道南のグランドジョラス、雄鉾岳北東面に直上ラインを引くべくアタックをかけたが、天気周期に恵まれずドカ雪を見舞われて、取り付きまでを往復するに留まった。(写真・標高点652上のイグルーより)
【ルート】
1稜や4稜
【時 間】
2/7晴れのち雪 おぼこ荘(11:50)→銀山川一本下流の沢→右岸尾根に乗り、標高点652c1イグルー(15:00)完成は16:00
2/8 ガス吹雪のち曇りc1(7:50)→3稜基部引き返し(9:00)→c1(9:40-10:20)→おぼこ荘(12:50)
【メンバ】
米山(1984)、齋藤(1987)、勝亦(2003)、馬場(HUSV2001)
久恋の雄鉾東面で、冬の壁を目の当たりにしたが、今回は敗退。右から左へ1,2,3,4,5稜とあるが、山頂に上がるルートって事で北峰の1稜、南峰の4稜を2パーティーでという計画だった。おぼこ荘で出発しようとしたらアイゼンを忘れたメンバーがいて、八雲在住の山スキー部OB北川君に借りに行く。あいにく留守だったがアイゼンの置き場所くらいは見当がつくものよ。もつべき者は地元の山友だ。北川君ごっつぁんです。
取り付きへは、夏道コースのある銀山川の一本下流の沢を詰める。本流の渡渉はやや上流に昔ここを走っていた鉱山鉄道の鉄橋があり、それを使う。この一帯、集落あり、活動写真館ありの盛況だったそうな。沢の中は右へ左へとスノーブリッジを使ってクネクネ進む。快適じゃないけどよくある沢ルート。シール利かして小尾根を登り、標高点652に出た。強風吹雪にガス。
壁は見えない。ここでイグルーを建てる。雪たっぷりの雪庇脇に深い縦穴式で4人用のワイド版。午前は晴れていたがどんどん悪くなってきた。暴風雪でもイグルー内は静かだ。アルゼンチンの葡萄酒をあけて、インドネシアカレーのうまいやつを食べたら、いつの間にか眠ってしまった。そういえばゆうべの夜汽車では雪祭りツアー客と一緒になってやかましかったなあ。
翌朝はガス、吹雪でやる気が出なかったが、明るくなると雄鉾の壁が時折ぼんやり見えたりしたので、取り付きまでは行ってみようかという事になった。緩い斜面をトラバース気味に取り付きに向かうが、一晩で30センチは積もった。ふわんふわんのラッセルだ。
1稜の真下あたりから壁の方に向かって登り始める。時間的に遅くなったし、1稜はドラッセルで明るい内に上には行けそうもないので二手には分かれず4稜右の氷瀑を見に行くことにした。3稜の基部をトラバースし、3,4間ルンゼの下に当たる急な大斜面をトラバースする段になって、雪崩がやばいのではという意見が生じた。協議の末断念して戻ることにした。膝までの新雪、傾斜は45度強って所。40センチ下にはカチカチの霜ザラメ層が二枚。
たっぷり積もった新雪で、下りのスキーは快適だった。道南でこんなにいい雪は初めてに近いぞ。イグルーに戻ると、ガスが薄くなり、雄鉾の北東壁がぎらぎらと姿をみせた。傾斜は滅法立っている。雪崩の心配の無いコンディションでまた狙いたい。しかし最近、アルパイン敗退が続いている。天気の巡りの
要素が大きいから。イグルーは風雪に埋まり雪見大福みたいになっていた。
もと来た複雑な尾根と沢を下り、帰りの本流渡渉はスキーをぶん投げてざぶざぶ渡った。
おぼこ荘の温泉に浸かった。露天風呂では50くらいのおっさんが隣の女風呂のかみさんと猛烈な雪合戦をやっていて、非常に微笑ましかった。向こうからもばんばん玉が飛んできた。漬物石大のも。風呂上りにフタの裏にべったりクリームのついたうまい瓶牛乳を飲み干して、北川君にアイゼンを返しに行ってあがりこんで焼き肉。二歳児玄八郎は滞在中ついに昼寝の夢から醒めなかった。八雲駅で五時半の特急に乗る。敗退のせいで、夜行急行はまなすの世話にならずに済んだ。
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1月31日久し振りに中京名古屋で、関西支部新年会を開く(岸本記)
場所は名古屋駅の桜通口側の駅前。少し早めに着いた私は市内の繁華街をぶらぶらしたが、年明け1ヶ月にもなると華やかさはない、とはいえ自動車産業を直撃している不況の影も見当たらない。会場に向かう途中、内藤さんからは熱が出たと、田中(英)さんからは福井を出たが、列車が強風のため今庄から進めない、と相次いで欠席の連絡。
今回は長老の和田さんに乾杯の口火を切っていただく。その和田さんは蒸留酒を生でいくのが流儀、今は中国の水井坊がお好みとか。向かいに座った原さんは、相変わらず抹殺論を展開、ヤル時はギロチンがいいのだそうだ。今回参加者の中で一番若い松原君はそんな二人に囲まれて内心はどうであれ、先輩の話を拝聴する姿勢はディリジェントにして積極的。ここ数ヶ月名越さんは酒量がいつもの千分の一になった。調子がいいのだそうだ。何せ酒にまつわる話が一杯有るお方故、今更減った、止めたと言われても誰も気に留めない。
ネパールのナキウサギの遊び場とおしっこについて誰かが喋れば、「伏見(ネパール在住)と連絡が取れて、俺は今年ネパールに行く」と別の誰かが宣言。後はだれが何を喋ったのか、記憶もうつろになる・・・・・とその前に、今回の参加者(敬称略):和田、原、吉田、窪田、神戸、高橋(昭)、渡辺(尚)、川道、名越、石松、松原、岸本(計12名)
追記:本当にうつろになっていたようで、いつもの集合写真を撮るのをすっかり忘れていました。
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八甲田山麓にてイグルー稽古会を催しました。やる気満々の参加者数名は前日入りして、独自イグルーを作って迎え撃つなど、向学心満々。お伝えする僕も感激しました。
これまで山中イグルー泊50泊(たぶんもっと)の米山が実用お手抜きイグルーの技術をみんなにご披露した。面々は、山岳同人たがじょの皆さん。青森で米山がお世話になっている青森県で最強勢力の山岳愛好家集団です。技術は真綿が酒を吸うように、伝授されました。
これまで何度かイグルーの製作法をあちこちに書いた
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2003121501.htmlが、読んだだけでやみつきになった人はあまりいない。イグルーを実践している人は、実地で作るのを見た人ばかり。やはり文面だけではわかりにくいようだ。特に三段目で内傾ぐぐぐっとさせるテクニックなどが。今後はもっとわかりやすい文章と図解で普及をはかりたい。
本日は前夜から泊まった人たち含め25人。昼過ぎまで合計25基のイグルーを構築した。一人で三つ作る人、あまり作らず飲酒でゴキゲンの人もあり。講習前と後の違いは所要時間。実用イグルーは一時間弱で作らなければならない。今日の雪質はくっつきやすく、大抵四〇分で二,三人用が仕上がった。
オサナイさんの作ったイグルーはこれまでに見たこともないほど美しいフォルムをしていた。僕が手抜きする三段目以上も緻密に作ったので、まるで札幌ドームのように美しい。こういうところには性格がテキメンに出る。オクヤさんは、単独で一人用イグルーを作る稽古に没頭し、三つも四つも一人で作っていた。これは命を救う緊急用だ。一人でもスコップとノコさえあれば疲労凍死する事は無い。僕の一人用シェルターイグルーは二〇分でできた。一度やってみせると勘のいいひとはすぐに身につける。
終えたら樹林帯の中はイグルー村と化していた。まるで世界遺産のイタリアの【
ここ】。
これでもうたがじょは冬テント要らず。
家に帰って、まだ日があったので、待っていたこども(四歳児)用に、自宅庭でもう一つ作った。これも二〇分。なかでお茶ケーキをいただいてままごとしてあそんだ。青森は八甲田が近くて本当に良い。
家
よろこぶ子供
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山の会裏ばなしー(29)
選挙の看板を失敬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十六年二月に小生は懸案の薬師岳を目指して、前々年の極地法による大部隊を改めて軽快に四人で入山したが風雪が激しく敗退した。結局この山では僅かに厳冬期の北ノ俣と赤木岳の初登頂だけに止まった。
その翌年、三月に札幌から現れたのが昭和三十四年入部のT君、通称もTをリーダーとする大部隊で一年目から三年目までの通称OのW君、通称のないH君、S君、最年少ながら通称GのS君達だった。余り多いので会社のクラブや会館では賄いきれず、少々負担になったが神岡町の旅館を手配した。
人数が多いと話もはずみリーダーのT君はこの時着ていた本間敏彦君との知床半島縦走で、バナナのちらちらする破れズボンで岬に着き、沖を通る漁船に遭難者と間違われてチャッカリ便乗してウトロに戻ったり、黒部の上の廊下遡行の話などに沸いた。また、このパーティーには沢田義一君もいたことを彼の追悼会の席で父君から知らされた。これが縁で入手出来ずにいた唯一の部報六号を戴くことになった。この本にはペテガリの雪崩が記されているので義一君遭難の折りに林和夫先輩から寄贈されたものだったそうである。
さて、この頃が部員数が最大で、この世代の人達が現れたわけだが、それにはそれなりの裏話があった。
山岳部では山行の折には団体装備や特殊な個人装備は部の備品を借り出して使っていたが部員の急増で備品が極度に不足していたそうである。なかでもコルクマットは適当な代用品もなかった。コルクマットは冬山の装備で底付きテントを使う折にはシュラフの下に敷かねばならぬ必需品である。コルクの細い棒をキャンパス地で縫い付けて、巻寿司を作るスダレのようになっていて、肩から尻までの長さの物である。これが無ければ寒気が身に沁みるほか、撤収の折にはテントの底が凍りついて手に負えなくなってしまう。備品は不足しても他の物は代用品で何とか間に合わせても当時、コルクのような断熱材はどうにもならなかったそうである。
だが、窮余の一策はあるものだ。
その後、三十三年入部のW、通称D吉君が語るには選挙に使う看板を取ってきて使うのが一番よかったという。選挙になると候補者が顔写真などのポスターを張って電柱や壁などにぶら下げていたあれである。当時は候補者個人々々かが出していたので新聞紙半裁位のもの。ベニヤ板なので断熱性もあり、水も上がらず、しなやかで大きさもピッタリだったという。なんといってもキスリングに入れて背負うと、背中にピッタリくるというのである。
しかし、個人のポスターとはいえ、触っても選挙妨害の罪になることは明らか。みんなで盗れば怖くない、とはいえ、なんとも図太いものだ。
札幌の町にも人があふれ始めた時代だったのだが、まだ平穏な、ゆとりのある頃だったようである。検挙されたり臭い飯を食うはめになったという話は聞いたことがない。
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山の会裏ばなしー(28)
ズッペは方言か
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十五年二月に小生は再び薬師岳を狙ったが風説に阻まれて太郎兵衛平を抜けられずに北ノ俣岳の登頂にとどまった。その年の三月には、いよいよ来るものが来たという感じだった。三十二年入部のY君をリーダとして一年ずつ下のN,Sの三人が積雪期の飛騨側の西鎌尾根から槍ヶ岳を目指した。蒲田川右俣から入るので神岡を通る。このようなパーティーは小生の所にいっぱくするのが当然になっていたが、この時は娘が生まれて間もなく社宅は少々広くなっていたとはいえ装備もろともでは手狭だった。会社で接待に使うクラブが手頃だと思ったが、この時丁度、会社の洋画専門の銀嶺会館に宿泊設備を併設したところだったので、これを利用することにした。もちろん無料。
開設まもなくとあって板前さんは腕の見せどころとばかりに結構な接待をしたようである。夕食には澄まし汁が出たところで誰かがズッペと呟いてにやりとした。これには訳があったのだ。この頃もルームでは登山用具はもとより、歌や怪しげな造語までドイツ語の氾濫だったようである。汁はスープであれ何であれズッペといい、みそ汁までズッペと呼んでいた。
ところで大学は二年目の前半までは教養部でそれから各学部に進むことないなっていた。したがって、教養部では社会科の科目は必須で法学概論や社会学、人類学などがこれだった。人類学の講義のときだったらしいが、ある時教授
「北海道の方言を挙げてみよ」
といわれて、それぞれ幾つか挙げていった。その内少し途切れたら
「ズッペ」と答えた奴がいた。
振り返ってみたら、それは山岳部の奴だったというのである。
しかし、この話は山の会戦後只一人の詩人と呼ばれる二十九年入部のT君からの伝え聞きだったようである。
同年代に居た人達だがこんな話を何時までも伝えるとは恐ろしいものだと思った。
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山の会裏ばなしー(27)
帰りは札内川をボートで下る積もり
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十四年は神岡の事業所で五年目を向かえ数年前から薬師岳への冬山に熱中していた。社宅から荷物を全部背負ってスキーを使って峠を一つ越して北ノ俣岳への尾根から試みていた。一月には太郎兵衛平からの退却だった。この年の夏にはO君をリーダに、S君などの三人組が現れた。社宅は少し大きなところに移っていたので泊まってもらうのには不自由はなくなっていた。彼らは劔岳での合宿の後三パーティーに分かれ、薬師岳から双六岳を経て蒲田川に下ったA、B班八人の内の三人がわが家に現れたのだった。食後、山での話も尽きた頃
「最近の札内川はどうかね」
との問いに、出てきた話のうちの傑作が次の話である。これは二十八年入部のI君、通称の頭文字がZからの伝え聞きだそうだったが、詳細は後に彼が書いた佐伯さんへの追悼に名文が残っている。とにかく概要は次のようなものだった。昭和三十年にK先輩通称Gさんが日高の地質調査のために部員二人をアルバイトに雇うことにしたそうである。それに応募したのが前述のI君、しれに佐伯
富男先輩だった。佐伯さんは踏査後札内川を源流からゴムボートで一気に帯広まで下る魂胆で米軍放出の救命ボートを持ってきた。しかもこの旅のロケーションやって「興行収入は山分け」とまで吹き十六ミリカメラまで持ってきたそうである。調査は雨にも祟られたが、ひと苦労してコイボクから国境に出て沢へ降りゴムボート三隻を木の枝で繋いで流れに入れた。昼には帯広到着と思ったとたん、すぐに瀬に入って繋いで流れていたボートはバラバラ、そして先頭のI君は岸から垂れ下がって突き出した木の枝にルックもろとも引っ掛かってボートはサット流れいってしまったそうだ。中州に上がって干し物をしていると、後ろからは諦めた二人がボートを畳んでルックに入れて歩いて現れたという。
これは後で聞いた話だが、ボートで下るという着想は当時うけていたマリリンモンローの「還らざる河」に発していたそうで、残ったボートや重い岩石のサンプルを背負って中札内へトボトボ歩きながら誰かが口ずさんだモンローの歌う「ノーリターン」はノータリン、脳足りん、と聞こえたという。
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第64回OneDay里山Hike 鷹取山の報告
平成19年7月21日
参加者:坂野、滝沢、渡辺(ダン吉)、木村
頂上は狼煙台の跡だった(渡辺ダン吉氏撮影)
コース
JR中央線、藤野駅から和田行きのバスにて上沢井で下車。二キロ程なので徒歩でもよい。バス停付近には車も置ける。古い小さなコンクリート橋の上沢井橋を渡り左に廻り込むように舗装された農道を行くと山道になり踏跡になって頂上に続く一本道。狼煙台の跡が頂上で祠もある。あまり人の訪れない静かな所である。
下りは北に向う登山道がり、最近の案内図には記載されていて境川沿いの石楯尾神社―上野原バス路線に出る。
その日のこと
平成十九年七月二十一日。
藤野駅前では坂野、滝沢、渡辺の三人が待っていた。小生木村はホリデー快速は藤野駅は停車しないのに気づき後の鈍行に乗って少々遅刻。しかし渡辺ダン吉君の提案で一分待っていてくれたそうでこれでズボシ。滝沢君は体のメンテナンスが終わったので、登り残していた郷里の山、白砂山に登るための足馴らしに来たという。久々の対面でこのワンデーハイクの醍醐味というもの。
少し登ると小さな露頭あり、「これは?」と、滝沢君
「砂岩」と答えると、
「ラテン語で何という」ときた。山の会只一人の詩人は喧しい。
「スペイン語ではアレニスカなので、アレーナ○○ぐらいだろう」と答えて難を逃れる。頂上には狼煙台跡を示す表示があった。下りは、やや急だが道幅もあって、じきに車道に出る。
梅雨明けにはい未だだったが、降られることもない順調な一日だった。この日で「裏ばなし」は(24)になった。
所要時間 二時間半
正味歩行 二時間
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第63回OneDay里山Hike 御坂山の報告
平成19年5月26日
参加者:石本、石村夫人、木村
コース
極めて一般的なコースで山岳会やハイキングクラブが行く山なので道標もしっかりしているのでルートについての解説は不要であろう。富士急、河口湖駅からバスで終点の天下茶屋が登山口になる。東京支部の関東山地のルート集P.76には三ツ峠までのアクセスが記されていて、その先の終点が天下茶屋なので参考になる。
御坂峠は江戸と甲斐を結ぶ官道で経済、軍事の主要街道だったそうである。御坂峠から藤野木の下りは橡の木の老木などが残り、往古の景観を残している。
その日のこと
平成十九年五月二十六日。
集まったのは石本君と石村夫人の紅白一点ずつだけ。新緑に残雪の富士。絶好の日和だったが下界では運動会が多かったらしく、足を取られた模様である。
しかし、集まったのは中枢の人達でメンバーに異存はない。話題はなんと言っても、東京支部での海外登山計画の動きだった。すでに企画担当も決まったようでその一人、石本君の話を聞くことができた。先ずはカンジロバ山群、コンロン山脈を模索、第二回の会合日も決まったとやら、なんとも頼もしい。
「裏ばなし」は前回で小生の現役時代は終わったので赴任した飛騨でお話に入る。そのつなぎに、閑話ながら(23)を披露。
所要時間 三時間
正味歩行 二時間
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ピンピンに研いだアックスとクランポンを持って、谷川山麓から清野師範(1976入部)がやってきた。現役部員とOBアイスチームの合同合宿を層雲峡で行った。現役は目下、冬山経験含めてアイス経験が途絶状態なので、この度清野師範にアックスの研ぎ方から鍛え込んでもらった。旧石器時代ギャートルズのようなアックスも、磨けば2009年モデルに。勝亦、馬場の若手OBが冬メインに続いて現役相談役遊撃隊。しなやかな登りを見せた。
【年月日】2009年1月24,25日
【メンバ】現役:田中バイエルン(3)小池大五郎(2)鹿島(1)井村(1)/OB:清野(1976)米山(1984)勝亦(2003)馬場(HUSV)
【ルート】錦糸の滝、銀河の滝
初日、青森から夜汽車で着いた米山、前日ジェット機に乗ってきた清野師範と、6年目勝亦、HUSV8年目馬場が道央道を層雲峡へ。企画立案の斎藤は、数日前から疫病で寝込み、参加断念(泣)。現役と合流してまずは錦糸の滝へ。以前は右岸の国道から滝が見えたが、今はトンネルが走り、その旧国道をラッセルして取り付く。
トップロープを2,3仕掛けて、まずはお稽古。アックスの打ち込み方、姿勢、スクリューのねじ込み方、扱い方、上に向かうファイトなどを清野師範に吹き込まれる。旧石器アックスと清野仕上げアックスの違いなども体感。師範は裏山に水をひき、自家製アイス壁道場を作り、毎週欠かさず、沼田の仲間とともに氷と戦闘されているのである。アックスは改良に改良を加え、金属加工のお手並みも玄人はだし、家族はさぞや呆れて物も言えない事でしょう(笑)。
初日夜、合宿とは言いながら師範をテントに眠らすわけにもいかず、師範と米山は恐縮ながら宿坊の畳に寝る。例会をやるというのでテント泊の皆の衆も畳に上がり込み、明日の作戦を審議する。卓上のわずか二つのお茶菓子をじゃんけんで分け合う姿に昔を懐かしんだりした。全然変わってないぞ現役。20年ぶりにルームの例会に出たが、やはり居眠りしてしまった。私の場合、合宿の例会は睡魔との闘いであった。全然変わってないぞ俺。現役にニコルソン(やすり)を渡して「朝までに研いでおけよ」。研ぎ方は、昨年のライデン海岸の項参照。
翌朝、宿の玄関さきに山下君(1997入部)と白石君(2001入部)がきた。アイス修行に頻繁に来ているようで、きょうはブルーウルフの滝だとか。旭川の田戸岡君(1999入部)も来ているそうだ。テント村は知っている人がいて楽しそう。
石狩川本流を伊藤秀五郎先輩の時代を偲びながら渡渉。当時はダム無しで水轟々だったろう。みな、渡渉用ゴム長を持ってきているが、革靴+ロングスパッツで平気だった。水深25センチほど。まあ組み合わせによるだろうけど。帰りで試す価値はある。
銀河の滝で、下段の壁に二本トップロープを垂らして、鹿島(1)、井村(1)が登り込み稽古。バイエルン(3)や大五郎(2)がプリセットしたルートでトップ練習。氷はきょうもコチコチだ。米山はアバラコフの何たるかをこの日初めて馬場さんに教わる。そのおじさんの名前、昔ソ連のパミールキャンプで聞いたことがあるぞ。清野、米山、勝亦、馬場はそのまま上部へとコンテで進んで銀河を完登。あちらは右ルートこちらは中央ルートをとる。氷柱の裏側にスリングを回してビレーポイントをとることをトレチャコフと名付けたりする。昔、ロシアの登山家トレチャコフは、お金がなくてアイススクリューが買えなかったのでこの方法を見つけた・・・。という俗説もその時生まれた。
途中、師範がアックスを落っことした。吹きだまりに運よく落ちたのでロワダウンして探す。これがなかなか見つからず。落ちた場所を見ていたのに、新雪の探しものは見つからないものだ。人間じゃないから気長に二人で探してようやく発見。更に登り終えて懸垂したが、楽しくバカ話しながらロープ回収したら結び目つけたまま引っぱっちゃって、上でひっかかっちゃった。後続お隣パーティーにはずしてもらって反省。
ずいぶん遅れて下段の氷壁に戻ると、バイエルンも大五郎もトップをやっていた。格好もサマになっている。刺さって抜きやすいように刃先を整えておけば、無駄な力も使わず、指も冷たくならず、余裕の心でさっさと抜けられる。腕力の強くない馬場さんの優雅な打ち込みをマネていたら要領もわかってきた。今回はまったく筋肉痛無し。
総員押しなべて得たもの大きく充実の合宿になった。清野師範も、ヤングな面々と登るのは久しぶりで、何度も反芻し喜んでおられた。今どきどこの山も中高年ばかり(オレも含めて)だ。山に向かう紅顔健児たちの、肌は赤銅さながらに、真摯で円らでひたむきで真っ直ぐな瞳と目があうと、それだけで幸福感がみなぎるよ。
「勝亦君!春は鹿島槍北壁で待ってるよ!」と、握手の師範を千歳に送り、狸小路6丁目付近の九州ラーメンを替え玉して米山は夜汽車を待つ間、日曜なのに奇跡的に空いていたつるでBNを飲んで大内さんにご報告。夜の札幌を千鳥足で駅まで。
今回参加できなかった現役の皆様、来春入部予定の皆様。また来年もやりましょう。
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山の会裏ばなしー(26)
日本のチベット、川の曲がり目
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
神岡町に赴任して三年目に小生は社宅に入っていた。その夏早々にC、N、S君の三人が現れた。Wがリーダーで通称はC、Nは通称もNでシンマルのSには、あだ名がなかったという。驚いたのはその後現れた同輩のY君通称Pが来た時だったらしい。その時は少しましな社宅に移っていて玄関口は風雪よけの雪廊下になっていた。夕方の薄暗がりから
「きむらくんいますか」
との声に、薄暗い入口に目をやると、どこかの天体からでも来たような異星人的な風体が立っていたというのである。
それはさて置き、この時来た三人は昭和三十一年度の夏山として穂高に入った九人のメンバーの片割れだった。滝谷、北尾根、ザイテングラードなどを積極的な行動で、岩登りも堪能してきた様子だった。夕食も終えて山の話も一段落したところでN君が突然後輩のS君に向って
「お前、何処で採れたんだ」と聞いた。S君は
「生まれた所ですか」と問い返して
「奥さん、日本地図ありませんか」と言って地図をもってこさせると、福島県に入り込んだ阿賀野川の最奥の上流辺りを指して
「この川の曲がり目です」と。
すかさずN君は「日本のチベットから来たのか」と。
この地、飛騨も当時は日本のチベットと言われていたが、わが家では今でもS君は「川の曲がり目さん」で通っている。
その後の話でこの「川の曲がり目」君は、北大の受験で上京か来道した折りに初めて汽車を見、海も見たということだが、これは例による針小棒大化かもしれない。しかし、小生が学部へ移行の折にはドサンコの同級生で、ショッパイ川と呼ばれていた津軽海峡を渡ったことのある人は皆無に近かったのは事実である。
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