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翻訳本(1925~1940)


翻訳本(1925~1940)について

1. 山!/モルゲンターレル/1920
Review/trance/tanken.html 1. 山!/モルゲンターレル/1920 1. 山! ハンス・モルゲンターレル 荒井道太郎訳 1934年 朋文堂 原題:Ihr Berge/ Hans Morgentharel/1920 表紙 表紙 扉 扉 原書表紙 原書表紙 グリューンエクホルン(3869m) グリューンエクホルン(3869m) シュールホルン(3296m) シュールホルン(3296m) 冬期、テディ・ピッツ(3623m)ト 冬期、テディ・ピッツ(3623m) ハンス・モルゲンターレル(1890-1928) 地質学者、作家、登山家  スイスのブルグドルフの弁護士、オットー・モルゲンターレルの長男として生まれる。11歳で母を亡くし、1909年、ETH(Swiss Federal Institute of Technology Zurich)に入学、動物学、植物学を学び、1914年にシダレカンバ(Betula alba)の研究論文で博士号を取得した。学生時代の1911年3月、グラルン・アルプスのテディ峰(Tödi 3641m)登攀で手に凍傷を負い、1本を残して他の指をことごとく失った。指の無い手でグルラン・アルプス、ベルナール・アルプスで新しい登攀ルートの開拓や冬期初登攀などの記録を残した。また優れたスキーヤーでもあった。  1916年、登山日記とペン画の画文集「Ihr Berge」(“山!”荒川道太郎訳)を出版。同年、ベルン大学の第2学年に入学、地質学を学ぶ。1917年、Aar Massif(アール・マッシフ、スイスアルプスの地塊の一種)に関する論文を提出して卒業すると、スイス鉱山会社に就職し、タイ及びマレーシャのジャングルの金・銀鉱探査に赴いた。1920年、病をえて帰国、現地での経験をもとに文筆活動を始めた。1921年、ルポルタージュ「MATAHARI –Moods of the Malay-Thai topics」 を出版、ヘルマン・ヘッセによって賞賛されたこの著作は、マレイ半島に関する豊富な情報と写真を含む内容が好評で多くの読者を得た。  結核の治療のため1922年からスイス・グラウビュンデン州の温泉に滞在し、画家を目指して筆筆をとったが、病状が急速に進行、1928年3月、ベルンで死去、38歳であった。 内容  本書はモルゲンターレルという地質家が、彼の6年間の登山日記とペン画を合わせて編集・出版した画文集である。原書はドイツ語、B6版144頁の小さな本で、63節の紀行・随筆と32枚の挿画からなる。  戦前、若者たちがこの本を愛読したという話を先輩から聞いているが、出版から80年たった今でも著者の山に対する熱い、素直な思いが、読む者の気持ちに同調してしっとりと心に滲みる。  訳者の荒井道太郎はモルゲンターレルについて次のように述べている。 「モルゲンターレルが私たちにとって忘れられないのは、その文脈や筆致が私たちを搏つようなものではなく、山への愛にいたましいほども灼熱した、そんな自己を、私たちに、露わに、正直に見せてくれたという、そのことに因るのだろう、と思われる。」  北大山岳部の先輩で詩人でもあった井田清(1930年農畜産卒、1931年詩集「山」出版)は、モルゲンターレルとその著書について次のように述べている。 「山が彼にとって何であったか私は知らない。だが山が彼にとって少なくとも『生きる事』を願う人々に見られる内在性を表象した『生命』であった事は、私は口幅を広くしながら敢えて言うことを辞さない。  一生涯を客人の様に地上に招待されて過ごす人々と反対に、彼は凡てを招くが如く山を招いた。山に招かれまた山を招き、それ故にこそ彼のあの悲惨と暗い運命と深い高い明るい喜びとが、山を通し彼の心を貫いて私達の眼前に表されたのである。」(「山岳」第26年第2号」  最終項の「納めの夕べ(Feierabend)」でモルゲンターレルは明日への希望を次のように記した。 「見給え!あそこを! 荒び果てた男がひとり、小屋の前にじっとつくなんでいる。彼の脂っけの抜けた顔は栗色に焦げ、ムシャムシャと髭が生えている。煙がムクムク彼の短いパイプから出て、澄んだ夕暮れの空気にまざる。妙に変わった奴だ!誰とも言葉をかわさない、歩くのもひとりぼっち、何かでっかい計画を考えめぐらしているかのようだ。誰なんだ、奴は?何をしているんだ、一体?------ どっこい!そいつあ、この俺さ!つらい二週間が終って、どんじめの宵というものだ。おれの連れはすでにもう峪地にいる。離れていてくれ給え、おれの邪魔をしないでくれ給え! またしても俺は、氷海から氷海へ、山頂から山頂へと、ほっつき歩いたのだ。俺のルックザックは軽く、からっぽになり、俺のこころは、分捕った宝物で、とても一杯--------- 今、俺は、元気を取り戻している、明日、出来るだけ沢山の幸せを、親しく家路へ携えてゆきたく思っているところなんだ。」 山岳館所有の関連蔵書 Ihr Berge -Stimmungsbilder aus einem Bergsteiger=Tagbuch/H.Morgenthaler/1920 Marahari-Moods of the Malay-Thai topics/H.Morgenthaler/1921 The Making of a Mountaineer/G.I.Finch/1942 山岳 第22年第2号/日本山岳会/1931 山と雪 第8号/山と雪の会/1931 詩集「山」/井田清/山と雪の会/1931
2. エヴェレスト登山記/ヤングハズバンド/1931
Review/trance/everest.html 2. エヴェレスト登山記/ヤングハズバンド/1931 2. エヴェレスト登山記 フランシス・ヤングハズバンド 田辺主計訳 1931年 第1書房 原題:The Epic of Mount Everest/  /Francis Edward Younghusband 表紙と内表紙 表紙と内表紙 キャラバン・ルート図 キャラバン・ルート図 ノース・コルと北東山面 ノース・コルと北東山面 第1次遠征隊員,後列左より2人目:隊長ハワード・ベリー大佐、前列左端:ジョージ・マロリイ 第1次遠征隊員,後列左より2人目:隊長ハワード・ベリー大佐、前列左端:ジョージ・マロリイ 最後の挑戦に酸素ボンベを持ってノース・コルを出発するマロリィとアーヴィン 最後の挑戦に酸素ボンベを持ってノース・コルを出発するマロリィとアーヴィン 第3次隊ベース・キャンプとエヴェレスト 第3次隊ベース・キャンプとエヴェレスト ヤングハズバンド(1863-1942) 英国軍人、探検家、著述家  1863年、インドのムレー(現パキスタン)に軍人の第2子として生れる。13歳で英国へ留学、1861年、陸軍士官学校に入学。1882年(19歳)、インド近衛騎兵連隊(ラワルピンジ連隊)に入隊。1890年からインド政庁政治局に移り、カシミール、中央アジアの諸地方に駐在する。  その間に多くの探検を行なう。主なものでは1886〜87年、満州から北京を経てゴビ砂漠を横断してハミへ、さらにカシュガル、ヤルカンドを経て、当時通行不能といわれていたムズターク峠を越え、インドへ出て、アジア大陸横断の快挙を達成した。1889年にはパミール、カラコルム地域の探検を行なった。1890年には中国語の通訳官ジョージ・マカートニー(後のカシュガル総領事)と共に、カシュガルに派遣され、英国外交通商部を開設した。  1903年、当時鎖国状態にあったチベットとの交易・外交交渉のための使節に任命されてチベットに入り、カンパ・ゾンでチベット代表と交渉するも決裂。翌1904年、英印軍を率いてラサへ武力進撃し、ポタラ宮で英蔵交渉を締結した。この時の武力衝突では4,000人のチベット人が殺されたという。その後、英本国の対チベット政策変更により、この時の武力衝突の責任をとらされて,軍を退官する。  1919年、英王立地理学会会長に選出される。1920年、地理学会とアルパイン・クラブの共同事業として、エヴェレスト登山計画を発表、自身はエヴェレスト委員長に任命され、第1次〜第3次登山隊派遣に貢献する。1917年、インド上級勳爵士(KCSI、Sirの称号)を授与される。晩年は経済的に家庭が崩壊するなど恵まれなかった。第2次大戦下のロンドンで信仰生活を送り、1942年79歳で逝去。 内容  イギリスは1953年5月29日のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによるエヴェレスト初登頂まで、戦前はチベット側から7回、戦後はネパール側から2回、遠征隊を送った。  本書はヤングハズバンドがエヴェレスト委員会の要請により、第1次から第3次までの登山記録を公式報告書を基に取りまとめたものである。  1920年代にネパールが鎖国していた為に、ダージリンからシッキムを経由、チベットを大回りしてエヴェレスト北面から初登頂に挑んだイギリス人達の苦闘の記録である。彼らはツイードの背広上下を着て、足にはゲートルを巻き、鋲を打った登山靴で足を固め、手にはピッケル1本、固定ロープも張らず、ついには8,572mにまで達した。1次〜3次の中心的メンバーで、ついに帰らぬ人となった伝説的クライマー、ジョージ・マロリイについての記述は感動的である。田辺主計の翻訳のうまさもあって、出版から80年経った現在読んでも印象深い書である。  29章からなるが、第1章でヤングハズバンドは、本書執筆の意図を次のように記す。 「マロリイとアーヴィンの登攀は如何にして行なわれたか。又如何にしてノオトンが酸素補給器を携えないで二萬八千百呎(8,572m)の高さに、同伴のソマヴェルはその百呎下に迄、又オデルもやはり酸素を携えずに二度も三度も二萬七千呎(8,321m)の高度に登り得たか。-------も少し人夫が十分に使えたら恐らく頂上に達することが出来たのであったろう---------。又、ヒマラヤの人夫たちが二萬七千呎の高所に荷物を担ぎ上げたのはどんなであったろうか。帰途二萬一千呎(6,400m)の高所に於いて一行が稀に見る激烈な吹雪と零下二十四度に下がる寒気とによって、どんなに悩まされた事か。更に、又、ノオトン、ソマヴェル、マロリイが二萬三千呎(7,000m)の氷河上に取り残された四人のヒマラヤ人夫を救いに引き返した為、彼らの最も肝心な力を犠牲にしてしまったか。私は是等の事柄をこれから述べて行こうと思う。」(第1章マウント・エヴェレスト)  1921年の第1次隊は、本格的な登頂の為の準備偵察であった。東ロンブク氷河からノース.コルへのルートを開き,北東尾根を使っての登攀の可能性を見極める事ができた。 「エヴェレスト頂上に到達する最大の障害はここに征服された。ノース・コルへの路は発見されたばかりでなく、かやうにして実際に踏査された。ここから、マロリイはノース・フェイス・エッジをノース・イースト・リッジまで眺めることが出来、この路が最早登り得べきものである事を確かめた。」(第8章ノース・コル)  1922年の第2次隊は、マロリイ、ソマヴェル、ノオトンが無酸素で8,225mに到達、更に酸素を使ったフィンチ、ウェイクフィールド、ブルースが8,321mと頂上まであと500mに迫った。しかし、3回目の挑戦では人夫7名が雪崩に巻き込まれて死亡、そのため止む無く撤退することとなった。  1年おいて1924年の第3次隊は、4月30日東ロンブク氷河の末端にBCを設営した。第1回、第2回アタックは猛風雪の為にノース・コルに到らず敗退。第3回は、6月1日にマロリイとジョージ・ブルースが7,710mに第5キャンプを設営し前進しようとしたが、シェルパが恐怖の為に登高を拒否、荷揚げが叶わず挫折する。代わって第5キャンプを出発したソマヴェルとノオトンは、新たに編成した人夫の協力で8,170mに第6キャンプを設営、翌日無酸素でイエローバンドに沿って進み、大クーロアールに達し、これを8,572mまで登ったが、これが体力の限界であった。この高度は1952年のスイス隊によって更新されるまで30年近くの間、人類が自分の足で達した最高の高さであった。  6月8日、今度は再びマロリイが若いアンドリュウ・アーヴィンと共に重い酸素ボンベを背負って第6キャンプを出発した。登路はイエローバンドではなく、北東尾根沿いであった。2人を支援する為に食料を持って第6キャンプへ向かっていたノエル・オデルは、7,900m付近から霧のわずかな晴れ間に北東尾根の一角を登攀する二人の人影を見た。その直後に霧は二人の人影を隠してしまった。それっきり、マロリイとアーヴィンが戻って来なかったのは、登山史上あまりにも有名な話である。 「オデルが二萬六千呎(7,900m)のとある断巌の上に立った時、突然、あたりの霧は晴れわたり、密雲は切れた。そしてエヴェレスト全山稜、最高ピラミッドは彼の眼前に全景を露した。雪坂の上に一つの小さな物影が動いて岩場に取り付こうとしているのが見えた。もう一つの影がそれを追って行く。第1の物影は足場の頂によじ登った。なほも彼は一心にこの劇的な光景を見守っていると、再びあたりは密雲に包まれてしまった。そしてこれがマロリイとアーヴィンとの最後の姿であった。それから後のことは統べてが不可解である。」(第25章マロリイとアーヴィン)  第29章「エヴェレストは征服しうるか」でヤングハズバンドは、これらの遠征隊に参加した者達への敬意を込めて次のように述べている。 「最早、何れの日か、人がエヴェレスト山巓を獲得しうることは疑うところでない。しかし、その山巓に初めて立ち得る者が、エヴェレスト全山を足下に踏む瞬間、その心にしっかりと感ずることは、彼の勝利が先の開拓者に負うところの如何に大であるかをであろう。彼の名声は世界最高峰山巓を初めて獲得し得た者として後世に伝えられるに相違ない。しかし、それと共に、マロリイ、アーヴィン、ソマヴェル、オデル、また豪強な精神と体力とをもってはじめてエヴェレスト山巓争奪に向かい得る距離にまで天幕を運び上げ得た人夫ナプボ・イシエイ、ラクバ・チェディ、セムチュンピの名声も伝えられなければならない。」  エヴェレスト委員会が待ち望んだ第4次遠征に対するチベット政府の許可は、第3次遠征から実に9年後の1933年にようやく実現した。エヴェレスト委員会の再三の申請にも拘らず、チベット政府が許可をしなかった理由は、隊員の規定のルートを外れた行動(学術調査など)、映画興行に利用する為にラマ僧をチベット政府の許可なしに連れ出したことなどで、チベット政府がエヴェレスト委員会に不信感を持ったからだと言われている。 山岳館所有の関連蔵書 1)ヤングハズバンド著作 The Light of Experience/1927/ロンドン The Epic of Mount Everest/1929/ロンドン エヴェレスト登山記/田辺主計訳/1931/第1書房 エヴェレスト登攀/田辺主計訳/1936/第1書房 ゴビよりヒマラヤへ/筧太郎訳/1939/朝日新聞社 カラコルムを越えて/石一郎訳/1967/白水社 2)その他関連 Mount Everest:The Reconnaissance, 1921/Lieutenant Col. C.K. Howard-Bury and other members of the Mount Everest Expedition/1929/ロンドン The Fight for Everest: 1924/By Lieutenant Colonel Norton, E.F. and other members of the Expedition/1925/ロンドン Everest 1933/Hugh Ruttledge/1934/ロンドン Through Tibet to Everest/Captain Noel,J.B.L. /1927/ロンドン The Story of Everest/Captain Noel,J.B.L/1927/アメリカ George Mallory/David Robertson/1969/ロンドン Everest Reconnaissance-The First Expedition 1921/Mallory,G. Robertson,D./1991/ロンドン エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高柳春之助訳/1941/岡倉書店 キャンプ・シックス/スマイス,F.S/伊藤洋平訳/1959/朋文堂 エヴェレストへの闘い/ノートン, E/山崎安治訳/1968/あかね書房 マロリー追想/パイ, D/杉田博訳/1972/日本山書の会 遥かなりエヴェレスト−マロリー追想−/島田巽訳/1981/大修館書店 そして謎は残った−伝説の登山家マロリー発見記/ヨッヘン・ヘンブレムほか/梅津・高津訳/1999/ 文芸春秋社 エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリイ伝/ホルツェルほか/田中昌太郎訳/1988/中央公論社 マロリーは二度死んだ/ラインホルト・メスナー/黒沢孝夫訳/2000/山と渓谷社 ヤングハズバンド伝−激動の中央アジアを駆け抜けた探検家/金子民雄/2008/白水社 他エヴェレスト関係多数
3. 西蔵を越えて聖峰へ−エヴェレスト冒険登攀記/ノエル/1931
Review/trance/saizou.html 3. 西蔵を越えて聖峰へ−エヴェレスト冒険登攀記/ノエル/1931 3. 西蔵を越えて聖峰へ−エヴェレスト冒険登攀記 J.B.L.ノエル 大木篤夫 1931年 博文館 原題:Through Tibet to Everest/1927/John Baptist Lucious Noel 表紙(左)、内表紙(右) 表紙(左)、内表紙(右) ベースキャンプ ベースキャンプ オデル最後にマロリーとアーヴィンを見る オデル最後にマロリーとアーヴィンを見る ジョン・ノエル(1890-1989)軍人、探検家、映画制作者  1913年、23才のときカルカッタ駐屯のインド軍に入り、シェルパら5人と共にチベットに潜入して、エヴェレスト北面60㎞まで接近した。1914年、ロンドンの王立地理学会で前年のエヴェレストへの秘密旅行の報告をし、エヴェレスト登山の実行を強く促した。この講演会に出席していたアルパイン・クラブのファーラー会長が、アルパイン・クラブとしてぜひエヴェレストへ登りたいと発言、これが契機となってエヴェレスト遠征が動き出すこととなった。  1922年第2次、1924年第3次エヴェレスト登山隊に映画撮影技師として参加した。1924年の登山隊に参加するため軍を退役し、映画製作会社を設立した。第3次登山隊の記録映画は「The Epic of Everest, 1926」(日本名:エヴェレスト叙事詩)の題名で発表され、多くの国で上映された。  ノエルはこの映画興行を成功させる為に、チベット政府の許可なくラマ僧の一団を国外に連れ出し、舞台で宗教的舞踊を見世物にしたと非難された。他にも原因があるが、この事もチベット政府の怒りを買う一因となり、チベット政府はアルパイン・クラブに対して登山許可を出さず、そのため第4次遠征は9年後の1933年まで中断された。 内容  本書は1913年、エヴェレストに接近しようとしてチベットへ潜入した時の、そしてイギリスの第2次(1922年)、第3次(1924年)エヴェレスト遠征隊に撮影技師として参加したノエルの遠征記録である。内容は第?部・山の挑戦、第2部・第1回探検と登攀、第3部・第2回登攀と記録、付録からなる。  第1部山の挑戦は、ノエルがまだヨーロッパ人が誰も間近に見たことのないエヴェレストへ北から近づこうと決意し、1913年、ネパール人ら5人を連れて鎖国のチベットへ秘密潜入した時の紀行である。ダージリンからシッキムを通りチベット入りするが、チベット兵に越境を咎められて銃撃され、止むなく逃げ帰る。  第2部、3部は遠征隊の記録映写技師として参加した筆者が見た隊員の生活や人柄、現地の情景や風俗などを描写している。ヤングハズバンドの「エヴェレスト登山記」が主に登山活動を淡々と記述しているのに比べ、本書は写真家らしく生き生きとした記述である。1924年の遠征では、高度が高くなるにつれてちょっとした摩擦で放電を起こし、そのため画像にダメージを与えるセルロイド・フィルムの取り扱いに苦労しながらカメラをノース・コルまで担ぎ上げ、登山隊の活動を記録した。  1924年6月2日、8,170mに設営した第6キャンプから無酸素で出発したソマヴェルとノートンが、イエローバンドに沿って進み、大クーロアールに達した(8,572m)。この高度記録は、1952年のスイス隊によって更新されるまで30年近くの間、人類が自分の足で達した最高の高さであった。ノエルは2人が第6キャンプへ入る前の2人の撮影に成功する。  それから6日後の6月8日、ジョージ・マロリーとアンドリュウ・アーヴィンが第6キャンプ(8,170m)から頂上へ向かった日の朝、ノエルはノース・コルからテレスコープで2人を探すが、濃霧のためについに発見できなかった。彼らが出発してから3日目、第5キャンプへ下山してくるサポート隊のノエル・オデルらをテレスコープで捉えた。彼らは第5キャンプから信号を送ってきたが、それはマロリーとアーヴィンの遭難を知らせる信号であった。ノエルはその時の情景を次のように記す。  「私は、救援隊が、六枚の毛布を十字架型に並べるのを見た。そして、彼らは行ってしまった。それは死の信号であった。その瞬間のことをありありと覚えている。私はこの信号を望遠鏡から眺めながら、その光景を、強力な拡大レンズで撮影していた。キャメラは電池で動かされていた。信号を読んだ私は、興奮のあまり、自分でキャメラのハンドルを回すことが出来なかった。ブルースは、何が見えるかと私に聞いた。明らかに、それが十字架だったのを見たのだが、そう答える気力はなかった。自分で見てくれと言って、望遠鏡を渡した。皆は眺めた。どうかして、別の信号ではないかと、皆して試みた。それは紛れもなく、白雪上に置かれた十字架だった。」  付録は、登攀に酸素を使用することの優位性と器具と酸素の改良について、また、空からエヴェレスト頂上に降下することの可能性と方法についての面白い見解を述べている。 山岳館所有の関連蔵書 The Light of Experience/Sir Francis Younghusband/1927/ロンドン The Epic of Mount Everest/Sir Francis Younghusand/1929/ロンドン Everest Reconnaissance-The First Expedition 1921/Mallory, Robertson./1991/ロンドン Mount Everest:The Reconnaissance, 1921/Lieutenant Col. C.K. Howard-Bury and other members of the Mount Everest Expedition/1929/ロンドン The Fight for Everest: 1924/By Lieutenant Colonel, E.F.Norton and other members of the Expedition/1927/ロンドン The Story of Everest/Captain John Noel/1927/アメリカ エヴェレスト登山記/ヤングハズバンド/田辺主計訳/1931/第1書房 ヤングハズバンド伝−激動の中央アジアを駆け抜けた探検家/金子民雄/2008/白水社  その他エヴェレスト関係多数
4. ヒマラヤに挑戦して/バウアー/1931
Review/trance/chosen.html 4. ヒマラヤに挑戦して/バウアー/1931 4.ヒマラヤに挑戦して パウル・バウアー 伊藤愿訳 1931年 黒百合社 原題:Im Kamph um den Himalaja/1929/Paul Bauer カバーと表紙 カバーと表紙 船上にて、前左バウアー 船上にて、前左バウアー カンチェンジュンガ、近景はグリーン・レイクの平原とゼムゥ氷河の堆積堤 カンチェンジュンガ、近景はグリーン・レイクの平原とゼムゥ氷河の堆積堤 トゥイン氷河より見たカンチェンジュンガ及び北東稜 トゥイン氷河より見たカンチェンジュンガ及び北東稜 キャンプ6付近の難場 キャンプ6付近の難場 キャンプ8の上(トンネル塔、大塔,粉雪塔 キャンプ8の上(トンネル塔、大塔,粉雪塔 パウル・バウアー(1896-1990) 公証人、登山家  ライン河畔クーゼルに生れる。若い頃からアルプスの山々に親しむが、第1次世界大戦に従軍し、イギリスで捕虜生活を送ったのち、応召から5年後の1919年帰国する。敗戦による精神的な痛手を癒す為、アルプスの高峰に仲間と共に積極的に立ち向かう。1928〜29年、ティルマンら友人3人とカフカズに遠征し、シハラ(5068m)、ディフタウ(5198m)に登頂、ゲストラ(4860m)〜リアルバー(4355m)の縦走を行う。カフカズでの経験に力を得て、翌1929年、ババリア出身の登山仲間8人を率いてカンチェンジュンガに北東稜から挑戦するが、悪天候に阻まれて7,200mで撤退。1931年、再度北東稜から挑戦し、隊員のハーマン・シャラーとポーターが墜落死するも果敢に登攀を継続、結局北東稜の急なリッジを越えられずに7,750mで撤退した。1932年、オリンピック・ロスアンゼルス大会芸術競技の文学部門で、1931年のカンチェンジュンガ遠征の記録“Um den Kangtsch”により金メダルを獲得する。1936年、ナンガ・パルバット遠征の訓練を目的の1つに、カルロ・ヴィーンらを率いてシッキムへ入り、シニオルチュー(6,887m)に初登攀、ネパール・ピーク(7,168m)にも登頂した。1937年、ドイツのナンガ・パルバート第3次遠征隊カルロ・ヴィーン隊長以下隊員7名、シェルパ9名の遭難の救援に飛行機で赴く。1938年、ナンガ・パルバット第4次隊を編成して遠征、C4(6,180m)に飛行機で物資を投下するという新作戦を展開するが、悪天候に阻まれて7,300mで撤退した。  第2次大戦中、バウアーはアルプス山岳部隊の将校、そして1943年からは山岳部隊2,000名の先頭に立って戦った。1951年、本書訳者の伊藤はミュンヘンで公証人事務所を営むバウアーに面会し、本書訳出の思い出や将来の海外遠征について話し合った。 内容  本書は伊藤愿(1908-1956)が京都大学3年生の時に翻訳した。伊藤は旧制甲南高校時代から登山を始め、京大山岳部では西堀栄三郎らと厳冬期の富士山で極地法(ポーラー・メソッドの伊藤による日本語訳)を展開するなど登山界の第1線で活躍した。AACKが初めての海外遠征の白頭山を極地法で厳冬季初登頂したのは本書出版から3年後の1934年であった。  ドイツはカンチェンジュンガにパウル・バウアー隊長の下、1929年、1931年と遠征隊を送ったが、本書は1929年の遠征記録である。 バウアーが、ドイツの敗戦に終った第1次世界大戦からイギリスでの捕虜生活を含む5年間の戦役から帰国し、ヒマラヤ行きを決心し、そして登山仲間と計画を具体化していくところから始まる。(1.ヒマラヤ行きの決心)  極端に少ない予算で計画を達成する為に、徹底した切り詰めを行なう。  「2人に対して1個のシュラーフ・ザック、4人に対して1張りの天幕、数ヶ月の間は万事がこの調子であった。かかる状態に耐えるには、ただ、克己、謙譲、友情によってのみ、可能であったことは言うまでもない。」(2.準備)  6月23日、ミュンヘンを出発、船便と汽車を乗り継いで7月28日、ようやくダージリンに到着する。ここで、いくつかの計画の中からゼムゥ氷河からカンチェンジュンガ登攀に進路を決定する。(3.ミュンヘンからセイロンへ、4.ダージリンへ)  7月31日、ポーター90人あまりと共にダージリンを出発、ゼムゥ川のジャングルを進路を切り開きながら進み、標高4,370mにベースキャンプとなる柴小屋を設営したのは、8月16日であった。(5.シッキムを廻って、6.ゼムゥ谷へ)  事前の記録、写真の研究では登頂に可能なルートは、ゼムゥ氷河からの北稜、北東稜、東稜が考えられていた。8月18日、3パーティーに分かれ、これらの山稜の登路偵察にゼムゥ氷河上流に赴いた。しかし、何れの山稜へも適当な登路を見出せなかった。バウアーは決断を下す。  「実際に稜の様子は圧倒的なものではあった。では、不可能? 否、そう見えるだけなのだ!北東稜の途中の断崖までの険しい岩壁や氷壁は登攀できる。―――熟練せる氷上登攀者は雪崩の危険のない所ならほとんど何処でも登攀できる。そして雪崩はまた、岩の出っ張っている下にいれば避けることが出来るのだ。」(7.偵察)  北東稜の付け根5,140mに前進キャンプ(第6キャンプ)が設営され、本格的な登攀が開始されたが、頻繁な雪崩と落石の為、山稜への岩壁突破に苦闘する。しかし、登攀開始から8日目、ついに北東稜上5,660mに第7キャンプが設営された。  「我々はこれを『鷲の巣』と呼んだ。これはウィンクラー・トゥルムのような垂直な巨塔の裾にある絶壁上の、幅が辛うじて1m半ばかりある岩棚上にあるからだ。」  山稜上でも苦闘は続く。やせ尾根と雪庇、連続する氷塔、通過不能のために2日かかって氷塔にトンネルも掘った。バウアーはアルプスでの経験を基に、6,000m以上のキャンプでは必ず雪洞を掘って利用した。第9キャンプは6,570mに作った。  「雪洞の入り口は出来るだけ小さくし、内部はもぐらの巣のように広く作った。気温は昼は大抵零下十度、夜は零下二十度乃至三十度の寒さであるのに内部は零下二、三度になる事はめったになかった。この中で我々はその壁を、時にはゴチックの円天井のように、また時には浪漫的な中性古代の城のように空想した。各人は夫々壁がんや傍室を拵えた。」  苦闘の連続の末10月2日、ついに7,020mに第10キャンプの雪洞が掘られた。そして、もう稜線上には困難な個所はほとんどなさそうに見え、後はキャンプを2つ伸ばせば登頂できると隊員の意気は上った(8.カンチェンジュンガ)。  ところが10月4日から天候が急激に悪化し、5日間も吹雪が荒れ狂い、各キャンプは孤立し、連絡が取れなくなった。バウアーは迷い、そしてついに撤退を決断する。  「私はまだ逡巡していた。--------まだ断固たる引揚げの決心がつかなかった。戦争を経験しているドイツの若者は決して甘やかされて育ってはいない。宿命を忍ぶことを知っている。美しい夢が消え去ったとて悲観し切ってしまったり、未練がましい振舞いをしたりはしない。それだのに私は今、此処で引き返すことはどうしても残念で堪らなかった。しかし即座に引揚げる事は-------意志に反対し、憧れの心はそれを拒もうとするが、-------我々に残された唯一の道だ。それで私は、この機に望んでせめてもの心遣りに、ゆっくりとドイツ国旗を雪洞の床に広げて、その皺を丁寧に伸ばした。そしてその側にイギリス国旗も置いた。」  だが、下山も悪戦苦闘であった。バウアーのパーティーが前進キャンプに帰投出来たのは、第10キャンプ出発後4日目であった(9.退却)。  カンチェンジュンガの初登頂は、この遠征から26年後の1955年、ヤルン氷河に登路をとったチャールス・エヴァンス率いるイギリス隊によって成された。  本書195頁の内70頁は日誌、経費、食料、装備、写真、医学的現象、高度と名勝、天候、地図についての注意、文献の記録に割いている。何れも詳細な内容で、当時のヒマラヤを志した人々の貴重な資料となった事であろう。 山岳館所有の関連蔵書 バウアーの著作 Im Kamph um den Himalaja/1929/ドイツ Um den Kantsch! /1933/スイス ヒマラヤに挑戦して パウル・バウアー/伊藤愿訳/1931年/黒百合社 ヒマラヤ探査行 ナンガ・パルバット攻略/小池新二訳/1938/河出書房 ウム・デン・カンチ/慶応山岳部有志訳/登高会/1936 カンチェンジュンガ登攀記/長井一男訳/1943/博文堂 カンチェンジュンガをめざして/田中主計・望月達夫訳/1957/実業之日本社 ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/横川文雄訳/1969/あかね書房 その他関連図書 Kangchenjunga The Untrodden Peak/C.Evans/1956/イギリス The Kangchenjunga Adventure/F.S.Smythe/1930/イギリス Kanchenjunga/John Tucker/1955/ロンドン Round Kantschenjunga/D.W.Freshfield/1979/ネパール カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂 カンチェンジュンガ その成功の記録/C.エヴァンス/島田巽訳/1957/朝日新聞社 カンチェンジュンガ縦走/日本山岳会カンチェンジュンガ縦走隊/茗渓堂/1986 カンチェンジュンガ西・東/山森欣一編/日本ヒマラヤ協会/1993 カンチェンジュンガ北壁・無酸素登頂の記録/山学同士会/1980 カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/フレッシュフィールド/薬師義美訳/1969/あかね書房 ヤルンカン/京都大学学士山岳会/1975/朝日新聞社 ヤルンカン遠征隊報告書/京都大学学士山岳会/1973/朝日新聞社 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中公新書 妻に送った九十九枚の絵葉書 伊藤愿の滞欧日録/且方恭子編/2008/清水弘文堂書店
5. ウム・デン・カンチ/バウアー/1936
Review/trance/kantsch.html 5. ウム・デン・カンチ/バウアー/1936 5.ウム・デン・カンチ バウアー 慶応山岳部部員有志訳 1936年 登高会 原題:Um den Kantsch/1933/Paul Bauer 表紙/見開き 表紙/見開き ゼム氷河上部 ゼム氷河上部 原著表紙 原著表紙 パウル・バウアー(1896-1990) 公証人、登山家  ライン河畔クーゼルに生れる。若い頃からアルプスの山々に親しむが、第1次世界大戦に従軍し、イギリスで捕虜生活を送ったのち、応召から5年後の1919年帰国する。敗戦による精神的な痛手を癒す為、アルプスの高峰に仲間と共に積極的に立ち向かう。1928〜29年、ティルマンら友人3人とカフカズに遠征し、シハラ(5068m)、ディフタウ(5198m)に登頂、ゲストラ(4860m)〜リアルバー(4355m)の縦走を行う。カフカズでの経験に力を得て、翌1929年、ババリア出身の登山仲間8人を率いてカンチェンジュンガに北東稜から挑戦するが、悪天候に阻まれて7,200mで撤退。1931年、再度北東稜から挑戦し、隊員のハーマン・シャラーとポーターが墜落死するも果敢に登攀を継続、結局北東稜の急なリッジを越えられずに7,750mで撤退した。1932年、オリンピック・ロスアンゼルス大会芸術競技の文学部門で、1931年のカンチェンジュンガ遠征の記録“Um den Kangtsch”により金メダルを獲得する。1936年、ナンガ・パルバット遠征の訓練を目的の1つに、カルロ・ヴィーンらを率いてシッキムへ入り、シニオルチュー(6,887m)に初登攀、ネパール・ピーク(7,168m)にも登頂した。1937年、ドイツのナンガ・パルバート第3次遠征隊カルロ・ヴィーン隊長以下隊員7名、シェルパ9名の遭難の救援に飛行機で赴く。1938年、ナンガ・パルバット第4次隊を編成して遠征、C4(6,180m)に飛行機で物資を投下するという新作戦を展開するが、悪天候に阻まれて7,300mで撤退した。  第2次大戦中、バウアーはアルプス山岳部隊の将校、そして1943年からは山岳部隊2,000名の先頭に立って戦った。 内容  パウル・バウアー率いる2回目のカンチェンジュンガ遠征(1931年)の記録である。第1回目(1929年)のバウアーの遠征記録(4.「ヒマラヤに挑戦して」参照)が、京大学生の翻訳で、書店発行の堂々たる装丁であるが、本書は46版、ホチキス止め簡易製本の私家本である。「序」によれば、慶應山岳部部員有志が夏休みを利用して、それぞれ分担して翻訳、部の研究会で詳細を話し合った。そして部内誌「登高会会報」に載せる予定であったがその機を得ず、翻訳から3年後の1936年、単行本としての体裁を整えて部内誌として出版したとある。  文章が直訳に近く、決して読みやすいとは言えないが、学生達がヒマラヤ研究の為に一生懸命翻訳した書であることを考えると、止むを得ないと納得できる。原著は素晴らしい写真が多く挿入されているが、本書には図面2葉のみが掲載されている。  前回の切り詰めた隊と比べて今回は、ドイツ山岳会、ロンドンタイムス他多数の団体や個人からの寄附を受け、装備も食料も潤沢であった。隊員は前回の隊員のうち5名が参加、これに何れも実力のある新人4名を加えた強力な隊であった。前回同様、ゼム氷河から北東稜に次々とキャンプを進めたが、C7(5,660m)の通称「鷲ノ巣」の上部で、登攀中のヘルマン・シャラーとシェルパがゼム氷河へ墜落して死亡した。隊は登攀を一時中止して遺体を収容、ゼム氷河のほとりにその墓を作った。  埋葬が終ると再び登攀を開始した。暖気の為前回よりも状態が悪い北東稜を懸命に登った。8月24日、C8を建設、BC設営以来2ヶ月近くが経っていた。9月17日、C11(7,360m)の雪洞から出発した隊員2名が7,750mの北東稜最高点に到達した。北東稜はここから70m切れ落ち、さらに150m登って北稜へと続いていた。ここからはもはや技術的に困難な部分はなかった。翌日、隊員3名が鞍部まで下ってC12の雪洞を掘るべく出発した。しかし、北稜への雪の斜面は雪崩の危険が極めて大きく、バウアー隊長は前回に引き続き、またもや勇気ある撤退を決断せざるを得なかった。撤退は19日に始まり、27日には全員がゼム氷河に降りた。  ドイツはこの後、国家的威信をかけるかのように、ひたすらナンガ・パルバットに力を向け(6.「ヒマラヤに挑戦して」、9.「ヒマラヤ探査行」参照)、シニオルチュー(6,887m)登頂の為の小パーティーを送った以外、カンチェンジュンガには2度と姿を見せることはなかった。初登頂は、1955年、ヤルン氷河からチャールス・エヴァンス隊長率いるイギリス隊によって成された。 山岳館所有の関連蔵書 バウアーの著作 Im Kamph um den Himalaja/1929/ドイツ Um den Kantsch! /1933/スイス ヒマラヤに挑戦して パウル・バウアー/伊藤愿訳/1931年/黒百合社 ヒマラヤ探査行 ナンガ・パルバット攻略/小池新二訳/1938/河出書房 ウム・デン・カンチ/慶応山岳部有志訳/登高会/1936 カンチェンジュンガ登攀記/長井一男訳/1943/博文堂 カンチェンジュンガをめざして/田中主計・望月達夫訳/1957/実業之日本社 ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/横川文雄訳/1969/あかね書房 その他関連図書 Kangchenjunga The Untrodden Peak/C.Evans/1956/イギリス The Kangchenjunga Adventure/F.S.Smythe/1930/イギリス Kanchenjunga/John Tucker/1955/ロンドン Round Kantschenjunga/D.W.Freshfield/1979/ネパール カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂 カンチェンジュンガ その成功の記録/C.エヴァンス/島田巽訳/1957/朝日新聞社 カンチェンジュンガ縦走/日本山岳会カンチェンジュンガ縦走隊/茗渓堂/1986 カンチェンジュンガ西・東/山森欣一編/日本ヒマラヤ協会/1993 カンチェンジュンガ北壁・無酸素登頂の記録/山学同士会/1980 カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/フレッシュフィールド/薬師義美訳/1969/あかね書房 ヤルンカン/京都大学学士山岳会/1975/朝日新聞社 ヤルンカン遠征隊報告書/京都大学学士山岳会/1973/朝日新聞社 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中公新書
6. ヒマラヤに挑戦して-ナンガ・パルバット1934年登攀/ベヒトールト/1937年 
Review/trance/nanga.html 6. ヒマラヤに挑戦して-ナンガ・パルバット1934年登攀/ベヒトールト/1937年  6.ヒマラヤに挑戦して-ナンガ・パルバット1934年登攀 フリッツ・ベヒトールト 小池新二訳 1937年 河出書房 原題:Deutsche am Nanga Parbat-Der Angriff 1934/Fritz Bechtold 表紙・内表紙 表紙・内表紙 見開き(親しき山の友へ送る) 見開き(親しき山の友へ送る) ベースキャンプの隊員達 ベースキャンプの隊員達 トナンガとメルヘンウィーゼ ナンガとメルヘンウィーゼ ナンガ北壁とラキオト氷河 ナンガ北壁とラキオト氷河 チョンラピークより見たナンガ チョンラピークより見たナンガ フリッツ・ベヒトールト( −1962)登山家  ウィリー・メルクルの僚友としてアルプスとコーカサスで鍛えたのち、前後4回もナンガ・パルバットに挑んだ。第1回目は1932年のドイツ・アメリカ遠征隊で、メルクルが隊長の強力な登山隊であった。しかし、モンスーンの降雪でラキオト・ピーク西の約7,000mの稜線までで撤退。2回目は1934年でこの時もメルクル隊長の副将格で活躍。しかし、メルクル他3隊員とシェルパ6人の犠牲者を出した。この悲壮な登山の一切を本書で報告している。1937年、カルロ・ヴィーン隊長率いるドイツ第3次隊の総勢16名が大量遭難するという知らせに接し、バウアー、クラウスと共に急行し、その捜索に当たった。翌1938年、バウアー率いる第4次隊に参加したが、悪天候のためシルバー・ザッテルに達することが出来ず、7,300mで引き返した。  ベヒトールトが撮影した同名の記録映画「ヒマラヤに挑戦して」を東和商事が輸入し、1938年日本国内で上映された。 内容  ドイツはナンガ・パルバットに1932年、1934年、1937年、1938年、1939年と戦前5回の遠征隊を送ったが何れも失敗、戦後1953年になって独墺合同隊のヘルマン・ブールがようやく初登頂を果たした。本書は隊員3名、シェルパ6名が遭難死した1934年第2次隊の記録であるが、隊長のウィリー・メルクルも遭難死したため、副将格のベヒトールトが、自分の記録と隊員達の日記、連絡メモなどを基に著したものである。原題の和訳は「ナンガ・パルバットのドイツ人」であるが、東和商事が輸入したベヒトールト撮影の記録映画の題名が「ヒマラヤに挑戦して」であったために、本書も同名にして宣伝したいと書店から頼まれ、やむを得ず同意したと訳者が「跋」に書いている。  序でベヒトールトは次のように述べている。  「ここに提供するのは、事件の経過の大要を述べた日記の抄録に過ぎない。本文の簡単なのを補って、挿絵がその課題の困難とその素晴らしい魅力を伝え、我が同僚がその生命を捧げた目標を明確に示すであろう。この目標のためには、我々は更に闘う覚悟である」  1932年、ウィリー・メルクル(1900-1934)は、ドイツ人6人、アメリカ人2人からなる合同登山隊を組織、北面のラキオト氷河からの登頂ルートを発見し、C7(6,970m)までキャンプを進めたが、天候の急激な悪化のため、むなしく下山せざるを得なかった。1年おいて1934年、その頃独墺山岳会として一体となっていたドイツとオーストリアの先鋭登山家達は、再びメルクルを隊長とした強力な登山隊を送った。メルクルの友人で最前衛の第1級登山家として勇名を馳せたヴィロ・ヴェルツェンバッハ、前回の遠征に参加したベヒトールト、シュナイダー、アッシェンブレンナー、ミュルリッター、ドレクセルなど計9名の錚々たるメンバーと医者1名、学術班3名が参加した。5月17日、メルヘン・ヴィーゼ(お伽の森)に達し、前回のルートを踏襲して攻撃を開始した。その直後にC2でアルフレッド・ドレクセルが急死すると言う不幸に見舞われたが、体勢を立て直して攻撃を再開、ラキオト峰(7,074m)直下にC6を建設、7月6日、シルバー・ザッテル(銀鞍)の難関を突破して、その上のプラトーにC8(7,480m)に建設した。そしてあと1日で目的が達せられると確信した。  しかし、その夜から激しい暴風雪がテントを襲った。翌日も天候は回復しない。生命の危険を感じるようになり、7月8日、ついにメルクル隊長は下山を決意する。しかしその下山行は悲惨な結果をもたらした。シュナイダーとアッシェンブレンナーは先行して下山、かろうじて前進のC4に到達、ベヒトールトら支援隊員に迎えられた。  先行隊員から遅れること僅か2時間後、本隊のメルクル、ヴェルツェンバッハ、ヴィーラントの3人と8人のシェルパは荒れ狂う暴風雪の中で難渋し、シルバー・ザッテルの下でビバークした。全員で寝袋が3個しかなく、アルプスで超人的活躍をしたヴェルチェンバッハは体力にものを言わせて寝袋なしで夜を送った。その夜、シェルパのニマ・ノルブが死に、その後の暴風下での下山で、まずヴィーラント、続いてヴェルチェンバッハも倒れた。更にメルクル隊長もモーレンコップと呼ぶ岩峰近くまで下降した所でこの世を去った。C4からは再三救援隊が上へと向ったが、胸まで没する深雪に阻まれ、C5にも到達できなかった。最後の生存者シェルパのアンツェリンがC4に到達したのは7月15日であった。先に肺炎で死亡したドレクセルを含めて隊員4名、シェルパ6名の死をもって終った。メルクルとシェルパのゲイ・レイの遺体はそれから4年後に発見された。この遠征について、ベヒトールトはBCを去るにあたって次のように述べている。  「ここでもう一度光り輝くナンガへ対ってその山稜を見上げた時、我々の心の中にも、運命との総ゆる争闘が和解して行った。そして我々は認めた。この強大な山の勝利の賞牌を持って故国へ帰るのは立派なことであるに相違ない。けれどもこのような目標の為にその生命を捧げ、将来の戦士の若い心のうちに、道を拓き光明を点ずるのは更に大きなことである」 山岳館所有の関連蔵書 Deutsche am Nanga Parbat-DerAngriff 1934 Fritz Bechtold Nanga Parbat SAdventure, A Himalaya Expedition 1935 tr. by H.E.tyndal Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ ヒマラヤに挑戦して ナンガ・パルバット1934登攀/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房 ヒマラヤ探査行/パウル・バウアー/小池新二訳/1938/河出書房 ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂 ある登攀家の生涯/カール・メルクル/長井一男,松本重男共訳/1943/昭和刊行会 ナンガ・パルバット登攀史/パウル・バウアー/横川文雄訳/1969/あかね書房(ヒマラヤ名著全集) 八千メートルの上と下/1974/ヘルマン・ブール/横川文雄訳/1974/三笠書房 ナンガ・パルバット単独行/ラインホルト・メスナー/横川文雄訳/1981/山と渓谷社 ナンガ・パルバット回想 闘いと勝利/ヘルリッヒ・コッファー/岡崎祐吉訳/1984/ベースボールマガジン(山岳名著選集) チベットの七年/ハインリッヒ・ハーラー/近藤等訳/1955/新潮社 ナンガ・パルバット登山報告書/札幌山岳会/1985
7. 日本アルプス登山と探検
Review/trance/rock.html 7. 日本アルプス登山と探検 7.日本アルプス登山と探検 ウォルター・ウェストン 岡村精一訳 1933 梓書房 原題:Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps/1896/Walter Weston 表紙と扉 表紙と扉 ウェストン氏 ウェストン氏 安房峠麓の丸木橋 安房峠麓の丸木橋 白骨温泉の浴場 白骨温泉の浴場 御岳山頂の祠 御岳山頂の祠 中尾の猟師頭 中尾の猟師頭 ウォルター・ウェストン(1861−1940)宣教師 登山家  イングランド中部のダービー近郊に生れる。1885年、ケンブリッジ大学リドレーホール(神学校)を卒業。1887(明治20)年〜1915(大正4)年に宣教師として3回、延べ15年間滞日した。その間勢力的に日本の山々に探検的登山を敢行、英国で著作や講演により紹介した。小島烏水らに山岳会の結成を勧め、その結果、1905(明治40)年に山岳会(後に日本山岳会と改称)が発足した逸話は有名である。滞日の時期と主な行動は次のとおりである。 1回目 1887(明治20)年-1895(明治28)年 熊本、神戸に滞在。北アルプスを中心に探検的登山を行なった。帰国後、表題の本を出版し、アルパインクラブ、王立地学協会で日本アルプスの講演を行なった。 2回目 1902(明治35)年-1905(明治38)年 新婚の夫人を伴い、横浜に滞在。南アルプス、北アルプスなどを精力的に登る。帰英にあたり、小島烏水らに山岳会の結成を強く働きかけた。 3回目 1911(明治44)年-1915(大正4)年 横浜に滞在。主に北アルプスに登る。帰国後、王立地学協会理事、ケンブリッジ大学校外講師、ジャパン・ソサイアティ理事 1917(大正6)年、日本山岳探検の業績によって、王立地学協会よりバック賞金を授与される。 1918(大正7)年、The Playground of the Far East (岡村精一訳“極東の遊歩道”)を発刊。 1919〜21年、アルパインクラブ委員 1937(昭和12)年、喜寿を記念して日本山岳会が上高地にレリーフを製作、日本政府からは勲四等瑞宝章が贈られた。 1940(昭和15)年、ロンドンにて逝去、78歳 日本山岳会最初の名誉会員 内容  日本にいわゆる近代登山の種をまき、それを育て上げる役割を果たした本として我が国登山史上に重要な役割を占める。ウェストンが1887(明治20)年に来日してから1895(明治28)年に帰英するまでの第1回滞日中の登山記録である。その当時の我が国の山登りは、1894(明治27)年に志賀重昂の「日本風景論」が出たばかりで、ようやく新しい時代の夜明けを迎える段階に達した所であった。その歩みに偶然とは言え、大きな弾みをつける契機となったのがこの本であった。(島田巽「復刻日本の山岳名著全集」)  1887(明治20)〜1889(明治22)年の熊本在勤中に、阿蘇山、祖母山、霧島山などに遊んでいるが、日本アルプスの美しさに接したのは1891(明治24)年であった。日本アルプスとウェストンとのつながりはここから始まり、1894(明治27)年までの4年間の中部山岳地帯の山旅が、本書の主題となっている。年代別にその山行を概観すると、 1891年:浅間山、槍ヶ岳を目指すが失敗、木曽駒、1892年:富士山、乗鞍−笠ヶ岳(未登)−徳本峠−槍ヶ岳(登頂に成功)、赤石岳、富士山、1893年:恵那山、富士山、大町−針ノ木峠―ザラ峠―立山温泉−雄山―船津−鎌田−笠ヶ岳(未登)−安房峠―島々−徳本峠―前穂高岳、1894年:白馬岳、笠ヶ岳(登頂に成功)、常念岳、木曽福島より御岳。  槍ヶ岳登山に成功した1892(明治25)年の記録を少し詳しく見ると、  5月、御殿場から富士山に2回目の登頂。7月〜8月、汽車で岐阜へ、飛騨川沿いに人力車、馬車などを乗り継いで高山へ、平湯に至り、ここを根拠地に乗鞍岳を往復。その後、蒲田から笠ヶ岳を目指すが地元民の強い反対に遇い断念。平湯から安房峠、梓川沿いに白骨温泉を経由して島々へ、徳本峠を越えて槍沢沿いに槍ヶ岳登頂。2回目の挑戦での成功であった。その後松本に出て、さらに南アルプスを目指す。諏訪湖を経由し、伊那高遠から赤石岳へ登頂する。これより南へ下って、甲府を経由し富士川を舟で下って太平洋へ出た。岐阜出発から数えて3週間の旅であった。  この時登頂を試みたが地元民の反対で果たせなかった笠ヶ岳は、2年後の1894(明治27)年に3度目の挑戦でついに登頂を果たした。この計画の支障となっていた地元民の反対の理由を、それは地元の人たちの恐怖からである、と地元民に隠れて案内をしてくれた地元の猟師が語ってくれた。 「蒲田の人たちは、仕方のないほど迷信的な人間です。笠ヶ岳の淋しい絶壁や峡谷には、力の強い山の精が歩き回っていると信じています。もしもこの谷間に住んでいる人達が、穀物などの収穫時に、山の境内に見知らぬ人を案内して行ったなら、きっと破壊的な嵐が谷を襲うに違いないと信じています。そして彼らはこれを、聖涜の罪を犯すのを助けた人に帰して了い、それに相応しい罰をすぐに加えます。」  ウェストンは、汽車や自動車のない内陸部を人力車、馬車、あるいは徒歩で、しかもかなりの早足で旅行をしているが、通り過ぎた風景を適確に捉え、詳細に記録している。途中で立ち寄った茶店の様子が出てくる。部落に着くと、戸数とか産業とか特色などが取材される。明治の中葉における日本の山間部の民俗、風習を克明に描き出し、そして、そのとつとつとして物語る言葉の中に、里人への温かい思い、限りない山への情熱がほとばしっている。笠ヶ岳登山で経験した山人の迷信、常念房伝説、御岳行者の神懸かりなどに関する貴重な記録を残している。第15章、16章はウェストンが観察した民族・風習についての考察に宛てられている。  ウェストンは日本アルプス“The Japanese Alps”という言葉の起源について、1878(明治11)年に槍ヶ岳へ外人として第1登を果たした英国人ガウランド教授(大阪造幣寮の冶金技師)がアレイ社の「ハンドブック・フォア・ジャパン」の中で用いたのが最初であると述べている(山岳第十三年第2号)。また日本人が使用している”The Japan Alps”はまったく語呂も悪いし、正しい英語の使用法から外れている、と注意している。 山岳館所有の関連蔵書 Mountaineering and Exploration in The Japanese Alps (復刻日本の山岳名著) W.ウェストン 大修館 1975 The Playground of the Far East(新選復刻日本の山岳名著) W.ウェストン 大修館 1978 日本山水論 小島烏水 隆文館 1907 氷河と万年雪の山 小島烏水 梓書房 1932 アルプスと人 松方三郎 丘書院 1958 わたしの山旅 槇有恒 岩波新書 1970 ウェストンの信濃路探訪 田畑真一 センチュリー 1995 ウォルター・ウェストン未刊行著作集(上)(下) 三井嘉雄 郷土出版社 1999 Eight years of Travel and Exploration the Japanese Alps W.Weston 山岳第五年第2号 Of the Origin of the Term “The Japanese Alps” W.Weston 山岳第十三年第2号 ウェストンと歩んだ頃 浦口文治 山岳第二十九年第3号 ウェストン氏の杖の跡 黒田孝雄 山岳第三十八年第3号 小島と私―初期ウェストンとの交友のことなど 岡野金次郎 山岳第四十四年第1号
8. 中央亜細亜探検記/ヘディン/1938
Review/trance/centralasia.html 8. 中央亜細亜探検記/ヘディン/1938 8. 中央亜細亜探検記/スウェン・ヘディン/岩村忍訳/1938/冨山房/262頁 原題:Through Asia/1898/Sven Hedin 表紙 表紙 タクラマカン沙漠の砂塵 タクラマカン沙漠の砂塵 水盡きる 水盡きる 著者肖像(1893年頃) 著者肖像(1893年頃) ダンダン・ウィリクの古代都市跡 ダンダン・ウィリクの古代都市跡 1934年のC4とラキオトピーク コンチェ・ダリアを渡る 1934年のC4とラキオトピーク コンチェ・ダリアを渡る スウェン・ヘディン(1865-1962) 地理学者、探検家  ストックホルムに建築士の父の二男として生れる。1875-85年、ストックホルムのベスコフ私立学校に学ぶ。15歳の時、帆船ヴェガ号で北東航路の突破に成功した探検家ノルデンショルドに影響され、極地への探検を強く意識するようになる。ベスコフ校卒業後の1885年、カスピ海沿岸のバクーへ家庭教師として赴く。家庭教師の契約が終ると、バクーから南へアジア旅行を敢行、この旅行によりアジアの魅力に取りつかれる。1886-88年、ストックホルム単科大学、ウプサラ大学で地理学を学んだのち、1889年、ベルリン大学のフォン・リヒトフォーフェン教授(1833-1905)の門下生となり、地理学・地質学を学ぶ。リヒトフォーフェンとの親交は彼の死に到るまで続いた。  ヘディンは生涯予備調査2回、本格調査5回の中央アジア探検を行なった。本格調査の第1回は1893-97年のパミール高原、タクラマカン、チベット踏査(8.「中央亜細亜探検記」参照)、第2回は1899-1902年のタリム河を下り、楼蘭を発見し、中央アジアを横断、第3回は1906-08年のチベットを2回横断しトランス・ヒマラヤを発見した旅(15.「西蔵征旅記」参照)である。以上で個人での探検は終わり、以降は調査団を率いての探検であった。第4回は1927-33年、スェーデン=ドイツ=中国合同の遠征隊「西北科学考査団」を組織してゴビ砂漠の総合調査を行なった(27.「ゴビ砂漠横断記」参照)。第5回は1933‐35年、中国南京政府の依頼を受け、北西自動車遠征隊を編成し、帰化城からウルムチまでの自動車ルートの開拓調査を行なった(28.「彷徨へる湖」参照)。  ヘディンの7回、50年にわたる中央アジア探検によって、内陸アジアの多くの謎が解明された。“彷徨へる湖”ロブ・ノールの発見、古代王国の都市楼蘭の発掘、タリム川全水路の解明、チベット内奥部、特にトランス・ヒマラヤ(ガンディセ山脈)の発見など、その探検は多くの輝かしい成果を収めた。  第1次大戦(1914-18)後、自国やドイツを擁護するような発言をするようになってから、ロシア、英国、フランスの地理学会はヘディンを名誉会員から除籍し、フランス政府は彼に授与したレジオン・ドヌール勲章を取り外した。さらにナチスとの接触が、第2次大戦後、ナチス信奉者という烙印を押させることになって、西欧ではなるべくヘディンに触れたがらないようになった。しかし、ヘディンは決してナチス信奉者でも同調者でもなく、事実は中立国スウェーデンを戦禍から守るために奔走した人物であり、ナチス寄りというのは事実を知らぬ、作られた伝説であった(金子民雄 ヘディン伝)。  ヘディンは日本を数回訪問した。最初の訪問は1908年、3回目のチベット探検直後に、ボンベイ経由で来日、明治天皇に拝謁し、勲一等瑞宝章を授与され、また、スウェーデン・日本協会を設立するなど、親日派であった。しかし、第2次大戦勃発後は日本の大陸侵略を批判、日本の敗北を予告していた。 内容  本書は、ヘディンの第1回中央アジア探検旅行(1893-1897)の報告書(スウェーデン語)を圧縮した英語版「Through Asia」(1898年発行)の翻訳である。原著にあるパミール高原の科学調査、ムスターグ・アタ(7,546m)試登と氷河調査、旅の最後のチベット高原横断は省略されている。戦後、ドイツ語完訳本から「アジアの砂漠を越えて」2巻(横川文雄訳)が出版されている。  前編「タクラマカンの横断」(第1章〜15章)と後編「ロブ・ノールへ」(第17章〜25章)からなる。本人の味わいのある多くのスケッチが挿入されている。新書版で簡素な体裁であるが、ヘディンの迫真的な記述(翻訳のうまさも相俟って)には、年老いて読んでも若かった頃と変わらず、引き込まれる本である。  前編はかつてヨーロッパ人が一度も足を踏み入れたことがなかったタクラマカン沙漠横断の報告である。ヘディンは1895年4月10日、ヤルカンド・ダリア(ダリア=河)とホータン・ダリアの間の沙漠を横断すべく、ヤルカンド河畔のメルケットを従者4名、ラクダ8頭、犬2匹をひきいて出発する。しかし、このキャラバンには悲惨な結果が待ち受けていた。10日分持っているはずの水が、従者の怠慢から4日分しかなかったのである。ヘディンがこの事実に気付いたとき、一行は既に沙漠の奥深く突き進んでいた。水がなくなり、ラクダは壊滅、従者2名が死亡する。ヘディンは絶望的な彷徨をつづけるが、5月5日、ついにホータン河岸の森に到達、這ってこの森を進み、偶然にも水溜りを見つけて九死に一生を得る。  後編の「ロブ・ノールへ」は、タクラマカン沙漠での遭難の翌1895年1月14日、ホータンから従者4名、ラクダ3頭、ロバ2頭をひきいてホータン・ダリアに沿ってタクラマカン沙漠をタリム・ダリア目指して進み、ロブ盆地に達するまでの記録である。ホータンを出発してから10日目の1月24日、沙漠に広大な遺跡、いわゆるダンダン・ウィリク(象牙の家々の意)を発見する。 「この廃墟の発見は私の亜細亜旅行中に於ける最も予想しなかった発見の一つであった。荒涼たる戈壁(オビ)の沙漠の深奥部、地球上で最も荒れ果てた地域の只中に数千年間風雨に曝されて曾て文明が栄えていた都市が深い眠りに落ちている、とは誰が想像し得たであろうか。------------」  さらに沙漠を北へ進んだヘディンは、2月2日、二つ目の遺跡カラドゥン(黒い丘の意)を発見する。そして水の欠乏に苦しみながら、ついにホータン出発以来41日目でタリム・ダリアに到達する。タリム・ダリアを下ってロブ盆地の詳細な調査を行ない、恩師フォン・リヒトフォーヘンのロブ湖の移動に関する説が正しいことを証明する。  本書はここで終っているが、ヘディンはこの後も東北チベットへの旅を続け(15.「西蔵征旅記」参照)、西寧から凉州を経て包頭から北京に入ったのは1897年3月2日であった。スウェーデン出発後、3年半にわたるヘディン最初の中央アジア探検行であった。 山岳館所有の関連蔵書 ヘディン著作 Transhimalaja- 1,2/1920/ドイツ The Wandering Lake /1940/イギリス ゴビ砂漠横断記/隅田久尾訳/1943/鎌倉書房 ゴビの謎/福迫勇雄訳/1940/生活社 彷徨へる湖/岩村忍・矢崎秀雄訳/1943/筑摩書房   赤色ルート踏破記/高山洋吉/1939/育成社 探検家としての世の生涯(内陸アジア探検史)/小野六郎訳/1942/橘書店   西蔵征旅記/吉田一郎訳/1939/改造社 中央亜細亜探検記/岩村忍訳/1938/冨山房   独逸への回想/道本清一郎訳/1941/青年書房 熱河/黒川武敏訳/1943/地平社   リヒトフォーフェン伝/岩崎徹太訳/1941/ 西蔵探検記/高山洋吉訳/1939/改造社 ヘディン探検紀行全集全15巻、別巻2巻/監修:深田久弥、榎一雄、長沢和俊/1979/白水社 ヘディン素描画集/ヘディン文・モンデル編/金子民雄訳/1980/白水社 その他関連図書 ヘディン 人と旅/金子民雄/1982/白水社   ヘディン伝 偉大な探検家の生涯/金子民雄/1972/新人物往来社 ヘディン蔵書目録(山書研究25号)/金子民雄編/1981/日本山書の会 その他中央アジア関連多数
9. ヒマラヤ探査行/バウアー/1938
Review/trance/tansa.html 9. ヒマラヤ探査行/バウアー/1938 9.ヒマラヤ探査行 パウル・バウアー 小池新二訳 1938 河出書房 原題:Auf Kundfahrf im Himalaya -Siniolchu und NangaParbato/1937/Paul Bauer 表紙,扉 表紙,扉 シニオルチュー シニオルチュー ネパール・ピークよりカンチェンジュンガと遠方にチャムラン、マカルー、エヴェレスト、ローチェを望む ネパール・ピークよりカンチェンジュンガと遠方にチャムラン、マカルー、エヴェレスト、ローチェを望む ナンガ・パルバット ナンガ・パルバット C3よりC4へ、深雪をシュプールする C3よりC4へ、深雪をシュプールする 1934年のC4とラキオトピーク 大惨事はこの付近で起こった 1934年のC4とラキオトピーク 大惨事はこの付近で起こった パウル・バウアー(1896-1990) 公証人、登山家  ライン河畔クーゼルに生れる。若い頃からアルプスの山々に親しむが、第1次世界大戦に従軍し、イギリスで捕虜生活を送ったのち、応召から5年後の1919年帰国する。敗戦による精神的な痛手を癒す為、アルプスの高峰に仲間と共に積極的に立ち向かう。1928〜29年、ティルマンら友人3人とカフカズに遠征し、シハラ(5068m)、ディフタウ(5198m)に登頂、ゲストラ(4860m)〜リアルバー(4355m)間の縦走を行う。カフカズでの経験に力を得て、翌1929年、ババリア出身の登山仲間8人を率いてカンチェンジュンガに北東稜から挑戦するが、悪天候に阻まれて7,200mで撤退。1931年、再度北東稜から挑戦し、隊員のハーマン・シャラーとポーターが墜落死するも果敢に登攀を継続、しかし、北稜への急斜面が雪崩の危険があって越えられず、7,750mで撤退した。1932年、オリンピック・ロスアンゼルス大会芸術競技の文学部門で、1931年のカンチェンジュンガ遠征の記録“Um den Kangtsch”により金メダルを獲得する。1936年、ナンガ・パルバット遠征の訓練を目的の1つに、カルロ・ヴィーンらを率いてシッキムに入り、シニオルチュー(6,887m)に初登攀、ネパール・ピーク(7,168m)にも登頂した(本書)。1937年、ナンガ・パルバート第3次遠征隊のヴィーン隊長以下総勢16名の雪崩による大遭難の救援に赴く。1938年、ナンガ・パルバット第4次隊を編成して遠征、C4(6,180m)に飛行機で物資を投下するという新作戦を展開するが、悪天候に阻まれて7,300mで撤退した。  第2次大戦中、バウアーはアルプス山岳部隊の将校、そして1943年からは山岳部隊2,000名の先頭に立って戦った。 内容  2部構成になっており、前半はシッキム探険紀行「シニオルチュー1936年」、後半は戦前のヒマラヤ登山史上まれに見る悲劇となった第3次ナンガ・パルバット遠征記「ナンガ・パルバット1937年」である。  「シニオルチュー1936年」の前置きでバウアーは、シッキム探険の意図を次のように述べている。 「1929年、1931年(註:カンチェンジュンガ遠征)に集めたあらゆる経験を、後進の僚友ヴィーン、ヘップ、ゲットネルに伝えて、将来彼等がドイツヒマラヤ探検隊を率いることが出来るようにしたいという明確な意図の下に、その指導を引き受けたのである。」  地域はカンチェンジュンガ周辺、特にシニオルチュー(6,887m)初登頂を目指した。シニオルチューはD.W.フレッシュフィールドが「Round Kangchenjunga」(1899)で紹介している山景の「世界で一番美しい山」である。1936年8月、モンスーン真っ最中にゼム氷河に入り、グリーンレークにBCを建設した。直ちにシニオルチューの登路偵察を行うが、湿潤深雪のために進めず、一時撤退する。転進してトゥインズ東峰(7,004m)およびテントピーク(7,365m)を試みるが何れも不成功、しかしネパール・ピーク(7,163m)に初登頂する。  目標のシニオルチューには9月19日から行動を開始、9月23日、深雪に苦しみながらついにヴィーンとゲットナーが初登頂に成功する。帰途、1931年の遠征で遭難死したヘルマン・シャラーの墓を訪ね、ヒッドン氷河、バッサラム渓谷の探査を行う。「結末」でバウアーはこの遠征を次のように総括している。  「これを以って1936年のシッキム探査行は首尾よく終わりを告げたのである。我々は満足することが出来た。シニオルチューの登攀は現実のものとなったし、ヅムトゥウ地域ではリクロその他の5,000m級に成功した。又そこでは6つの新しい氷河に踏み入り、2つの重要なシャルテへ登った。ネパール・ピークの上にも立ち、シムブーの登頂にも成功した。着た山脈では6,000m級4座を征服した。その他にも未だ多くのことを試みた。その上ヴィーンとヘップとは、気象学的・地理学的領域で無数の観察を集めることが出来た。併し、我々は何よりも来るべきナンガ・パルバット探検のために確固たる基礎を築いたのであった。」  後半の「ナンガ・パルバット1937年」は、雪崩の為に7名の隊員と9名のシェルパが犠牲となった第3次遠征隊の記録である。カルロ・ヴィーン隊長、ギュンテル・ヘップ、アドルフ・ゲットネルの3名は、バウアーがドイツ海外遠征の中核と期待し、前年のシッキム探検隊に参加した隊員であった。  本書は登攀隊員全員が死亡した為、残された隊員たちの日記を基に、医師のウルリッヒ・ルフトがまとめたものである。それにバウアーが「前置」と「救援」の項を補足している。  医師のルフトが6月18日、食料と郵便物を持ってC4に着いた時にその悲劇は発見された。 「目の前に恐ろしい広がりを持った雪崩が、長さ400m、幅150mほどの面積に巨大な塊を振り注いでいるのだ。どこを見てもキャンプは影も形もない。何千立方米という氷がその上に滑ってきているのであった。--------何もかも一緒くたにビクともしないコチコチの塊だ。7名の登山家と9名のシェルパ人夫は悉くこのデブリの下に眠っているに相違なかった。」  本国でこの知らせを受けたバウアー、ベヒトールト、クラウスの3人は救援の為に飛行機でギルギットへ赴く。7月10日から発掘作業を開始し、5人の隊員の遺体と日記を含む多くの遺品を収容した。シェルパの遺体はサーダーの依頼によりそのままに置かれた。  しかし、第2次大戦に向って高まるナチ・ドイツのナショナリズムは、国民期待の下に翌1938年、1939年と2度に亘り遠征隊を送ったが、何れも不成功に終った。1939年隊のペーター・アウフシュナイダー隊長とハインリッヒ・ハーラーは、帰国の途次第2次大戦が勃発、インドでイギリス官憲に身柄を拘束される。やがて2人は収容所を脱走、苦心してチベットへ潜入、1950年までそこに止まるという数奇な運命を辿った。  ナンガ・パルバット初登頂は、戦後1953年、独墺登山隊のヘルマン・ブールによって成された。 山岳館所有の関連蔵書 バウアーの著作 Im Kamph um den Himalaja/1929/ドイツ Um den Kantsch! /1933/スイス ヒマラヤに挑戦して/伊藤愿訳/1931年/黒百合社 ウム・デン・カンチ/慶応山岳部有志訳/登高会/1936 ヒマラヤ探査行 ナンガ・パルバット攻略/小池新二訳/1938/河出書房 カンチェンジュンガ登攀記/長井一男訳/1943/博文館 カンチェンジュンガをめざして/田中主計・望月達夫共訳/1957/実業之日本社 ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/横川文男訳/1969/あかね書房 その他関連図書 The Kangchenjunga Adventure/F.S.Smythe/1930/イギリス Kanchenjunga/John Tucker/1955/ロンドン Kangchenjunga The Untrodden Peak/C.Evans/1956/イギリス Round Kantschenjunga/D.W.Freshfield/1979/ネパール Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ カンチェンジュンガ その成功の記録/C.エヴァンス/島田巽訳/1957/朝日新聞社 カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂 カンチェンジュンガ一周(ヒマラヤ名著全集)/フレッシュフィールド/薬師義美訳/1969/あかね書房 カンチェンジュンガ北壁・無酸素登頂の記録/山学同士会/1980 カンチェンジュンガ縦走/日本山岳会カンチェンジュンガ縦走隊/茗渓堂/1986 カンチェンジュンガ西・東/山森欣一編/日本ヒマラヤ協会/1993 ヤルンカン/京都大学学士山岳会/1975/朝日新聞社 ヤルンカン遠征隊報告書/京都大学学士山岳会/1973/朝日新聞社 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中公新書 ヒマラヤに挑戦して:ナンガ・パルバット1934/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房 ヒマラヤに挑戦して ナンガ・パルバット1934年登攀/フリッツ・ベヒトールト/小池新二訳/1937/河出書房 ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂 ある登攀家の生涯/カール・メルクル/長井一男・松本重男共訳/1943/昭和刊行会 八千メートルの上と下/ヘルマン・ブール/横川文雄訳/1974三笠書房 ナンガ・パルバット単独行/ラインホルト・メスナー/横川文雄訳/1981/山と渓谷社 ナンガ・パルバット回想 闘いと勝利(山岳名著選集)/ヘルリッヒ・コッファー/岡崎祐吉訳/1984 チベットの七年/ハインリッヒ・ハーラー/近藤等訳/1955/新潮社 裸の山 ナンガ・パルバート/ラインホルト・メスナー/平井吉夫訳/2010/山と渓谷社 他カンチェンジュンガ、ナンガ・パルバット関係蔵書多数
10. 婦人記者の大陸潜行記−北京よりカシミールへ/マイアール/1938
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11. 山の魂/スマイス/1938
Review/trance/tamashi.html 11. 山の魂/スマイス/1938 11.山の魂 フランシス・シドニイ・スマイス 石一郎訳 1938 朋文堂 原題:The Spirit of the Hills/1935/Francis Sydney Smaythe 内扉 表紙 内扉 内扉 著者より加納一郎へ寄贈署名 著者より加納一郎へ寄贈署名 フランシス・シドニー・スマイス(1900−1949) 登山家、写真家、作家  英国ケント州に生まれる。バーカムステッド校に入学、在学時代(1914‐1919)に山に夢中になる。ファラディハウス工業学校を経てブラッドフォードの機械工場に勤務、余暇に登山に励んだ。  1926年、英国空軍に入隊するが、病を得て翌年除隊。その後、モンブラン北東面の直登ルートを開拓するなど、モンブラン山群での一連の登攀活動を通じて登山界で頭角を現す。  1930年、ディーレンフルト率いるカンチェンジュンガ国際登山隊に参加。北壁にルートを見出そうとしたが、雪崩によりシェルパが死亡、転進して北西稜をうかがったが、急峻な岩壁に阻まれて敗退した。帰りがけにネパール・ピーク(7145m)、ジョンサン・ピーク(7459m)に登頂。これ以後タイムス紙所属の登山ジャーナリストとして活躍する。  1931年、ガルワールのカメット峰(7756m)に初登頂、当時人間の登った最高のピークであった。この山は1907年のロングスタッフ以来、先人による10回もの試みを退けていた峻峰である(報告書「Kamet Conquered」1932、 田辺・望月共訳「カメット登頂」)。  1933年、H.ラトレッジを隊長とする英国第4次エベレスト遠征隊に参加。北東稜にルートをとり、8350mにC6を建設して、シプトンと共に最後の挑戦をするが、途中から体調不良でシプトンが下山、スマイス一人で大クーロアールに達しが、そこが限界であった。報告書「Camp Six」 1937年(キャンプ・シックス 伊藤洋平訳 1959)を著す。  1936年、再びラトレッジを隊長とする英国第6次エベレスト遠征隊に参加、不運にも例年よりも早いモンスーンが襲いかかり、深雪に悩まされて、辛うじてノース・コルに到達したのみで終わった。  1937年、ニルギリ・パールバット(6474m、ダウラギリ山群)、マナピーク(7272m、カメット山群)に初登頂。  1938年、ティルマンを隊長とする英国第7次エベレスト遠征隊に参加するが、この年もモンスーンが1か月も早く襲来、8290mのC6 から2回にわたって頂上攻撃に挑んだが、従来の最高到達点にも至らずに終わった。  スマイスは、1929年に発行した「Climes and Ski Runs」を初めとして、以後20年間に美しい山岳写真を含む27冊の著書を世に出した。 1949年、胃潰瘍で死去、49歳であった。 内容  スマイス35歳の著作で、カンチェンジュンガ遠征後に出版した“The Kanchenjunga Adventure”(1930年)、カメット峰登頂後に書かれた”Kamet Conquered”(1932年)に続く3作目で、前2著の紀行とは異なり、山のエッセイで、 感受性豊かでロマンチストの著者が、山についてのびのびと優しく語っている。 「君は何故山に登るのか」――――序より  こうした質問に答えられるのは、ただ具体的な経験とその経験に滲みこんでいる表現的な思想とだけである。その経験は潜在的で、ちょうど白日の光の中には数多の色彩が、含まれているように数々の部分から成り立っている。とすると、その経験の十分の一も言葉に移すことは難しい。 「山男の生立ち」――――少年時代の無鉄砲な山登りを回想して  山で恐怖を覚えたら、無理をしてさらにその恐怖を征服してやろうなどと思ってはいけない。むしろ引っ返してその恐怖を無くしてしまうがいい。が、実地になると進むよりも引く方がずっと人間的な勇気がいる。破壊するものが恐怖で、建設するものが物を楽しむ性質なのだから、この二つが一緒になってうまくやって行けるわけがないが、しかし登山は楽しむもの、懐かしむものであって、決して恐怖の手によって虐待されるべきものではない。海面からエベレストの頂上に至るまで、用心しつつもつい思わず招いたというようなことなく、およそ恐怖と名のついたものの影さえあってはならないのである。だから我々は慎重に恐怖を除き、山から戻ったら心から、「まったく愉快だったな」と云いたい。 「低山歩き」――――低山であろうと高山であろうとそれはスマイスにとって問題ではない、尽きない山の味を求めて飽きることがない。  それは私が子供の時居たことのある北部丘陵地帯だった。山が好きならホームスベリーの山頂以上に登る必要もあるまい。山の高い低いは大した問題じゃなくて、大事なのは山そのものなのである。低い山がこう教えてくれる。たとひ二百呎か三百呎の小さな山でも、そのどこかに尊いものがある。より高尚なリズムに人生を調和させようとする何かが含まれていると。地表から盛り上がった土塊、かくも微妙な転形を完成し、かくも歓喜をもたらすものが他にあろうか。そこにはどこかにより偉大なものがある。それこそ山々の抱く山の魂であろう。 「ヒマラヤ遠征」――――エベレスト頂上へあと300m足らずまで迫った男の再挑戦への思い  ヒマラヤに登るのは自然との血族関係を実際に結ぶことだ。そうした実現には天罰が下されるかもしれない。苦痛を伴うかもしれない。がそれだけに、より活気に満ちた喜びに溢れた究極の完成があるのだ。努力と苦難によってのみ自己を発揚し、認識を深め、道徳的身長を発育させ、真実と歓喜を見出すに至るのが、宇宙の不動の原則だからである。肺臓を喘ぎはづませて、勇気を振い起こしながら、いつかは地上最高の地点を踏みしめることができるかもしれない。それは征服者の心を持って踏みしめるものではなく、我と我が身を鼓舞し持って生まれた生来の勇気を最大限に発揮し、否、勇気以上の勇気を振うことのできるある力が自分には授けられていることを知りつつ、つつましく、しかも感謝に満ちて踏みしめることであろう。 「花の谷間」――――遠征の帰路、偶然足を踏み入れた花の谷に魅了された。のち、幻の花として有名になる青い罌粟を見たのもこの時だった。  更に下ると、花の谷間になった。―アルプスの花も、英国の花も、ヒマラヤの花もある。―桜草や野薔薇やアネモネや狼牙の花。紫シオンの花堤とクリーム色の芍薬の細径―勿忘草と青い罌粟の花。流れのほとりの金盞花。山腹のいちはつ。飛燕草。あみがさ百合。ばら色の蘭。黄菊。葵。なづな。小人のような石楠花等。  私たちは岩棚の花の中にキャンプを張った。雨は止んだ。季節風のために生まれた霧が散らばり、名もない未踏の峰々が姿を現した。漂う太陽の光が遠い雪の山腹を輝かしている。空気は雨気を含んで甘く、花の香りに匂っていた。 「断片」――――結び  時が経てばやがて手も足も筋肉も疲れ果ててしまうであろう。けれども山に向かう私達の心は決して疲れを知らない。山に登るばかりが能ではなく、もっと違った感情がそこにはひそんでいるからである。山の登るのではなくて山の中で暮らしてみたいものだと、山好きは言うかもしれない。若い時は精力的な筋肉労働の奴隷のような感があったのが、時の経つにつれ、次第に精力も愛情も均されていかなければならないことを知る。感覚的な熱狂さは消えるかもしれない。しかしさらに瞑想的な人間になって、老齢がやがて這いよって来ようとも、山々に対して抱く愛情のために、肉体の勇気の失せるのを、どうしようもなく徒に嘆いてばかりはいなくてもいいだろう。  こうして山から帰ってくると、私達の肉体も心も魂も新鮮なものとなり、またすばらしい気持ちで人生の数々の問題にぶつかってゆく。しばしの間山の中で私達は素朴に聡明に幸福に暮らしたのだった。良い友達を作った。好ましい冒険もやった。信念を抱くことによって私達は満足するがいい。山々を創造した神の愛に満足するがいいと山々が教えてくれた。 山岳館所有の関連蔵書 The Knchenjunga Adventure /F.S.Smythe/1930 Everest 1933/H. Ruttledge/1934 キャンプ・シックス/F.S. スマイス/伊藤洋平訳/朋文堂/1959 カメット登頂(世界山岳全集4)/F.S. スマイス/田辺主計・望月達夫共訳/朋文堂/1961 ウィンパー伝 -栄光と悲劇の人(世界山岳名著全集2)/F.S. スマイス/吉澤一郎訳/あかね書房/1966 カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂 エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高柳春之助訳/1941/岡倉書店
12. アルプス及コーカサス登攀記/ママリー/1936
Review/trance/mummery.html 12. アルプス及コーカサス登攀記/ママリー/1936 12.アルプス及コーカサス登攀記/A.F.マンメリー/石一郎訳/1938/朋文堂/389頁 My Climbs In The Alps And Caucasus/A.F.Mummery/1938 表紙カバー 表紙カバー ママリー肖像 ママリー肖像 ママリークラック エギーユ・デュ・グレポン ママリー・クラック エギーユ・デュ・グレポン エギーユ・デュ・ブラン エギーユ・デュ・ブラン Albert Frederick Mummery(1855-1895) 登山家、経済学者、製革業  1855年、イギリス、ケント州ドーヴァーに生れる。15歳の時、アルプスを旅して登山に目覚め、以後毎シーズンのようにアルプスを訪れ、18歳の時にはマッターホルン、20歳の時にはモンブランに登った。1879年(23歳)、マッターホルンのツムット山稜の初登攀をウィリアム・ベンホールと争い、数時間の差で先を越す。その後、コル・デュ・リオン初横断やグレポン初登頂などの成果を挙げ、アルプス“銀の時代”の旗手として脚光を浴びた。1889年(32歳)、コーカサスに遠征、ディフ・タウ(5198m)に初登頂。1895年(39歳)、ノーマン・コリー、へースティングという信頼する二人の仲間とナンガ・パルバットに遠征。ルパール壁を偵察、次いでディアミール壁の右側岩稜(ママリー・ルート)を6100mまで登ったが、疲労のため撤退する。北面のラキオト氷河からならもっと登頂の可能性があると考え、グルカ兵2名と共に単身でディアマ・コル越えをしてラキオト谷に向ったが、途中で行方不明となる。コルへの登攀中に雪崩で遭難したものと推測されている。  ママリーは登山を純然たるスポーツと見なし、登山の真髄とは登山者の修練と技術のよって種々の困難と闘い、それに打ち克つ喜びであるとし、そのためにはより困難なルートを求めて挑戦し、登山者の心身両面における極限を追及しようとした。この考えはママリズムと呼ばれ、アルピニズムの代表的思潮となり、今日に引き継がれている。 内容  原書初版は1895年発行であるが、本書は1936年版である。以前はマンメリーとドイツ語読みであったが、最近はママリーと英語読みされているので、以後ママリーと読む。原書上梓から1週間後の1895年6月にママリーはイギリスを発って、ナンガ・パルバットに挑んで帰らぬ人となった。  内容は、ママリー自身による「序言」、ママリー夫人Mary Petherickによる「解説」、アルプス登攀記録(第1章〜11章)、コーカサス遠征記(第12章〜13章)、論文(第14章)からなる。  「序言」でママリーは、本書の内容について「岩峰と氷塔、吹きまくる嵐と完全に晴れわたった天候の話の間に、科学、地誌、その他何等か学問への寄与が1つとして挿まっていない事を、私は懼れる。」と、科学的な記述に乏しい内容であると述べている。実際に本書を読んで見ると、登山そのものを記述した部分が圧倒的な量を占めているが、第14章「登山の哀歓」では実際の登山経験を基にガイドレス登山、単独登山、ロープを使った場合のパーティー行動などについて科学的な考察を加えて、旧来の常識を覆す理論を展開し、実践的でありながら充分に学問的である。ママリーが長く登山家達に支持されてきたのは、この論文が当を得たものであったからだと言はれている。  「解説」はママリー夫人がナンガ・パルバット遠征中の夫から受け取った手紙を引用しながら、遠征中のママリーの姿を浮かび上らせてくれる。最後の手紙はディアミール側からの登攀を諦め、2名のグルカ兵とともに北西側のラキオト渓谷へ向かうと知らせてきたところで終っている。  アルプスの登攀記録の主なものは、1879年(23歳)にウィリアム・ベンホールと初登攀を争い、数時間の差で栄冠を手にしたマッターホルン・ツムット山稜(第1章)、1880年(24歳)に行なったマッターホルン・フルッケン稜から東壁を経ての初登攀(第2章)、コル・デ・リオン初通過(第3章)、グラン・シャルモ初登攀(第5章)、1881年(25歳)でエギーユ・デュ・グレポンの北峰及び主峰の初登頂(第6章)などである。この時代、アルプスの初登頂の黄金時代の残光がまだ勢いを保っており、そこにママリーら銀の次代をになう、いわば革新派が現れたわけであるが、革新派と言ってもまだ彼らはピトンの使用にも消極的であった。グラン・シャルモからの下降では(第5章)、木の楔1本を打つにも「グラン・シャルモを穢してなならない」と、その当否について議論する。  「楔を打つのはバールの邪神(註:フェニキア人の崇拝した神)に膝を屈するというものではない。況や登山技術が煙突職工の技術の中へ解消してしまって滅亡の一途を辿る最初の段階になってはいけないと、中には議論を言うものがいた。そこで私達は言い合わしたように楔を打ち込むのを止めなければシャルモの神聖が穢されるかもしれないと宣言して、不安定な岩瘤を見出し、その周りにロープを巻きつけるなり、ヴェネッツが滑り下りた。」  1888年(32歳)の時、スイス人ガイド、ハインリッヒ・ツールフールとコーカサスへ遠征をし、ディフ・タウ(5198m)を南西稜から初登頂した(第12,13章)。ピチャゴルスクからナリチクを経てベゼンギ氷河までの12日間のキャラバンののち、氷河右岸にベースキャンプを設けた。1ヶ月近く小山行を行なったのち、いよいよディフ・タウの絶壁に挑んだ。約10時間の困難な登攀ののち、ついに山頂にたどりつく。 「欧州のあらゆる峰々はただエルブルース(註:エルブルース山脈、最高峰はダマーヴァンド・クー、5671m)だけを除いて私達の足下にあった。そして私達は17,054呎(5198m)の観望塔から回転しつつある世界を見つめた。左手に方向を転じて1,2歩行くと、私達は最後の頂点に達することが出来た。私はそのばらばらに砕けた天辺にどっかりと座った。巨大な雲が絶えず暗くなっていく外皮で今はもうシュカラ(5068m)を被いつつあった。ジャンガ(5051m)の長い山稜も上の方は白く輝かしいが下端は次第に低く垂れ、それに沿って暗澹と化してゆく蒸気の濃くもつれ合った峰の中に埋れた。」 山岳館所有の関連蔵書 My Climbs In The Alps And Caucasusu/A.F.Mummery/1938 Alps & Men/G.R.Beer/1932 The Alps in Nature and History/W.A.B.Coolidge/1908 The Exploration of the Caucasus Vol1,2/D.W.Freshfield/1896 Nanga Parbat 1953/K.H.Herrligkoffer/1954/ドイツ 先蹤者/大島亮吉/1935/梓書房 ナンガ・パルバットの悲劇/長井一男/1942/博文堂 マッターホルン その壁と山稜への挑戦/諏訪多栄蔵/1958/山と渓谷社 アルプス 山と人と文学/近藤等/1965/白水社 大島亮吉 登山史上の人々/安川茂雄編/1968/三笠書房 ナンガ・パルバット登攀史(ヒマラヤ名著全集)/パウル・バウアー/横川文雄訳/1969/あかね書房 アルプス登攀記/E.ウィンパー/ 訳/1980/森林書房 アルプスに挑んだ人々/A.ラン/ 訳/1980/新潮社 アルプスの名峰/近藤等/1984/山と渓谷社 アルプス・コーカサス登攀記/A.F.ママリー/海津正彦訳/2007/東京新聞出版局
13. 孤独−氷の家の記録/バード少将/1939
Review/trance/kodoku.html 13. 孤独−氷の家の記録/バード少将/1939 13.孤独−氷の家の記録 P.E.バード少将 大江専一訳 1939 大東出版社 原題:Alone/1938/Richard Everyn Byrd 表紙 表紙 リチャード・バード リチャード・バード 氷の家 氷の家 (上)リトル・アメリカ (下)ロス海棚氷に接岸 (上)リトル・アメリカ (下)ロス海棚氷に接岸 (上)飛行機が墜落 (下)トラクターと技師達 (上)飛行機が墜落 (下)トラクターと技師達 Richard Evelyn Byrd(1888-1957) 米海軍軍人(少将)、飛行家、探検家  米バージニア州ウィンチェスターの名門家庭に生れる。14歳で世界一周の一人旅を行なう。15歳で陸軍士官学校に入学するが、18歳の時、法律家の父の勧めでバージニア大学へ転校し法律を学ぶ。しかし、事務所での生活に向いていないと悟り、19歳で海軍兵学校、次いで海軍大学と進み、軍艦の砲兵将校となる。大学時代の激しいクラブ活動で骨折した足が軍務に耐えられないとして除隊させられるが、アメリカが第一次世界大戦への参戦準備を急いでいた関係から、2ヶ月後に海軍に呼び戻されて航空隊に所属した。  1925年、米地理学協会のドナルド・マクミラン北極探検隊に参加、エルズミア島及びグリーンランドの氷原上空を飛行した最初の人間となった。  1926年5月9日、スピッツベルゲンからフォッカー単葉機で飛び立ち、北極往復飛行に成功し、少年時代からの念願であった北極点上空に達した。  1927年、大西洋無着陸飛行に挑んだが、フランス海岸に不時着、パリ一番乗りをチャールズ・リンドバークに譲った。  1928年8月25日、飛行機3機・雪上車・95頭の犬・500トンの資材・82名の隊員を4隻の船に積んでロス海クジラ湾から南極に上陸、リトル・アメリカと名づけた地点にベースキャンプを構えた。11月29日、4名の飛行士と共にフロイド・ベンネット号で極点へ向けて基地を出発した。リイブス氷河沿いに進路をとり、南極山脈にぶつかりそうになりながら3500mの峠を越えて、極点上空に到達、出発から18時間39分後に基地に生還した。一方、犬そりを用いた地理・地質調査も実施、火薬による人工地震の先鞭をつけた。  この後もバードの南極探検は、リトル・アメリカを基地として大型無線台を据え付けて、毎日直接ニューヨークと通信を交わしながら探検を進めた。  1929年、少将に昇進。  1933年、自身で組織した米南極科学調査団長として100名の隊員・4機の飛行機・4台のトラクター・犬そり隊1チームを持ってリトル・アメリカへ上陸、空と地上から内陸の広範囲な探検を行なった。主たる目的の一つはロス棚氷上に前進気象観測所を設置し、越冬観測をすることであった。1934年3月〜8月の5ヶ月間、バードは一人でこの観測所に滞在し、観測を行なった(本書「孤独」)。  1935年、国営南極探検を大統領に要請する。  1939〜41年、第二次大戦後の南極大陸の領土分割に加わる時に備えての地図作りに国営探検隊を率いて出発、ロス海とグラハムランドの2ヶ所に基地を建設し、空と陸から広範囲な探検を行なった。  1946〜47年、ハイジャンプ作戦と銘うったアメリカが南極へ送った最大、かつ最新科学の粋を集めた探検隊の指揮をとった。科学者300名を含む4100名の人員・13隻の艦船・19機の飛行機・4機のヘリコプター・潜水艦1隻からなる。西、中央、東の3隊に分かれて新たな地域が探査され、発見または確定された海岸線8600km、約2250kmにわたる海岸線の航空写真と地図、また南極が一つの大陸であることが確認するなど多くの成果を得た。  1956年1月、ティープ・フリーズ作戦と呼ばれる第5次南極探検行で、最後の極点上空の飛行をおこなった。  1957〜58年IGY(国際地球観測年)には合衆国の計画責任者として参画した。 第二次南極遠征(1933〜1934)の4ヵ月半に亘る単独越冬で蝕まれた心臓の悪化が原因で、1957年月11日、ボストンにて死去、68歳。日本の昭和基地でも西堀越冬隊長以下、この偉大な探険家の冥福を祈った。 内容  飛行機で極点到達を果たした最初の南極探検から4年後の1933年、バードは再度、飛行機4機・船2隻・100名の隊員を率いてリトル・アメリカに上陸した。主な目的は、ほとんど知られていない南極内部の気象データを得るために、プレハブ製の前進気象観測所を設置し、越冬して気象観測を行なうことであった。  「当初この観測所には気象係2人と無電係1人を置く予定であったが、物資輸送を期待したトラクター4台の潤滑油やラジエーターの水が凍結するなどのトラブルが続いたため、また冬が到来して充分な物資を輸送できなかった。」  一方、4mに5mの凡そ10畳ほどの大きさのプレハブ小屋は、基地から南方へ125マイル(約200km、南緯80度6分)の地点のロス氷床に、3月末のマイナス50〜60度に達する過酷な気象条件の中でようやく組み立てられた。雪を掘って半ばまで埋められたプレハブ小屋の屋根には百葉箱があり、風速計が立てられ、アンテナもあった。しかし、ハッチ式の入り口扉はしっかり閉まらなかったし、また室内を暖めるストーブも壊れていた。  物資不足から隊員を減らさざるを得なくなった時、バードはこの観測所を守るために1人で留まる決心をした。 「1934年、南極の冬の夜、ただ1人私が、配備していたボーリング前進測候基地は、リトル・アメリカと南極間にある渺々たる暗黒のロス棚氷の一角に設けられた。それは世界最南端の大陸に設けられた最初の南極観測所だった。そこで冬篭りする私の決心は、おそらくリトル・アメリカの隊員たちでさえ容易に推察することはできなかった。それというのも、前進基地に数名の所員を配する当初の計画が、さまざまな障害のために不可能と分ったからであった。その結果、この前進基地と、それに伴う科学的使命をすべて放棄するか、また自分自身をそこに配備すべきか、のいずれか一方を選ばねばならなかった。私はどうしてもそれを断念することはできなかった。」  バードの単独越冬は開始されたが、次々とアクシデントに襲われ、健康が著しく損なわれていった。しかし、強固な意志を持ってこの苦難を乗り越えていった。  5月のある日、バードは観測の為に戸外に出たが、雪嵐に見舞われ、小屋の入り口へ戻ることが出来なくなった。這いずり回っているうちに、偶然にプレハブのベンチレーターを掴んだ。 「南極の夜の雪嵐には言語に絶した残酷なものがある。その執念深さは風速計の紙上では測定できない。それは風以上のものである。寄せ波のように激しく打つ疾風の力で動いている堅固な雪の壁である。」ようやくシャベルを探り当て、雪を掘って扉への道をつけ、何とか観測所の中へ入った。  同じ頃、無線機の調子が次第に悪くなった。その上、ストーブの煙突の不調や発動機の排気ガスの滞留などのために一酸化炭素ガス中毒をおこした。落命すれすれの危機に見舞われながら、バードはこうした難局を一言も基地に知らせなかった。基地では交信の調子から何か異変が起こっているに違いないと判断し、6月、副団長のブールタール博士は救援隊を派遣したが、雪嵐とマイナス50度の極寒に阻まれて、基地から54kmの地点から後戻りせざるをえなかった。救援隊が到着できたのは8月中旬であった。この時すでにバードは重病人であり、動かすことができず、基地へ連れ戻すまでに2ヶ月の静養が必要であった。  体力の回復を待って、飛行機でようやくリトル・アメリカに帰った。心臓にひどい打撃を受けていたが、バードはそんなことを露ほども人に洩らさずに、リーダーとしての役割を果たし、探検隊は貴重な観測資料を携えて、1935年2月初旬、南極を後にした。 山岳館所有の関連蔵書 Scott’s Last Expedition (1)(2)/L.Hurley/1913 Expedition South/W. Ellery Anderson/1957 The Crossing of Antarctica/J.Fucha, V. &E.Hillary/1958 South, The Endurance Expedition/E.Shackleton/1999 南北極地探検記/加宮貴一/講談社/1937 孤独/R.E.バード少将/大江専一訳/大東出版社/1939 白瀬中尉探検記/木村義昌・谷口善也/大地社/1942 南極の征服(上)(下)/ロアルト・アムンゼン/道本清一郎訳/淡海堂/1943 バード南極探検誌/R・E・バード/緑地社/1946 極地を探る人々/加納一郎/朝日新聞社/1950 南極物語/ド・ラ・クロワ/近藤等訳/1958 南極横断 地球最後の冒険(上)(下)/V.フックス/山田晃訳/白水社/1959 アムンゼン探検史/加納一郎/平凡社/1962 20世紀を動かした人々―未知への挑戦者/加納一郎他/講談社/1963 アムンゼンとスコット ー南極点への到達に賭けるー/本多勝一/教育社/1968 白い大陸/W.サリバン/田中融二訳/早川書房/1968 スコット/Pブレンド/高橋泰郎訳/草思社/1969 極地探検/加納一郎/社会思想社教育文庫/1970 極地探検物語/近野不二男/玉川出版社/1976 南極点/ロアール・アムンゼン/中田修訳/朝日新聞社/1994 世界最悪の旅/チェリー・ガラード/戸井十月訳/小学館/1994 その他極地関係多数
14. 中央アジア踏査記/スタイン/1939
Review/trance/aka.html 14. 中央アジア踏査記/スタイン/1939 14.中央アジア踏査記 オーレル・スタイン 風間太郎訳 1939 生活社 原題:On Ancient Asian Tracks/1933/Aurel Stein 表紙 表紙 内扉 内扉 オーレル・スタイン肖像 スタイン伝(J・ミルスキー)より オーレル・スタイン肖像 スタイン伝(J・ミルスキー)より オーレル・スタイン(1862-1943) 考古学者、探検家  ブタペストのユダヤ人家庭に生れ、幼時をブタペスト及びドレスデンで過ごし、長じてウィーン及びチュービンゲン大学などで東洋学を学ぶ。若干21歳で博士号を取得。さらにイギリスに留学、オックスフォード大学で考古学を専攻した。1887年、渡印、ラホール東洋学校校長に就任、カシュミール王統史の研究に没頭する。1899年、印度政府教育部に任官、カルカッタに移る。  スタインは1900-01年、1906-08年、1913-16年の3回、足掛け7年間、印度政庁官吏の身分で中央アジア探検を行なった。第1次探検はカシミールからフンザ、ミンタカ峠、タシュクルガンを経て、ムスターグ・アタ(7,546m)を6,100mまで登る。その後カシュガルからヤルカンドを経てホータンへ入り、ダンダン・ウィリク遺跡で発掘調査を行なった。この旅行では崑崙山脈の探査という地理学的成果の他、古址で年代の判定できる紙片、板絵などを発見するという考古学的業績を上げた。  第2次探検はペシャワールからチトラル、ダルコット峠、オクサス河上流を経てカシュガルへ。ニヤ、エンデレ、楼蘭、ミーラン、疎勒河盆地の各遺跡の発掘調査を行なった。敦煌に到り、千仏洞から多量の5〜10世紀の古文書、仏画などを大箱29個分入手、大英博物館へ送った。さらに甘粛省の各地を回り、天山南路を通りヤルカンド、チベット高原北辺の踏査など、中央アジア史を解明する数々の地理学的、考古学的業績を上げた。2回の中央アジア探検の功績が認められて、1912年、印度勲章上級勳爵士に叙せられSirの称号を贈られた。  第3次探検はカシュガルをベースに、4年間にわたり過去2回の探検でやり残した調査を徹底的に行なった。敦煌では前回に引き続き多くの仏典、仏画を入手した。  スタインら外国の探検隊による敦煌をはじめとする文物の国外持ち出しは、中国人の憤激を買い、スタインは1930年に計画した第4次探検の許可を南京政府から得られず失敗に終る。  この後、スタインの興味は西南アジアへと向けられ、イラン、シリア、トランスヨルダン、イラクへの調査旅行は、カブールで急逝する83歳まで続けられた。スタインが中央アジアで収集した膨大な発掘品は、その殆どが大英博物館とインド国立博物館に収蔵されている。 内容  本書は中央アジア探検の最も盛んであった19世紀初頭に、中央アジア探検家として名を成したオーレル・スタインの3回にわたる中央アジア探検の総合報告書である。「著者序文」でスタインは、本書はハーバード大学総長の紹介で、ボストンのロウェル学院に講師として招聘されたときに講演した内容に、多少の追加と修正を施して上梓したとある。スタインは7年を費やした中央アジア考古学探検の成果を膨大な著作に残したが、一般向けの著作は少なく、邦訳されたものも少ない。ヘディンの地理的空白部を突き進む探検のはつらつとした文章に比べると、本書の翻訳者が言っているように「著者の原文は生国或は教養のしからしむる処か、晦渋と評すべきではないが、甚だしく重厚である」ことが邦訳の少ない原因かもしれない。たいへんに内容のある本で中央アジア史の勉強になる事は間違いなく、また古代の遺物が次々と発見されて歴史が明らかになっていく過程に魅せられる。  本書の構成についてスタインは、3回の旅行を1冊にまとめたもので「同一個所を数回訪問している場合もあるので、便宜上地域別に配置し、強いて厳密な時間的経過に拘らぬことにした」としている。21章からなり、巻頭に63枚の写真と1枚の地図が、巻末には訳者による丁寧な訳注と索引が付されている。  一章、二章で読者の便宜を考えて、中央アジアの地理・歴史の解説を、三章「ヒンヅークシュを越えてパミールと崑崙へ」で第2次探検のペシャワールからカシュガルまでの紀行を述べている。1906年5月17日、深い雪と氷河に難渋しながらダルコット峠(4,575m)の頂上に立つ。そしてスタインは、西暦747年、唐の西域副都護の高仙芝将軍が兵1万を率いてパミール高原を越えてこの峠に達し、ヤシン渓谷まで1,800mの急傾斜を一気に駆け下りてキルギットの小勃律国を征服した遠征記録が、地理的に正確であった事を実証した。この高仙芝将軍のパミール越えとダルコット氷河逆落としは、ハンニバル、ナポレオン、スヴォロフのアルプス越えを遥かに凌ぐ快挙であると絶賛する。(註:高仙芝将軍はのちにアッバス朝のイスラム帝国と戦い大敗するが、この時イスラム軍に捕虜になった兵の中に紙漉き職人がいて、彼らによって中国の製紙法が初めて西方へ伝えられたと言われている。)  スタインは3回の探検で多くの古代の埋没遺跡を発掘しているが、最初の発掘は1896年にヘディンによって発見された(8.「中央アジア探検記」参照)ホータン北方にあるダンダン・ウィリクであった。寺院跡から1枚の奉納額を発見する。それは中国からホータン王に嫁した王女を描いたもので、玄奘(註:唐の僧、602頃〜664)の西域記やその他の記録に、国外へ持ち出すことを禁じられていた桑種、蚕を王女が密かに髪飾りの中に隠してホータンへ齎したと記されているが、その真実を証する王女の姿が描かれていた。ブラフミー文字(註:インドから伝来)で書かれたホータン語や漢文で書かれた、年代が分る紙の証文などが多数発見された。それらの解読からこの町が西暦791年までに放棄されたことが判明する。(四章「最初の埋没遺跡発掘」)  ホータンからさらに東へ3日進んだケリヤ・オアシスで、北方にあるというニヤの古跡の噂を聞き直ちにそこへ向かった。1901年1がつ、ニヤ川に沿って下り、その水路が沙漠に消えるあたりに古代住居跡を発見する。ニヤ遺跡は一面にかつての住居の柱が半ば砂に埋れて林立していた。第1次〜3次の都合3回行なった発掘で、スタインはカロシチー文字(註:1世紀頃印度西北辺境で用いられていた文字)で書かれた多量の木簡文書を発見し、その解読からニヤが3世紀の後半に放棄されたこと、ニヤはかつての精絶国で鄯善国の支配を受けていたことなどが判明する。その精巧な漆器の破片、見事な絹織物の切れ端なども発見され、古代にタクラマカン南縁のオアシス橋が東西交通の主要道路であったことが証明された。(五章「ニヤの古跡における発見」、六章「ニヤ再訪とエンデレ遺址」)  ニヤ遺跡からさらに東にチャルクリク・オアシスがある。1906年12月、スタインはチャルクリクの北方にある楼蘭へ向かう途中、ミーラン遺跡の発掘を行なった。1907年1月の3週間、氷のように冷たい強風に曝されながら多数の発掘品を収集する。ミーランは鄯善国の最初の王城で、ここで8世紀以来の多量のチベット語文書や古鎧(註:チベット族は此処を8〜9世紀に占拠した)、3世紀のものと見られるカロシチー文書、ギリシャ美術的表現方法で有翼天使を描いたフレスコ画を発見する。(七章「ミーランの遺址」参照)  ミーランの北東、ロブ沙漠に埋れる古都楼蘭は、ヘディンが第2次探検で発見した(29.「彷徨へる湖」参照)。スタインは50人の掘削人夫を連れて、チャルクリクから11日かけてヘディンが図面に示した古都楼蘭に着く。発掘調査で収集したカロシチー文字及び漢文で書かれた紙片、木簡、絹片、少数のソグド文字(註:サマルカンド及びブハラ地方の文字)などから古都楼蘭の全体像を明らかにした。すなわち楼蘭は紀元前2世紀の後期、シナがタリム盆地へ向かって開いた最古の路線の、言わば橋頭の如き位置を占めていたこと、この地が3〜4世紀にかけて放棄されたことなどである。  ミーランでの発掘を終えて、マルコポーロの通った昔のシルクロードを辿って、1907年2月、玉門官を経て、敦煌に到着する。当時まだ東西の学者に知られていなかった「玉門」の正確な位置を発見したのはこの時である。そこではある洞窟寺院で膨大な古文書が発見されたという噂を聞く。それは狭い石室に無数の書簡が充満し、牛舎に積んで数台分の量があるという。発見者の王という道士(註:道教の僧)と会い、世間の評判と仏罰を恐れる彼を説得して古文書のある石室を開かせた。そこにスタインはおびただしい古文書を目にする。  この時スタインは王道士からわずかな金品で、9千点、大箱29個に及ぶ仏典、仏画、文書などを買い取りイギリスへ持ち帰った。さらに第3次探検では600点を持ち出している。世界中を驚かせたこの世紀の発見、いわゆる「敦煌文書」は5世紀初頭から10世紀末期までの文書で、石室に収められたのは11世紀初頭、タングートの侵攻の頃であろうとされている。(十二章「千仏石窟寺」、十三章「石窟秘宝所蔵写本」)それまで殆んど知られていなかった敦煌が一躍世界に名を響かせたのは、この時にスタインが得た収集品によってであった。 (註:スタインの発見から数ヵ月後、フランスの東洋学者パウル・ペリオが千仏洞を訪れ仏典500点を持ち出した。この古文書類の価値にようやく気付いた清国政府は残りの全てを北京へ運んだ。しかし王道士は自分が隠し持っていたらしい文書を、この後もロシヤのオルデンブルグ隊や日本の大谷探検隊に売却した。)  スタインは以上の発掘調査のほか、崑崙や南山山脈の地理的調査、エンデレ、疎勒河盆地、ヘラ・ホト、ジムサカラ・ホージョ、ベゼクリク、アスターナ、トルファンなど多くの遺跡の発掘調査を行なった。最後となった第3次探検の帰路は、カシュガルからパミールを越えてオクサス河上流に出て、サマルカンド、イランのシースターレに達し、1916年、ようやくカシミールに戻った。中央アジアの足かけ7年間の旅であった。 山岳館所有の関連蔵書 中央亜細亜の古跡(大陸叢書第7巻)/スタイン/満鉄弘報課訳/1941/朝日新聞 考古学探検家 スタイン伝(上・下)/J・ミルスキー/杉山次郎ほか訳/1984/六興出版 中央アジア踏査記(西域探検紀行全集8)/スタイン/1966/白水社 中央アジア探検小史/金子民雄/1978/三省堂 中央アジア探検家列伝/金子民雄ほか/1987/日本山岳会海外委員会 中央アジア歴史群像/加藤九祚/1995/岩波書店 中央アジア探検史(西域探検紀行全集別巻)/深田久弥/1973/白水社 その他中央アジア関連多数 砂に埋れたホータンの廃墟/スタイン/山口静一・五代徹訳/1999/白水社 中央アジア関係多数
15. 西蔵征旅記/ヘディン/1942
Review/trance/saizo.html 15. 西蔵征旅記/ヘディン/1942 15. 西蔵征旅記/スウェン・ヘディン/吉田一次訳/1942/教育図書/451頁 原題:A Conquest of Tibet/1934/Sven Hedin 表紙 表紙 扉 扉 スウェン・ヘディン スウェン・ヘディン スウェン・ヘディン(1868-1962) 地理学者、探検家  略歴は「中央亜細亜探検記」参照 内容  ヒマラヤ山脈を越えたすぐ北側、チベット中央部から南部にかけては、いまだに地図の上ではぽっかりと空白部を残していた。ヘディンはこの地理的空白部を自分の足で踏破し、未完成のまま残されている地図を自分の手で埋めるべく、都合4回のチベット探検旅行を行った。本書は第4回中央アジア探検「西北科学考査団」の資金源とするために書かれた「Transhimalaya, Discoveries and Adventure 3vol. (英訳)」の圧縮版「Transhimalaya」から興味深い部分を取って和訳したものである。挿入の挿絵はすべてヘディンの筆になる。なお「Transhimalaya」の完訳本は、ヘディン探検全集「トランスヒマラヤ(上)(下)」(青木秀男訳)として白水社より1979年に発行されている。  ヘディンは第1回中央アジア探検(1893-1897)の後半(8.「中央亜細亜探検記」参照)、ホータンからチベット高原北部を横断し、青海、西寧を経て北京に出た。第1章「最初の入蔵」〜第3章「蒙古人と盗賊」はこの時の紀行である。1896年7月、ホータンを出発、コンロン山脈を南に越え、野生のラバ、羊、ヤクの居る草原を匪賊の襲撃を牽制しながら東へ進んだ。青海(ココ・ノール)では島に住む隠者と結氷を利用して食料を運ぶ原住民との交流について語る。  第4章「チベットの中心へ」〜第8章「禁断の国への再挙」は、2回目のチベット行である。第2回中央アジア探検(1899-1902)で古都楼欄の発掘を行なったヘディンは、1901年5月17日、神秘の都ラサ潜入をもくろみ、大部隊のキャラバンを率いてチベット北境の山麓付近に位置するチャルクリクを出発した。チベットの聖都ラサは、長い間禁断の都であり、世界の探検家の憧れの的であった。高度5,000mを超す高原の強行軍で、ラクダは次々と死んでいく。途中でキャラバン本隊と別れ、チベット人に変装して従者1人とラマ僧を連れてラサを目指すが、ラサまであと5日の行程の所でチベット兵に阻まれる。やむなくラサへ向かうことを断念し、真冬のチベット中央部のチャンタン高原を西へと横断して、言語に絶する凄惨な旅を終えて12月20日、ラダクに着いた。  河口慧海がネパールから南チベットを経てラサに着いたのは、ヘディンのチベット潜入のわずか2ヶ月前の1901年3月であった。慧海の「西蔵探検記」(蔵書ガイド「明治・大正、昭和期戦前」参照)は英訳され、ヨーロッパの地理学界に大きな影響を与えたが、ヘディンも慧海の業績を認めて、その功績を賛美している。  ヘディンは密かにインド国境を突破し、三度チベットへ潜入する。第8章「無人地帯に三ヶ月」〜第16章「厳冬の旅」がこの間の紀行である。1906年8月、25名の従者、36頭のラバ、58頭の馬からなるキャラバンを率いて、海抜5,000mを超す荒涼たるチャンタン高原を北東部へと進んだ。ラサに近づくために道を次第に南東に転じたが、東西に走るいくつかの山系を横断することは人馬ともに死の苦しみであった。10月に入るとマイナス40度を超える過酷な気象条件と牧草の欠乏のために、毎日数頭の動物が死んでいった。頑丈なヘディンも2日間、意識不明の重体になったこともあった。クリスマスには馬はわずか8頭、ラバは1頭しか残っていなかった。 翌年1月28日、トランスヒマラヤ発見の端緒となった海抜5,504mのセラ峠を越えた。どうにかこうにかシガチェに至り、当時蒙古に亡命していたダライ・ラマに代わりチベットの最高責任者でもっとも高位の活仏たるタシ・ラマの歓待を受ける。しかし、ラサへ入ることは許されず、ツアンポ河に沿って西へ進み、プラマプートラ、インダス、サトレジの諸河川の水源探査、カイラス山の周遊、マナサロワール湖の水深などの調査を行った。12月初め、ラダクに到着し、ようやく1年に亘る旅行を終えた。  ヘディンはこの旅行でチベットの地理学的空白部を対角線に横断し、さらに5つの峠を踏んだ。そして、これまで地図に描かれていない幻の一山脈を発見した。しかし、この山脈が確実に連続するものであると確信するにはまだ踏査が不十分であった。すなわち、この旅行で越えたアンデン・ラとランチェン・ラの間500kmの未確認の空白部が残されていた。この空白部を踏査するために、ヘディンは間を置かず、1907年12月8日、ラダク人に変装して厳寒の中を次のキャラバンに出発した。 「私はラダクへ帰り、新しいキャラバンを準備し、カラコルム峠の地方へと北進し、前年と同様ではあるが別の進路を取ってチベットを対角線に横断し、空白部の中心へと突っ込み、その地区について出来得る限り地図を作ろうと決心した。気狂じみた計画である。チベット高原の冬がいかなるものか、私は知っていた。人および動物の大犠牲、恐ろしき苦痛。然し、不可能事、即ち亜細亜の地図の最後にして最大なる地区の征服を試みずに本国へ帰ることは、どうしても出来なかった。」  厳冬の北チベットの旅は、まさに凄惨の極みであった。チベット高原を対角線に横断し、サムイエ・ラ(5,527m)を越え、ツァンポ河に到達した。此処に至り、幻の山脈は一つながりであることを確認し、ヘディンはこれをとトランスヒマラヤと命名した。さらに西へと進み、8つの峠を踏み、これを確実なものとした。 「かくして亜細亜の地図に残された最大の空白部の第一回踏査は私により立派な成果を収めた。私はこれを八回横断し、山脈、湖、河等を地図に記入した。その時以来、峻嶮なるトランスヒマラヤに対して殆んど何等の調査も行われていない。」  ヒマラヤを抜けたヘディンは8月28日、インド・シムラに到着、1906年8月に此処を発ってから24カ月にわたる命がけのチベット探検を終えた。  ヘディンはこの後日本からの公式な招待を受け、ボンベイ経由日本に向かった。  ヘディンはいかなる条件下にあっても、意識のある限り毎日、高度を測定し、地図を描き、岩石と植物標本を採集することを省いたり、中止したりすることはなかった。凍結したインクをわずかに燃える獣糞の埋れ火にかざしては現時点を地図に記入した。その厳しくも困難な作業を完遂したヘディンの不屈の精神力に畏敬の念を抱かずにはいられない。 山岳館所有の関連蔵書 ヘディン著作 Transhimalaja- 1,2/1920/ドイツ The Wandering Lake /1940/イギリス ゴビ砂漠横断記/隅田久尾訳/1943/鎌倉書房 ゴビの謎/福迫勇雄訳/1940/生活社 彷徨へる湖/岩村忍・矢崎秀雄訳/1943/筑摩書房   赤色ルート踏破記/高山洋吉/1939/育成社 探検家としての世の生涯(内陸アジア探検史)/小野六郎訳/1942/橘書店   西蔵征旅記/吉田一郎訳/1939/改造社 中央亜細亜探検記/岩村忍訳/1938/冨山房   独逸への回想/道本清一郎訳/1941/青年書房 熱河/黒川武敏訳/1943/地平社   リヒトフォーフェン伝/岩崎徹太訳/1941/ 西蔵探検記/高山洋吉訳/1939/改造社 ヘディン探検紀行全集全15巻、別巻2巻/監修:深田久弥、榎一雄、長沢和俊/1979/白水社 ヘディン素描画集/ヘディン文・モンデル編/金子民雄訳/1980/白水社 その他関連図書 ヘディン 人と旅/金子民雄/1982/白水社   ヘディン伝 偉大な探検家の生涯/金子民雄/1972/新人物往来社 ヘディン蔵書目録(山書研究25号)/金子民雄編/1981/日本山書の会 その他中央アジア関連多数
16. カムチャツカ発見とベーリング探検/エリ・エス・ベルグ/小場有米訳/1942年/龍吟社
Review/trance/kamch.html 16. カムチャツカ発見とベーリング探検/エリ・エス・ベルグ/小場有米訳/1942年/龍吟社 16 カムチャツカ発見とベーリング探検/エリ・エス・ベルグ/小場有米訳/1942年/龍吟社 414頁 原題:Otkrytie Kamchatki i ekspeditsii Beringa 1725-1742/Lev Semenovich Berg 箱と表紙 箱と表紙 チュクチ方面 デジネブの航海 チュクチ方面 デジネブの航海 色丹島アイヌの所持品 色丹島アイヌの所持品 ベーリングとチリコブの探検航路図 ベーリングとチリコブの探検航路図 エリ・エス・ベルグ(1876−1950) 地理学者、生物学者  キシニョフ市(ソ連邦モルダビア共和国首都)に近いドネストル河畔の町ベンデリアで、公証人の子として生まれた。1894年にキシニョフの中学校からモスクワ大学物理数学学部へ進学、学生時代から才能を発揮して教授陣の注目の的であったといわれている。1898年、卒業して地理学・民族誌学のアヌーチン教授の紹介により西シベリアの湖沼調査へ赴く。  翌99年にはトゥルケスタン(カザフスタン)へ行き、シル=ダリア、アラル、中部ボルガ地方の魚類調査を行った。1903年、ノルウェーに滞在し、そこから再びトゥルケスタンへ行き、バルハシ湖とイスィク=コル湖の湖沼調査に従事。  1904年から10年間、ペテルブルグ(現レニングラード)の学士院動物学博物館の魚類・爬虫類部主任を務め、主としてトゥルケスタン各地とアムール河沿岸の魚類研究に専念し、特にアムール川の淡水魚類の研究は有名である。  1914年からモスクワ農業大学で魚類分類学教授、1922〜34年、応用魚類分類学科主任をつとめた。同時に科学アカデミー動物学研究所の研究員も兼任、魚類部門の部長として指導的役割を果たした。ベルグの「魚類分類法―現有魚類と化石魚類」(1940年)は、世界的に有名なすぐれた分類指針とされている。  1926(昭和元)年11月、東京で開かれた太平洋問題をテーマとする第三回国際会議にソ連科学アカデミー代表団の一員として来日した。  1928年〜30年にかけてキルギス、天山山脈、イスィク=コル湖などを再調査し、1942年〜44年にかけてカザフスタンの湖沼研究を行っている。  1940年にソ連邦地理学協会の会長に推挙され、没年の1950年まで務めた。没後の1951年にスターリン賞を贈られている。  ベルグは一言にして云えば地理学者であり生物学者であるが、個別的テーマは氷山、氷海、淡水魚類、湖沼、砂漠、魚類層、生物進化論、景観地理学などと幅広く、しかも第1級の旅行者、探検家として学術性の高いフィールドワークを展開した。 内容  本書は二十世紀におけるソ連最高の学者の一人として知られるベルグが、ベーリング(Vitus Jonassen Bering 1681-1741)の探検とカムチャツカ発見の成果について、さらにロシアの日本と千島列島に関する初期の諸情報、シベリア探求の系譜、動植物・博物学・民俗学などについても幅広い視野で探究したもので、1924(大正13)年に初版が発行された。  ベーリングの探検は、第1次(1725−30)と第2次(1733−42)に及ぶ大探検であり、本書の大部分はベーリングの探検とそれに付随する事柄で占められている。ベーリング海峡と呼ばれている現在のアジア・アフリカ両大陸間をベーリング自身は正確な認知のもとに通過してはいないし、同海峡以北の水路を確認したわけではない。この点についてベルグは次のように述べている。 「ベーリングは、十五日(注:1728年8月)北緯六十七度十八分に達した。ここではすでに陸地が見えなくなったので、アジアはアメリカに連続していないことを発見し、而して課題を解決したものと思い込み、帰還の命令をくだしたのであった。〜中略〜 かくの如く、ベーリングはアメリカの海岸を見届け得ず、またアジアの海岸は、これをその西方へ廻り得ることを確証し得なかったのである。」  ベーリング以前の1648年にコルイマ河口から海峡を通り太平洋に出口を持つアナドウイリ河口までを初めて航海したセミョーン・デジネブ(Semyon Ivanovich Dezhnev 1605?−1673?)についてベルグは次のように賞賛している(図:チュクチ方面デジネブの航海参照)。 「17世紀中葉に成就されたコルイマからアナドイルへの英雄的航海に関する報告を読んで、われわれは、当時の人が如何に大胆であったか、また自己の事業について如何に精通していたか、ただただ驚嘆するのほかない。〜中略〜 十七世紀の先輩航海者たちはコッチ舟―それほど大きくない底の浅い帆船、而もただ風をたよりに走る帆船を操って北氷洋を航海したのである。」  ベーリングの第2次探検で特筆すべきは「元文の黒船」と呼ばれたロシア船アルハンゲル・ミハイール号(隊長はベーリング支隊のマルティン・シュパンベルグMartyn Shpanberg)の日本沿岸寄港(1738年6月18日)とクリール(千島)列島、特に南千島(ハボマイ、シコタン諸島を含む)の調査である。元文の黒船来航は日本政府がロシア帝国の存在を公的に認識した最初であった。  「シュパンベルグは報告書において日本人の相貌を次のように記している‐‐‐‐‐‐『彼ら日本人は中背であるか、または小柄である。衣服はタタールのそれにそっくりである。跣足で歩く。ズロースもズボン下もはいていない。脳天から額にかけて髪を剃り、その代わりに糊で毛を貼りつけており、また後頭部にはつき上がった髪束を結びつけている。‐‐‐‐‐』と。」  1741年7月4日、ベーリング率いる聖ピョートル号と聖パーヴェル号(隊長チリコブ、ベーリングの第一補佐役)はアメリカ大陸を目指してカムチャツカを出発した。1月半後。聖ピョートル号はアラスカ南岸カヤーク島に到達、暴風に流されて途中ではぐれた聖パーヴェル号はアレキサンダー諸島に到達する。帰路、聖ピョートル号は南西に向かい千島列島シュマージン島に立ち寄って1週間を過ごしたのち、カムチャツカに向うが、途中で嵐に遭い航行不能となって無人島(のちベーリング島と命名)に漂着する。此処で多くの隊員が壊血病のため死亡し、ベーリングも不帰の人となった(図:ベーリングとチリコブの探検航路図参照)。 「十二月八日、夜明けに先立つこと二時間、カムチャツカ探検隊長ベーリングは半ば土に身を埋めたままついに永眠した。彼は土に身を埋めただけで暖かみを覚え、決して土を取り除かせなかったのである。彼は末期に至るまで全然意識を失わなかった。〜中略〜 ベーリングの墓地ははっきりしていない。聖ピョートル号の乗組員77名のうち一月八日までに三十一名が死亡した。生き残った四十六名は島に止まり、九ヶ月の間、砂を掘り帆布をかけた穴室の中で生活していた。」  生き残った隊員たちは大破した船の残骸で小型の船を作って脱出、1742年8月、カムチャツカにたどり着いた。  一方、途中ではぐれた聖バーヴェル号はアラスカ到着後、北西に針路をとりアラスカ半島、アリューシャン列島沿いに西行、10月10日、カムチャツカ出港から1年3か月ぶりに帰還した。しかし、隊員75名のうち生還できたのは49名に過ぎなかった。  本書は今から200年前に航海に命を懸けた男たちの物語で、21章400頁の大著である。内容は現在では検証し尽くされている既知の探検であるが、彼らの死闘には現在読んでも心を揺さぶられる。 山岳館所有の関連蔵書
17. 韃靼通信/フレミング/1940
Review/trance/tar.html 17. 韃靼通信/フレミング/1940 17.韃靼通信 ピーター・フレミング 川上芳信 1940 生活社 原題:News from Tartary−A Journey from Peking to Kashimir/1936/Peter Roberts Fleming ピーター・フレミング(1907-1971)作家、ジャーナリスト、旅行家  英国で陸軍少佐の長男として生れる。イートン校からオックスフォードに進み、英文学で第一等の成績を収めて1929年卒業する。卒業後は広範囲な旅行を始めるが、初めはタイムス紙の特派員としてであった。1934年8月、トルキスタンからシベリア鉄道経由で満州に入り、日本支配下の満州の状況を報じたことで注目を集めた。引続き中国、朝鮮を旅行、その間にエラ・マイアールと知合い(10.「夫人記者の大陸横断記」参照)、2人は7ヶ月5,600キロに及ぶ大陸横断旅行を行なう(本書)。  1939〜45年、第二次大戦に従軍、1951〜54年、軽歩兵隊に勤務し、中佐に進級、大英帝国勲章OBEを授与される。映画「逢びき」(1945年、イギリス映画、デヴィッド・リーン監督)のシリア・ジョンソン(アカデミー主演女優賞受賞)は夫人、「ジェームス・ボンド・シリーズ」、「チキチキバンバン」で有名な作家イアン・フレミングは弟。本人自身も多くの優れた旅行記や史伝を残している。 内容  本書は「10.婦人記者の大陸横断記」のエラ・マイアールと一緒に行なった旅行である、同書も参照されたい。 1935年2月半ば、エラ・マイアールとフレミング、それに道案内人としてツァイダムで5年以上暮したことのあるロシア人のスミグノフ夫婦の4人連れは、汽車で北京を出発する。不本意な乗換えなどをさせられながら西安まで汽車で、そこからトラックで山のように積んだ荷物の上から振り落とされまいと力一杯しがみついて蘭州に到着する。蘭州では省政府からの旅行許可を得るのに苦労した挙句に出発を許されるが、頼りのスミグノフ夫婦は天津へ送還せよという通告を受ける。フレミングは悲憤慷慨するがどうしようもなく、これから先マイアールと2人で旅を続ける他なかった。  西寧でもやはり禁足を食い、ツァイダムへの当局の許可取得に10日を要した。ようやく案内人1名と駱駝4頭、馬2頭で西寧を出発、途中大編成の隊商に出会い、それについてココ・ノールのあるツァイダム盆地へ入った。ズンチャで隊商から離れて、駱駝の調達に苦労しながら西へ向う。ティジナールからは国境警備隊に掴まることを恐れて、普通のルートを避けボコン・コルの谷へ入った。2人の旅行ルートは大部分がよく知られた道であったが、ティジナールからイシク・バクテへ出るまでの間道は、未知の部分で生やさしい道ではなかった。途中道に迷い、マイアールの愛馬は疲労で死に、食料、水を欠く旅となった。ようやくボコン・コルの谷を抜け、アヤク・クム・クル湖へ出る。バシュ・マルグンを経て、ようやく西域南道にあるオアシス、チェルチェンへ出た(14.「中央アジア踏査記」参照)。北京を発ってから4ヶ月目であった。  ここから西のコータンまで、コータンからさらにカシュガルまでの道は、玄奘三蔵、マルコ・ポーロ、その後多くの先人の辿った道である。カシュガルには英国領事館があり、そこで2人は大歓迎を受ける。カシュガルからパミール高原を通り抜けて、ギルギット迄も昔からのキャラバンルート、すなわち、チチクリ峠、タシュクルガン、ミンタカ峠、フンザと辿る。スリナガールに到着して2人の旅は終わった。北京を出てから7ヶ月、踏破した距離は5,600キロであった。  2人が通ったルートについては、一部を除いて古来、求法者や探検家により旅行記が書かれており、新しい発見があったわけではなく、また彼らは旅行中に地形学や考古学などの学界に貢献するような収穫を上げたわけでもなかった。しかし、ヘディンやスタインのように多くの召使と駱駝や騾馬を何十頭も率いての大キャラバンと異なり、彼らの行く手に何が待っているか分らないという情勢の中で、行く先々で案内人と駱駝を調達しながら進む小さなキャラバン隊のスリルに満ちた旅行記である。 註:著者の韃靼についての解説(序文から) 「韃靼とは正確な意味における地理上の名称ではない。「基督教国」といふが如きものである。韃靼とはヨーロッパ及びアジアを蹂躙せんとして、韃靼人がやって来た土地のことである。韃靼人はかつて極めて雑多な種類があったために、ある時はカスピ海から朝鮮に亙る長城の外全部をこの名称で呼んだ時もあった。しかし現在では、もしこの名称を適用しうるとすれば、それは新疆省(支那トルキスタン)及びそれに境する高地にのみ適用される。即ち我々の旅行した地域がこれである。」 山岳館所有の関連蔵書 婦人記者の大陸潜行記−北京よりカシミールへ/エラ・マイアール/ 1938/創元社 彷徨へる湖/スウェン・ヘディン/ 1943/筑摩書房 中央アジア踏査記/オーレル・スタイン/ 1939/大東出版社 西域探検紀行全集15 コンロン紀行/スミグノフ,S/1968/白水社 西域探検紀行全集14 ダッタン通信/フレミング,P/1968/白水社 西域探検紀行全集別巻 中央アジア探検史/深田久弥/1973/白水社 中央アジア関係多数
18. トルキスタンへの道/タイクマン/1940
Review/trance/turkistan.html 18. トルキスタンへの道/タイクマン/1940 18. トルキスタンへの道 エリック・タイクマン 神近市子訳 1940 岩波新書 原題:Journey to Turkistan/1935/Eric Teichman 表紙 表紙 行路図 行路図 エリック・タイクマン(1884-1944) 外交官、東洋学者  イギリスに商人の子として生れる。1906年ケンブリッジ大学卒業。1907年より英国北京大使館の中国語通訳官としてロシア旅行、その後同大使館外交官に昇格する。1919年、本国の外務省に転勤となるが、再び1922〜1936年、中国大使館に勤務。1936年退官後は、重慶の英国大使館アドヴァイザー。彼の外交官としての功績に対してナイトの称号が与えられた。1944年、ノーフォークの彼の庭園に不法に侵入した2人の米軍人に射殺された。  タイクマンは、北京大使館在勤中に3度の大きな旅行を行い、そのたびに信頼度の高い旅行記を出版した。第1回は1916〜17年、中国西北辺境の蘭州を中心に青海省の境、安寧など六千キロを10ヶ月間かけて視察。第2回は1918年、東チベット旅行。康定を発し、揚子江、サルウィン、メコンの分水嶺を越え、その土地の風俗や地理を伝えた。第3回は1935年、ウルムチの省政府との交渉のためトラック2台で、北京からゴビを抜けてウルムチ、さらにカシュガルに到る。カシュガルからは馬でパミール高原を越えて、ギルギットに到る。(本書) 内容  英国の外交官として30年間を中国に送った著者が、1935年、新疆の省政府と通商上の協議を行う為、自動車2台でゴビ砂漠を越え、ウルムチ、さらにカシュガルに到り、カシュガルからは馬でパミール、ヒマラヤを越えて、インド平原に出た旅行記である。岩波新書に収録されている本書について、翻訳者の神近市子は“はしがき”で次のように述べている。 「筆致は簡潔平易で、ともするとこの旅行の困難と冒険的性質を蔽ふうらみはあるが、その中に紹介されているトルキスタンの自然、社会、民俗、歴史の全貌は、全き近代政治関係の照明の下に描き出され、興味深い報告となっている。」  従来の駱駝を使ったキャラバンに変わって、自動車でゴビ沙漠を突破して新疆地区へ入ろうとする試みは、1930年代からいよいよ本格的となって行った。すなわち、1931年のマリ・アールト率いるシトロエン・モーター・トラクター遠征隊によるユーラシヤ大陸横断旅行、1934年のスウェン・ヘディンによる北西自動車遠征隊(参照:29.「彷徨へる湖」)、そして本書のタイクマンによる1935年の北京〜カシュガルの自動車旅行である。  当時、新疆地区は1928年の楊増新省長の暗殺以来、とって代わった金樹仁省長の圧制に反抗する種々の紛争、東干人馬仲英の反乱、盛世才将軍によるクーデターなど動乱が続いていた。1935年、英国政府は、イギリス及びインドの新疆地区での通商復活の為の特別使節としてタイクマンをウルムチへ派遣した。  1935年9月14日、2台のフォードV8気筒トラックが北京からウルムチを目指して出発した。ラティモアの通った内モンゴルからカラホトを経てハミに到る道である(21.「新疆紀行」参照)。ゴビ砂漠に入ってすぐ、差動ギアが破損したりする事故があったが、以後は快調に飛ばして10月末、ウルムチに到着する。かつて、アールトやヘディンを悩ませた戦火はすっかり止み、秩序が回復されつつあった。  ウルムチでは新疆省当局との会談―新疆在住のイギリス商人の権益や国境越え貿易などの協定−を終え、11月13日、ウルムチを出発、トラックでカシュガルへ向った。トクスン峡谷で1台のトラックの差動ギアが破損、予備部品がなかったので、ついにその車を放棄する。しかし、カラシャルからは順調に走破して、11月24日、カシュガルに到着する。  カシュガルからは馬でパミールを横断してフンザ峡谷を降り、1ヵ月後にギルギットへ出た。冬のパミール越えは烈しい寒風に苛まれ、難儀な旅であった。パミールに達した時の感懐をタイクマンは次のように述べている。  「今やわれわれは支那パミールに着いたのである。それは、我々が旅行する予定でいた西蔵の高原地帯に似た平坦な谷間の土地で、平均高度一万二千呎、インド国境までさらに八日の行程である。私はパミールに関する話を沢山読んでいたので、遂にこの地を実地に見る機会を得たことを、大いに喜んだ。実の所、旅行者にして死ぬ前に一度、この余りにも有名な地域、アジアの屋根を訪れることを願わない者があろうか。ヒンズークシ、崑崙、カラコルムの諸山が相合し、支那、インド、ソ連およびアフガニスタンが合い接するこの地を。中央アジアのロマンスに富むこの地域を。その地名が、落ちくぼんだような高原、オヴィス・ボリ、未開の山男、キルギスの遊牧民、ロシアの陰謀、コサック、支那の官人などの様々の幻影を浮かび上がらせるこの地域を。」  本書は12章と付録からなるが、第12章は「支那土耳其斯担(シナトルキスタン)の過去、現在、将来」について外交官としての見解を、付録は北京からカシュガルまでの自動車ルートについて詳細な役に立つ案内を載せている。これ以後の自動車旅行にはガイドブックとして大変に役に立ったと思われる。 山岳館所有の関連蔵書 婦人記者の大陸潜行記−北京よりカシミールへ/エラ・マイアール/ 1938/創元社 彷徨へる湖/ヘディン/岩村忍・矢崎秀雄訳/1943/筑摩書房 ゴビ沙漠横断記/ヘディン/隈田久尾訳/1943/鎌倉書房 東チベット紀行(シリーズ中国辺境史の旅三)/タイクマン/1986/白水社 中央アジア関係多数
 

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