現役の計画・ 2008年12月26日 (金)
【年月日】12/27〜1/4(9日間)
【メンバー】L勝亦(6 AL 馬場(HUSV8→後藤(HUWV6 M 井村 鹿島(1
【ルート】曙橋〜美瑛岳〜下ホロカメットク山〜原始ヶ原〜布礼別
【メンバー】L勝亦(6 AL 馬場(HUSV8→後藤(HUWV6 M 井村 鹿島(1
【ルート】曙橋〜美瑛岳〜下ホロカメットク山〜原始ヶ原〜布礼別
<時間とルート>
1日目 曙橋(5h)ポン十勝川左岸Co920=C1
曙橋から林道を行き、ポン十勝川左岸Co920付近でC1。
2日目 C1(5h)美瑛岳(3h)C1=C2
ポン十勝川左岸の尾根を登る。・1375付近の広いところ、尾根上部の尾根がはっきりしないところ、尾根頭などに適宜デポ旗を打っていく。樹林限界はCo1000くらい。C1=C2。
3日目 C2(8h)下ホロ北コル付近=C3
C2から樹林帯を歩いて下ホロ北コルまで。雪が少ないと渡渉点を探すのに苦労する。ポン十勝川はCo920二股、上ホロカ川はCo990二股、シィ十勝川はCo940〜1000付近のスノーブリッジを渡る。下ホロ北コル付近でC3。
4日目 C3(2.5h)下ホロ(1.5h)C3(4h)シーソラプチ川Co1190二股=C4
下ホロをAt.。タンネ限界はCo1400。その後はカンバがパヤパヤ。固くなったらシーデポ、EP。ブッシュが濃い。アタック後はシーソラプチ川Co.1190二股に移動してC4。
5日目 C4(3h)境山(2h)C4=C5
根性尾根(北西コルから南西に延びる尾根)から境山を往復。北西コルにデポ旗を打っていく。適当なところでシーデポ。帰りは来た道。
6日目 C5(2.5h)F尾根末端=C6
F尾根末端までテン場を移動。その後AL交代。
7日目 C6(3h)富良野岳(2h)C6(1.5h)・1083付近=C7
F尾根を登る。固くなったらシーデポ。Co1760付近の岩は西側を行く。Co1800にデポ旗。
8日目 C7(1h)トウヤウスベ山(1.5h)大麓山(1h)トウヤウスベ山(1h)C7=C8
・1083付近から二点鎖線の尾根を登りトウヤウスベ山、大麓山へ。大麓山肩にデポ旗3。大麓までスキーで行っている記録もある。トウヤの北側斜面を滑って帰るかも。
9日目 C8(2.5h)三の沢右岸Co1050(3.5h)布礼別
湿原をつないで原始ヶ原をくだり、布礼別まで。三の沢はCo1050付近で渡る。
他に、Hスロープ、三峰山、前富良野岳、富良野岳S尾根なども狙う可能性がある。
Hスロープ:境山南西稜から南に伸びる尾根。下から往復1.5h。
三峰山: コンタ尾根を登る。東側雪庇に注意。Co1620にデポ旗。帰りは来た道。・1361付近から往復5.5h。
前富良野岳:二の沢左岸の尾根から往復する。三の沢右岸Co1050付近からから往復3h。
S尾根:下部を滑る。F尾根末端から往復1h。
<天気・停滞・進め方>
天気や体力などを見ながら臨機応変に進めていく。原始ヶ原からどこにアタックするかはメールで伝えるか、テン場に書き置きをする。美瑛岳などアタックの前に滑落停止の練習をする。美瑛岳アタックに2停滞はしない。美瑛・境山:視界500。三峰山・富良野:視界2〜300。下ホロ・トウヤ・大麓.:視界100。アタックの風・気温は気にならない程度。テン場着15:00。最終下山16:00。
<パーティ>
Ls:天気判断、Mを見る
M:生活・行動技術、体力
<装備>
夏テン、のこ3、鍋、茶食器、ろうそく、ストーブ、灯油(110ml×4人×8)、修理具、無線、デポ旗13本以上(現地作製)、ツェルト、他スキー、ストック、EP含む冬山個人装備
AL交代時はともにツェルト、のこを持つ。
<準備山行>
1、2回目のLsは下記のとおり。
?11/2-3(2-0) 旭岳Co1760引き返し
L田中(3 AL澤田(5 小池 田中 野沢(2
?11/15-16(2-0) 吹上温泉から十勝岳往復
L澤田(5 AL平塚(5
?12/6-7(2-0) 豊羽鉱山→長尾山→薄別
L勝亦 AL馬場、後藤
1日目 曙橋(5h)ポン十勝川左岸Co920=C1
曙橋から林道を行き、ポン十勝川左岸Co920付近でC1。
2日目 C1(5h)美瑛岳(3h)C1=C2
ポン十勝川左岸の尾根を登る。・1375付近の広いところ、尾根上部の尾根がはっきりしないところ、尾根頭などに適宜デポ旗を打っていく。樹林限界はCo1000くらい。C1=C2。
3日目 C2(8h)下ホロ北コル付近=C3
C2から樹林帯を歩いて下ホロ北コルまで。雪が少ないと渡渉点を探すのに苦労する。ポン十勝川はCo920二股、上ホロカ川はCo990二股、シィ十勝川はCo940〜1000付近のスノーブリッジを渡る。下ホロ北コル付近でC3。
4日目 C3(2.5h)下ホロ(1.5h)C3(4h)シーソラプチ川Co1190二股=C4
下ホロをAt.。タンネ限界はCo1400。その後はカンバがパヤパヤ。固くなったらシーデポ、EP。ブッシュが濃い。アタック後はシーソラプチ川Co.1190二股に移動してC4。
5日目 C4(3h)境山(2h)C4=C5
根性尾根(北西コルから南西に延びる尾根)から境山を往復。北西コルにデポ旗を打っていく。適当なところでシーデポ。帰りは来た道。
6日目 C5(2.5h)F尾根末端=C6
F尾根末端までテン場を移動。その後AL交代。
7日目 C6(3h)富良野岳(2h)C6(1.5h)・1083付近=C7
F尾根を登る。固くなったらシーデポ。Co1760付近の岩は西側を行く。Co1800にデポ旗。
8日目 C7(1h)トウヤウスベ山(1.5h)大麓山(1h)トウヤウスベ山(1h)C7=C8
・1083付近から二点鎖線の尾根を登りトウヤウスベ山、大麓山へ。大麓山肩にデポ旗3。大麓までスキーで行っている記録もある。トウヤの北側斜面を滑って帰るかも。
9日目 C8(2.5h)三の沢右岸Co1050(3.5h)布礼別
湿原をつないで原始ヶ原をくだり、布礼別まで。三の沢はCo1050付近で渡る。
他に、Hスロープ、三峰山、前富良野岳、富良野岳S尾根なども狙う可能性がある。
Hスロープ:境山南西稜から南に伸びる尾根。下から往復1.5h。
三峰山: コンタ尾根を登る。東側雪庇に注意。Co1620にデポ旗。帰りは来た道。・1361付近から往復5.5h。
前富良野岳:二の沢左岸の尾根から往復する。三の沢右岸Co1050付近からから往復3h。
S尾根:下部を滑る。F尾根末端から往復1h。
<天気・停滞・進め方>
天気や体力などを見ながら臨機応変に進めていく。原始ヶ原からどこにアタックするかはメールで伝えるか、テン場に書き置きをする。美瑛岳などアタックの前に滑落停止の練習をする。美瑛岳アタックに2停滞はしない。美瑛・境山:視界500。三峰山・富良野:視界2〜300。下ホロ・トウヤ・大麓.:視界100。アタックの風・気温は気にならない程度。テン場着15:00。最終下山16:00。
<パーティ>
Ls:天気判断、Mを見る
M:生活・行動技術、体力
<装備>
夏テン、のこ3、鍋、茶食器、ろうそく、ストーブ、灯油(110ml×4人×8)、修理具、無線、デポ旗13本以上(現地作製)、ツェルト、他スキー、ストック、EP含む冬山個人装備
AL交代時はともにツェルト、のこを持つ。
<準備山行>
1、2回目のLsは下記のとおり。
?11/2-3(2-0) 旭岳Co1760引き返し
L田中(3 AL澤田(5 小池 田中 野沢(2
?11/15-16(2-0) 吹上温泉から十勝岳往復
L澤田(5 AL平塚(5
?12/6-7(2-0) 豊羽鉱山→長尾山→薄別
L勝亦 AL馬場、後藤
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部報解説・ 2008年12月26日 (金)
半年ぶりの更新です。歴代最長期間18年間(1941-1958)の部報8号紹介。ナナシ沢探査完結編と、幻の大雪温泉小屋建設始末、南極観測隊に貢献した犬ソリ研究の記録、それに数多の遭難者のためにかかれた追悼文の数々。戦前の香りを残し、戦後日本登山界の質量ともに最盛期の時代をすべて網羅した密度の濃すぎる年代をまとめた部報。
無言の対話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伊藤秀五郎
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
1956年10月に書かれた、人はなぜ山に登るのかという大テーマを再考した一文。伊藤によればそれは「人格の陶冶のためである」という答えにする事にした、とある。この年は53年エベレストに続きマナスルの年だ。その時代であることを知って読むと面白い。
「われわれの山岳部は、第一目標を、勲章を貰うなどという御時勢向きの現実主義に塗り替えずに、やはり、三十年前の創立当初から語り継がれた子供らしい精神主義の一枚看板をおろさない方がいい。昔あのヘルベチャヒュッテを囲んでいた白樺のような清潔な山岳部の気風を崩さない方がいい。規律や友情や真実を愛する伝統を失わないことだ。それは山岳部がいつまでも瑞々しく。永遠に若々しくある秘訣である。処世術にことたけた大人らしい分別は、学校を出てから習つても遅くはない。われわれの山岳部に必要なのは、あの高山の奥にたたえられた山湖の清冽さであり、荒涼たる天涯にあつて千古以来の風雪に耐えてきたあの絶嶺の姿勢の正しさである。」
夏の紀行
―遺稿― 余市川のほとり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奥村敬次郎
奥村氏は山岳部長を務めていた1949年、札内川9の沢で転石事故のため亡くなった。冬のイドンナップ初登隊にも加わっていて、山岳部出身ではないが当時の学生たちとよく山を歩いていたようだ。
この文章は小樽から峠越えで余市川に入り、最奥の開拓農家で樺太の真岡から引き揚げてきた苦労真っ最中の一家と話し込んで、そこの少年と河原のキャンプでカボチャ煮つけを食べる話。戦争で家を焼かれて北海道へ帰り、函館本線の銀山駅あたりで余市川と源流の山に対面し、「親しく歩き廻った郷土の山々を眼のあたりにしてはじめてわが家に帰りついた喜びが堰を切つて流れてくるのであつた。山を見るまでは安心ができなかつたのである。」
大きな戦争を終えて、日本中には戦災の損害から立ち上がろうと、都市でも山里でも一生懸命だった。そんな様子が伝わる。
二つの無名沢遡行記
戦前幾多のパーティーがこのナナシ沢を目指したが、地形図が大きく誤っていたせいもあり合流点が分からず結局コイボクに上がった。1942年7月、菊地徹らがコイボクから尾根をのっこしてナナシ沢に入り、39北面等を登りかけたりしてナナシ沢の全容を調べた。この年度に懸案のペテガリの冬季初登も成しており、戦前の二大‘滑り込み記録‘である。だがこのナナシ沢探査も手探り状態での探検であり、完全遡行は戦後の落ち着きを取り戻すまで待つことになった。
以下の二つは戦後10年経って、幻のナナシ沢の難関沢に再び向かった記録。
●無名沢よりカムイエクウチカウシ山・・・・・・・・・・・・・・・滝沢政治
1955年夏、滝沢政治、岡部賢二。表題はカムエクだが、23南面直東沢の初挑戦記録である。完全遡行ではない。次の有名な言葉が残っている。
「その滑滝が終わると両岸は屏風を立てたような、人が一人やっと通れるような流れとなり、その奥に真つ白い滝が二段連らなつて落ちている。瓶の底での滝だ。ぼくらは呆然とした。ザックを置いて何とか登ろうと試みる。高さは六,七米であるが、正に模式的滝だ。岩は平滑な上にぬるぬるしている、何とか最初の滝は登り切つたが、その上は丸い滝壺でそれを廻って向うに行くのさえ困難な程である。次の滝は完全に瓶の底、ハーケンがあれば何とかなつたのだろうが、誰が日高に三つ道具を持つて来るだろうか。しようがないので高巻きと決めて一服。」
当時は日高にハーケン、ハンマー、ザイルを持っていかないものだった。他の荷物も重かったろう。豊富なビニール袋も化学繊維もない時代だ。重く濡れたザックではそうそう登れまい。まだ日高難関直登沢時代には早かった。「(のどの渇きと藪こぎで)泣き出したいような思いでようやく稜線に着いた。沢を出てから10時間半のアルバイトであつた。」
初めてナナシ沢合流点を発見した喜びも記されている。歴代ナナシ沢合流は、まだ早いと右岸を巻いて通り過ぎていたがこのパーティーはナナシとコイボクの間の尾根(コイボクの左岸)を高巻きしたために、左足元の沢がナナシだと気がついたのだった。「テラスの端まで行って見ると、すぐ眼の下は大きな沢が流れ、そこから細長い低い尾根をへだててまた大きな沢があるではないか。コイボクの流れは二分されている。それでは足下の沢は既に無名沢なのだ!」
23からコイボクに降りて、コイボクカール上で悪天のためまさかの停滞5連発。乏しい食糧食べ繋ぎ、しめて13日間の札内川のっこし。軽快な文体の素敵な山行記録だ。
●無名沢よりペテガリ岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・酒井和彦
1957年夏酒井和彦、上田原緯雄。表題はペテガリまでだが、沢はナナシ沢から39北面直登沢の遡行記録である。テント、寝袋無しの軽量山行。この年まではコイボク入渓谷はセタウシ乗越しで三石から高見への林道(峠手前から先は歩き)を使ったが、この翌年にはコイボク、コイカク合流までトラック道が通る予定とある。テント代わりにビニールシートで屋根架け。入山より六日目に39北面を登りヤオロマップの肩の花畑でごろ寝するが、ブヨの大群に「メシもズッペもブヨの突入で中が見えない。」となり、ビニールシートに潜り込む。その後停滞込み稜線5日のちペテガリへ。稜線はほとんどカンパンをかじっている。下降尾根から中ノ川に降りるとすかさず飯を炊いているのがおかしい。尚、おかずは味噌と塩だけみたいだ。下山の日、「マットが一番大きな荷で、小脇に抱えて歩きたい程に小さくなつてしまつた。最奥人家には一時半頃着き、豊作の畑の中を裸体で歩む。〜略〜畑仕事をしている村の人達は『御苦労様でしたね』と声をかけてくれるが、全く恥しく済まない気もして歌は唱わない」
「日高の夏の旅にはテント、シュラーフは必ずしも必要としないとの確信を得た。ただブヨに関しては対策を要す。登山の種々の研究をしそれに適応した装備を用うべきである。日高の山に原始を求めて彷徨う者は崩れた飯場と這松のハンモックとが最上の寝床である。」
「菊池先輩の大望は不肖ながらようやく果せた。」
夏の知床岳・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鮫島淳一郎
1952年夏、植物学教室の先生らと当時は人の通わぬ知床の山へ出かけた記録。網走から船でテッパンベツ川河口へ。ここは当時製紙会社の丸太の海だった。この飯場で塩マス二本を貰って、美しいエゾ松の森を行くが、そこは間もなくトロッコ軌道が敷かれ切られる運命だという。山にほぼる人はなくとも、フロンティアには天然の富を求めて今よりたくさん人がいた。背丈を越すハイ松の中、水を求めて知床岳周辺をこぎまわる。テッパンベツ川の下りで思いのほか時間を食って苦労する。
大雪、日高の熱中ぶりに比べ、ルームは知床や利尻にはこの頃までぽつぽつと足跡を残したばかりである。この年の冬、京大が冬季知床全山初縦走をしている。(参考http://www.aack.or.jp/kaiinnope-ji/2002shiretoko/index.htm)
森、温泉、夢〜十勝川源流温泉小舎建設始末記〜・・・・・・西村豪、神前博
部報始まって以来の砕けた文体。昔の漫画っぽい語りで漫画っぽいストーリーを記述する。トムラウシと沼ノ原を結んだちょうど真ん中あたりの谷の中に秘湯が湧いている。そこに小屋がけをしてしまったという夢いっぱいの話。1950年に山崎英雄が発見し、1958年、第一次小屋がけが天気悪く失敗し1959年のこの度の記録。合宿を終えた後、大きな鋸と鉞を持った一行9人は俵真布まで引き返し入山。現場まで二日、建設三日、下山一日。石を運び土台を築き直径30-40センチのタンネの丸太10段を組み、50本なぎ倒して堂々のログハウスである。「つい昨日までは誰も足を踏み入れた事のない、この原始林が今やカーンカーンとなり響くオノの音、バリバリと生々しいタンネの倒れる音で梢の鳥も熊や鹿も声をひそめている。頭の上にまた空間が開き、五月の青空がいままでけっして見る事の出来なかったタンネの森の中をのぞいている。あつまたあそこにも、こちらにも、次々と空間が増え、その度に森が明るくなつていく。あつ、また食事当番のフエがなり響いている。十時のオヤツの時間ではないか!われわれは幼子の様に『ヤッホー』と歓声を上げながらキャンプ地へ飛び降りていく。」・・・欺瞞的な環境保護主義に浸かった2008年の常識で断じてはいけない。この山中で誰一人サボらず、三日間、飯を食い楽しげに小屋を築いた喜びがにじみ出ている。一番の苦労は倒してそろえた30-40センチ、長さ3.5mの丸太を運ぶ作業。これはやればわかるが重労働だ。最終日までに屋根もなんとか作り終え、メデタシで下山するのであるが、後日談がある。
牧歌的時代といえども後にこの件で、国立公園内での無断伐採、無断建築のかどで営林署の官僚的勢力から告発されるのである。その証拠が、この部報8号であったらしい。図解入り、建設のいきさつを詳しく楽しげに書いてあり、動かぬ証拠となった。最後は始末書を書いて落とし前。現代ならばどうだろう?責任者が監督不行届で謝罪会見、減俸処分とワイドショーだろうか。無体な時代である。
これについて後日談。山の会会報59号(昭和六十(1985)年)に「二つの始末書」と題した高篠和憲の記事があり、仕事つきあいの営林署関係者からこの時の始末書二通(山岳部長原田準平と当事者西村豪)が時効でもあり良き記念に返還されたという旨だった。
犬ソリの研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・北海道大学極地研究グループ
日本の南極観測隊の編成がなされ、その副隊長の西堀栄三郎から北方問題と縁の深い北大に犬ソリはじめ極地探検諸技術の開発を依頼され、昭和31年(1956)北海道大学極地研究グループを設立した、とある。メンバーは山岳部員である。
犬についてはカラフト犬の特質を紹介し、ソリについては1949年ノルウェイ、イギリス、スウェーデン探検隊のものを紹介している。ソリを製作し摩擦などを調べている。引き綱の形状、引き具の形、犬のえさに至るまで詳しい記述がある。
「われわれは日本における最後の優秀なカラフト犬十数頭と一緒に暮らせたことを誇りに思い、そのめい福を祈るものである。」この中に、第一次南極越冬隊に加わって生還したタロ、ジロも含まれている。
追悼
奥村先生のことなど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木崎甲子郎
イドンナップに夏冬共に登っている木崎の追悼。「奥村先生を知ったのはいつのことだったか。入部したのは昭和二十一年だったが、未だ居られなかつたような気がする。そして今度岐阜高農から来た奥村という教授は、部の先輩ではなかつたけれど山が好きで、日高にも数回入つておられるし、予科山岳部の部長になつて頂こう、というような話を聞いていた。それ以来のことである。奥村先生のことを知つたのは。「ダットサン」という仇名も何時の間にかついてしまつた。」奥村部長は部員と年も近く、一緒にあだ名で呼びあい、下宿にもあがりこみ、給料日にはお茶を飲みにでかけたりという仲だったようだ。
「『今度は、静子を連れて行こうと思つてね』といつものあの笑顔で言われたこと、そして、お忙しいのに、無理に夏山などへ行かれなくても・・・と申し上げると、『いやいや山でも行って来ないと、気がくしやくしやしてね。仕事が仕事だから。今度はとつときのコースを行くよ』と眼鏡の奥から笑いながら言われたこと。
それが最後だつたのだ。人と人の生死のつながりがこんな風な形でピリオドを打たれようとは。」
奥村部長は理学部生の頃から山をはじめ、昭和11年(1936)ころより札幌の光星商業、二中、一中、の教官をしていた16(1941)年夏まで四季を通じ道内山岳を歩いている。昭和21(1946)年5月に北大予科の教授になった折から山岳部長を務めたが、24(1949)年8月、カムエクからの下り、札内川九の沢で遭難死した。
山岳部長奥村敬次郎氏遭難記録
伏流気味のごろごろ沢を下る際、幅各1m、厚さ60センチの岩の脇を廻って下に行った時その岩が転がり10m下で止まった。「先生は頭部をはさまれたらしく昏睡状態になる。約17分後昏睡状態のまま永眠さる。」カールに薪は少ないため、土葬にする。「穴を掘り、遺骸を入れ、カメラーデンリートを歌い、花で美しく飾り、その上に花を植え、白樺の十字架を建て、十四時半、お墓を完成する。」
尚、坂本直行の「雪原の足あと」の中に、「僕はこれ以上美しい人間の墓というものを見ることはないだろうと思った。」とあり、美しい九の沢カールの花畑の中に立つダットサンのケルンの絵がある。
花岡八郎兄を想う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・向川信一
1947年7月、サッシビチャリ沢、39南面沢を登った後、コイカクからコイカク沢の下りで遭難死した。
「戦後間もなく生きることだけが希みであつたような頃に、彼はすでに北大山岳部の有力なメンバーであつた。当時の山岳部の雰囲気は過去のブランクを埋めようと、未踏のピークと沢を求めて激しく揺れ動いていたが、彼はその部の中心にあつて、直情的にしかも意欲的に登行への情熱を燃やしていた。」
この山行、39南面直登を登っているが、実は山頂で気がつくまで、1599を登っているつもりだった(当初の計画は1599→ペテガリ→中ノ川)。予定を変えてヤオロマップ出前で一泊し、コイカクから札内川にした。
「知らなかつたとはいえ、夏のノルマルルートを左手僅かの所にしながら、草と水に濡れた岩の急斜面の下降は危険なものであつた。」
「私達の下降している尾根は切れているから右の小沢を越えるよう合図しながら動いたように見えたとき、声もなく兄の姿が見えなくなつた。下降していた私がその気配にはつと思う間もなく、岩にバウンドする鈍い音が二度三度したと思つたが、後はただ規則的に流れる小沢の激しい水音だけである。髪の逆立つような、気の遠くなるような思いで急ぎ兄の立つた辺りに行つたときはもう何もない。ただ岩と水と黒々とした雪渓の不気味な口が見えるだけであつた。」
「国境尾根に立つた日、遥かにペテガリ岳を見て私達は感激した。小さなピークが二つ並んだ清楚な姿だつた。しかし登るにつれて次第に遠ざかる頂上を眺め、やはりペテガリは遥かだつたと語り合つたのだつた。シューベルトの「春の夢」に託してこの山頂に立つ日を夢見ていた兄にとつて、その山頂を指呼の間に眺めることが出来たのは、せめてもの慰めであつたといえるであろうか。山旅の時々にこのメロディーを口ずさんでいた兄はその夢を実現することもなく、命のはかなさとむなしさを一瞬のうちに示してこの世を去った。」
井上君の死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐伯富男
井上正惟は1954年5月、中央アルプス空木岳で「三日冷雨の夜、殿越小屋附近にて遭難死す。《遭難及び捜索の記録は年報昭和二十八年度》」
入部が1949年で、6年目の春の事故。
「彼は非常に慎重に山に入る男だつた。毎晩のように強情な僕と論争が起きる。」
「無口な彼であつたが、僕にはよく語つてくれた。僕が札幌へ行つて見つけた本当の山友達というべきものは彼だけだつた。」
部報に詳しくは載っていないが、五〇周年記念誌によると、雨に下着まで濡れ、雪渓に道を失い日暮れ近くなり、小屋が近いと解っていながら歩けなくなり、ビバーク。夜中に低体温症で錯乱し足を滑らせ雪渓を落ちたという。
康平君・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・加納正敏
鈴木康平は昭和28(1953)年入部その年の夏、剱岳ブナクラ沢で、鉄砲水の増水で流され遭難死した。
「僕は君の心と共に山に行く。君が一度も行っていない山に、共に喜び共に楽しみたい。淋しければ大声で歌をうたおう。苦しければ互に杖になろう。君とはたつた六ヵ月の交わりだつたが、ルームでのダベリや数少ない山行の想い出は今でもはつきりと僕の胸に映つている。赤岩で宮様とアダ名をつけられた君、兄貴から金が来たといつて感激した君、はじめてスキーをはいてノビた君、色々な姿が忘れられない。」
これも五〇周年記念誌によると、夜中にテント浸水で起き、高台に待避する途中、3名のうち鈴木が突然来た1mの増水に流された。
前田一夫君の憶い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木良博
前田一夫は昭和32(1957)年入部、一年後昭和33(1958)年4月、奥穂、前穂の吊尾根で滑落遭難死した。とても個性の強い一年目だったとある。
「そうして山を論じ、映画を論じ、やけに悟り澄ました顔で浮世を論じ、まだ飲み慣れぬ酒のことで議論したりした一年間。僕は今でもその一年を二十余年の人生の一番楽しかった時期としてトップにランクしている。断片的な思い出が、こうして拙い文章をしたためている間も、そのためにあるような網膜の別な一角に総天然色で映写されて行くのです。」
五〇周年記念誌によると、アイゼン歩行中、何かにひっかけて転びそのまま滑落したとある。
小竹幸昭の追憶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐々木幸雄
小竹幸昭は、昭和30(1955)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口附近で遭難死。「十勝合宿に参加したのは、卒業を間近に控えて四年間の部の生活の最後を飾るつもりだつたのであろう。だが行動第一日目に彼は風雪の旧噴火口から再び仲間待つ小屋へ帰らなくなつた。私達はこの春OP尾根の上に彼と加藤君のためにケルンをつんだ。」
五〇周年記念誌によると、合宿初日小竹(4)、加藤(1)と西安信(1)の三人パーティーで十勝岳へ。そこから上ホロに向かおうとしたが、悪天のためOP尾根、振り子沢、なまこ尾根経由のルートが見いだせず、それに加え重いシートラ乗っ越しのため、時間を使い雪洞ビヴァーク。翌日も深いラッセルで次々疲労凍死。生還した西のみ旧噴火口の土の露出した地熱の暖かい場所で更に二泊ビヴァーク。そこは二名と30mほどしか離れていなかった。四日目に晴れ、西のみ下山し救助隊と合流した。この冬、槍の北鎌尾根の極地法計画に部の主力を送り出し、残った部員だけで行った十勝合宿だった。そのため全体に上級生が弱体で捜索も力が及ばず、四日目になってしまったとのこと。
加藤君のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木村恒美
加藤幹夫は昭和34(1959)年入部。昭和33(1958)年十勝岳の合宿中旧噴火口で小竹とともに遭難死。
「彼はついに“シブ”とアダ名がついた。しぶといからである。その彼も勉強の面でもそうとうしぶとかったらしい。高校時代なかなかの秀才とのことである。留萌に育った彼はお手の物のホームグラウンドである暑寒別岳が自慢であつた。彼の家からは一日で行ける暑寒には『冬には必ず案内してもらうぞ』と約束までしてあつたがそのことも果たせずに終わってしまつた。」
物故者略歴(一九四〇〜一九五九)
戦死したOBはじめこの間一八年間に無くなった人の消息。シナ、満州、レイテ、沖縄、ガダルカナル、ニューギニア等で亡くなっている。部報一号から読んできて見覚えのある名がこうした戦地で消えているのを知った。昭和十四年や十五年入学の世代は十六年三月や十七年九月には繰り上げ卒業でそのまま招集、戦死という人もいる。学徒兵である。昭和十六(1941)年ナナシ沢探査の菊池パーティーにいた二年目部員栃内晃吉は二十(1945)年の沖縄戦で戦死している。鍾乳洞の洞穴か、サトウキビ畑でナナシの事をおもいだしたろうか。
又、昭和29(1954)年洞爺丸遭難の犠牲に昭和4(1929)年入部の高橋正三氏もいた。
(前編/中編/後編)
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書評・出版・ 2008年12月23日 (火)
原真(1956入部)の初期の著書、「北壁に死す」が、今月「北壁に消えた青春」として再び出版された。(Amazon)
1961年4月、21歳で鹿島槍北壁で遭難死した弟、原武の遺稿集。事故から47年経ってもあせない、山を真剣に考える若者の手記。遺稿集本文は原武の名古屋大山岳部4年目の春までの山行記録と片思いの恋の記録。日記から1960年代の青春を追想する。山と恋について切々と書き記す個人的な日記。こんな大変なものを出版しても良いものかと2008年の人は思うかもしれない。が、そこが原真一家の凄いところだとつくづく思う。序文は深田久弥。
1961年4月、21歳で鹿島槍北壁で遭難死した弟、原武の遺稿集。事故から47年経ってもあせない、山を真剣に考える若者の手記。遺稿集本文は原武の名古屋大山岳部4年目の春までの山行記録と片思いの恋の記録。日記から1960年代の青春を追想する。山と恋について切々と書き記す個人的な日記。こんな大変なものを出版しても良いものかと2008年の人は思うかもしれない。が、そこが原真一家の凄いところだとつくづく思う。序文は深田久弥。
実はまだこの新版は手にしていないが目次を見ると本文は同じのようだ。過去二冊の「北壁に死す」がある。
最初の「北壁に死す」は、山と渓谷社から1973年発刊、新版「北壁に死す」は同じく同社から1984年に出ている。原真のあとがきがそれぞれに良かったので両方紹介する。
僕が学生時代最も感銘を受けたのは原真の書いた(1973版)後書き「なぜ山へ登るか」の中のことばだ。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」
この一文は後の「乾いた山」や「頂上の旗」に収録されている(いずれも古書店か北大山岳館でご覧あれ)。
新版(1984版)のほうの原真の後書きの「武の逝った日」も凄い。武の亡骸に対面する父母の様子を克明に書き、その後父兄が医師として弟を解剖する様が記されている。とても詳しく書いてあるが、それはここでは書けない。
「父はおどろくべき予定を宣言した。『今夜、大町市民病院で、武の遺体を解剖する。』といったのだ。
たっているのがやっとぐらいにつかれていた私は、父の気力に驚嘆した。
『すべて手配はすんでいる。』
ともいった。その口調には断固たるひびきがあった。
父の態度は、むしろ明るい印象を周囲の人たちにあたえたのではないか。関係者から、遭難の模様を逐一きき、自ずからも山を指さして質問していた。
そのあと、宿へかえって、母と二人になったとき、号泣したらしい。
『武、武。』
といって、棺にすがって、声をあげて泣いたと、あとで母にきいた。
父親とは、なんと悲しい存在であることか。未熟な息子の、死という裏切りにあい、敢然としてその打撃にうち勝たなければならない。」
遭難の日、たまたま北壁別ルートにいた名古屋山岳会のドンちゃんこと加藤幸彦氏は身を粉にして救助と捜索に努めた。このドンちゃんはのちに長野県山岳連盟のギャチュンカン初登頂(1964)で活躍し、三浦雄一郎エベレストスキー隊でも裏方主任として活躍した。1996年、僕はブータンの最高峰チョモラーリに登る老境入りした加藤さんを撮影する機会に恵まれた。64歳とは思えぬパワーだった。(記録)原さん兄弟との縁はずいぶん後で知った。加藤さんはその後『絶対に死なない」という本を出している。(Amazon)
まだ手にしていない「北壁に消えた青春」の書評も心苦しいけれど、最新版の感想はまたいずれ。
清野さん、原武を偲んで北壁行きましょう。
最初の「北壁に死す」は、山と渓谷社から1973年発刊、新版「北壁に死す」は同じく同社から1984年に出ている。原真のあとがきがそれぞれに良かったので両方紹介する。
僕が学生時代最も感銘を受けたのは原真の書いた(1973版)後書き「なぜ山へ登るか」の中のことばだ。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」
この一文は後の「乾いた山」や「頂上の旗」に収録されている(いずれも古書店か北大山岳館でご覧あれ)。
新版(1984版)のほうの原真の後書きの「武の逝った日」も凄い。武の亡骸に対面する父母の様子を克明に書き、その後父兄が医師として弟を解剖する様が記されている。とても詳しく書いてあるが、それはここでは書けない。
「父はおどろくべき予定を宣言した。『今夜、大町市民病院で、武の遺体を解剖する。』といったのだ。
たっているのがやっとぐらいにつかれていた私は、父の気力に驚嘆した。
『すべて手配はすんでいる。』
ともいった。その口調には断固たるひびきがあった。
父の態度は、むしろ明るい印象を周囲の人たちにあたえたのではないか。関係者から、遭難の模様を逐一きき、自ずからも山を指さして質問していた。
そのあと、宿へかえって、母と二人になったとき、号泣したらしい。
『武、武。』
といって、棺にすがって、声をあげて泣いたと、あとで母にきいた。
父親とは、なんと悲しい存在であることか。未熟な息子の、死という裏切りにあい、敢然としてその打撃にうち勝たなければならない。」
遭難の日、たまたま北壁別ルートにいた名古屋山岳会のドンちゃんこと加藤幸彦氏は身を粉にして救助と捜索に努めた。このドンちゃんはのちに長野県山岳連盟のギャチュンカン初登頂(1964)で活躍し、三浦雄一郎エベレストスキー隊でも裏方主任として活躍した。1996年、僕はブータンの最高峰チョモラーリに登る老境入りした加藤さんを撮影する機会に恵まれた。64歳とは思えぬパワーだった。(記録)原さん兄弟との縁はずいぶん後で知った。加藤さんはその後『絶対に死なない」という本を出している。(Amazon)
まだ手にしていない「北壁に消えた青春」の書評も心苦しいけれど、最新版の感想はまたいずれ。
清野さん、原武を偲んで北壁行きましょう。
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現役の報告・ 2008年12月19日 (金)
【年月日】2008/12/12−14(2−1)
【メンバー】L田中(3 AL平塚(5 M 小池 田中 野沢(2
前天狗から見えるニペソツ
【時間とルート】
1日目 林道入口(8:15)−登山口(10:30)−Co1620=Ω1(14:30)
天気雪。スキーで林道を行く。雪少なくラッセル踝以下。登山口先すぐの渡渉は橋があった。尾根取り付きは急でツボ。その先も雪少なく少しの間ツボで行く。夏道尾根CO1580付近から天狗のコルへtrv。天狗のコル先Co1620付近でイグルーを1時間30分で作りΩ1とする。
2日目 Ω1(8:30)−Co1660(8:40)−Ω1(8:50-10:30)−・1888前天狗手前(11:30)−Ω1=Ω2(12:00)
天気雪。視界悪いため天気待ちしてから行くが、直後Mのシールが切れてイグルーに引き返す。シールを修理して再度行くも・1888前天狗手前で視界100前後となり悪化傾向でアタックも厳しいと考え引き返すことにする。寒気流入で気温−15度。イグルーを改築してΩ2。
ニペ手前のコルから天狗山。
3日目 Ω2(5:40)−ニペソツ(9:40)−Co1720(11:00)−林道末端 (13:40)−国道(18:50)
天気雪のち晴れ。気温−20度以下。(3-1)の計画だったがLの都合で何とか一日中に下山するためラテルネつけて出発。Ω2からの登りCo1800でアイゼンシーズリにかえる。回復傾向の読みで徐々に天気が良くなってきたのでのっこしをかける。ニペ手前のコルでシートラEP。
ニペソツの登り。中央部分デルタは雪なし。
ニペの登りはバリズボで苦労する。雪屁東側に1m。デルタのtrvは夏道出ていて問題なし。
ニペソツ頂稜。雪屁2~3m。龍の背などはポコの向こう
ピークでは晴微風。時間的にも大丈夫なのでのっこすことにする。頂稜は雪屁東側2~3m。南稜はバックステップする所があった。所々バリズボ。竜の背は夏道上を行き問題なし。・1736北コルの平らになったところでスキーにかえる。そのまま南東へ下り・1016の尾根にのり林道末端まで。林道はラテルネつけてガッツで下山。
【パーティ】冬メイン2年班準備山行3回目。総合確認、イグルー、長時間行動できた。
1日目 林道入口(8:15)−登山口(10:30)−Co1620=Ω1(14:30)
天気雪。スキーで林道を行く。雪少なくラッセル踝以下。登山口先すぐの渡渉は橋があった。尾根取り付きは急でツボ。その先も雪少なく少しの間ツボで行く。夏道尾根CO1580付近から天狗のコルへtrv。天狗のコル先Co1620付近でイグルーを1時間30分で作りΩ1とする。
2日目 Ω1(8:30)−Co1660(8:40)−Ω1(8:50-10:30)−・1888前天狗手前(11:30)−Ω1=Ω2(12:00)
天気雪。視界悪いため天気待ちしてから行くが、直後Mのシールが切れてイグルーに引き返す。シールを修理して再度行くも・1888前天狗手前で視界100前後となり悪化傾向でアタックも厳しいと考え引き返すことにする。寒気流入で気温−15度。イグルーを改築してΩ2。
ニペ手前のコルから天狗山。
3日目 Ω2(5:40)−ニペソツ(9:40)−Co1720(11:00)−林道末端 (13:40)−国道(18:50)
天気雪のち晴れ。気温−20度以下。(3-1)の計画だったがLの都合で何とか一日中に下山するためラテルネつけて出発。Ω2からの登りCo1800でアイゼンシーズリにかえる。回復傾向の読みで徐々に天気が良くなってきたのでのっこしをかける。ニペ手前のコルでシートラEP。
ニペソツの登り。中央部分デルタは雪なし。
ニペの登りはバリズボで苦労する。雪屁東側に1m。デルタのtrvは夏道出ていて問題なし。
ニペソツ頂稜。雪屁2~3m。龍の背などはポコの向こう
ピークでは晴微風。時間的にも大丈夫なのでのっこすことにする。頂稜は雪屁東側2~3m。南稜はバックステップする所があった。所々バリズボ。竜の背は夏道上を行き問題なし。・1736北コルの平らになったところでスキーにかえる。そのまま南東へ下り・1016の尾根にのり林道末端まで。林道はラテルネつけてガッツで下山。
【パーティ】冬メイン2年班準備山行3回目。総合確認、イグルー、長時間行動できた。
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記事・消息・ 2008年12月15日 (月)
直行夫人つるさんから寄贈の絵画5点が山岳館へ届けられました。夫人から熊野純男会員に託されていたもので、油彩3点、水彩1点、コンテ1点です。これらは山岳館に掲示します。直行さんの絵は山岳館には既に3点ありますが、これらを含めて館内に直行コーナーを設けて展示の予定です。
熊野ボンちゃんと晩秋の南日高(山岳館図書室にて)、油彩(31x41)、前景が未完成の習作で署名がない
熊野ボンちゃんと晩秋の南日高(山岳館図書室にて)、油彩(31x41)、前景が未完成の習作で署名がない
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記事・消息・ 2008年12月6日 (土)
久しぶりに札幌を訪問しました(12/3)。澤柿さん(1985)を北大に表敬訪問したところ、最近南極に関する著書を出したそうです。また、「つる」にて、同世代で久しぶりの再会を楽しむとともに、20近くも先輩のヒヤヤッコさんや、現役部員全員や若手OBとも合流し、楽しく世代を超えて交流を図りました。(報告:山森聡、1986入部)
北大地球環境科学研究院の澤柿さん(1985)を表敬訪問した。澤柿さんは、このホームページやAACHメーリングリストの運営管理をボランティアで行っており、AACHの発展に多大な貢献をしていただいていることに感謝したい。澤柿さんの隣の部屋は、石川ヤンケ(1987)の部屋だが、残念ながらシベリア・ヤクーツクに凍土の研究で出張中だった。
澤柿さんは1993年(第34次)、2006年(第47次)の2回、南極越冬隊に参加しており、このたび、「なぞの宝庫・南極大陸 100万年前の地球を読む」を共著で出版されました。
購入はこちらからどうぞ。
「つる」のマスター大内さん(HUWVの大先輩)も元気でした。
「つる」のホームページはこちら。
左から、斎藤(1987),柳澤Dick(1986),大内さん(HUWV),山森(1986),冷奴さん(1969)。
冷奴さんとは、偶然、会うことができました。
柳澤Dickは、1999年に南極(第41次)の観測隊に参加しており、その時を含め7年間、冷奴さんの会社に所属していました。久しぶりの上司と部下の再会だったようです。
斎藤(1987)が最近現役を連れて山に行っている縁で、例会終了後に、若手(2003入部、6年目)の勝亦君と、4年目以下の現役全員(6名)も駆けつけてくれました。
写真左から、斎藤(1987),野沢(2),井村(1),勝亦(6),鹿島(1),田中バイエルン(3),田中省(2),小池ダイゴロー(2)。
前列は、柳澤Dick(1986)、大内さん(HUWV)、山森(1986)。
冷奴さんは残念ながら、現役勢と合流する前に帰宅されました。
先程の写真は、野沢君(2)の顔が半分切れているので、もう一枚アップ。こちらの写真は、井村君(1)の顔が切れかかっている。この写真に写っているのが、4年目以下の現役部員全員だそうです。
(計6名、4年目0名、3年目1名、2年目3名、1年目2名。)
6名とも、私(山森:1986入部)が現役時代にオギャーと生まれた人達でした。世代を超えて、交流を図ることができました。
それでは、冬山、春山と続きますが、みなさん安全に山行を楽しんで下さい。
私の方も、東京組で、恒例のスキー山行を地道に継続していきます。
記録は http://homepage2.nifty.com/yamamori/ を参照下さい。
(報告:山森聡)
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現役の報告・ 2008年12月4日 (木)
【年月日】2008年11月30日ー12月1日(2−0)
【メンバー】L:田中(3 AL:平塚(5 M:小池、田中、野沢(2
Nから三段山へ。快晴
<時間とルート>
吹上温泉(9:40)ナマコ尾根Co1320付近(11:30)=C1(6:00)OP尾根上(6:20)大砲(10:50~11:00)三段山(12:00~12:15)吹上温泉(13:30)
天気:1日目 雪、 2日目 快晴 無風
2日目OP尾根末端付近
スノーシューで行く。吹上温泉から夏道を行き、途中からナマコ尾根に乗る。ナマコ尾根上Co1320より上は木がないのでここでC1。ラッセルは足首からスネ。C1からはナマコ尾根をつめ、フリコ沢を渡ってOP尾根に乗る。
ギャップ
GAP手前でEPにかえる。Co1580付近のGAPは大沢側にAb.1p7m位。残置。逆Zはシュリンゲをつなげて垂らす。その後Pまで所々岩稜。一部微妙なところがあった。
えせナイフリッジ。
P先のえせナイフで練習のためザイルを出す。
後は大砲をアタックし、P,N,を経て三段山まで。後は吹上温泉まで。2人程トレースにだまされて遠回りした。
<パーティー>
2年班準備山行2回目。EPワーク、ザイルワーク、細いところできた。
吹上温泉(9:40)ナマコ尾根Co1320付近(11:30)=C1(6:00)OP尾根上(6:20)大砲(10:50~11:00)三段山(12:00~12:15)吹上温泉(13:30)
天気:1日目 雪、 2日目 快晴 無風
2日目OP尾根末端付近
スノーシューで行く。吹上温泉から夏道を行き、途中からナマコ尾根に乗る。ナマコ尾根上Co1320より上は木がないのでここでC1。ラッセルは足首からスネ。C1からはナマコ尾根をつめ、フリコ沢を渡ってOP尾根に乗る。
ギャップ
GAP手前でEPにかえる。Co1580付近のGAPは大沢側にAb.1p7m位。残置。逆Zはシュリンゲをつなげて垂らす。その後Pまで所々岩稜。一部微妙なところがあった。
えせナイフリッジ。
P先のえせナイフで練習のためザイルを出す。
後は大砲をアタックし、P,N,を経て三段山まで。後は吹上温泉まで。2人程トレースにだまされて遠回りした。
<パーティー>
2年班準備山行2回目。EPワーク、ザイルワーク、細いところできた。
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現役の報告・ 2008年12月4日 (木)
【年月日】2008年11月15−16日(2−0)
【メンバー】L:田中宏(3 M:田中 小池(2
半面山から芦別岳を望む。
[時間]新登山口 6:45→C1 9:15〜9:45 →半面山 10:30 →雲峰 11:15 →芦別12:30〜12:55 →13:40 →C1 14:00 /9:00 →新登山口 10:00
[ルート]雪のない夏道を行く。途中からスノーシュー。Co1114で今日の天気は持ちそうで、かつ明日の天気は悪くアタックは不可能だと見込み、Co1114から半面山までの時間を1時間として引き返しを13:00に決めて、荷物をデポしてアタック装備でアタック。雲峰の登りはササブッシュが顔を出し、雪崩は大丈夫。雲峰でピッケルに。雲峰と芦別の最低コルは細いがすぐ下に木が出ていた。芦別までの登りは急な所もブッシュが所々顔を出していて、雪崩は大丈夫そうだったので、細引きを出さずに急な斜面下まで行く。弱テを行うと、80センチに腰位の層があった。大丈夫だと判断し、アイゼンに履き替えて念のため一人ずつブッシュよりに急斜部分を通過。そのあとほんの少しtrvして夏道に出てピークへ。あとは来た道をC1まで。翌日は雨でC1からは走って下山。
[ルート]雪のない夏道を行く。途中からスノーシュー。Co1114で今日の天気は持ちそうで、かつ明日の天気は悪くアタックは不可能だと見込み、Co1114から半面山までの時間を1時間として引き返しを13:00に決めて、荷物をデポしてアタック装備でアタック。雲峰の登りはササブッシュが顔を出し、雪崩は大丈夫。雲峰でピッケルに。雲峰と芦別の最低コルは細いがすぐ下に木が出ていた。芦別までの登りは急な所もブッシュが所々顔を出していて、雪崩は大丈夫そうだったので、細引きを出さずに急な斜面下まで行く。弱テを行うと、80センチに腰位の層があった。大丈夫だと判断し、アイゼンに履き替えて念のため一人ずつブッシュよりに急斜部分を通過。そのあとほんの少しtrvして夏道に出てピークへ。あとは来た道をC1まで。翌日は雨でC1からは走って下山。
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現役の報告・ 2008年12月1日 (月)
【年月日】2008年11月15日(1−0)
【メンバー】L澤田(OB)AL平塚(5 M井村、鹿島(1
【メンバー】L澤田(OB)AL平塚(5 M井村、鹿島(1
<時間>
吹上温泉(6:50)→望岳台(8:10-20)→避難小屋跡・シーデポ(9:50)→十勝岳(12:20-30)→望岳台(14:30-15:00)→吹上温泉(16:30)
<ルート>
雪が少ないため、吹上温泉から林道経由で望岳台へ。望岳台へは白金温泉からの車がいっぱい。萎える。望岳台からは夏道上に雪上車のトレースがある。しばらくツボで行き、途中からスキーはく。小屋でシーデポ、つぼストックでCo1500まで。Co1500でEP。吹上温泉にテン場着の15:00に着くのは難しいが望岳台からは問題ないため、At.することにする。あとは特に問題なくピークまで。帰りは来た道。雪が少ないのでスキーで下る者、ツボで下る者様々。林道を吹上温泉まで行き、温泉近くで夏天泊まり。翌日ビーコン練をして下山。
<パーティ>1年班冬メイン準山2回目。アイゼンはけた、生活技術、ビーコン練できた。
吹上温泉(6:50)→望岳台(8:10-20)→避難小屋跡・シーデポ(9:50)→十勝岳(12:20-30)→望岳台(14:30-15:00)→吹上温泉(16:30)
<ルート>
雪が少ないため、吹上温泉から林道経由で望岳台へ。望岳台へは白金温泉からの車がいっぱい。萎える。望岳台からは夏道上に雪上車のトレースがある。しばらくツボで行き、途中からスキーはく。小屋でシーデポ、つぼストックでCo1500まで。Co1500でEP。吹上温泉にテン場着の15:00に着くのは難しいが望岳台からは問題ないため、At.することにする。あとは特に問題なくピークまで。帰りは来た道。雪が少ないのでスキーで下る者、ツボで下る者様々。林道を吹上温泉まで行き、温泉近くで夏天泊まり。翌日ビーコン練をして下山。
<パーティ>1年班冬メイン準山2回目。アイゼンはけた、生活技術、ビーコン練できた。
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現役の報告・ 2008年12月1日 (月)
【年月日】2008年11月8日(1−0)
【メンバー】L田中宏(3 AL田中省 小池 野沢(2 G平塚(OB
【メンバー】L田中宏(3 AL田中省 小池 野沢(2 G平塚(OB
<Time>
十勝岳温泉 (7:00)H直下スノーシューデポ(9:40〜10:00)H(10:15)H直下スノーシューデポ地点(10:35)十勝岳温泉(13:15)<Route>
下から視界200なく、新DZを行く。ラッセルすね、時々膝。所々わかりづらそうなところにデポ旗打つ。H直下でスノーシューデポ。H直下はハイマツ出てて雪崩心配なかった。Hでふられる風のため引き返すことにする。帰りでCo1480付近の沢型で2人はぐれるがすぐ戻る。後は問題なく温泉まで。
<Party>
冬メイン2年班準山1回目。悪天行動できた。
十勝岳温泉 (7:00)H直下スノーシューデポ(9:40〜10:00)H(10:15)H直下スノーシューデポ地点(10:35)十勝岳温泉(13:15)<Route>
下から視界200なく、新DZを行く。ラッセルすね、時々膝。所々わかりづらそうなところにデポ旗打つ。H直下でスノーシューデポ。H直下はハイマツ出てて雪崩心配なかった。Hでふられる風のため引き返すことにする。帰りでCo1480付近の沢型で2人はぐれるがすぐ戻る。後は問題なく温泉まで。
<Party>
冬メイン2年班準山1回目。悪天行動できた。
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