
八甲田山麓にてイグルー稽古会を催しました。やる気満々の参加者数名は前日入りして、独自イグルーを作って迎え撃つなど、向学心満々。お伝えする僕も感激しました。
これまで山中イグルー泊50泊(たぶんもっと)の米山が実用お手抜きイグルーの技術をみんなにご披露した。面々は、山岳同人たがじょの皆さん。青森で米山がお世話になっている青森県で最強勢力の山岳愛好家集団です。技術は真綿が酒を吸うように、伝授されました。
これまで何度かイグルーの製作法をあちこちに書いた
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2003121501.htmlが、読んだだけでやみつきになった人はあまりいない。イグルーを実践している人は、実地で作るのを見た人ばかり。やはり文面だけではわかりにくいようだ。特に三段目で内傾ぐぐぐっとさせるテクニックなどが。今後はもっとわかりやすい文章と図解で普及をはかりたい。
本日は前夜から泊まった人たち含め25人。昼過ぎまで合計25基のイグルーを構築した。一人で三つ作る人、あまり作らず飲酒でゴキゲンの人もあり。講習前と後の違いは所要時間。実用イグルーは一時間弱で作らなければならない。今日の雪質はくっつきやすく、大抵四〇分で二,三人用が仕上がった。

オサナイさんの作ったイグルーはこれまでに見たこともないほど美しいフォルムをしていた。僕が手抜きする三段目以上も緻密に作ったので、まるで札幌ドームのように美しい。こういうところには性格がテキメンに出る。オクヤさんは、単独で一人用イグルーを作る稽古に没頭し、三つも四つも一人で作っていた。これは命を救う緊急用だ。一人でもスコップとノコさえあれば疲労凍死する事は無い。僕の一人用シェルターイグルーは二〇分でできた。一度やってみせると勘のいいひとはすぐに身につける。
終えたら樹林帯の中はイグルー村と化していた。まるで世界遺産のイタリアの【
ここ】。
これでもうたがじょは冬テント要らず。

家に帰って、まだ日があったので、待っていたこども(四歳児)用に、自宅庭でもう一つ作った。これも二〇分。なかでお茶ケーキをいただいてままごとしてあそんだ。青森は八甲田が近くて本当に良い。

家
よろこぶ子供
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山の会裏ばなしー(29)
選挙の看板を失敬
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十六年二月に小生は懸案の薬師岳を目指して、前々年の極地法による大部隊を改めて軽快に四人で入山したが風雪が激しく敗退した。結局この山では僅かに厳冬期の北ノ俣と赤木岳の初登頂だけに止まった。
その翌年、三月に札幌から現れたのが昭和三十四年入部のT君、通称もTをリーダーとする大部隊で一年目から三年目までの通称OのW君、通称のないH君、S君、最年少ながら通称GのS君達だった。余り多いので会社のクラブや会館では賄いきれず、少々負担になったが神岡町の旅館を手配した。
人数が多いと話もはずみリーダーのT君はこの時着ていた本間敏彦君との知床半島縦走で、バナナのちらちらする破れズボンで岬に着き、沖を通る漁船に遭難者と間違われてチャッカリ便乗してウトロに戻ったり、黒部の上の廊下遡行の話などに沸いた。また、このパーティーには沢田義一君もいたことを彼の追悼会の席で父君から知らされた。これが縁で入手出来ずにいた唯一の部報六号を戴くことになった。この本にはペテガリの雪崩が記されているので義一君遭難の折りに林和夫先輩から寄贈されたものだったそうである。
さて、この頃が部員数が最大で、この世代の人達が現れたわけだが、それにはそれなりの裏話があった。
山岳部では山行の折には団体装備や特殊な個人装備は部の備品を借り出して使っていたが部員の急増で備品が極度に不足していたそうである。なかでもコルクマットは適当な代用品もなかった。コルクマットは冬山の装備で底付きテントを使う折にはシュラフの下に敷かねばならぬ必需品である。コルクの細い棒をキャンパス地で縫い付けて、巻寿司を作るスダレのようになっていて、肩から尻までの長さの物である。これが無ければ寒気が身に沁みるほか、撤収の折にはテントの底が凍りついて手に負えなくなってしまう。備品は不足しても他の物は代用品で何とか間に合わせても当時、コルクのような断熱材はどうにもならなかったそうである。
だが、窮余の一策はあるものだ。
その後、三十三年入部のW、通称D吉君が語るには選挙に使う看板を取ってきて使うのが一番よかったという。選挙になると候補者が顔写真などのポスターを張って電柱や壁などにぶら下げていたあれである。当時は候補者個人々々かが出していたので新聞紙半裁位のもの。ベニヤ板なので断熱性もあり、水も上がらず、しなやかで大きさもピッタリだったという。なんといってもキスリングに入れて背負うと、背中にピッタリくるというのである。
しかし、個人のポスターとはいえ、触っても選挙妨害の罪になることは明らか。みんなで盗れば怖くない、とはいえ、なんとも図太いものだ。
札幌の町にも人があふれ始めた時代だったのだが、まだ平穏な、ゆとりのある頃だったようである。検挙されたり臭い飯を食うはめになったという話は聞いたことがない。
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山の会裏ばなしー(28)
ズッペは方言か
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十五年二月に小生は再び薬師岳を狙ったが風説に阻まれて太郎兵衛平を抜けられずに北ノ俣岳の登頂にとどまった。その年の三月には、いよいよ来るものが来たという感じだった。三十二年入部のY君をリーダとして一年ずつ下のN,Sの三人が積雪期の飛騨側の西鎌尾根から槍ヶ岳を目指した。蒲田川右俣から入るので神岡を通る。このようなパーティーは小生の所にいっぱくするのが当然になっていたが、この時は娘が生まれて間もなく社宅は少々広くなっていたとはいえ装備もろともでは手狭だった。会社で接待に使うクラブが手頃だと思ったが、この時丁度、会社の洋画専門の銀嶺会館に宿泊設備を併設したところだったので、これを利用することにした。もちろん無料。
開設まもなくとあって板前さんは腕の見せどころとばかりに結構な接待をしたようである。夕食には澄まし汁が出たところで誰かがズッペと呟いてにやりとした。これには訳があったのだ。この頃もルームでは登山用具はもとより、歌や怪しげな造語までドイツ語の氾濫だったようである。汁はスープであれ何であれズッペといい、みそ汁までズッペと呼んでいた。
ところで大学は二年目の前半までは教養部でそれから各学部に進むことないなっていた。したがって、教養部では社会科の科目は必須で法学概論や社会学、人類学などがこれだった。人類学の講義のときだったらしいが、ある時教授
「北海道の方言を挙げてみよ」
といわれて、それぞれ幾つか挙げていった。その内少し途切れたら
「ズッペ」と答えた奴がいた。
振り返ってみたら、それは山岳部の奴だったというのである。
しかし、この話は山の会戦後只一人の詩人と呼ばれる二十九年入部のT君からの伝え聞きだったようである。
同年代に居た人達だがこんな話を何時までも伝えるとは恐ろしいものだと思った。
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山の会裏ばなしー(27)
帰りは札内川をボートで下る積もり
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十四年は神岡の事業所で五年目を向かえ数年前から薬師岳への冬山に熱中していた。社宅から荷物を全部背負ってスキーを使って峠を一つ越して北ノ俣岳への尾根から試みていた。一月には太郎兵衛平からの退却だった。この年の夏にはO君をリーダに、S君などの三人組が現れた。社宅は少し大きなところに移っていたので泊まってもらうのには不自由はなくなっていた。彼らは劔岳での合宿の後三パーティーに分かれ、薬師岳から双六岳を経て蒲田川に下ったA、B班八人の内の三人がわが家に現れたのだった。食後、山での話も尽きた頃
「最近の札内川はどうかね」
との問いに、出てきた話のうちの傑作が次の話である。これは二十八年入部のI君、通称の頭文字がZからの伝え聞きだそうだったが、詳細は後に彼が書いた佐伯さんへの追悼に名文が残っている。とにかく概要は次のようなものだった。昭和三十年にK先輩通称Gさんが日高の地質調査のために部員二人をアルバイトに雇うことにしたそうである。それに応募したのが前述のI君、しれに佐伯
富男先輩だった。佐伯さんは踏査後札内川を源流からゴムボートで一気に帯広まで下る魂胆で米軍放出の救命ボートを持ってきた。しかもこの旅のロケーションやって「興行収入は山分け」とまで吹き十六ミリカメラまで持ってきたそうである。調査は雨にも祟られたが、ひと苦労してコイボクから国境に出て沢へ降りゴムボート三隻を木の枝で繋いで流れに入れた。昼には帯広到着と思ったとたん、すぐに瀬に入って繋いで流れていたボートはバラバラ、そして先頭のI君は岸から垂れ下がって突き出した木の枝にルックもろとも引っ掛かってボートはサット流れいってしまったそうだ。中州に上がって干し物をしていると、後ろからは諦めた二人がボートを畳んでルックに入れて歩いて現れたという。
これは後で聞いた話だが、ボートで下るという着想は当時うけていたマリリンモンローの「還らざる河」に発していたそうで、残ったボートや重い岩石のサンプルを背負って中札内へトボトボ歩きながら誰かが口ずさんだモンローの歌う「ノーリターン」はノータリン、脳足りん、と聞こえたという。
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第64回OneDay里山Hike 鷹取山の報告
平成19年7月21日
参加者:坂野、滝沢、渡辺(ダン吉)、木村
頂上は狼煙台の跡だった(渡辺ダン吉氏撮影)
コース
JR中央線、藤野駅から和田行きのバスにて上沢井で下車。二キロ程なので徒歩でもよい。バス停付近には車も置ける。古い小さなコンクリート橋の上沢井橋を渡り左に廻り込むように舗装された農道を行くと山道になり踏跡になって頂上に続く一本道。狼煙台の跡が頂上で祠もある。あまり人の訪れない静かな所である。
下りは北に向う登山道がり、最近の案内図には記載されていて境川沿いの石楯尾神社―上野原バス路線に出る。
その日のこと
平成十九年七月二十一日。
藤野駅前では坂野、滝沢、渡辺の三人が待っていた。小生木村はホリデー快速は藤野駅は停車しないのに気づき後の鈍行に乗って少々遅刻。しかし渡辺ダン吉君の提案で一分待っていてくれたそうでこれでズボシ。滝沢君は体のメンテナンスが終わったので、登り残していた郷里の山、白砂山に登るための足馴らしに来たという。久々の対面でこのワンデーハイクの醍醐味というもの。
少し登ると小さな露頭あり、「これは?」と、滝沢君
「砂岩」と答えると、
「ラテン語で何という」ときた。山の会只一人の詩人は喧しい。
「スペイン語ではアレニスカなので、アレーナ○○ぐらいだろう」と答えて難を逃れる。頂上には狼煙台跡を示す表示があった。下りは、やや急だが道幅もあって、じきに車道に出る。
梅雨明けにはい未だだったが、降られることもない順調な一日だった。この日で「裏ばなし」は(24)になった。
所要時間 二時間半
正味歩行 二時間
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第63回OneDay里山Hike 御坂山の報告
平成19年5月26日
参加者:石本、石村夫人、木村
コース
極めて一般的なコースで山岳会やハイキングクラブが行く山なので道標もしっかりしているのでルートについての解説は不要であろう。富士急、河口湖駅からバスで終点の天下茶屋が登山口になる。東京支部の関東山地のルート集P.76には三ツ峠までのアクセスが記されていて、その先の終点が天下茶屋なので参考になる。
御坂峠は江戸と甲斐を結ぶ官道で経済、軍事の主要街道だったそうである。御坂峠から藤野木の下りは橡の木の老木などが残り、往古の景観を残している。
その日のこと
平成十九年五月二十六日。
集まったのは石本君と石村夫人の紅白一点ずつだけ。新緑に残雪の富士。絶好の日和だったが下界では運動会が多かったらしく、足を取られた模様である。
しかし、集まったのは中枢の人達でメンバーに異存はない。話題はなんと言っても、東京支部での海外登山計画の動きだった。すでに企画担当も決まったようでその一人、石本君の話を聞くことができた。先ずはカンジロバ山群、コンロン山脈を模索、第二回の会合日も決まったとやら、なんとも頼もしい。
「裏ばなし」は前回で小生の現役時代は終わったので赴任した飛騨でお話に入る。そのつなぎに、閑話ながら(23)を披露。
所要時間 三時間
正味歩行 二時間
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ピンピンに研いだアックスとクランポンを持って、谷川山麓から清野師範(1976入部)がやってきた。現役部員とOBアイスチームの合同合宿を層雲峡で行った。現役は目下、冬山経験含めてアイス経験が途絶状態なので、この度清野師範にアックスの研ぎ方から鍛え込んでもらった。旧石器時代ギャートルズのようなアックスも、磨けば2009年モデルに。勝亦、馬場の若手OBが冬メインに続いて現役相談役遊撃隊。しなやかな登りを見せた。
【年月日】2009年1月24,25日
【メンバ】現役:田中バイエルン(3)小池大五郎(2)鹿島(1)井村(1)/OB:清野(1976)米山(1984)勝亦(2003)馬場(HUSV)
【ルート】錦糸の滝、銀河の滝

初日、青森から夜汽車で着いた米山、前日ジェット機に乗ってきた清野師範と、6年目勝亦、HUSV8年目馬場が道央道を層雲峡へ。企画立案の斎藤は、数日前から疫病で寝込み、参加断念(泣)。現役と合流してまずは錦糸の滝へ。以前は右岸の国道から滝が見えたが、今はトンネルが走り、その旧国道をラッセルして取り付く。

トップロープを2,3仕掛けて、まずはお稽古。アックスの打ち込み方、姿勢、スクリューのねじ込み方、扱い方、上に向かうファイトなどを清野師範に吹き込まれる。旧石器アックスと清野仕上げアックスの違いなども体感。師範は裏山に水をひき、自家製アイス壁道場を作り、毎週欠かさず、沼田の仲間とともに氷と戦闘されているのである。アックスは改良に改良を加え、金属加工のお手並みも玄人はだし、家族はさぞや呆れて物も言えない事でしょう(笑)。

初日夜、合宿とは言いながら師範をテントに眠らすわけにもいかず、師範と米山は恐縮ながら宿坊の畳に寝る。例会をやるというのでテント泊の皆の衆も畳に上がり込み、明日の作戦を審議する。卓上のわずか二つのお茶菓子をじゃんけんで分け合う姿に昔を懐かしんだりした。全然変わってないぞ現役。20年ぶりにルームの例会に出たが、やはり居眠りしてしまった。私の場合、合宿の例会は睡魔との闘いであった。全然変わってないぞ俺。現役にニコルソン(やすり)を渡して「朝までに研いでおけよ」。研ぎ方は、昨年のライデン海岸の項参照。

翌朝、宿の玄関さきに山下君(1997入部)と白石君(2001入部)がきた。アイス修行に頻繁に来ているようで、きょうはブルーウルフの滝だとか。旭川の田戸岡君(1999入部)も来ているそうだ。テント村は知っている人がいて楽しそう。
石狩川本流を伊藤秀五郎先輩の時代を偲びながら渡渉。当時はダム無しで水轟々だったろう。みな、渡渉用ゴム長を持ってきているが、革靴+ロングスパッツで平気だった。水深25センチほど。まあ組み合わせによるだろうけど。帰りで試す価値はある。
銀河の滝で、下段の壁に二本トップロープを垂らして、鹿島(1)、井村(1)が登り込み稽古。バイエルン(3)や大五郎(2)がプリセットしたルートでトップ練習。氷はきょうもコチコチだ。米山はアバラコフの何たるかをこの日初めて馬場さんに教わる。そのおじさんの名前、昔ソ連のパミールキャンプで聞いたことがあるぞ。清野、米山、勝亦、馬場はそのまま上部へとコンテで進んで銀河を完登。あちらは右ルートこちらは中央ルートをとる。氷柱の裏側にスリングを回してビレーポイントをとることをトレチャコフと名付けたりする。昔、ロシアの登山家トレチャコフは、お金がなくてアイススクリューが買えなかったのでこの方法を見つけた・・・。という俗説もその時生まれた。

途中、師範がアックスを落っことした。吹きだまりに運よく落ちたのでロワダウンして探す。これがなかなか見つからず。落ちた場所を見ていたのに、新雪の探しものは見つからないものだ。人間じゃないから気長に二人で探してようやく発見。更に登り終えて懸垂したが、楽しくバカ話しながらロープ回収したら結び目つけたまま引っぱっちゃって、上でひっかかっちゃった。後続お隣パーティーにはずしてもらって反省。

ずいぶん遅れて下段の氷壁に戻ると、バイエルンも大五郎もトップをやっていた。格好もサマになっている。刺さって抜きやすいように刃先を整えておけば、無駄な力も使わず、指も冷たくならず、余裕の心でさっさと抜けられる。腕力の強くない馬場さんの優雅な打ち込みをマネていたら要領もわかってきた。今回はまったく筋肉痛無し。
総員押しなべて得たもの大きく充実の合宿になった。清野師範も、ヤングな面々と登るのは久しぶりで、何度も反芻し喜んでおられた。今どきどこの山も中高年ばかり(オレも含めて)だ。山に向かう紅顔健児たちの、肌は赤銅さながらに、真摯で円らでひたむきで真っ直ぐな瞳と目があうと、それだけで幸福感がみなぎるよ。

「勝亦君!春は鹿島槍北壁で待ってるよ!」と、握手の師範を千歳に送り、狸小路6丁目付近の九州ラーメンを替え玉して米山は夜汽車を待つ間、日曜なのに奇跡的に空いていたつるでBNを飲んで大内さんにご報告。夜の札幌を千鳥足で駅まで。
今回参加できなかった現役の皆様、来春入部予定の皆様。また来年もやりましょう。
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山の会裏ばなしー(26)
日本のチベット、川の曲がり目
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
神岡町に赴任して三年目に小生は社宅に入っていた。その夏早々にC、N、S君の三人が現れた。Wがリーダーで通称はC、Nは通称もNでシンマルのSには、あだ名がなかったという。驚いたのはその後現れた同輩のY君通称Pが来た時だったらしい。その時は少しましな社宅に移っていて玄関口は風雪よけの雪廊下になっていた。夕方の薄暗がりから
「きむらくんいますか」
との声に、薄暗い入口に目をやると、どこかの天体からでも来たような異星人的な風体が立っていたというのである。
それはさて置き、この時来た三人は昭和三十一年度の夏山として穂高に入った九人のメンバーの片割れだった。滝谷、北尾根、ザイテングラードなどを積極的な行動で、岩登りも堪能してきた様子だった。夕食も終えて山の話も一段落したところでN君が突然後輩のS君に向って
「お前、何処で採れたんだ」と聞いた。S君は
「生まれた所ですか」と問い返して
「奥さん、日本地図ありませんか」と言って地図をもってこさせると、福島県に入り込んだ阿賀野川の最奥の上流辺りを指して
「この川の曲がり目です」と。
すかさずN君は「日本のチベットから来たのか」と。
この地、飛騨も当時は日本のチベットと言われていたが、わが家では今でもS君は「川の曲がり目さん」で通っている。
その後の話でこの「川の曲がり目」君は、北大の受験で上京か来道した折りに初めて汽車を見、海も見たということだが、これは例による針小棒大化かもしれない。しかし、小生が学部へ移行の折にはドサンコの同級生で、ショッパイ川と呼ばれていた津軽海峡を渡ったことのある人は皆無に近かったのは事実である。
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山の会裏ばなしー(25)
消えたネコダ
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入社して半年の実習を終えると、寮の大部屋での生活から個室へと移った。その寮を早々に訪ねて来たのが四年後輩で通称もNのN君だった。涸沢をベースにして奥又白で岩登りをやっての帰りに冬山の寄付集めに来たという。彼は後にこの松高ルートの積雪期初登攀を成し遂げているが、この時はまあ良かろうということで募金に応じ、ついでに札幌への用件を一つ頼んだ。
それは加納一郎大先輩に頼まれていたネコダというものを届けて貰うことだった。ネコダとは飛騨地方の農家で使われていた筵で作った民芸的な実用品で、筵で袋のような物を作り縄の負い紐を付けてサブザックのように背負う牧歌的な民具である。加納先輩にお渡しするには深い訳があった。
前年の夏山の遭難で鈴木康平君を亡くして教養部の部長教授から山岳部の存亡にかかわる非難を受け、その経緯と対策について全学に分かる掲示を出すよう指示を受けた。その文案の推敲をお願いしたのが加納大先輩だったのである。そんな経緯から赴任前にご挨拶に伺った。すると先輩は
「飛騨にはネコダというものがある。一つ欲しいのだが」
と仰しゃったのだった。流石の博識に恐縮しつつ赴任早々に手に入れ、正月の帰省の折に年始を兼ねてお届けしょうと思っていたのである。丁度いい機会、早いに越したことはないとN君にお届けを頼んだのである。
ところがである、彼は汽車の網棚に載せてひと眠りしている間に、自分の荷物もろとも持って行かれてしまったそうである。
正月になって年始のご挨拶とシャレこんで大先輩を訪問すると、加納さんは開口一番「あのネコダはNさんが持って帰る途中で盗まれちゃったそうだ」と
奥さんともども大笑い。気難しいこの大先輩の笑いを見たのはこの時の一度限りだったような気がする。
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山の会裏ばなしー(24)
勿体ない焚き火
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年秋には連休があった。新入社員なので未だ実習員の分際だったがこの好機は逃せなかった。
せっかく飛騨に住んだのだからアルプスの飛騨側のバリエーションを拓きたい、山岳会に入っていた二人の同僚と先ずは黒部五郎岳や双六岳方面の沢の偵察を行うことにした。
地図によると金木戸川は相当のハコの連続だが、双六川と高原川が合流する浅井田の集落近くから金木戸川のハコの上のテラスに森林軌道が残っていた。途中迄は軌道に便乗し、撤去された軌道跡は中ノ俣川と金木戸川の合流を超えて広川原まで残っていた。それから沢歩きでさらに打込谷をかなり遡行して、樅沢岳は夏なら尾根伝いに登れそうだし黒部五郎から南に伸びる尾根は冬山の対象になりそうなことを見付けてから中ノ俣川の合流点付近まで戻って古い飯場の跡らしい所にキャンプした。裏話はここからである。
先ずは人跡もまばらなこの沢で日高でやっていたような大きな焚火をした。食事も済ませて駄べっているうちに、連れの二人は本州人なので最近の北アルプスのなどの事情を知っていた。この頃はもう立木を切り倒す焚火など御法度という。いいだけ焚火を楽しんでからそんなことを言い出し、そのうち話も途切れてしまった。その時、古い部報で見た昭和五年入部の井田清先輩の話を思い出して話をつないだ。その当時、日高山脈の夏山にはフガイド兼人夫として山に知識のあるアイヌの人を雇うパーティーが多かった。話はこの井田先輩が、日高を闊歩していたアイヌの人、水本文太郎爺さんを連れてトッタベツ川に入った時のことで、以下は先輩の文である。
戸蔦別川は雨で底深い音をたてていた。(中略)
夜になると谷川の流れは黒鉛のように見えてその暗さは気味悪く身に沁みわたってきた。私たちは焚火の赤い色を恋いしながら誰も皆んな湿った谷間の気配に肩をすぼめていた。赤い焔の間にいると、その夜の闇を振り向くのさえ怖ろしいほど深かった。二三間先の川辺に水を汲みいくのも体中が何となくぞっとした。(中略)
仕方なしに赤い焔を無暗と高く燃え上がらせる事が何か小さな安心を私達に贈って呉れる唯一つのことのように思われた。
その様に虚勢を張った焚火を水本の爺さんは「もたいない」と言って嫌った。(中略)水本の爺さんは、その中で神様のようにニコニコしていた。その笑いも赤子の様に明るかった。
「じいさん何処かで大きな雪崩の出たのを見たことがあるかい」
「ある」
「雪のかたまりはどんなだった」
「でっかかった」
「氷のように固かったかい」
「それはかたかったさ」
「じいさんは何処かに岩のでかい山はないかね」
「ある」
「この頃はね、靴の裏にくぎをつけたり、爪の様なものをつけて岩だの雪崩のある山を皆んな登りたがっているんだよ」
爺さんは恥ずかしそうに笑い乍ら二人の若者を見返っただけで何とも言わない。
「そいつは馬鹿だ」と突然その一人が言う。
爺さんは困惑そうにし乍それもそうだという顔付きで笑う。(中略)
(後略)
さて、我々が金木戸谷に入ったのは昭和二十九年で「も早戦後ではない」と言われ始めた頃である。北アルプスにも真新しい登山服、靴で時間を競って登る人が増えていた。
登山具も工夫するより買ったものといった風潮。そこで四十年も前に燃え過ぎる焚火すら勿体ないと芯から感じていた、あの爺さんを忍んだのだった。しかしこの時、連れの二人には、この話も現役時代そのままの古典スタイルだった小生の詭弁としか映らなかったに違いない。
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