父は直行さんのように朝から晩まで働いて6人の子供を食べさせた。朝は暗いうちから起きて火を焚き、井戸水を汲んで湯を沸かし、染物屋の仕事をして家の糞尿を自ら畑に散き、薪にする廃材をあちこちからリヤカーで運び、衣類は自分で繕った。歯が抜ければ入れ歯もせずすり鉢で食べ物を食べた。保険も年金もあてにせず表彰もうけなかった。自分の事を自分でやって当たり前、苦労とも不幸とも思わない。
明治生まれ、100年前の世界を知る証言者として、直行さんの文章は一つ一つおもしろい。御本人は坂本竜馬の子孫であることを一切語らなかったそうなので、函館の坂本竜馬記念館に展示しなくてもよさそうな気もする。これも明治生まれのこだわりなのだろう。
それだけ世代の離れた直行さんでも、札幌時代の山登りで銭函〜ヘルベチア〜余市岳〜ムイネシリ〜中山峠〜札幌岳〜空沼岳を二日で踏破するスキー計画を作ったりと、現代でもやってみるか!と思わせる共通の山が僕らにはある。これが何よりもうれしいことだ。
最後に、山と絵に関する、一言を備忘録として。
「山の絵というものは、山の高さとスケールが表現できたら成功であろう。山にぶつかって山と取組んだ絵にしろ、遠望で小さく描かれたものにしろ、山がやっこく(やわらかい)ては駄目である。ヒマツブシなあのがっちりとした迫力の表現が問題である。山は高ければ高いほどスケールは大きい。大雪山とエベレストでは、その差がはっきりと画面に出なければならない。」
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書評・出版・
2011年6月7日 (火)

高澤光雄さんは北海道登山史家。その黎明期を知る人物たちとの直接の交流、そこから受けた啓発により、埋もれた山登りの記録の丁寧な発掘、読み込みで、独自のテーマで道内の山の歴史をまとめてきました。これまで「山書研究」 やあちこちに興味深いテーマで小文を発表してきた。あまり出回る本としてはこれまでにまだまとまっていなかったので、今回が初めての待望の一冊です。先ごろ「北海道の登山史」という本の紹介もしましたが、こちらはそれに「探究」がつく深煎り本です。高澤さんの探究ワークをご覧ください。
もくじより
登山の沿革
アイヌ伝承の山
阿倍比羅夫の後方羊蹄遠征について
地図と測量登山の歴史
北海道の出版文化史 山岳とスキー
北海道の山に貢献した明治二十四年創立の札幌博物学会会員たち
日本山岳会創設に貢献した札幌農学校出身の志賀重昴
北海道から最初に日本山岳会に入会した河合篤叙と蝦夷富士登山会
ペテガリ岳遭難でイグルーを実用化した北の登山者たち
日高山脈を描き続け、ペテガリ岳遭難で活躍した坂本直行
ニセコ山系遭難慰霊・警鐘碑の建立
北海道における自殺山行三例
探索・増毛山道と武好駅逓
板倉勝宣とアルペンツァイトゥンク
「山とスキー」について
「山日記」に掲載された戦前の山小屋
高澤さんとは、僕がイグルーで「テント持たずに自由な雪山を登ろう」という趣旨の記事を岳人誌に掲載したことについて、高澤さんの北海道のイグルー史をまとめた秀岳荘の記念誌に言及したいという連絡を頂き、札幌でお会いしたのがご縁。本書でもある、北海道のイグルー事始めにつき、山岳部の関係者よりも詳しいいきさつを取材されていた。
高澤さんの書き物の切り口は独特で、古い文献を足しげく通い丹念に読み、生存者には手紙を書いて確認を取る。お会いしたときにも、AACHにイグルーを伝えたフォスコ・マライーニ氏が初の十勝連峰縦走計画をした際の北海タイムズの切り抜き記事を見せていただいた。図書館に行って調べ挙げたのである。昭和18年ペテガリ冬期初登のイグルー山行のアイディアをマライーニ氏から得たかどうかの確認も、今村さんご本人に手紙で確かに行っている。
阿部比羅夫が本当に北海道の後方羊蹄山まで来て異民族と戦ったのか?これについての資料を簡潔にまとめてある。僕は3年ほど青森に住んでいて、この7世紀8世紀に東北がエミシの国であってヤマトとの諍いと混血の時代だった事を知り、ますますアイヌ史に興味を持ったのだけれど、古文書が指す蝦夷の実際の場所は北海道なのか東北なのかあいまいなのである。本書で羊蹄山に関するその日本書紀以来の国威発揚記事に眉唾しながら読むとますます真相は分からない。特に明治期は、対外的にも、国内的にも、北海道が昔から日本だったことを強調したくてその希望解釈と怪しい発掘調査が多い事も分かる。けれど、丹念な記事のまとめで、「まだ、よくわからないんだ」ということがよくわかる。深田久弥の日本百名山でさえ、松浦武四郎の3月羊蹄山登頂がフィクションであることを見抜けなかった下りは、僕も信じていたので驚いた。
高澤さんの記事は、誰もまとめて調べていないテーマ、独自ネタの発掘である。羊蹄山の山岳会が日本山岳会よりも古い話、日本風景論の著者が札幌農学校生だった話、増毛山中にあった武好駅逓を訪ねる話。それから北大山岳部創立前のスキー部時代に出された野心的な山行記録集「山とスキー」や板倉氏による「アルペンツァイトゥンク」のまとめなど。確かに調べれば分かるかもしれないがこれまで、ここまでとことん調べて来た人はこの人が一番だろう。
文系の卒論とはこういうものかと思った。たくさんの人が考えたり書いたりして来た事をまとめ、それを同じ事を調べたがっている未来の誰かのために花束の様に整え、最後に自分で工夫を凝らしたリボンで結んで、贈り物にする。たくさんの卒業論文をまとめたような本だ。これまで本にならなかった理由もそのあたり、資料のレファレンス性の傾向の強さで、味気ないと思われたせいかもしれない。でも興味を持つ人にとって、これはとてもうれしいプレゼントになるはずだと思う。ほかにもたくさんある高澤さんの貴重な原稿を、是非手に入り易い形で本にしていただきたいと思う。
著 者 高澤光雄 (著)
出版社名 北海道出版企画センター
発行年月 2011年 06月
ISBNコード 9784832811065
ページ数 252P
定価 ¥1,260(税込)
高澤氏のこれまでの主な編著書(巻末より)
北海道登山記録と研究 札幌山の会 1995
北海道の百名山 北海道新聞社 2000
山の仲間と五十年 秀岳荘 2005
新日本山岳史 ナカニシヤ出版 2005
北海道中央分水嶺踏査記録 日本山岳会北海道支部 2006
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