記事・消息・ 2006年11月15日 (水)
11月11〜12日、於:滋賀近江舞子の琵琶湖畔にて
京阪神は暖かくうららかな日が続き、街中では最近まで半そで姿で歩く若者を見かけた。ところが月見の宴を予定した11月11日は何と朝から雨。雷も鳴るという荒天。しかし我々はひるまない。午後3時に琵琶湖畔に出てみると、眼前の竹生島が小雨にぼんやり霞み、背景の比良連山は雨雲の中といったバーベキューパーティーにはもってこいの日和。おまけに人馴れした鴨が炭火の近くまで遊びにきたので、すぐに鍋も用意するという気合の入れよう。ただねぎを買ってこなかった。
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
のっけから相田さん(58ー以下西暦下2桁)と田中(英)さん、渡辺(尚)さん(いずれも59)とで谷崎文学の世界とファイザー社の薬についての質疑応答から始まったため、紛れ込んだようにして参加した最年少の瀧花君(99)は、加減乗除を覚えたての子を見る公認会計士の親といった様子。大津の街の光がうすぼんやりと望めるもフライシートは突風で使い物にならなくなり、松の幹に張り渡したブルーシートに宴席を移動。伏見さん(61)はそろそろ定年を迎え、ヒマラヤの麓に戻るとの決意。岡島君(83)から娘達が自分との距離をおき始めたという話しに、経験者達は思わずにやり。
何年経ってもこういう席でやはり気になるのは、今の現役の人達の動向で、最近の人数構成や十勝合宿、登山の形態を尋ねては自分達の現役時代と比較するが、もはやその年代差は40年。ハイビジョンテレビで「バス通り裏」を見ているようなものだ。なつかしいという雰囲気だけ味わうことが出来れば、意義がある。私(65)も、自分の年齢を明らかにした時に、瀧花君から「親父と同世代ですネ」と言われ、昔、古い部報に出ていた先輩達を見て、そう思った時のことを思い出した。
やはりと言えばそれまでだが、時折雨脚が激しくなったり、強風の吹く中、大き目の火にして歌集を片手に和して声をあげる。ある種意地を張っていると見えなくもない。しかし6時間も延々と雨見の宴をよくも続けたものです、風邪も引かずに。
翌12日は比良登山を計画していたが、北滋賀地方は嵐の回復の兆しもなく、中止とし、朝、湖畔に出て昨晩の片づけを済ませ、食事をいただき、新年会などの予定や議題を話し合い、三々五々ゆっくりと帰路につく。帰りついて阪急の車内を見渡すと昨日とは打って変わって、人々は冬の装いになっていた。
報告:岸本
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OBの山行記録・ 2006年11月6日 (月)

【ルート】
上ホロカメットク山周辺・新ZをBCにして、化物岩、上ホロ正面壁、八ツ手岩の登攀
【メンバ】
A班:斉藤清克(87入部),米山悟(84入部),澤田卓郎(3)
B班:勝亦浩希(4)、寺尾祐信(3)、平塚雄太(3)
【日程】
11月3日〜5日


札幌(5:30)→十勝岳温泉発(9:15)→BC→化物岩左ルートとりつき(11:15)→終了(13:30)→旧DZ経由→BC(14:30)
*B班は右ルート
新ZにBC設営。すぐ上の化物岩はだいたい右と左の二つルートがある。A班は左、B班は右。澤田がトップ。1p目:三級凹角を登る。2p目:2級少し回り込んでテラスへ。3p目:三級+。通常のルートよりもカンテの更に左ルート。ちょっと変な体勢になるバンド状。化物岩の上で勝亦たちと合流して旧Dまで稜線のハイマツをこいでそこから下降。旧DZの雪は申し訳程度。砂礫は凍り付いていてアイゼンはきまる。雪のうっすらつもったZ谷は、なんだかバルトロ氷河のキャンプ地みたいだ。

BC(6:20)→上ホロ北西稜→三段ルンゼとりつき(8:10)→終了(12:00)→上ホロカメットク山(12:20-50)→上ホロ小屋のコルから下降ルンゼ(下部は左岸)→BC(14:30)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)




BC(6:00)→八ツ手岩右ルートとりつき(7:20)→終了(9:30)→コルにて(〜11:00)→懸垂×2→BC(13:30-14:00)→十勝岳温泉(14:20)
*B班は中央クーロアールルート(敗退)
正面壁はきのうの晴天で、日の当たる所は黒く、日陰は白く縞になっている。八ッ手岩はほとんど黒い。取り付きの尾根も雪は少ないが、砂礫ががっちり凍り付いていて、アイゼンがきまる。他パーティーがいたが、幸い左ルートを行ってくれた。

1p目:四級30m。ジェードル後小バンド。コケモモの泥壁にアックスがきまる。バンドの一枚岩が嫌な感じ。僕だけ鐙をつかう。ここは度胸が要る。核心はここだけ。2p目:二級。3p目40m:フェイスをトラバースしてコルまで。ここから、今日も中央クーロアールに取り付いている勝亦パーティーを谷越しに観戦する。ここから見る正面壁は絶景だ。正面から見ると凄い所を登っている。
下降は最高点のピナクルを右に捲き、その先のピナクルから懸垂50m×2ピッチ。落石多く、注意する。雪面に下りてからも落石を警戒し、流路を避ける。勝亦Pは取り付きを右寄りに換えて2p登ったが、そこまでで引き返し。ファイトが及ばず、時間切れとのこと。悔しかろうなあ。
季節が早かった上に気温が二,三度と、冬登攀というにはシビアさは無かったが、氷があまり使えないため、岩登り主軸の登攀になった。雪があればあったで、別の難しさになりそう。齋藤はよく登る。現役はロープの扱いに慣れていて、安心感がある。
上ホロ荘の露天でのんびりして帰る。朝晩の食費が三日間で300円/一人というのには感動した。
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部報解説・ 2006年10月31日 (火)

部報2号の紹介、後半分です。
東大雪の沢をつなぐ原始林彷徨山行や、部報では初の利尻や芦別の積雪期記録に加え、国後のチャチャヌプリ、アリューシャン・アッツ島見聞録など、戦前の北洋時代ならではの記録が並んでいます。
【部報2号(1929)前編の続き】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
1928年8月、人夫水本さんと9日間の旅。吹上温泉から前十勝経由で十勝岳。美瑛をアタックして、十勝川源流地帯に降りる。シー十勝川、トムラウシ川を渡り、古い鉈目を頼りに道のようなものを歩いている。ニペソツ川を登路にする。頂上の北に上がる尾根から登頂。「ニペソツの山の形は地図で予想することは出来得ない。地図にはこの大きな東西の崖を全然書いていない。」とある。あの特異な山容を、事前に写真などのメディアを通じないで、ナマで出会える幸せさを想像した。ホロカ音更川を下り、上士幌まで歩く下山路はのどかな丘陵地帯の直線一本道。「先は見えていて、それでいて、歩いても歩いてもなかなか着かない。」
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
この一帯の原始林で「谷から谷へ、澤から澤を思ふままに歩き回ってみたいといふ願望を、私はよほど以前からもつていた。」
然別川本流→ユーヤンベツ十の澤→然別沼→ヤンペツ川→ヌカビラ川→音更本流→石狩岳→石狩澤→クチャウンベツ→ヌプントムラウシ川→ニペソツ山→音更川→上士幌1929年八月、二週間の記録。
前半はまだ原始の雰囲気残る然別湖に、ペトウクル山から乗っ越して、今は自動車道路になっている糠平湖への峠を乗っ越す。糠平湖はまだもちろん無い。
石狩と音更のコルへの沢を登る。1400あたりで滝を越えられず右岸を捲き、そのまま稜線へ。ヌプントムラウシ川からのニペソツへは山頂から北に落ちている沢を登る。1600でどうしても登れない滝、尾根に乗って藪こぎで山頂。
● ニペソツ山 徳永芳雄
1929年四月初旬、積雪期初登頂の記録。幌加音更川の三の沢支流、盤の沢から。馬橇に乗せてもらって、三の沢あたりまで行っている。造材の小屋からアタック。好天を生かし、天気の変わる間際に成功させて下る。ウペペサンケの登路の考察もあり。
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
部報初の芦別記録。藪のため、北海道の縦走登山は5月に限られている、とある。発想として、本州のように縦走がしたいようなのである。4人+人夫一名、1929年5月中旬の記録。半分スキー、半分シートラ藪こぎである。ユーフレ谷から夫婦岩周辺で稜線へ上がる沢を間違えて藪の中で一泊。雨の中傾斜地に倒木を倒してテントを張り、焚き火までしてしまうのはサスガである。
芦別岳から南の地図が相当実際と違うとのこと。鉢盛山西北方の1435mピークと、1415m峰の美しさに言及している。「この岩峰は実に雄大で鳥渡日本の山とは思えない。黒い岩の皺に雪をわづかづつのせて、針葉樹の頂の虚空を垂直に抜く姿は捨てがたい」当時からマッターホルンぶりを発揮していたのだ。
吉凶分岐からの夕張岳アタック。広大な風景に惜しげなく賛辞を送っている。あそこの風景は今も昔も変わらないようだ。吉凶岳北東尾根からポントナシベツ川へ下山。下山路は桜咲く春の十梨別原野。
● 三月の利尻岳 井田清
1929年3月、小樽から15時間揺られて鬼脇。宿にスキーを立てかけておくと村中の子供が見物に来る。晴天待ち停滞で、若者が連れて行ってくれと訪ねてきたり、にぎわう銭湯に出かけたり。「山脈から独り離れて居るこの山は何処となく冷たい鋭さに寂しく光って居る。峰も頂の岩壁も絹の様に光つて居る。鋭い峰の若々しい雪庇は絹糸の様に細い。」鬼脇から山頂に向かう標高尾根をたどる。痩せた尾根が頂の直下で突き刺さるところで、雪庇に塹壕を掘って進み登頂(最高点には至っていない模様)。思索の多い井田氏の文章だが、天気待ちの停滞をする序盤から大いに読ませる。
● 国後島遊記 島村光太郎
1929年7月、未だ情報の少ない国後島へ。植物採集を兼ねて、「富士山の上に槍ヶ岳を載せたような」山、チャチャヌプリ登頂を目指す。結果は千島名物の濃霧で山中3停滞の上、翌日もガスと強風に阻まれて、肩の台地の少し先から引き返した。現代と同じくらい、当時も未知にくるまれて謎の山域だった事がわかる。
チャチャヌプリ南西面の乳呑路は30戸ほどの集落で、そこに根室からの船で降り立つ。西に海岸を20キロ進んだところが「賽の河原」。ここの佐々木さんというご老人に登路を教わり、イダシベナイ大沢を登る。途中をすぎると沢は不明瞭になり、ネマガリダケとミヤマハンノキの藪こぎになる。台地の上は砂礫地で火山の熱で靴が熱くなる場もあった。
国後の人たちは丁度昆布とりに忙しかったが、何処の家でも彼らを歓迎してお茶を飲んで行けと誘われた、小学生の子供たちは皆、立ち止まってこんにちはとお辞儀をしてくれたとある。今は失われたある時ある地の記録だ。
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
1929年6月下旬、農林水産省の船に乗ってアリューシャンのアッツ島へ植物採集に行く機会があった。植物学教室の先生の助手として。船はラッコ密猟の監視のため、千島、アリューシャンの海獣地帯を行く。アッツ島の先住民アレウトが、外国人を警戒して、なかなか姿を見せない様など書いてある。訪れて植物を採集した島は、アッツ、アムチトカ、アトカ島。中部千島でも帰りに二ヶ月植物採集したとあるが、詳しく書いていない。残念。このような日本の官船が年一度千島やアリューシャンに寄るのに便乗した記録で、同時代の「千島探検記(ベルクマン・加納一郎訳)」がある。当時これらの離島への行き方はこれ以外無かった模様だ。山岳部の学生はこのころから学術調査の最先端で知力体力を発揮している。世間的に山岳部員の価値が認められる分野である。
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
アイヌ地名の意味紹介一覧。
・ピパイロを美生と当て字して、ビセイと読む人が増えたのを嘆いている。いまレキフネ川という川は歴船の字を「ペルプネイ」川に当てていた。当時和人は日方(ひかた)川と呼んでいたがこれは廃れた。
・ ヌピナイは最近ヌビナイと書いているし多数はビで呼ぶが、ルームはピのままである。(野の川の意)
・ 豊似川をトヨニと呼ぶのは誤なり。「トヨイ」(土の川の意)が正しい。
・ 野塚のもとは「ヌプカペツ」。たしかに、そう聞こえる。
など
● 山に就いて 伊藤秀五郎
雲で化粧する山は
藍色の深い呼吸をするが、
少しでも機嫌が悪いと
黒い頭巾をすつぽり被って
つんと肩を聳やかす。
しかし時には
白雲を髪に飾って
明るく
浅黄色に笑っているのだ。
年報 1928/4−1929/8
写真12点、スケッチ5点、地図3点
【部報紹介・2号(1929)上】
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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
金井さんの店でラムネ十本
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
昭和二十六年度の冬山は、部の総力を挙げて行う十勝岳から大雪山への縦走が計画された。冬山合宿で十勝岳の泥流スロープの猛烈な風雪は既に充分体験されていたが、美瑛岳に向かう這松の枝すら一本も見当たらない吹きさらしの尾根を黒岳まで進むことになる。長期間の尾根上の行動に耐える装備が必要だった。山岳部二十数年の歴史とともに研究され使用された製品も既に疲れ果て、大幅な改良や補強が必要で、そのうえ
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。
当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。
真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。
店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。
「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」
とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・
金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)
スフのマフラー
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
入部して、あれこれと装備を集めたり話を聞いたりしているとドイツ語が氾濫しているのには一寸驚きだった。リックだと思っていたものはルックザックと言わねばならず、足に履く爪はシュタイックアイゼンだった。これは適当な訳語がないので致し方なく、固有名詞はそのまま使うのも無理はない。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
ドイツ、ドイツと言うのには他にもいろいろな訳があったようだが、ドイツの製品は優れていた。工作機械の精度は抜群、耐久力は勝っているし医学もドイツと言われていた。だいぶ年上の大人達はゾーリンゲンの剃刀なんて言って目を見張っていた。三年先輩のSさんなんかはソーリンゲンのナイフを後生大事に持っていた。現在は、大分以前からスイスのキャンピングナイフが主流になっているが、当時は「肥後の守」がよく切れたが不便、八丁ナイフは無骨で重い。それに比べ、先輩のゾーリンゲンはみそ汁の具の薯を切っても、しっくりと切り心地がよかった。だが、みそ汁のことまでズッペと言ったり、冬山で尾根に前進キャンプを進める時、重い荷物を二度に分けて上げるのをビーダーコンメンなどと言う怪しげな造語まであった。
そんなある日、先輩がもっと上の先輩の話を持ち出して悦にいっていた。と言うのは或る日ルームで岡彦一先輩、通称ライカさんが純白でツルツル、まるで銀のように光るマフラーを見せたそうである。ライカさんは北大予科の入学祝いのライカを持っていたのがニックネームの由来だそうだが、このカメラで撮った北千島シリアジリ岳中腹から、遠くに連なる峰々を撮った写真が部報五号に載っているので知る人も多いだろう。昭和九年入部、日中事変突入への準備が着々と進められていた頃である。ライカさんはその綺麗なマフラーを見せながら「これはドイツで発明されたスフと言うもので、ベンベルグの製品だ」と言ったそうである。
すると、彼と同輩の林和夫大先輩は「ちょっと触らせてくれないか」と言って、そーっと、撫でてみて感激。そして後で大いに悔しがったそうである。実はスフはステーブルファイバーの略で、言うなれば紙の原料のパルプで作った代用繊維。水で一回洗ったらペラペラになってしまう代物だった。
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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)

平成18年10月7日
参加者:坂野、石村夫人、木村
東京支部岳友:佐藤
コース
国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半

国土地理院の地形図には山名の記載はないが富士急行線、都留市駅の南にある標高千百九十八.八メートルの山が文台山で、大野山とも呼ばれている。都留市駅からタクシーで細野集落の御岳神社の前の登山口まで
二千百円/台。神社の脇からの道には分岐もあるが、地元の人が付けたらしい矢印の道標が明瞭で東峰を経て三角点のある西峰には山名を記した標識もある。
下りは北北西に向かって、かなり急な踏跡を下ってから、尾崎山と呼ばれている九六七.八メートルのピークを超えて東桂駅に出るのがノーマルのようであるが道標はなく、木の枝に巻いた赤いビニールテープがかなり明瞭に付いている。また、途中から右手すなわち北に向かって都留文科大学方面に出る道と、小野集落を経て谷村町(やむらまち)駅に下る踏跡がある。
その日のこと
十月七日、前日までの大雨洪水警報はどこへやら昼前には快晴となる。風は強かったが気温も快適。しかし潅木が伸びたせいか展望は悪く桂川流域の集落が縦間から下方にきれいに広まっているのが望まれる程度。
頂上での休憩には先月、神谷晴夫君のケルンを積みにトッタベツBカールに行った話を期待していたのだが、この山行に参加した人は現れず、お預けになってしまった。この日は坂野、石村夫人、佐藤で合計四人。Zokinは
「アキレス腱を少し傷めた」との言ずけだったが、「アキレス腱が少し腐ったのか」くらいで、心配はないようだ。下り赤いビニールテープの目印を見附ながら歩いたが、四百メートル程下った所で北東に伸びる尾根に付いていた踏跡を行き、図らずも小野の集落を経て国道を二キロもあるいて谷村駅に下り着くことになった。
ところで帰ってみるとこの時、白馬岳では強風雪で四人が凍死したらしいとのニュースがあり、後にこの悪天候で全国の海山では十七人が命を失ったことが分かった。
所要時間:御岳神社登山口から谷村町駅まで五時間半
正味歩行:四時間半

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One Day Hike・ 2006年10月21日 (土)

平成18年8月19日
参加者:坂野、大井、八木橋夫妻、木村
東京支部岳友:井上
コース
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
大菩薩嶺の近辺には雁ガ腹摺山という名の山が三つある。したがって千三百五十七.七米のこの山は笹子峠の尾根筋にあり笹子雁ガ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)と呼ばれている。笹子峠は往時の甲州街道が越えて
いた郷愁のある峠である。中央線は新宿から多摩川水系を伝い小仏隧道を抜けて相模川水系に入り笹子隧道を抜けて富士川水系に出る。笹子峠への道は現在、甲州街道峠道と言われているらしい。
ともあれ、この山へはJR甲斐大和駅から入るのがよい。峠道のトンネルの手前までは舗装道路なのでタクシーを利用した方が良かろう。トンネルの入口の右側の藪を少し登れば峠まで踏跡がある。峠から急勾配の尾根
道を行けば巻き道もあり最後に百米ほど登れば頂上である。三ツ峠から金峰山までの眺望が開けている。
下りは南南東に続く尾根道を行けば国道に下り着き、笹子駅まで二キロ程である。
その日のこと
八月十九日、盛夏であるが尾根筋は千米を超えるので、少しは涼しいとみての計画だったが峠までは舗装がかなり整備されて居ることが分かった。東京電力が手入れをしているらしい。猛暑の舗道を歩く手もない。駅
前からタクシーを呼んだ。坂野、大井、八木橋夫妻、井上さんを合わせて六名。
峠からの尾根道は取り付は急だが後は単調。十五分ほどで二つに分かれる。右手の巻き道を行く。風通しはよくないが高低差は余りない。最後を登りきると展望は結構ひらける。左手の三ツ峠山山頂のアンテナ塔が見つかると、右へ遠望すれば御坂の黒岳から、茅ケ岳、黒富士、金峰山まで次々と分かってきた。黒富士は以前にこのハイクでのぼった山である。
下り尾根道も明瞭。標高差は六百二十三米あるので途中で二、三度休み、月末には神谷君のケルンを積みにゆくと言うトッタベツのカールの話や八木橋君に大村君への言付けなど日高の話がひとしきり。今日は甲斐大和駅から山を越えてひと駅東京に近い笹子駅に出た訳で汽車賃は九十円安いので時給三十円のアルバイトだったという人などあり。ともあれ、八木橋夫妻は笹子に車を置いて甲斐大和まで汽車で来たと言う。この車で大月まで乗せて貰うことになった。里山ハイクの場合はこれも便利な方法である。
昔語りも、もう十四回になったが未だ続けていこうと思っている。
所要時間:トンネル入口から国道まで三時間半
正味歩行:二時間半
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)

北大探検部が函館郊外の戸切地(へきりち)川上流部に道内最長の鍾乳洞を発見した。今年6月の発見以来、10回以上通って詳細な地図を描いている。先週末、現役探検部員4人と潜ってきた。テラ・インコグニータ(未知の地)を探る喜びを知る現役に逢ってオレはうれしい。
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)

●2006年10月9日(月・祝) (1ー0)
【ルート】
東赤岩/ジェードル(1p)
中赤岩/リス奥直上(1p)、リス奥左カンテ(1p)、リス(1p) 計4p
【メンバ】
L:斎藤清克(87入部)、M:山森聡(86入部)、清原実(86入部)、銭谷竜一(90入部)
【行程】
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】

米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。

10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。

北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。

昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。

博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。

藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。

結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。

翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。

東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。

ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)

中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。

リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。

リスの上でジッヘルする銭谷。

リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。

朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
10月9日(月・祝)(晴・強風) 赤岩峠(10:30)→ジェードル(1p)→リス奥直上(1p)→リス奥左カンテ(1p)→リス(1p)→赤岩峠(14:00)
※当初、10/8-9で、暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、悪天候のため断念。小樽・赤岩への岩登りに計画変更。
【記録】

米山さん(84入部)から既に[記事・消息]欄に報告があったように、10/7(土)に、札幌でDick(86入部)の結婚を祝う会が開催され、Roomの昔の仲間が全国から集った。これに合わせて、10/8-9と有志で暑寒・ポンショカンベツ川へ沢登りへ行く計画であったが、あいにくの悪天候との天気予報で断念。10/8はヘルヴェチアヒュッテに泊まり、10/9に天気が回復すれば赤岩へ行くことにする。

10/8は、まず、赤岩へ行くためのクレッターシューズを秀岳荘で購入した。そして、ヘルヴェチアヒュッテの鍵を借りるために、Roomへ寄ったついでに、北大山岳館を訪問した。左から、清原ババア(86入部、東京都在住)、山森(86入部、神奈川県在住)、多田(86入部、大阪府在住)。1995年に山岳館が出来て以来、多田は初訪問とのこと。

北大総合博物館(旧理学部)で北海道大学創基130周年記念で開催中(当初9月までの予定が、10/13まで延長)の「北海道大学の山小屋展」を見学した。パラダイスヒュッテ、ヘルヴェチアヒュッテ、空沼小屋、奥手稲山の家、無意根小屋の模型や歴史などが展示され、各山小屋を管理する山系クラブの紹介もあって、興味深かった。北大山岳部々報は第1号から第13号まで実物が展示され、近々、部報14号が発刊されることも紹介されていた。準備に尽力された方々、ご苦労様でした。

昔のスキーやザックなどの登山装備も展示されており、とても興味深かった。これらの古い装備を大切に保管していたAACHの大先輩方に敬意を表したい。私の現役時代にはスキーの竹ストックは普通に使っていた(秀岳荘でも売っていた)のに、そういう装備は処分してしまったことが悔やまれる。かろうじて自衛隊払い下げのラクダの毛下着上下や目出帽などはまだ処分していないので、将来AACH博物館に寄贈できるように、大切にとっておくことにしよう。

博物館の売店では、冊子「北海道大学の山小屋」をはじめ、北大ポプラ並木で作った「ヘルヴェチアヒュッテの板葉書」や「ヘルヴェチアヒュッテの懐中時計」などが販売されており、各自、気に入ったものを記念に購入した。大阪に帰る多田と別れ、かみさんの実家に泊まっていた銭谷(90入部)と合流して、ヘルヴェチアヒュッテへ向かう。

藤野のスーパーで買出しをして、いざ定山渓を過ぎるとすぐ、暴風雨のため通行止めにするために、ゲートを閉めているところであった。この先の山小屋に泊まりたいので、通してもらえないか交渉してみるが、ダメ。代替の宿泊場所をもとめてニセコや洞爺湖周辺のキャンプ場のバンガローへ電話をかけてみるが、どこも3連休のためあいにく満室で、途方に暮れる。

結局、小泉さん(74入部)のご好意で、積丹の美国小舎に泊めさせていただけることになった。札幌に戻り、石川ヤンケ(87入部)とその長男(小3)も合流し、積丹へ向かう。積丹へ向かう道は、豊浜トンネルの崩落事故のあと新しいトンネルができたとのことで、私の現役時代とは、随分と違う印象だ。それでも、途中3箇所、高波のため片側交互通行になっており、実際に海側の車線は波が来るたびに高波を被っており、危険な状態であった。小舎での夕食は「鮭のチャンチャン焼」。

翌日(10/9)は、天候も回復した。美国小舎の前で記念撮影。左から石川ヤンケ(87入部・札幌)、銭谷(90入部・仙台)、山森(86入部・横浜)、清原ババア(86入部・東京)、斎藤(87入部・札幌)。撮影者は石川ジュニア(小3)。美国小舎オーナーの皆様方、ありがとうございました。

東赤岩・ジェードルの登り口にて。バックはE3のピナクル。天気は良いが風が強い。

ジェードルを登る山森と、ジッヘルする銭谷。3級ルートがこんなに難しい(怖い)とは。実質18年振りの岩登りだから仕方ないか。現役のときのように赤岩3級ルートを登りこんでいれば、先々週の東北・産女(うぶすめ)川も楽勝で駆け抜けることができたのだろう。(登りこんでいないから、ちょっとした滝などの通過にも時間がかかり、時間切れで栗駒山ピークアタックを断念せざるを得なかったのだろう。)

中赤岩・リス奥直上をトップで登る斎藤。あとの3人はトップロープでチャレンジするが、まともに登れない。現役のときは、こんなところを、よくトップで登れたものだ。その後、リス奥左カンテを登ったが、取りつきで、ちょっと苦労する。現役時代は、すいすい登れたはずなのに...。

リスを登り、東赤岩方面を眺める。20年前と変わらず、景色が良い。

リスの上でジッヘルする銭谷。

リスのくさび(1年目がセミになるところ。今回は、私もセミになりかけた。)を通過しようとする清原ババア。その後、西赤岩・西壁3ピッチにも行きたかったが、風が強いのと、少々疲れて危険なので、ここで引き上げることにする。現役時代は1日で21ピッチ登ったこともあったが、この日は、たった4ピッチで、疲れてしまった。

朝里川温泉の露天風呂で疲れを癒し、それぞれ仙台や東京へ飛行機で帰宅した。
(文責:山森 聡)
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OBの山行記録・ 2006年10月17日 (火)

●2006年9月23日(土) (1ー0)
【ルート】
桂沢林道笊森登山口→(林道)→産女橋→(産女川遡行)→夏道Co1300m付近→(夏道)→桂沢林道笊森登山口
【メンバ】
L:銭谷竜一(90入部)、M:山森聡(86入部)
【行程】
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。

金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。

入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。

その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。

ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。

Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。

美しいナメや釜が続く。

写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。

腰まで水につかって、釜を通過する。

源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。

栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。

最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。
銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
9月23日(土)(快晴→曇)桂沢林道笊森登山口Co610mC0(6:05)→産女橋Co630m入渓点(7:15-30)→Co790m大滝下(9:40-10:00)→Co1190二股(14:30)→夏道Co1300m付近(15:30-45)→桂沢林道笊森登山口Co610m(17:30)
※栗駒山(1627.4m)のピークアタックをする計画であったが、時間切れで断念。
【地図】 (五万図)栗駒山 (二万五千図)栗駒山
【記録】
10/7に札幌でDICKの結婚を祝う会でRoomの昔の仲間が集うのに合わせて、有志で道内の沢登りに行こうということになった。その準備山行を兼ねて、日本百名谷(白山書房)にも紹介されている東北・栗駒山産女(うぶすめ)川を遡行することにした。栗駒山は、秋田県、岩手県、宮城県の3県の境付近にあり、産女川は岩手県側の沢である。

金曜日の夜の新幹線で東京から仙台に移動し、銭谷(仙台在住)に自家用車で21:00に仙台駅まで迎えに来てもらう。新幹線を使えば東京から仙台まで1時間半強で早いものだ。仙台から東北自動車道で一関ICへ。真湯温泉から桂沢林道に入り、桂沢林道笊森登山口の林道ゲートでC0。

入渓してすぐに、美しいナメが続く。そしてすぐに現れる8mの滝(写真)は、ザイルを出して空身で直登した(ザックは吊り上げ)。その後の5段の滝は、1段目はノーザイルで直登し、2段目、3段目はザイルを出して直登。4段目、5段目は右岸を高捲いた。ザイルを出したり、高捲きをしたりで、久しぶりの沢登り(リハビリ山行)にふさわしい。

その後も、ノーザイルで直登できる小滝が、次々と現れて、なかなか楽しい。

ちょっとした釜をへつる。釜の水がエメラルドグリーンに輝き、美しい。

Co790m大滝(写真)は、右岸を高捲く。高捲きの取りつきは、ブッシュにシュリンゲをかけながら、つかんだり、アブミのように足を入れたりしながら登る。下降は、なんとかアップザイレンなしで、ノーザイルでクライムダウンできた。高捲きには約40分かかった。その後河原歩きが続いた後、10mトイ状の暗門の滝が現れる。これは、左岸ルンゼから高捲き。

美しいナメや釜が続く。

写真の5mの滝は、銭谷がノーザイルでチャレンジするが、最後の一歩踏み出せず、セミになる。山森が左岸を高捲いて、上からザイルを垂らす。高捲きからの下降はアップザイレン。沢慣れた2年目以上の現役なら何でもないであろう、この滝の通過で、恥ずかしながら、かなりの時間と体力を消耗してしまった。

腰まで水につかって、釜を通過する。

源頭に近づいて、美しいナメが続く。この先に現れた釜と滝は、泳がないと取りつきできず、ザイルをだして空身なら直登できるかなという微妙な代物だ。時間もないので、左岸を高捲くことにするが、腕が疲れていて笹を掴む手に力が入らない。高捲きを続けるか沢に戻ってザイルを出すかパーティで話合った結果、時間もないので、そのまま左岸を夏道目指して尾根上までブッシュ漕ぎして登ることにした。30分ほどで夏道のCo1300m付近に出た。

栗駒山(1627.4m)のピークアタックは時間切れで断念。夏道は、草刈りがされておらず、人もほとんど通らない様子で、獣道の様だ。藪漕ぎと大差ないような状態で、景色を眺めながら急いで下山。Co900m位より下は、美しいブナの森で、草刈りもなされている。暗くなる直前の17:30に登山口の自家用車に到着。

最寄りの真湯温泉に入りたかったが、携帯電話が圏外。時間も遅いので、下山連絡を優先させるため、携帯電話が通じるところまで車を進める。
結局、一関の「かんぽの宿」の露天風呂で疲れをいやす(写真)。今回は時間切れでピークを踏めなかったが、怪我もなく明るいうちに無事下山できたので、良しとしよう。栗駒山ピークは、今冬に山スキーでリベンジすることを誓いあい、一関駅まで車で送ってもらい、新幹線で東京へ帰った。

銭谷作成の遡行図。
(文責:山森 聡)
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