【年月日】2009年3月8−15日(5−3)
【メンバー】L田中宏(3 AL小池 田中 野沢(2 M井村 鹿島(1
羅臼岳ピーク
3/8 オシンコシンの滝(5:40)遠音別西尾根Co750(13:30)=C1晴。オシンコシンの滝からチャラツセナイ川左岸にとりつく。・342を経由して・433まで行き、そこから磁石を遠音別西尾根の湖に切って進む。ほとんどクラストしていてシールがきかない。・433付近は単根が密生していてダルい。遠音別岳西尾根Co 750の樹林限界でC1 。M のキムチがザック内で爆発していた。
遠音別ののぼり
3/9 C1(5:30)―遠音別岳(7:30)−知西別岳(12:10)−愛山荘(16:30)=小屋2晴。視界無限大。のっこしの日。西尾根も硬く、Co960でEPシーズリ。尾根をつめてピークまで。
遠音別より北方領土を望む
遠別岳からは北東のポコ、・1184をねぐって知西別岳へ向かう。
知床のマッターホルン遠音別岳
遠音別の北は細いわけではないが東側が切れていた。・1184のトラバースは急。
羅臼をバックに
知西別より南を望む
知西別手前は東が切れていて小さい雪庇のようなものが出来ていた。稜上を知西別岳まで。ピークからは北へ進み、Co950付近でシーズリ解除。天頂山手前の沼を経由して天頂山北の台地を通って愛山荘まで。この日は概ねクラスト時々もぐる。羅臼湖周辺は湖南西側にカンバがはえていたが全天で泊まれるという感じではなかった。小屋でのっこし祭りを行う。
3/10小屋2=小屋3晴、風強い。南岸低気圧が接近しており次の日羅臼アタックが厳しそうなのでStayとする。木に登って蒔集めをしていたMが、愛山荘に来た登山客に熊と間違えられる。
3/11小屋3=小屋4雪、風強し。南岸が太平洋を通る。羅臼はガスっている。次の日も冬型になって天気が悪そうなのでStay。
3/12愛山荘(6:00)―岩峰(8:30−10:20)−愛山荘(11:10)=小屋5雪、風強し。天場を極楽平まで上げることにする。愛山荘東のSBで赤イ川を渡り岩峰まで行くが、岩峰の下は急で木はパヤパヤでトラバースが怖い。岩峰上も視界ないので岩峰付近で天気待ちをする。9時天をとるがこの日移動するのは厳しそうであり、のっこしの明後日も天気が悪そうで、明日愛山荘から羅臼アタック可能であると考え、小屋に戻ることにする。。
知床の形のいい山「三ツ峰」
3/13愛山荘(5:30)―羅臼平(9:10−30)−(10:10−10:20)羅臼岳(10:40−11:00)羅臼平−愛山荘(13:00)=小屋6晴れ。小屋からアタックを試みる。天気的に正午までもちそうなので引き返し時間を設けていく。前日と同じルートを岩峰まで、岩峰上を東のコルを通ってトラバース気味に行く。この付近が局地的に風が強かった。流氷スロープ手前の沢型のCo1450付近でシーデポ、Eストック。コンタ尾根上を羅臼平まで行く。極楽平を振り返ると全天で泊まるのは厳しそうであった。羅臼平付近は風が全くなかった。風向きによるのだろうか。ピッケルに換えて天気も良いので空身で羅臼岳アタックする。
羅臼ののぼり
全体的に急だが途中広いところがあるので高度感はそれほどない。急斜を登ってピークまで。
羅臼より南を望む
ピークの下りは所々バックステップした。後は来た道を小屋まで。
3/14小屋6=小屋7みぞれ後雨。日本海低気圧が北海道に来る。残り3日で、明日、あさって一日持つ天気は厳しそうであるためのっこしを諦めて次の日エスケープすることにする。夜は一時快晴で視界3億光年。地の果てにて満天の星空を見る。
3/15愛山荘(6:00)−ウトロ(8:00)雪風強し。レインクラストの道路をスキーで下っていくと除雪車が来た。車も次々に通り萎えつつ下山。
<パーティ>一年班春メイン敗退。。停滞日をもっと持っていくべきだったが南岸と日本海が来たので運が悪かった。
...hide more
【ルート】 荒沢岳 前クラ尾根
【日程】 平成21年3月21日
【メンバー】 清野(76) 山田(山登魂 一橋大山岳部OB)
当初、某S君と一ノ倉尾根に行く予定だったが.....ヤクザな業界に身を置く某S君は
前日目一杯仕事!最終の新幹線に乗り遅れて敢えなく“駅前敗退”
某大学山岳部OB M社長、S君の労働条件考えてやらないとやめちゃうよ!
S君は“駅前敗退”してしまったが、同じようにパートナーにふられた山田訓が急遽合流。
前クラ尾根核心部
前クラ尾根アプローチ
右の黒い岩峰が前クラ
石抱小屋の番犬
核心部まで我々を先導してくれた
前クラ尾根核心部
前クラ尾根核心部
前クラ尾根核心部
前クラの頭から荒沢岳山頂。
...hide more
【ルート】 ノコ沢大氷柱
【日程】 平成21年3月8日
【メンバー】 清野(76)S君(某大学山岳部OB)
小暮(沼田山岳会) 西巻(沼田山岳会)
某大学山岳部OB S君の谷川デビュー。
先週、幽ノ沢の帰りに目星を付けておいたノコ沢大氷柱。
悪天の中、スノーシャワーで溺れそうになりながら登った
記憶があるが....晴れていれば至って快適。
大人数で楽しい登攀になりました。
ノコ沢大氷柱全景。
今年は暖冬だが....意外に氷柱の発達は良い!
2パーティ4名で賑やかにアプローチ!
1P目をリードするS君。
大氷柱は十分広いので2パーティ同時に登攀を開始。
我々は左の一番たった部分を攻撃的に攻める!
2P目をフォローするS君。
50m目一杯延ばすと2Pで終了してしまう。
幽ノ沢をバックに斉藤の決めポーズをするも、様にならないS君。
遠く北海道の斉藤を思いポーズ!
...hide more
【日程】 平成21年3月1日
【ルート】 幽ノ沢 左方ルンゼ
【メンバー】 清野(76)小暮(沼田山岳会)
一ノ倉沢に比べアプローチの遠さから圧倒的に登山者の少ない幽ノ沢。
幽ノ沢中央壁の一郭を氷った大滝で縁どる左方ルンゼ。
当日迄二日間降雪のない事と寒気の入り込みを確認して山岳会の弟子と行ってきました。
下降路からの中央壁。
左端が左方ルンゼ大滝、中央のベルグラが正面フェース。
3時間のアプローチでカールボーデンに到着。
写真中央右は正面フェースのベルグラ。
この後、果敢にアタックする二人パーティーが....中央壁の頭で出会い、東京YCCの一村君と北海道から来た鳴海君という事が分かった。
「核心部のベルグラはフリーソロの方が安全だった!」とか。いつかこの台詞使わせて貰おうと心に誓う(笑)
左方ルンゼ取付から望むV字状岩壁左ルートの氷柱(中央少し左)
左方ルンゼ核心部大滝の登攀。
中尾根をバックに大滝上部を登る。
下降中の堅炭沢βルンゼから望む“ノコ沢大氷柱”
昨年、取付迄行って上部のブロック崩壊に恐れをなして敗退。
暖冬の割に氷の発達は良い。来週はココ!
幽ノ沢右俣全景
左から中央壁、右俣リンネ、V字状岸壁、ノコ沢大氷柱
...hide more
「道南のグランドジョラス」雄鉾岳。
前回は迫力ある壁の雰囲気だけ拝んで雪崩の危険のため引き返したが、ついに念願のリベンジが果たせた。
日程:2009年03月20日〜22日
メンバー:斎藤(1987) , 勝亦(2003) , 馬場(HUSVOG),山下(1997)、白石(2001)、浦西(水ワンOG)
20日:晴れ
21日:晴れ
22日:曇りのち雨
タイム:
雄鉾荘(10:00)−・652ポコ(12:45-13:00)−Co530付近=B.C.(13:30)
B.C.(5:15)−S字ルンゼ取り付き(6:00)−Peak(10:15-11:00)−北峰(11:10)−B.C.(13:00)
B.C.(7:30)−雄鉾荘(10:00)
1日目
古い鉄橋を渡り銀山沢の一本下流の沢を詰める。鉄橋に敷かれた木板を踏み抜きひやりとする一幕あり。前回より雪は少なく、沢は増水気味。何度もスキーを脱いでの渡渉をしていく。右岸の台地上をいったりトラバースしたりしながら行き、Co440付近で尾根上に上がる。・652付近からトラバースし、北東壁の下Co530付近にB.C.を設営後、ルート偵察。明日は目に付いた、Cルンゼ一本左のクーロワールを登ることにする。斉藤さんに、初登したら勝亦クーロワールって名前をつけろなどと言われたが、S字ルンゼという名前がちゃんとついていた。みんなで焚火。
2日目
山下、白石、浦西パーティーはCルンゼ〜四稜へ、我々はS字ルンゼへ向う。デブリに埋まった沢筋を登って取り付きへ。
1P:小滝をこえグサグサの雪壁をだましだまし登って立木でビレー。55m。
2P:カチカチの快適な雪壁を登って小滝の下まで。55m。
3P:小滝を越え、雪壁とナメ滝を快適に立木まで。60m。
4P:ナメ滝と雪壁。75m。
5P:草付きと氷の段差を右上し、雪庇を切り崩して四稜に上がる。50m。
6P:草付き壁を頂上まで。20m。
アイススクリューがあれば使えただろうが、持ってきていなかったので大いにランナウトした。時間もあるので頂上から北峰経由で帰る。一稜頭のピナクルとのコルへ30mラッペル。Co810コルからB.C.へ下る。Bルンゼの「幻の大氷柱」は見事だ。もう少し発達した日には是非登りたい。今日も焚火。山下P は夕方帰幕。なかなかシビアな登攀だったそうだ。
3日目
雨が降るとのことなので下山。雄鉾荘で牛乳を飲んで帰る。
S字ルンゼは記録もなく、ルートが右に左に曲がるたびに何が出てくるのかわからないおもしろさがあった。状態には左右されそうだ。
...hide more
俺は沢ヤだ!
成瀬陽一
東京新聞出版局(2009/3)
1429円
日本の沢、世界の沢を登り込んできた成瀬陽一(充血海綿体)の自伝本。岳人誌で連載されていたころから腹を抱えて笑いながら読んでいたが待望の単行本化。成瀬さんは天然少年仙人のような、世界でも指折りのトップ沢クライマー。これほどの文章の書き手とは失礼ながら存じ上げませんでした。沢を歩きに歩き、登りに登るうち、ことばは脳内に昇華するのでしょう。沢に魅入られるという天才を持ち、少々変態気味の笑えるエスプリのあるあたり、「のだめカンタービレ(漫画のほう)」くらい面白いと思いマス。お勧めデス。このすごい表紙写真は松原(1990入部)撮影の称名川ザクロ谷。水の色、苔壁の造形、光の加減、宗教画のよう。バッハの平均律クラヴィーアが聞こえて来そう。
2000年ころから台湾など海外の沢を研究する海外遡行同人の集まりで毎年お目にかかった。ナルっさんはそのころ日本の名だたる渓谷をアオタイや松っちゃんと登りまくっていたころだ。でも本書にあるとおり、そんな厳しくて楽しい事があらかじめ分かっている名渓をコレクションしても、手の込んだ観光旅行と変わらない。「沢ヤの本懐は未知の谷の解明にあり!立ちはだかる未踏の大滝の向こう側にあり!」と書く。「エベレストよりも高い山はどこにもないが、台湾の渓谷を凌ぐ谷は必ずどこかにある。」台湾の沢の、常識破りな壮絶ぶりは、本書を読めば見なきゃ分からないことだけはわかってもらえると思うが、この台湾へ通った遡行記録の数々が面白い。想像を絶するあの曲がり角の向こう側が見たくて。沢登り魔力の一番芯の部分だと思う。(同行松原の記録は部報14号で読める。)
原生林で突如全裸になって大木にしがみついたり、この森の象徴のようなかわいい顔をしたサンショウウオと同化したい衝動に駆られ丸焼きにして食べた晩(キスまでしといて何故食べる?)、空前絶後の食中毒で苦しむなど、やはり成瀬さんの過剰な熱情の世界は変態の森である。しかし、人生や存在のあり方を語る賢明な知見の数々のことばは変態であろうとも全く構わない。未だ誰も知らない地球のワレメちゃんを探し求める沢ヤは、やはりどう考えても変態で良いのではないだろうか。万国の沢ヤたるものなら、これに同意署名してくれるものと思う。
掲載の記録は黒部川剱沢、称名川ザクロ谷、春川万滝沢、御嶽山赤川地獄谷、台湾三桟渓、ほかギアナ高地、ニューギニア、福建省、四川省、雲南省など。台湾三桟渓の山行には、ルームから松原、日下、石崎が参戦している。
巻末の、沢から無事下りてきた男が古い民家の庭先に降り立つ寓話、心に沁み入りましたネ。
...hide more
●2009年3月21日(1-0)
【ルート】喜茂別→羊蹄山(往復)
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
3月21日(晴)喜茂別ルート登山口(7:15)→羊蹄山(13:25〜13:45)→登山口(15:00)
【記録】
春山シーズンの足馴らしに、昨年と同じく、羊蹄山の喜茂別ルートを往復してきた。
登りは、雪がしまっていて、もぐらなかった。樹林限界を超えると、雪が固くなったので、Co1350あたりでアイゼンに履き替えて、スキーを担いだ。尾根上を行くと、つぼでもほとんどもぐることはなかった。
頂上付近は風が強かった。お鉢の中を覗くと、真狩側の壁を登り返している単独行者の姿が見えた。スキーもボードも持っていなかったので、乗り越しのため、お鉢の中を横断したのか。
身支度を整えて、いつもどおり、頂上から滑り出した。今年は若干重いながらもパウダー上の雪が固い雪面の上に載っている感じで、非常に滑りやすい。とは言え、私には、羊蹄の急傾斜面をパラレルで滑る技量を持ち合わせてないので、跳ねる様なターンで高度を下げていった。Co1500あたり?で単独行者とすれ違った。この日、喜茂別ルートから頂上まで登ったのは、彼と私だけだと思われる。
下山後、ルスツのスキー場で、さらに3時間ほどスキーの練習を行なった。
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルート登山口付近から
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルートCo1350辺りから見た大スロープ、頂上は見えてない
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルート下り斜面
2009.03.21羊蹄山喜茂別ルートの下り斜面(頂上付近)
...hide more
今日訃報を聞いた、全然想像していなかった、原さんの死。事故でもなく、病気というのでもないが死とはかくも突然やってくるものか。原さんと過ごした数々の楽しい時間を思い出している。
僕が現役学生だった1985年頃、原さんの本を読んで大きく影響を受けた。原さんは学生時代に弟を鹿島槍北壁で失い、その後もヒマラヤで、何人もの死を見つめ、生と死に関する、優れた言葉を多く残していた。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
...hide more
【年月日】2008年12月27日ー1月4日(9−0)
【メンバー】L勝亦(6 AL馬場(HUSV8→後藤(HUWV6 M井村 鹿島(1
写真はトウヤウスベ山。
<時間とルート>
12/27 北電ダム先除雪終点(12:15)−ポン十勝川左岸Co900=C1(15:20) 晴れ。山の方はガス。風。林道を行き、ポン十勝川左岸Co900でC1。
12/28 C1(7:45)−シイ十勝川(11:05)−下ホロ北コル=C2(14:05) 吹雪一時晴れ。ポン十勝川は林道で渡る。そこから次の林道渡渉点まで磁石を切って進むが、樹林が疎らなハイマツ帯であった。上ホロカ川の右、左股は林道で。積雪量、悪天候、先ほどの樹林の様子などから、ここから先も林道付近を行くことにする。・863付近から林道ショートカットしようとし、一つ目の沢はスノーブリッジで渡ったが、二つ目が渡れず林道へ戻る。シイ十勝川を渡って程なく林道を離れ登り、下ホロ北コル付近でC2。
下ホロをバックに
12/29 C2(10:55)−下ホロカメットク山(13:30)−C2=C3(14:30)曇りのち晴れ。風。Co1400付近でシーデポ。天気は回復傾向とのことだが、未だ気になる風。Mの様子を見ながら行くことにする。ハイマツやブッシュで歩きにくい。Co1560でツェルトをかぶって小休止。頂上付近は振られる風程度だった。シーデポ地点からはシールで下る。
Mのすべり
12/30 C3(8:15)−一の沢(9:00)−シーソラプチ川Co1050付近=C4(11:30-12:30)−C4(14:10)雪。テン場からスキーで。シーソラプチ川手前からシール。シーソラプチ川左岸Co1050付近にC4を設営し、北東斜面樹林内でスキー。
原始が原へ
12/31 C4(7:15)−C4(11:40-12:30)−六の沢Co1220付近=C5(15:30) 雪のち吹雪。Hスロープを滑りに行く。樹林限界付近から滑るが、不安定な弱層があったので注意した。テン場に戻り、F尾根末端を目指すがひどいラッセルのため届かず、C5。C4の位置を誤って認識していたため一時現在地把握に戸惑ったがうまく修正できた。
1/1 C5(7:20)−F尾根末端=C6(8:10) 雪。F尾根末端にC5設営後、AL交代。Lは三の沢の湿原付近まで送り迎え。Mは休養。
トウヤヘ
1/2 C6(7:35)−・1083付近=C7(8:45-9:10)−トウヤウスベ山(10:30)−大麓山(11:15)−トウヤウスベ山(12:00)−C7(13:30)晴れ。湿原をつないで・1083の西側にC6とする。富良野岳方面は相変わらずの天気だが、こちらは晴れている。そこからトウヤ、大麓を往復。ところどころクラストしていたが、EPは使用せず。
1/3 C7(7:45)−二の沢左岸Co1070=C8(9:45-10:45)−前富良野岳(12:35)−C8(14:15)晴れ時々雪。Mに地図読みや磁石の切り方を教え、前を歩かせた。湿原をつないでC8まで。二の沢の左岸尾根を登り、樹林限界やや上でシーデポ。そこからEPで前富良野岳を往復。
1/4 C8(9:15)−ベベルイ零号線(11:15)晴れ時々雪。夏道まで滑り降り、夏道と林道をベベルイ零号線まで。
<パーティ>
Ls:C4の位置を誤認識した。AL交代時、合流が遅くなった。
M:体力十分。
...hide more
【年月日】2009年3月下旬(4−5)
【メンバー】L:田中宏(3 AL:小池、田中省(2
[時間とルート]
1日目:ピョウタンの滝(3h)札内ヒュッテ(3.5h)夏道尾根末端=C1ピョウタンの滝から道を札内ヒュッテまで。コイカクシュサツナイ沢沿いに夏道尾根末端まで行く。途中転石とスノーブリッジ渡渉数回、函の捲き2回。末端でC1.
2日目:C1(4h)・1305(3h)夏道尾根頭=Ω2 末端からは夏道尾根に取り付く。・1305付近は冬テン張れる。Co1400付近より東側に樹林内雪庇。Co1500〜1600まで岩がでてる。コイカク直下は急。夏道尾根頭にイグルー2.
3日目:Ω2(0.2h)コイカクシュサツナイ岳(2.5h)ヤオロ(2.5h)1839峰(2.5h)ヤオロ(2h)Ω2=Ω3コイカク付近は十勝側に大きな雪庇が発達し、その先も十勝側に雪庇が張り出す。Co1740ポコからヤオロは細く、岩が出ていることがある。ヤオロ直下からヤオロは局地風。ニセヤオロから先は両面雪庇出るが、概ね南向きのようである。規模は大きい時で2〜3m。ナナシ側は密なbush状のカンバが出ていることがあり、trv.できる。また、急だがサッシビチャリ側を捲いている記録もある。その先はナイフリッジになっていることがある。39手前ポコの登り、39直下は急だが、状態によってはbush出てる。状態が悪ければザイルを出す。急斜面を登って1839峰へ。帰りも急な所は状態によってザイル出す。ヤオロからは来た道。
4日目:Ω3(4.5h)1823峰(3.5h)Ω3=Ω4 夏道からの降り口はわかりにくい。コイカクからの下りは岩稜帯がCo1520付近まで続く。慎重に上を行ったりナナシ側を捲いたりして通過する。ピラトコミJP登りは十勝側に雪庇、状態悪いとRFが難しい。JP下りも一部岩稜。23までも雪庇ある。尾根をつめて1823峰へ。帰りは来た道。
5日目:Ω4(3.5h)尾根末端(2.5h)札内ヒュッテ(2h)ピョウタンの滝 夏道尾根を下って、コイカク沢沿いにヒュッテまで。ヒュッテからは道をピョウタンの滝まで。沢沿いは雪崩に気をつける。
[天気・停滞・進め方]
冬型決まり始めは悪く、風は強い。押し引き〜引きの冬型は動ける。谷の通過は悪く、ヘリではガスる。停滞は4日。コイカク沢の雪崩が怖いので、どか雪後は2日待ってから入る。天気周期的に3日あればそのうち1日は動ける読みで、残り3日になったら、テン場をピークから樹林限界下(Co1550より下)まで下げる。樹林限界より下は全天で下れる。23、39At.は1日もつ天気。気にならない風まで行動。引き返しは23At.は12:00、39At.は11:00。テン場着はイグルー作る日は14:00、15:30。最終下山17:00。
[パーティー]
春メイン2年班。慎重に行く。
Ls:雪庇・雪崩判断、天気判断、ザイル判断
[装備]
ザイル30m9mm1本、冬テン、フライ、ストーブ、灯油(110ml/人・日)、のこ1、スノーソー2、無線、茶食器、鍋、ラジオ天気図、ろうそく
他 EP・スノーシュー・ストック含む冬山個人装備
[準備山行]
1回目:八剣山(1-0) ザイルワーク、雪稜歩き
2回目:上ホロ北西稜〜旧DZ (1-0) 総合確認
...hide more