OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
●2006年10月9日(月・祝) (1ー0)
【ルート】
東赤岩/ジェードル(1p)
中赤岩/リス奥直上(1p)、リス奥左カンテ(1p)、リス(1p) 計4p
【メンバ】
L:斎藤清克(87入部)、M:山森聡(86入部)、清原実(86入部)、銭谷竜一(90入部)
【行程】
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】
米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。
10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。
北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。
昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。
博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。
藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。
結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。
翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。
東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。
ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)
中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。
リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。
リスの上でジッヘルする銭谷。
リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。
朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】
米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。
10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。
北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。
昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。
博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。
藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。
結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。
翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。
東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。
ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)
中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。
リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。
リスの上でジッヘルする銭谷。
リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。
朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
- コメント (2)
OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)
●2006年9月23日(土) (1ー0)
【ルート】
桂沢林道笊森登山口→(林道)→産女橋→(産女川遡行)→夏道Co1300m付近→(夏道)→桂沢林道笊森登山口
【メンバ】
L:銭谷竜一(90入部)、M:山森聡(86入部)
【行程】
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。
金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。
入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。
その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。
ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。
Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。
美しいナメや釜が続く。
写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。
腰まで水につかって、釜を通過する。
源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。
栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。
最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。
銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。
金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。
入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。
その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。
ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。
Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。
美しいナメや釜が続く。
写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。
腰まで水につかって、釜を通過する。
源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。
栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。
最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。
銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
- コメント (1)
部報解説・ 2006年10月16日 (月)
昔の部報紹介の不定期連載です。さらっと読んで短評のつもりだったのですが、やはりとてもおもしろいのでさらっとは読めませんでした。地形図片手に80年前の記録を読むのはとてもおもしろいです。2号は記録も多いので、今回と次回、2度に渡って紹介します。
北大山岳部部報2号(1929年)
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火
●知床半島の山 原忠平
部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。
・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。
● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助
1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。
1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。
● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一
1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。
● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸
1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。
● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩
1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。
● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎
1929年7月、16日間、3人+人夫1人
現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。
● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎
林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。
● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎
当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。
油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。
● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己
瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)
の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。
石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」
以下、次回で紹介します。
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報2号(1929)後編に続く】
- コメント (0)
記事・消息・ 2006年10月8日 (日)
DICK(86入部)が、とうとう結婚しました。オングル島、昭和基地の沢柿さまはじめ、全世界の遠隔地の諸兄に詳細を報告いたします。(米山)
お相手は職場の半径5mにいる部下の陽子さんです。出会って3年、交際1年、入籍ほぼ1ヶ月で、ふたりはまだケンカしたことがありません。年代はほぼ同じくらい(詳しく聞いていません)、身長差は17センチ。実家は埼玉県です。趣味は自転車こぎで、道内あちこち遠出をしています。新婚旅行は先月道東、道北旅行。陽子さんの友達にはジム仲間が多く、頑健な体を維持しています。
台風並みの低気圧が北海道付近に来ていましたがなぜか欠航も無く、大阪、東京、仙台、酒田、函館、室蘭からも集まりました。宴会は凝った催しなど全く無しでしたが、ススキノ→つると4時間半続き、きょうはヘルベチアで二次会の予定です。予定していた結婚記念沢登りは、悪天のため断念しました。二次会にはキンドーさん、スエさんも来てくれました。
おめでとう。
- コメント (2)
部報解説・ 2006年9月23日 (土)
部報14号の発行が間近になったので、これまでの部報を読み返しています。登り覚えのあるルートも、時代が違うと驚くばかり。歴代部報の概略とさわり、短評を不定期連載で紹介します。
部報1号を読むには、北大山岳館の書庫へ出向いてください。僕は何年も前に86年頃出た復刻版(1〜7号揃い)を古書店で買いました。伊藤秀五郎氏の文章に限っては、中公文庫の「北の山」に何編かあったと思いましたが、今は絶版かと思います。坂本直行氏のトムラウシ行の文章を学生の時に読み、大正時代の大学生の国語力に憧れたりしました。80年前の青春記録集です。
ちなみに北大山岳部発会式は1926年11月10日午後7時とあり、今年でまもなくちょうど80周年です。
部報1号(1928年)
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
【総評】
山岳部の出来た1926年暮れからから1年5ヶ月後に発行された。山岳部前史としての10数年のスキー部時代も俯瞰できる。編集長は伊藤秀五郎氏。
スキーによる積雪期初登山を大雪、夕張、札幌近郊で行い、いよいよ奥深い石狩岳の冬期初登が大きな目標とされた。夏期は稜線のヤブこぎ山行などが十勝や大雪などで計画されていて驚く。
しかし興味深いのは阿寒湖、洞爺湖、狩場山周辺のアプローチの悪さ、原始林の深さである。今ならば自動車道路で全く味気ない。
千島のアライト登頂記録と当時の記述も、今となっては貴重なものである。
以下、各章のタイトルとその概略。
●冬の十勝岳 和辻廣樹
1926年山岳部発足前後の初登山行に基づいた、十勝連峰の冬期登山案内。十勝岳、上ホロ、美瑛岳、富良野岳などの冬期初登頂のいきさつやルートなどを解説している。現在も十勝連峰で使われている、D,Z,H,O,P,Nなどの地点名がAから入っている地図が付いている。ちなみに和辻氏は部章の原案を作図した。
●冬の石狩岳 伊藤秀五郎、和辻廣樹
1928年2月上旬、層雲峡から石狩川を遡り、前石狩沢から左岸尾根にのり、厳冬期の石狩岳初登頂をした約10日の山行記録。夏に簡単な小屋を途中に二つ作っておいた。当時の石狩川源流はもちろん無人地帯。層雲峡大箱の凍結を狙って通過した。上川から双雲別温泉(層雲峡)まで馬橇。奥深い石狩川の源流をたどる厳冬期石狩岳アタックは長年のテーマだったようで、部報1号を飾る山行記録。
●美生岳登山記録 須藤宣之助
1928年3月下旬ピパイロ川支流トムラウシ川(現ニタナイ川)から伏見岳北コル経由でピパイロ岳アタックの記録。2名で6日間
●三月の武利岳 板橋卓
1928年3月中旬五人+人夫二人でイトンムカ沢からアタックの記録。大箱(層雲峡の核心部)の氷が溶けてしまっているので、ニセイチャロマップ川からの登路を諦めた、という時代。北見ルベシベから馬橇でアプローチ。
●斜里岳 原忠平
武利のあと、メンバー2名で斜里に向かった。斜里の駅から徒歩で原野を歩いて山麓に向かう。飽かず斜里を眺めるアプローチだ。近づく斜里を眺めながらルートを練り、越川の駅逓より北東尾根からアタック。「海別岳」の読みを土地の少年に聞いて「ウナベツ」だったと知る下りがある。
●五月の石狩岳 野中保次郎
1926年5月中旬、層雲別温泉(層雲峡)から黒岳、忠別岳、ヌタップヤンベツ沢、石狩沢から石狩岳を往復した記録。上記の厳冬期初登の前に残雪期、稜線づたいに成された。谷の中は雪解け水で通れず、天気の安定した季節に高地を通って忠別岳まで近づいた。奥深い石狩岳である。9日間。
●三月のトムラウシ山 坂本直行
1927年.坂本直行氏、学生時代最後の山行。美瑛から俵真布(タロマップ)へ馬橇。ここの農家から辺別川左岸沿い硫黄岳経由でアタック。「ひたひたと足もとに寄する大小幾多の山脈。黒きタンネもてうづむる谷々・・・。」若き坂本氏の文章は身に覚えのある読者の心を揺らす。
●春の阿寒行 島村光太郎
1927年.3月下旬、美幌から網走線で北見相生まで鉄路(現在廃線)。そのあと釧北峠を越えて尻駒別の谷に入り、阿寒湖温泉から雌阿寒と雄阿寒をアタック。徒歩で峠越えをしてきたのに温泉小屋にはご主人がいる。「湖畔のアイヌ小屋」、「数日前に来たグブラー氏(ヘルベチアヒュッテの設計者)の足跡が俺等の二倍ある」などの記述あり。
●北海道スキー登山の発達 伊藤秀五郎
1911年、北大にスキーが伝えられてから、道内の山が冬季に登られていく歴史を俯瞰できる小文。大正年間に近郊、ニセコ・羊蹄山、芦別と、冬期初登頂の記録が並び、大正末期からこの部報1号にかけての時代に、中央高地や日高など、人里遠く、高い山々の厳冬期初登が成されていく。いわば北大山岳部前史の、スキー部、旅行部時代の冬期北海道山行記録の総集編である。
●狩場山 伊藤秀五郎
1928年3月下旬、伊藤秀五郎氏の単独行。寿都から千走まで馬橇。賀老から東狩場山南東尾根をアタック。狩場山は南東尾根を予定していたが時間切れで引き返す。この時代、極端に交通が不便。賀老高地の集落が雪で埋まっていて雪原になっていた様など記述有り。寿都への帰りは母衣ノ月山越えで帰っている。
●冬のニセイカウシュッペ山 原忠平
ニセイカウシュペの登山。途中南面の岩峰群に目を奪われる。「ギプフェルグリュック(山頂の感慨?)をさほど感じなかった」など、ドイツ語の借用語多し。外来語で気取っている感もあるが、当時の山好きはドイツ語の文献を通読していたようで、日本語では言いようのない概念などもあったと思われる。「シュタイクアイゼン」と書く人と、「クランポン」と書く人と二通りあっておもしろい。
●太陽・雪・スキー 伊藤秀五郎
伊藤による山スキー随想集。1923年(大正十二年)、伊藤が新人時代のニセコ連山三月の縦走、雄冬岳から増毛全山を暑寒別岳まで縦走する五月、明けて正月、狩太から羊蹄山麓の原野をスキーで歩き、洞爺湖までの記録。湖畔では数年前に切り払われた巨大な切り株を見て、失われた原始林に思いを馳せる。そのまま船で幌萌、滑って虻田、船で室蘭、連絡船で青森へ行き岩木山登頂。当時、冬期は人の通わない北見峠の駅逓の老夫婦を山スキーで訪ね、チトカニウシ南西尾根をアタックして、粉雪のスロープを滑り降りている。
●北千島の印象 伊藤秀五郎
1926年6月、伊藤氏が小森五作氏と共に北千島のシュムシュ、アライト、パラムシルへの調査船に便乗して見聞した紀行。函館を出て6日目にシュムシュ島に上陸。ほぼ2ヶ月、ほぼ無人のアライト島に小屋を作り、鱈を釣ったり、エトピリカなど野鳥を撃ったりして過ごした。ボートで島を2周し、植物や虫を採集した。トドの群れも観察に出かけている。
7月15日、千島最高峰のアライトに登頂している。登路は南東のルンゼ。山麓は見たことのない広さのお花畑。1500m以上は雪。
●三国山より石狩岳へ 山口健児
1927年7月、北海道三国を分ける、最も高い山脈を稜線づたいに行こうという計画。稜線のヤブはやはり歯が立たず、ユニ石狩沢に一度おりて、石狩岳を沢からアタックした。
●十勝岳より大雪山へ 徳永芳雄
なんと7月に十勝岳からトムラウシ経由黒岳までの縦走記録。予想に違わず、スマヌプリあたりでヤブこぎ地獄に。2週間の山行。5人+人夫1人
●漁岳とオコタンペ湖 河合克己
定山渓からまだダムのない豊平川を遡る10月。前年、この付近でタコ部屋(開拓の捨て駒にされた強制労働)脱走者と会った話もある。これは坂本直行氏の何か別の記録で読んだ覚えがある。「造材小屋で焚き火にあたっていると遠くに斧の響きが聞こえる」時代である。
オコタンペ湖から支笏湖に注ぐオコタンペ沢が函滝の連続で緊張する。その河口からは気の良い漁師の船をヒッチして丸駒温泉へ。そして千歳川河口まで2時間の船。ここからは王子製紙の軽便鉄道をヒッチして苫小牧へ。今とは全然違う原始の支笏湖周辺である。うらやましい。
●小さな岩登り 井田清
おそらく最古の赤岩文献。岩やルートの名は現代通っている名前は使われていない。おそらく西壁や東の岩峰の登攀を書いている。心情や、観念的な記述が多いが、当時の赤岩峠までのアプローチなど、周辺の様子は詳しく書かれていておもしろい。
●若き登山家の一小言 伊藤秀五郎
くだらない遭難と、登山をするなら避けられない危険とを混同する、世間の登山に無理解な人はあまりに冷笑的ではあるまいか?という、現代と全く変わらない社会状況にたいする考察。
友人大島亮吉の「アラインゲーエン(単独行のこと)に於いてこそ、自分は山登りの根本のものを感じる」に対する考察。
●旅・歩み・いこい 井田清
山と旅を巡る詩的な叙情文。
●山岳部の誕生 伊藤秀五郎
大正2年(1913)に出来たスキー部と大正9年(1920)にできた恵迪寮旅行部を両親に出来た山岳部の生い立ちを紹介している。スキー部はもとスキー登山をする部であり、旅行部は夏期の登山をする部だったが、どちらもメンバーは同じだった。大正9年(1920)あたりから部内でジャンプなどの競技スキーが盛んになり、やがてもとからの山スキー派が独立して山岳部を作るに至った。「最初から名前が山岳部だったなら、あとからスキー部が出来たはずである」という次第。山岳部誕生以前の時代に活躍し、発行直前に遭難死した板倉勝宣氏の功績や当時の人のつながりを詳しく述べている。
注・・スキー部の創立は公式には大正元年(1912年)。「北海道大学スキー部創立100周年記念史」 記念史編集委員会 平成24年6月2日発行による。1912年は7月30日に明治が大正にかわり、スキー部創設はその前後にあたる。文武会会報第67号(大正元年12月20日発行)には大正元年9月21日の委員会で正式決定された、とあるため。
年報(1926.11-1928.3)
写真11点、スケッチ4点(坂本直行)、地図3点
- コメント (0)
OBの山行記録・ 2006年9月4日 (月)
登山電車とモンブランの支尾根
夏休み、モンブランに登ってきました。
● モンブラン(4810m)
【ルート】
グーテ小屋経由・北西尾根
【日程】
2006.8.30〜9.1
【メンバ】
伊藤、下村、米山、セルジュ、ファビアン
クリス、エリザベス(二人はテトルースまで)
【行程】
8月30日・霧のち晴れ
レ・ウーシュ1000m→ベルビュ1800m(リフト終点・11:00)→ニデーグル2400m
(登山鉄道終点・11:20)→テトルース小屋3167m(14:40)
8月31日・晴れ、風あり
テトルース小屋(8:15)→グーテ小屋3817m(10:40)
9月1日・無風、快晴
グーテ小屋(2:40)→山頂(6:45-7:00)→グーテ小屋(8:30-9:30)→テトルース小屋(11:00)→ニデーグル(12:50)→登山電車で下山
モレーンから見上げたグーテ小屋下の壁
名古屋の原真さん(1956年入部)に誘われて、モンブランパーティーに入れてもらった。メンバーは原さんの知り合いで他に2名、当初もう少しいたのでガイドは3人。ところが原さんが風邪をひいてしまい、麓でカメ、マー(僕の妻娘)と留守番をすることになってしまった。原夫人のエリザベスさんが最初の小屋テトルースまで見送りで登りに来てくれた。ガイドは英語が出来るとはいえ、日本人と同じく、進んで英語を話すわけではない。エリザベスさんがいろいろ手配してくれたので、いろいろなことがうまくいった。
グーテ小屋への岩稜を登る
【ルートについて】
ルート全体は4月の北アルプス風だ。一番急な雪、岩ミックスの両小屋間は槍、穂高の一般ルートを標高差600mに伸ばしたという感じでワイヤーロープが整備されている。テトルース小屋を出てすぐ、急斜面の基部で落石の多いクロワールのトラバース50mほどがある。ここのためにヘルメットがいる。グーテ小屋の上は多少クレバスの危険のある雪の尾根だが、遠見尾根のような感じだ。しかし山頂直下の20分ほどは、幅1m足らずの雪稜で、利尻の南峰、北峰間くらいの爽快感があり、良い気分で山頂に行ける。グーテ小屋より上は視界の無い時は相当厳しい。バロー避難小屋(4362m)の下の広大なコルには電信柱みたいな木のポールが何百メートルおきかに立っていたが、蔵王や乗鞍岳みたいなものだ。
ルート自体はルームの2年班で行けるが、ここの天気予報をいかにキャッチするかが大問題だ。小屋での情報は全てフランス語だ。今年は、僕らの登った三日間より前は、全然ダメな天気だったそうだ。ハズレ年の中の幸運だった。小屋のまわりに天場指定地があり、20張りほど張ってあった。グーテの上ならイグルーはどこでもできる。携帯電話はどこも通じるようだった。
【ガイドとの山行】
フランスガイドとの山行は初めてだ。今回は雪山初級者もいたし、天気が三日間保証付きだったので、ゆっくり進めた。ガイドはテトルースから上は全て短めのコンテニュアスでロープを繋ぐ。こんな簡単なルートで繋がれるのは何だか信用されていないような気がして最初は抵抗があったが、ガイドと行くとはそういうもので、アルプスではこれが普通らしい。ロープは問題箇所だけで繋ぐというのが日本のセンスだが、クレバスのあるアルプスでは、つなぎ続けるという技術が有ることを知った。実際、氷河のない日本ではコンテの経験など無いに等しいから、これは勉強になった。以前本多勝一がやはりコンテを嫌がってガイドともめた話を読んだ覚えがある。
全体に、僕にはガイド無しでも行けたルートだが、ガイドの仕事振りをよく知ることが出来た。エリザベスさんがウェブと電話で探してくれたガイドで、よい仕事ぶりだったと思う。英語は出来ると言うことだったが、そこいらの日本人くらいに出来るという意味で、長い文になるとそうでもない。しかし、他のルートやこの辺の事情など、根掘り葉掘り聞き倒した。一人一日700ユーロで、2人まで見る。割れば一日五万円の計算。高いけど、安いと思う人には安い。
フランスには国家資格の厳しいガイド免許があり、みっちり三年間の国立登山学校がある。会員60万人の誰でも入れるフランス山岳会があり、その会費で運営される資金で山小屋も遭難救助も全て運営される。登山者による登山者のための組織が公平に簡潔に整備されていて、日本とは大違いだ。既得権益や特権意識や排他主義のため誰も音頭をとらず、公共の登山教育の欠如で混乱する日本の様子を改めて思う。ああ、人は外を見聞しなければならない。
【小屋など】
モンブランはヨーロッパ人にとっては富士山みたいなもので、いろんな人が登りに来る。ガイド無しも7割くらいはいる。グーテ小屋は一ヶ月前から予約を入れないとベッドでは眠れない。アポ無しの人は床や食堂で寝ていた。午前二時、グーテ小屋の朝飯時間だが、食堂は暗闇の中座ったまま夜を過ごした人で一杯。パンとお茶の朝飯を受け取って、彼らにどいてもらう時が一番ガイドを頼りに感じた時だった。130人の定員にたぶん200人くらい泊まっていた。でも日本と違い、若者が多い。健全だと思う。素人風ながら、一生懸命登っていた。
夜明け前雪稜を登る
【アタックは早朝】
夜が明けて明るくなる7時前にちょうど山頂につく様にグーテ小屋を真っ暗な中出る。満点の星、山頂の上にオリオン座、そこに向かって人々のヘッドランプの列が伸びている。シャモニーはもちろん、ジュネーブの明かりが見える。氷河地形が作る広く深い谷を見下ろす風景は、日本ではあり得ない独特の高度感だ。山頂ではマッターホルンの後ろから日が昇った。齢63歳の伊藤さんはとっても嬉しそう、下村さんもこんな経験はこれまで無かったと話していた。二人とも抜群の体力で高所の影響も全く無く、高度差2000mをすいすい下山した。ガイドも完璧な仕事が出来たと満足そうだった。レ・ウーシェにもどると、マーがハイジのように芝生を駈けてきて、頬ずりしてくれた。嬉しいネ。
山頂の日の出はマッターホルンから。
【アルプスとモンブラン】
ジュネーブで買った5万分の一地形図はとっても美しい。小屋で広げてみていたのだが、他の人で地図を見ている人を一人も見かけなかった。ル・ドゥリュ、フレネイ、プトレイ、エグイ・ヴェルト、名前は知っている。昔読んだボナッティやテレイの山行記録に覚えがあるからだ。ああ、こんな所にあったのか。アルプスの風景は山好きな日本人にとっては憬れの原風景だ。小学生のとき宮崎駿のハイジをテレビで見てジンジンした身には「おじいさ〜ん、わたし、帰ってきたのよー」と叫びたい気分だ。どうもあれが僕の山人生の出発点ではないかと思っている。
ジュネーブのレマン湖ヨットハーバーからモンブラン
位置関係では、モンブランを白馬岳あたりにたとえると、ジュネーブが松本、シャモニーが大町、レ・ウーシュが白馬村って感じだろうか。ジュネーブにもどると、モンブランがレマン湖越しに見える。麓から見上げたモンブランは白いまんじゅうみたいな山だったが、ここまで離れると山頂部分はきれいな三角になっていて端正だ。常念やカムエクくらい格好が良かった。ジュネーブのメグさんの家のテラスからも見える。サマータイムの遅い日没まで山を眺めて、日が暮れたころ野菜煮込みとチーズと、葡萄酒で祝杯を飲んだ。
- コメント (2)
OBの山行記録・ 2006年8月15日 (火)
あの手この手で突破する(初日)
【年月日】
2006年8月12,13,14日
【ルート】
日高山脈・ヌピナイ川左股(クマの沢)→ピリカヌプリ→右股
【メンバー】
斉藤清克(87年入部),梶川耕司(88年入部)、米山悟(84年入部)、澤田卓郎(3年目)、平塚雄太(3年目)
【行 程】
8月12日ヌピナイ川林道終点発(11:30)→標高570m二股(14:00)→標高665m三股(15:50)C1
8月13日C1(5:20)→山頂(15:40-16:15)→ヌピナイ川右股上二股C2(17:50)
8月14日C2(6:50)→ヌピナイ川左右二股(11:00)→林道終点
花崗岩の岩盤の美しさで名高い右股に比べ、ヌピナイ左股・ピリカ南東面直登沢は山頂まで息もつかせぬ滝滝滝の直登沢だ。北西面、南西面と併せ、これだけ多くの実のある直登沢を持つのはピリカならでは。現役学生二人を連れての日高直登沢シリーズ第2弾。
【記 録】
(初日・晴れのち曇りのち晴れ)
ヌピナイ林道は二股よりも先まで伸びていた。日高らしい広い河原を抜けると、早くも函やプールが始まった。標高570まではあっという間に着いたが、ここから函付きの小滝が連続、始めの二つは小さく捲いてあとは中。泳ぎ、へつり、水没しながら進む。100m近い雪渓も塞いでいた。
天場は標高665m三股の中股(直登する二本の沢の左股)の脇。薪が多く、焚き火で尻を乾かす。満点の星。入渓のとき二人パーティーがいたが、少し下で泊まったようだ。塩ホルモンとバーボンとカレー雑炊と葉巻。
C1下の函
(二日目・晴れ後曇り後晴れ)
直登左股を行く。いきなり三段の釜付き滝。登ったり飛び込んだりして越す最中、滝壺に投げ落としたザックを取り損ね、二段下まで流してしまう一幕有り。南東面沢だからすぐに朝日を浴びる。標高760二股あたりは雪べったりで、右股にはいってすぐ崩壊していて右岸を捲く。早めに降りて再び雪渓に乗るが、標高780m屈曲点の大滝の所でこの雪渓がまたキレている。一度谷底へ降り、右のルンゼを詰めて側壁をザイル1ピッチ出して登り、草付きをトラバース、斜め懸垂2回で元の大滝の上に出る。手間は掛かるが、大高捲きはしない。
標高800前後の連瀑帯のひとつ。
ぎりぎりロープは出さずに我慢のクラスの小滝を無数に超える。標高930屈曲点の60mの大きな滝手前は雪渓がメタメタになっている。左岸のツルツル壁をトラバースして、最後はハーケンをピンに沢底まで懸垂。60m滝は右岸を行く。
雪渓をこなし、標高930屈曲点の60mの大きな滝に向かう
60m滝上部。微妙だがノーザイル。
標高1050m付近の雪渓は安定していたが、降りるところが無く唯一3mほどのギャップの所で、バイルを雪に埋め込んで小さく懸垂して降りる。最後の一人はダブルアックスでぶら下がり、肩の上に着地する。ここからは山頂に直登する右の沢を行く。いつまでも油断のならない小滝がばんばん連続する。もう水も消えかけたと思う頃、最後に20mほどのでかい滝が出てきてたまげる。最後のヤブはまあまあのクラス。
ピリカ山頂。ガスが離れて姿を見せ始めたソエマツ
しかし懐かしのピリカ山頂は良いピークだ。適度に狭く、四方に切れ落ちている。たいしてはまっていないのにたっぷり10時間かかった。時間読み通りだ。あいにくの天気でもう降りようかと思った頃、稜線のガスがどんどん飛んでいき、十勝平野が見え、ソエマツが見え、主稜線が姿を見せた。みんな喜ぶ。
ピリカ北面上部はガレガレ。程なく真っ白なナメに変わるが、疲れてしまった体にはあまり響かず、走りセンスで上二股へ駆け下る。上二股には、チーム野良犬の青島さん、海綿体の成瀬さん、釧路の小山田さんのパーティーがいた。焚き火を合同にし、隣にタープを張って久しぶりの歓談。ここからソエマツを越え、中ノ川へ降り、記録の少ない右股からペテガリに上がってキムクシュを下る計画だ。山でしか会わない人たちだ。全国どこへ引っ越しても山で会うことが出来る。ペルセウス座流星群を数えるうち、焚き火の脇で皆眠りに落ちる。
ヌピナイ川右股を滑り降りる。
(三日目・晴れ)
青島パーティーを見送ってゆっくり発つ。程なく花崗岩の滑り台の延々ナメナメ床になる。小滝は大きくても6〜7m、傾斜は児童公園の滑り台風で、尻を打つ突起もない。釜は充分深く、飛び込んでも足が着かない滝ばかりなので、10や20ある滝のほとんどを滑り込み、飛び込み大会で下る。捲き道を使ったのは雪渓がらみの一つだけ。もひとつ、深い溝になっていて飛び込めない滝は、わざわざ懸垂して下に降り、泳ぎ下った。どれも捲き道の明瞭な踏みあとが付いているがすべて無視。水際から離れては沢登りの味わいを台無しにしてしまう、との信念有り。
ヌピナイ川右股・防水カメラも水滴がとれなくなってきた・・
斎藤は17年前、滑落事故を知らせるためにこの沢を超特急(2時間ちょっと)で下ったことがある。その時、全部の滝を滑り下り、全部の釜に飛び込んで下った経験があるので、躊躇が無い。しかし釜での10mそこそこの平泳ぎは応える。上陸して立ち上がると息ぜーぜーだ。雪渓は合計三ヶ所。すべて左岸の際を捲いて行く。
生身のボブスレー、尻が破ける。
飛び込み天国は突然終わり、あとは冗長な花崗岩の白い大河原を歩いて下る。淡々と歩を進め、20年前にもヌピナイを登った事をいつしか思い返した。こんな風に明るい日だった。脳天中毒になりそうな日差し。平泳ぎで使い果たした体力で、最後尾を歩いて二股に付くと、先着の斎藤がラッコのように深みの中で浮かんで遊んでいた。全員、ズボンの尻を破いていた。
ライダージャンプだ!とうっ!
長距離ライダーと帰省家族客で満席。大樹の龍月で豚丼中、当地在住の日高クライマー、乾さんが面会に来てくれた。
豚丼をかっ込む現役平塚。
現役学生には、斎藤のルート判断力や、長い難関部分でスピード上げての行動方法、水線から逃げない姿勢などを吸い取ってもらえれば良し。
斎藤作図
(初日・晴れのち曇りのち晴れ)
ヌピナイ林道は二股よりも先まで伸びていた。日高らしい広い河原を抜けると、早くも函やプールが始まった。標高570まではあっという間に着いたが、ここから函付きの小滝が連続、始めの二つは小さく捲いてあとは中。泳ぎ、へつり、水没しながら進む。100m近い雪渓も塞いでいた。
天場は標高665m三股の中股(直登する二本の沢の左股)の脇。薪が多く、焚き火で尻を乾かす。満点の星。入渓のとき二人パーティーがいたが、少し下で泊まったようだ。塩ホルモンとバーボンとカレー雑炊と葉巻。
C1下の函
(二日目・晴れ後曇り後晴れ)
直登左股を行く。いきなり三段の釜付き滝。登ったり飛び込んだりして越す最中、滝壺に投げ落としたザックを取り損ね、二段下まで流してしまう一幕有り。南東面沢だからすぐに朝日を浴びる。標高760二股あたりは雪べったりで、右股にはいってすぐ崩壊していて右岸を捲く。早めに降りて再び雪渓に乗るが、標高780m屈曲点の大滝の所でこの雪渓がまたキレている。一度谷底へ降り、右のルンゼを詰めて側壁をザイル1ピッチ出して登り、草付きをトラバース、斜め懸垂2回で元の大滝の上に出る。手間は掛かるが、大高捲きはしない。
標高800前後の連瀑帯のひとつ。
ぎりぎりロープは出さずに我慢のクラスの小滝を無数に超える。標高930屈曲点の60mの大きな滝手前は雪渓がメタメタになっている。左岸のツルツル壁をトラバースして、最後はハーケンをピンに沢底まで懸垂。60m滝は右岸を行く。
雪渓をこなし、標高930屈曲点の60mの大きな滝に向かう
60m滝上部。微妙だがノーザイル。
標高1050m付近の雪渓は安定していたが、降りるところが無く唯一3mほどのギャップの所で、バイルを雪に埋め込んで小さく懸垂して降りる。最後の一人はダブルアックスでぶら下がり、肩の上に着地する。ここからは山頂に直登する右の沢を行く。いつまでも油断のならない小滝がばんばん連続する。もう水も消えかけたと思う頃、最後に20mほどのでかい滝が出てきてたまげる。最後のヤブはまあまあのクラス。
ピリカ山頂。ガスが離れて姿を見せ始めたソエマツ
しかし懐かしのピリカ山頂は良いピークだ。適度に狭く、四方に切れ落ちている。たいしてはまっていないのにたっぷり10時間かかった。時間読み通りだ。あいにくの天気でもう降りようかと思った頃、稜線のガスがどんどん飛んでいき、十勝平野が見え、ソエマツが見え、主稜線が姿を見せた。みんな喜ぶ。
ピリカ北面上部はガレガレ。程なく真っ白なナメに変わるが、疲れてしまった体にはあまり響かず、走りセンスで上二股へ駆け下る。上二股には、チーム野良犬の青島さん、海綿体の成瀬さん、釧路の小山田さんのパーティーがいた。焚き火を合同にし、隣にタープを張って久しぶりの歓談。ここからソエマツを越え、中ノ川へ降り、記録の少ない右股からペテガリに上がってキムクシュを下る計画だ。山でしか会わない人たちだ。全国どこへ引っ越しても山で会うことが出来る。ペルセウス座流星群を数えるうち、焚き火の脇で皆眠りに落ちる。
ヌピナイ川右股を滑り降りる。
(三日目・晴れ)
青島パーティーを見送ってゆっくり発つ。程なく花崗岩の滑り台の延々ナメナメ床になる。小滝は大きくても6〜7m、傾斜は児童公園の滑り台風で、尻を打つ突起もない。釜は充分深く、飛び込んでも足が着かない滝ばかりなので、10や20ある滝のほとんどを滑り込み、飛び込み大会で下る。捲き道を使ったのは雪渓がらみの一つだけ。もひとつ、深い溝になっていて飛び込めない滝は、わざわざ懸垂して下に降り、泳ぎ下った。どれも捲き道の明瞭な踏みあとが付いているがすべて無視。水際から離れては沢登りの味わいを台無しにしてしまう、との信念有り。
ヌピナイ川右股・防水カメラも水滴がとれなくなってきた・・
斎藤は17年前、滑落事故を知らせるためにこの沢を超特急(2時間ちょっと)で下ったことがある。その時、全部の滝を滑り下り、全部の釜に飛び込んで下った経験があるので、躊躇が無い。しかし釜での10mそこそこの平泳ぎは応える。上陸して立ち上がると息ぜーぜーだ。雪渓は合計三ヶ所。すべて左岸の際を捲いて行く。
生身のボブスレー、尻が破ける。
飛び込み天国は突然終わり、あとは冗長な花崗岩の白い大河原を歩いて下る。淡々と歩を進め、20年前にもヌピナイを登った事をいつしか思い返した。こんな風に明るい日だった。脳天中毒になりそうな日差し。平泳ぎで使い果たした体力で、最後尾を歩いて二股に付くと、先着の斎藤がラッコのように深みの中で浮かんで遊んでいた。全員、ズボンの尻を破いていた。
ライダージャンプだ!とうっ!
長距離ライダーと帰省家族客で満席。大樹の龍月で豚丼中、当地在住の日高クライマー、乾さんが面会に来てくれた。
豚丼をかっ込む現役平塚。
現役学生には、斎藤のルート判断力や、長い難関部分でスピード上げての行動方法、水線から逃げない姿勢などを吸い取ってもらえれば良し。
斎藤作図
- コメント (2)
One Day Hike・ 2006年8月11日 (金)
平成18年7月29日
参加者:石村夫妻、大井、渡辺(ダン)、黒川、石本+子息2名、大村、木村
東京支部岳友:井上
参加者:石村夫妻、大井、渡辺(ダン)、黒川、石本+子息2名、大村、木村
東京支部岳友:井上
コース
JR八高線、高麗川駅前からタクシーで宿谷の滝手前にて下車。1500円/台くらい。道標に従って林間の舗道を行くと10分程で左手に滝壺に向かう小道がある。小道の右手の石段を登ると休憩所のある高台に出て、道は二股になる。右側は鎌北湖へ、左が物見山へ向かう。暫く行くと左手に登るコンクリート道に「北向き地蔵方面」の道標がある。これを三十分も進むと舗装道路に出て、道なりに行けば北向き地蔵である。途中からも物見山へ直接登る踏跡もあるが、北向き地蔵へ回って行くのが普通のようである。
下りは南南東に向かって日和田山を経由して舗装道路に出たら高麗川の橋を渡り十五分ほどの西武線高麗駅に着く。なお高麗川はJR線、高麗は西武線、路線は分岐して一駅違うので要注意。
その日のこと
七月二十九日。関東の梅雨は平年を十日も過ぎても明けなかった。だが摩訶不思議このハイクの前日に雨が止み当日は薄日も漏れ、雨は十分ほどパラついた程度。気象庁は翌日、梅雨明け宣言した。
集まったのは十一人。石村夫妻、大井、渡辺(ダン)、黒川、石本子息共々三名、大村、井上、木村。
滝壺付近の渓流沿いの道、それに続く手入れの届いた杉林を抜けてくるそよ風。人出も少なく駅の近くにこんな所があるのかと再発見の声しきり。市村君の逝去には愕然。ニセコのセカンドハウスの完成をテレビで知ったのは、つい昨年のこと。また大村君の話ではこの夏には神谷晴夫君のケルンをトッタベツBカールに作る予定とのこと。既にメールは飛び交っているのだろうが。
さて、下りは、標高差もあまりない単純な道だが日和田山を過ぎるあたりからは気温も上がり湿度も高く、夏に弱い者は少々バテ気味だったが早くに高麗駅に着く。西武線はダイヤに申し分のない時間帯だった。
JR八高線、高麗川駅前からタクシーで宿谷の滝手前にて下車。1500円/台くらい。道標に従って林間の舗道を行くと10分程で左手に滝壺に向かう小道がある。小道の右手の石段を登ると休憩所のある高台に出て、道は二股になる。右側は鎌北湖へ、左が物見山へ向かう。暫く行くと左手に登るコンクリート道に「北向き地蔵方面」の道標がある。これを三十分も進むと舗装道路に出て、道なりに行けば北向き地蔵である。途中からも物見山へ直接登る踏跡もあるが、北向き地蔵へ回って行くのが普通のようである。
下りは南南東に向かって日和田山を経由して舗装道路に出たら高麗川の橋を渡り十五分ほどの西武線高麗駅に着く。なお高麗川はJR線、高麗は西武線、路線は分岐して一駅違うので要注意。
その日のこと
七月二十九日。関東の梅雨は平年を十日も過ぎても明けなかった。だが摩訶不思議このハイクの前日に雨が止み当日は薄日も漏れ、雨は十分ほどパラついた程度。気象庁は翌日、梅雨明け宣言した。
集まったのは十一人。石村夫妻、大井、渡辺(ダン)、黒川、石本子息共々三名、大村、井上、木村。
滝壺付近の渓流沿いの道、それに続く手入れの届いた杉林を抜けてくるそよ風。人出も少なく駅の近くにこんな所があるのかと再発見の声しきり。市村君の逝去には愕然。ニセコのセカンドハウスの完成をテレビで知ったのは、つい昨年のこと。また大村君の話ではこの夏には神谷晴夫君のケルンをトッタベツBカールに作る予定とのこと。既にメールは飛び交っているのだろうが。
さて、下りは、標高差もあまりない単純な道だが日和田山を過ぎるあたりからは気温も上がり湿度も高く、夏に弱い者は少々バテ気味だったが早くに高麗駅に着く。西武線はダイヤに申し分のない時間帯だった。
- コメント (0)
現役の計画・ 2006年8月10日 (木)
9月上旬 (6ー3)
2006年度 夏メイン沢一年班
エサオマントッタベツ川→エサオマントッタベツ岳→エサオマン入の沢→神威岳アタック→新冠川→幌尻岳→トッタベツ岳→トッタベツ川
L中島(4 AL勝亦(4 M竹内(2 吉本(1
2006年度 夏メイン沢一年班
エサオマントッタベツ川→エサオマントッタベツ岳→エサオマン入の沢→神威岳アタック→新冠川→幌尻岳→トッタベツ岳→トッタベツ川
L中島(4 AL勝亦(4 M竹内(2 吉本(1
<時間とルート>
1日目 エサオマントッタベツ川出合(8h)エサオマン北東カール=C1
出合手前まで車で行き、そこから入山。ガケの沢出合まで林道あるが所々崩壊している。しばらく河原。Co1250から滑滝が連続。上部の滑は急ですべったら危険。カールの下まで滑は続いている。北東カールでC1。小川が流れ、快適なテン場。
2日目 C1(1h)エサオマントッタベツ岳(5h)新冠川Co970二股=C2
ふみ跡を稜線まで。上部はガレで落石注意。北カールへの下りは明瞭なふみ跡有り。草付き。Co1100の滝は左岸を少し捲き木でAb。Co970二股でC2。増水には耐えられない。Co990二股、Co970二股のすぐ下の屈曲でも泊まれる。
3日目 C2(4h)神威岳(3h)C2=C3
神威岳への沢はぬるぬるした沢。上部に滑滝がいくつかあるがスケールは小さい。上部藪漕ぎ。
4日目 C3(1.5h)新冠二股(6.5h)七つ沼カール=C4(1.5h)幌尻岳
Co900くらい函がある。Co950から巨岩帯。新冠二股は良いテン場。Co1050二股には滝があるが左岸捲ける。少し行くと核心の函が始まる。出だしは左岸を捲く。函の中の小滝は捲き道を探せば見つかる。Co1150に5mの滝。左岸を捲く。あと簡単な函地形。Co1260二股からカールまでガレ。カールでC4。
5日目 C4(1h)トッタベツ岳(6.5h)八の沢林道(2h)車
ふみ跡をたどって稜線へ。空身で幌尻往復。トッタベツ岳から、北トッタへのふみ跡を行きコルまで下りきらない所からBカールへ下る。Bカールも泊まれる。上部はガレガレ。滝がいくつか(上部、Co1120、1100、1000)出てくるが、クライムダウンか捲き道で対処できる。Co1150の15mの滝は右岸をAbか捲き道。あとは河原。十の沢からブル道残っている。八の沢から林道を行き車まで。小屋で泊まる。
6日目 小屋(1day)街
小屋で騒いだ後、車で下山。
<進め方>
天気読んで入る。小雨まで行動。前線を伴っていなければ低気圧来ても荒れない。停滞は3日、新冠用。どの天場からも2日あれば下山可。トッタベツ本流は増水しても大丈夫。エスケープは幌尻岳から夏道(3h)幌尻山荘、非常時に使う。テン場15:00。最終下山16:00。
<パーティー>
Ls:Rf、Mを見る。判断全般。
M2:前を行く。口出し。
M1:生活・行動技術。体力。
<装備>
夏天、無線、ポール、鍋、茶食器、ロウソク、のこ×2、ナタ、熊スプレー、蚊取り線香、ザイル9mm×40m、回収用シュリンゲ、ガスストーブ、カートリッジ大×1・中×1、バイル×2、他夏山個人装備
<準備山行>
6/24-25(2-0) 狭薄沢→狭薄山→ガマの沢
7/15-16(2-0) ウエンド川→積丹岳→夏道
7/22-23(2-0) 伊佐内川往復
7/29-30(2-0) 床丹川→浜益御殿→幌小川
1日目 エサオマントッタベツ川出合(8h)エサオマン北東カール=C1
出合手前まで車で行き、そこから入山。ガケの沢出合まで林道あるが所々崩壊している。しばらく河原。Co1250から滑滝が連続。上部の滑は急ですべったら危険。カールの下まで滑は続いている。北東カールでC1。小川が流れ、快適なテン場。
2日目 C1(1h)エサオマントッタベツ岳(5h)新冠川Co970二股=C2
ふみ跡を稜線まで。上部はガレで落石注意。北カールへの下りは明瞭なふみ跡有り。草付き。Co1100の滝は左岸を少し捲き木でAb。Co970二股でC2。増水には耐えられない。Co990二股、Co970二股のすぐ下の屈曲でも泊まれる。
3日目 C2(4h)神威岳(3h)C2=C3
神威岳への沢はぬるぬるした沢。上部に滑滝がいくつかあるがスケールは小さい。上部藪漕ぎ。
4日目 C3(1.5h)新冠二股(6.5h)七つ沼カール=C4(1.5h)幌尻岳
Co900くらい函がある。Co950から巨岩帯。新冠二股は良いテン場。Co1050二股には滝があるが左岸捲ける。少し行くと核心の函が始まる。出だしは左岸を捲く。函の中の小滝は捲き道を探せば見つかる。Co1150に5mの滝。左岸を捲く。あと簡単な函地形。Co1260二股からカールまでガレ。カールでC4。
5日目 C4(1h)トッタベツ岳(6.5h)八の沢林道(2h)車
ふみ跡をたどって稜線へ。空身で幌尻往復。トッタベツ岳から、北トッタへのふみ跡を行きコルまで下りきらない所からBカールへ下る。Bカールも泊まれる。上部はガレガレ。滝がいくつか(上部、Co1120、1100、1000)出てくるが、クライムダウンか捲き道で対処できる。Co1150の15mの滝は右岸をAbか捲き道。あとは河原。十の沢からブル道残っている。八の沢から林道を行き車まで。小屋で泊まる。
6日目 小屋(1day)街
小屋で騒いだ後、車で下山。
<進め方>
天気読んで入る。小雨まで行動。前線を伴っていなければ低気圧来ても荒れない。停滞は3日、新冠用。どの天場からも2日あれば下山可。トッタベツ本流は増水しても大丈夫。エスケープは幌尻岳から夏道(3h)幌尻山荘、非常時に使う。テン場15:00。最終下山16:00。
<パーティー>
Ls:Rf、Mを見る。判断全般。
M2:前を行く。口出し。
M1:生活・行動技術。体力。
<装備>
夏天、無線、ポール、鍋、茶食器、ロウソク、のこ×2、ナタ、熊スプレー、蚊取り線香、ザイル9mm×40m、回収用シュリンゲ、ガスストーブ、カートリッジ大×1・中×1、バイル×2、他夏山個人装備
<準備山行>
6/24-25(2-0) 狭薄沢→狭薄山→ガマの沢
7/15-16(2-0) ウエンド川→積丹岳→夏道
7/22-23(2-0) 伊佐内川往復
7/29-30(2-0) 床丹川→浜益御殿→幌小川
- コメント (0)
現役の計画・ 2006年8月10日 (木)
2006年度岩メイン 屏風岩、滝谷、奥又白 8/22〜31
L寺尾(3 AL澤田(3 M平塚(3 佐藤(2
L寺尾(3 AL澤田(3 M平塚(3 佐藤(2
屏風岩[時間]
上高地(3h)横尾(3h)涸沢=BC
BC(2h)各取付き 各終了点(3h)BC
[アプローチ]
上高地から夏道で涸沢まで。BCからのアプローチは夏道をくだって横尾岩小屋跡から横尾谷の河原を渡り、暗い窪状の1ルンゼ押し出しをつめる。少し登ると明るくなり明瞭なルンゼとなる。浮石は多いが良く踏まれている。下降はブッシュの尾根をたどり屏風の頭、北尾根最低コル経由でパノラマコースの登山道を利用し、徳沢や涸沢に下る。懸垂下降で取付きまで下ることも出来る(4.5h)。テン場着19:00。
[ルート]
ディレッティシマ(5級下 IV、A2 12ps 8時間)、雲稜ルート(4級上 V+、A1 8ps 5時間)、東稜(4級 IV、A1 6ps 4時間)。
ディレッティシマ以外はT4ルート(4P Vー)を登って取り付く。ディレッティシマは雲稜ルートか東稜を登ってからじゃないと取り付かない。この3本も人気ルート。
滝谷
[時間]
涸沢=BC(2.5h)北穂小屋(2h)取付き 終了点(1.5h)BC
[アプローチ]
ドームの頭の北のコルから草付帯の白いペンキでバツ印のある踏跡を右下に向かって下り、第3尾根上部のT1に抜ける。T1からT2に向け20mab。バンドを右に取り付きまで。敗退は取付まで下ってから来た道を戻る(III)。下降(3h)縦走路。テン場着18:00。
[ルート]ドーム中央稜(3級 Vー 5ps 3時間)
滝谷は崩壊気味だが、このルートは快適らしい。
奥又白周辺
[時間]
涸沢(5h)奥又白池=BC(4h)上高地
BC(2h)各取付き 各終了点(2h)BC
[アプローチ]
涸沢からパノラマ新道で奥又白池に移動する。そこでBC。各取り付きへは奥又白谷の雪渓をトラバース気味に登り、C沢をつめていき、小滝を越えてチョックストーンの滝まで。そこから、4峰正面壁へはチョックストーンの右下の岩場からガレを右上して小尾根を越していく。本峰東壁へは左上のインゼル最上部の平坦地に上がり、B沢をつめる。下降は本峰東壁を登る場合は、三本槍付近を経由してBCまで。4峰周辺を登る場合は、涸沢側の踏み跡をたどり。5・6のコルを経由してBCまで。敗退は来た道を戻る。下降(3h)BC。テン場着18:00。
[ルート]
本峰東壁:
都立大ルート(4級上 IV+、A1 3ps 3時間)
北尾根4峰正面壁:
松高ルート(3級上 IV、A0 7ps 3時間)、北条=新村ルート(4級下 IV、A1 6ps 3時間)
前穂東壁は1998年の地震によって一部崩壊したが、都立大ルート、北条=新村ルート、松高ルートの3本は比較的大丈夫。
[進め方]
パーティーは基本的に(L-s+M)×2。場合によっては(L-s+L-s)、(L-s+L-s+M)、(L-s+M+M)もありえる。平塚はIV+以上はリードしない。天気は午後崩れやすい。1日に2〜3回無線連絡をパーティー間で行う。最終下山14時。道外代表はカリンさん。
[パーティー]
全体:スピード、危険認識
L-s:総合的登攀力 パーティーの把握 天気判断
M:緊張の維持、口出し、登攀能力、ザイルワーク
[装備] 下線は登攀装備
冬天 ツェルト2 DF 灯油 ガスストーブ2 鍋 茶食器2 無線2 8.5mm×50m×4 (アイゼン、バイル含む)夏山個人装備 岩個人装備
[準備山行]
赤岩では各自80ピッチ程度登り、パーティーとしての最終準山は芦別岳夫婦岩で行った。
8月に平塚は勝亦と芦別夫婦岩南西カンテ〜本峰西壁ダイレクトに行った。
上高地(3h)横尾(3h)涸沢=BC
BC(2h)各取付き 各終了点(3h)BC
[アプローチ]
上高地から夏道で涸沢まで。BCからのアプローチは夏道をくだって横尾岩小屋跡から横尾谷の河原を渡り、暗い窪状の1ルンゼ押し出しをつめる。少し登ると明るくなり明瞭なルンゼとなる。浮石は多いが良く踏まれている。下降はブッシュの尾根をたどり屏風の頭、北尾根最低コル経由でパノラマコースの登山道を利用し、徳沢や涸沢に下る。懸垂下降で取付きまで下ることも出来る(4.5h)。テン場着19:00。
[ルート]
ディレッティシマ(5級下 IV、A2 12ps 8時間)、雲稜ルート(4級上 V+、A1 8ps 5時間)、東稜(4級 IV、A1 6ps 4時間)。
ディレッティシマ以外はT4ルート(4P Vー)を登って取り付く。ディレッティシマは雲稜ルートか東稜を登ってからじゃないと取り付かない。この3本も人気ルート。
滝谷
[時間]
涸沢=BC(2.5h)北穂小屋(2h)取付き 終了点(1.5h)BC
[アプローチ]
ドームの頭の北のコルから草付帯の白いペンキでバツ印のある踏跡を右下に向かって下り、第3尾根上部のT1に抜ける。T1からT2に向け20mab。バンドを右に取り付きまで。敗退は取付まで下ってから来た道を戻る(III)。下降(3h)縦走路。テン場着18:00。
[ルート]ドーム中央稜(3級 Vー 5ps 3時間)
滝谷は崩壊気味だが、このルートは快適らしい。
奥又白周辺
[時間]
涸沢(5h)奥又白池=BC(4h)上高地
BC(2h)各取付き 各終了点(2h)BC
[アプローチ]
涸沢からパノラマ新道で奥又白池に移動する。そこでBC。各取り付きへは奥又白谷の雪渓をトラバース気味に登り、C沢をつめていき、小滝を越えてチョックストーンの滝まで。そこから、4峰正面壁へはチョックストーンの右下の岩場からガレを右上して小尾根を越していく。本峰東壁へは左上のインゼル最上部の平坦地に上がり、B沢をつめる。下降は本峰東壁を登る場合は、三本槍付近を経由してBCまで。4峰周辺を登る場合は、涸沢側の踏み跡をたどり。5・6のコルを経由してBCまで。敗退は来た道を戻る。下降(3h)BC。テン場着18:00。
[ルート]
本峰東壁:
都立大ルート(4級上 IV+、A1 3ps 3時間)
北尾根4峰正面壁:
松高ルート(3級上 IV、A0 7ps 3時間)、北条=新村ルート(4級下 IV、A1 6ps 3時間)
前穂東壁は1998年の地震によって一部崩壊したが、都立大ルート、北条=新村ルート、松高ルートの3本は比較的大丈夫。
[進め方]
パーティーは基本的に(L-s+M)×2。場合によっては(L-s+L-s)、(L-s+L-s+M)、(L-s+M+M)もありえる。平塚はIV+以上はリードしない。天気は午後崩れやすい。1日に2〜3回無線連絡をパーティー間で行う。最終下山14時。道外代表はカリンさん。
[パーティー]
全体:スピード、危険認識
L-s:総合的登攀力 パーティーの把握 天気判断
M:緊張の維持、口出し、登攀能力、ザイルワーク
[装備] 下線は登攀装備
冬天 ツェルト2 DF 灯油 ガスストーブ2 鍋 茶食器2 無線2 8.5mm×50m×4 (アイゼン、バイル含む)夏山個人装備 岩個人装備
[準備山行]
赤岩では各自80ピッチ程度登り、パーティーとしての最終準山は芦別岳夫婦岩で行った。
8月に平塚は勝亦と芦別夫婦岩南西カンテ〜本峰西壁ダイレクトに行った。
- コメント (0)