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2024-11-19 9:08
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関西支部活動再開、202...
関西支部では2019年以来、実に5年ぶりに琵琶湖周辺で月見の会を開催しました。
当初6名参加の予定でしたが、残念ながら神戸さんと田中さんが相次いで都合が悪くなり、4名での小じんまりした集いとなりました。しかし支部活動が再開できたことは大きく、以前と同様たき火を囲んでの雑談は何よりうれしいことでした。
今回の開催場所は琵琶湖の南ではどこからでも簡単に識別できる近江富士(三上山)の、その西面にある花緑公園。泊まったロッジは4人用(2段ベッド)で、空調、トイレ、シャワー付き、鍋や食器、wi-fiも完備。ロッジに付属して外には開放テントの覆い付きでバーベキュー用の炉があり、”たき火”もできて我々にとっては精神衛生上も落ち着きます。そこでコップ片手に肉や野菜を炙りながら時にしんみり、時に辛辣また破顔、延々と会が続き、喋り疲れ気が付けば午後10時過ぎ。杉木立の森の中、11月にしては風も柔な月見の会でした。
2024-11-3 13:49
記事
山の会会報
2024-11-2 14:45
ヤマレコAACH
今季もよろしくお願いします
半年ぶりのイグルスキーです
2024年は、春、定年退職して自由になりました。イグルスキーはイグルーとスキーを使った長期山行が大好物です。60歳なので長期山行の重荷で登る力には時限があるとは思いますが、代わりに自由な時間を手に入れました。これまで計画してきた地味山域の長期山行ラインを実践していきます。単独が好きなわけではないのですが、予定が合う人はなかなかいないと思います。
前回のブログは信越国境長期計画を「入山延期」と中途半端に終っていました。その後出発しましたが、暖冬&雪不足で、というか時期が半月遅くて、後半部分の熊笹藪藪エリアを前に下山しました。雪の溶け目が山行の切れ目になってしまいました。一気に行くのも美学ですが、後半は湯沢からこの冬出直したいと思います。未踏のビッグピークスです。前半の森と湖の志賀高原深部は凄く良かったです。記録は以下を御覧ください。
山行記録: 《上信国境》横手山 志賀山 赤石山 大高山 野反湖
2024年04月25日(3日間) 志賀・草津・四阿山・浅間, 積雪期ピークハント/縦走 / yoneyamaの山行記録
4月25日の残雪期ですが、こんなふうにキチッキチのキトラ古墳みたいなやつも苦労なく作ります。でも気温が高くて、夜中に屋根は溶け落ちてしまいました。On April 25, during the late snow season, I was able to easily create a tight, precise structure?like the Kofun tombs at Kitora. However, due to the warm temperatures, the roof melted and collapsed overnight.
2024夏の報告
夏の間は沢ルートで信州の未踏名峰をいくつも満足行くラインで登りました。茶臼山(中ア)などは木曽の奈良井宿から、いにしへの峠3つ越え山間集落巡って奈良井川源流の一滴を吸って登りましたし、経ヶ岳も木曽義仲の隠し砦の残り香プンプンの横川渓谷から。
「越境」テーマで鬼面山、錫杖岳、虫倉山、守屋山、三才山越え、山岳部若手との山行で甲斐の笊ヶ岳と、未踏の気になる山頂を独自ルートで辿り、満足の夏でした。ただ、お盆や連休の、仲間との3〜5日間沢山行のような長尺山行を、体調の不良で2度もスッてしまいました。残念。山行は結果的に初夏と晩夏に集中、猛暑の期間は完全に登山欲も失い読書に励みました。以上の山行記録、詳しくは下記です。
山行記録一覧 [イグルスキー米山さんのHP]-ヤマレコ
今季のイグルー講習
今季のイグルー講習、ちらほらお問い合わせをいただいています。ありがとうございます。グループ希望の2月、3月はすでに一杯になりました。個人〜数人の希望であれば、今年も松本市山岳フォーラム主催のイグルー講習会を開催いたしますので、そこへの参加でお願いいたします。日程は2月15日(土)と3月8日(土)に予定しています。まだフォーラムでは募集していないと思いますが、始まったらここでもお知らせいたします。講習は土曜日1日ですが、そのあと各自で泊まったり、登ったりもできます。会場については、例年通り松本市の乗鞍岳スキー場で希望ですが、先月のニュースでは今季のスキー場営業見合わせとも言われ、いやいやなんとか実現にこぎつけそうとのニュースもあるようなので現在は未定です。
イグルー「講習」に適した条件
積雪30センチあればイグルスキーはどんなところでも作って泊まる自信がありますが、講習会となると、全参加者に完成させてもらいたいし、近接した場所で10〜30個作れる、積雪量も締まり方も適した十分な環境(標高の高いところ)が欲しい、それに講習に時間を割きたいから、なるべくリフトなどでアプローチに時間短縮を図りたい。雪山経験未知の参加者が対象なので、なるべく山奥ではないところが望ましい、などの理由でスキー場終点の近くになります。また、スキー場によっては登山者の出入りや周辺の宿泊に関して規制の強いところもあり、その条件で場所を選んでいます。乗鞍岳や五竜遠見尾根のスキー場はその点いつも好意的で助かっています。講習ではそういう場所を選びますが、実践する際はわざわざスキー場の近くじゃなくて、人の通らない場所が良いと思いますよ。ぜひぜひ自分だけのイグルー天国ラインを実践してください。
では、今季もよろしくお願いいたします。
Back to the Igloo and Ski Adventures After Half a Year
In the spring of 2024, I retired and gained my freedom. Igloo and ski-based extended mountain trips are my absolute favorites. Now that I’m 60, I know there’s a limit to how much weight I can carry on long journeys, but in exchange, I’ve gained free time. I plan to tackle some lesser-known mountainous areas, putting into action the long mountain routes I’ve been mapping out. It’s not that I prefer going solo, but finding people with matching schedules isn’t easy.
My last blog post left off on a “postponed departure” note for a long expedition along the Shinetsu border. I eventually did set out, but the mild winter and snow shortage?and being about two weeks late?led me to descend just before the dense kuma-zasa bamboo area in the second half. The snowmelt marked the end of the trek. Although there’s a certain satisfaction in completing such a trip in one go, I’d like to tackle the second half starting from Yuzawa this winter. There are still some untouched big peaks left. The deep forest and lakes of the Shiga Highlands in the first half were absolutely stunning. For records of the journey, please see the details upper link.
Report for Summer 2024
During the summer, I successfully climbed several unexplored peaks in Shinshu via valley routes. For instance, I ascended Mount Chausu (in the Central Alps) by traversing three ancient mountain passes and visiting mountain villages from Narai-juku in Kiso, absorbing a drop from the headwaters of the Narai River. I also climbed Mount Kyogatake from the Yokokawa Valley, which still carries the scent of Yoshinaka Kiso’s hidden fortress.
With the theme of “cross-border,” I tackled Kimenzan, Shakujōdake, Mushikura Mountain, Moriyasan, and climbed over Misayama. While hiking with the younger member of the mountain club, I followed unique routes to intriguing, unexplored summits on Zarugatake in Yamanashi prefecture, making it a satisfying summer.
However, I regrettably had to cancel two long multi-day valley trips with friends during the Obon holiday and extended weekends due to health issues. Unfortunately, the climbing activities ended up concentrated in early and late summer, while I completely lost my desire to hike during the extreme heat, instead focusing on reading. For more detailed records of my climbs, please see upper link.
This Season’s Igloo Workshop
Thank you to those who have already reached out about this season’s igloo workshop. The group sessions for February and March are fully booked. For individuals or small groups interested, we will once again be holding igloo workshops hosted by the Matsumoto Mountain Forum this year. The sessions are scheduled for Saturday, February 15, and Saturday, March 8. I don’t think the forum has started taking applications yet, but I’ll post an update here once registration opens. The workshop itself is a one-day event on Saturday, but participants are free to stay overnight or go hiking afterward. As for the location, we hope to hold it at Norikura Ski Resort in Matsumoto City as usual, but recent news mentioned that the resort may suspend operations this season. However, there are also reports suggesting they might still open, so the venue is currently undecided.
Conditions Suitable for an Igloo “Workshop”
With 30 cm of snow, I’m confident I could build and stay in an igloo anywhere, but for a workshop, I want all participants to successfully complete their own igloo. Ideally, we need a place that can support the creation of 10-30 igloos in close proximity, with enough well-compacted snow in a suitable high-altitude area. Additionally, since we’ll be focusing on instruction, it’s helpful to have a lift for easier access to save time on the approach. We also prefer locations that aren’t too remote, as the workshop is open to those new to winter mountain conditions. For these reasons, we usually choose areas near the upper ski resort stations. Some resorts have strict regulations regarding mountain access and nearby accommodations, so we select locations that meet these requirements. Norikura and Goryu-Toomi ski resorts have always been supportive in this regard, which is very helpful. While we choose accessible locations for the workshop, when you’re practicing on your own, it’s best to find a spot away from people, rather than near a ski resort. I encourage you to create your own “igloo heaven” line!
Looking forward to another great season with you all!
2024-10-19 1:20
ヤマレコAACH
前穂東壁Dフェース〜屏風岩東壁
前穂東壁Dフェース〜屏風岩東壁(フリークライミング/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-10-11〜2024-10-14メンバー: gt2010 Takenaka2017コース状況/その他周辺情報:前穂A沢は落石の巣屏風岩T4尾根付近は落石注意写真:奥又白1p目フォロー竹中シェフ2p目ビレイマッス崩壊地帯東壁DフェースA沢T4尾根取付き3p目終了最終支点前穂東壁朝2p目クラック前穂東面北尾根方面屏風岩パノラマコース分岐感想:今回はGTー竹中、羽月ーマスダの2パーティによるOB岩合宿になった。我々チームGTは前穂東壁Dフェースを登った。◯前穂東壁Dフェース都立大ルート1p:ペツルボルトが1本ある地点からスタート。湿った草付きやヌメヌメしたホールドスタンスに気を使いながらフリーで登る。25m程度。GT2p:スラブに入ったフィンガークラック。このピッチを楽しみにしていたが、草と泥がぎっしり詰まっており本格的に掃除しなければフリーで楽しめる感じではなかった。竹中と交代してGTがエイドでハング下まで。15m+。 GT3p:右へ高度感のあるトラバースを続けて行くと逆層積み木状の赤茶けたボロボロの岩質になる。崩壊中の岩場に入り込んでしまった感じだ。どうやら途中から凹角を直上するのが正解だったらしい。ギアを使い果たし残置リングボルト3本を入念にチェックしてビレイ。30m程度 GT4p:崩れそうな足場に気を使い、カムで固めどりしてからハングを越える。易しい凹角に入るが、大きな不安定な岩がゴロゴロしている。1・2峰間リンネへ出る。GT竹中はデナリの後遺症なのか、「うわあ!」「◯ねる‥」「終わってる‥」等終始つぶやきながらフォローしていた。居候先の霊媒師お婆さん?から霊気を吸われてしまったのか…ガスに包まれた前穂ピークで休憩していると、雪、アラレが吹き付けてきた。天気が崩れたお陰か、ライチョウの家族に遭遇し撮影会になる。A沢の下降点でマスダPと合流する。A沢は落石の巣なので4人まとまって下降した。びしょ濡れになって奥又白に帰着するが皆充実して嬉しそうだ。3日目はのんびり屏風岩へ移動した。この時期はカツラのあまい香りが心地良い。T4テラスでビバーク予定だったマスダPはT4尾根取り付きで落石に遭ってしまった。連休中日なので人気の雲稜ルートを下降するパーティが多くいたようだ。自分たちは最終日に屏風岩東壁フリークライミングの下部だけ登り、下降した。東壁は午前中よく陽が当たり半袖でも暑いくらいだった。徳沢園のソフトクリームの味を現役に教えてあげたいものだ!
2024-10-15 3:14
ヤマレコAACH
《諏訪伊那郡》茅野駅【諏訪大社上社・守屋山】辰野駅
《諏訪伊那郡》茅野駅【諏訪大社上社・守屋山】辰野駅(無雪期ピークハント/縦走/甲信越)日程:2024-09-25(日帰り)メンバー: yoneyamaコース状況/その他周辺情報:守屋山の西側は完全にバリルートなので、地形図を読める人のみ。写真:農耕放棄地が遠くに見える。トンボの向こうは木曽山脈守屋山最高点後山集落に降りていく。中腹の緑の葺き屋根が登る神社。分杭平、突然ファミリー鉢盛山と穂高田んぼの畔に腰を下ろして休む、よく歩いた。沢の中で古いケルンあり諏訪大社上社本宮。諏訪大社は上下それぞれに、本宮前宮、春秋とあって4つもあるんだよヒコバエかな、放射状ブナの木オフネ古墳。5世紀とのこと。坂を降りたらお地蔵さん広場甲斐駒〜北岳〜仙丈ヶ岳と中ア後山への下降路、踏み跡はかすか。赤テープは連打してある。裏山の杉林、深淵東峰より穂高〜鉢伏山すすきと、麦みたいな変な草原東峰直下の樹林の切れ目から空神社裏から踏み跡は確か牛首尾根から諏訪湖を遠望傘が特大権益域を過ぎると看板がなく静かになる。甲斐駒北岳仙丈ヶ岳傘が特大いきなりこれじゃあ、素通りできない入山禁止の看板が10mおきに並ぶ沢底集落からは木曽山脈が見える稲刈り機が動かないのか?トリカブト蓼科山〜八ヶ岳人影がない風情ある民家諏訪湖と美ヶ原空木駒ケ岳茶臼経ヶ岳最高点は腰掛け多し。左奥に倉庫のような避難小屋が見えるトタン屋根の上にヒノキが根を張る。稲刈りまっさかりだそばかな。人影なし門をくぐる山越えして降りていく途上のハイオク茅野駅坂の上より守屋山方面まだ細い天竜川をわたる 木曽駒と空木が見える登山道、さがしまくってここだった本宮の拝殿長い廊下はざ掛け終えている。これをやるの大変なんだ。集落を見下ろす神社。屋根は手入れされている。中央道をまたぐ橋の袂から辰野の町見下ろす東峰より鉢伏〜美ヶ原〜霧ヶ峰弓と鎌と丸石急登に巨大カヤの木守屋神社 奥宮だ。沢底集落の公民館前広場怒りが食い込んでいる守屋山最高点広い芝刈地跡に出た脇の杉が太いケヤキも太い沢底集落が見えてきた感想:諏訪大社御神体の守屋山だから、里宮から登りたかった。昨日から突然猛暑の夏が終わり、低山シーズ入り。松本から朝一番列車で茅野駅、ここは穂高連峰が見えるんだ。坂下って巨大傘地蔵を二度見して大社本宮へ。ここへは初めて来た。木曽義仲の軍資金を提供し、平家打倒の信濃武士団の後ろ盾になった諏訪族の要。信玄もここを行ったり来たりしたものだ。神社裏手の道がわかりにくい。矢印看板が変な方を向いていて、探した。道も余り踏まれていない。周辺からの守屋山への道はいくつもあるようだが、地元では一番南の道を推しているようだ。理由は行ってわかったが、きのこ盗掘が多く、この辺りからは登ってほしくないようにみえる。中腹の、林道から近づきやすいあたりには、茸を取ったら厳罰という看板が、100枚以上貼られていて、有刺鉄線も続き、穏やかならぬ雰囲気。登山道歩いていても気が滅入るくらい。道も歩いちゃ駄目なのか?という気になってくる。財産区が終わると急にフレンドリーな案内標識が連発する。極端だよなあ。小さな峠を越えて分杭平に降りると子どもの遠足団体がいる。近くまで杖突峠からの車道が来ているようだ。登り切ると樹林が無く、展望が良い東峰。遠くの山まで澄んでいる。きょうは穂高もよく見える。浅間山も見えている。これから諏訪に来たら、この山の頂をさがそう。山頂祠には弓と鎌が供えてある。最高点山頂にはベンチが多数。周囲のヤブもよく刈り、手入れされている。山頂近くに避難小屋があり、一坪くらいの部屋においちゃんが二人で座ってご飯食べていた。灯油ストーブもあり、地元の人が飾り付け、手入れしている小屋のようだ。なかを少し見学させてもらった。名久井岳にあった小屋に雰囲気が似ているな。地元の人の親しみぶりがわかった。二度目の山頂も満喫して、いよいよ不明瞭なルートへ突撃。後山集落に降りる道は五万図にはあるけどほぼ廃道の気配。赤テープは誰かが付けてあるが、沢に入った途端になくなる。この道は他所から来る人は使わないだろうから、後山集落の人が守屋山に登るための道だったのだろうか。谷が広がると、山間で耕作している家があった。人影は見えなかった。後山はかなり隔絶した集落だが車が何台も停めてあり、今も人が住んでいるようだ。でも誰にも会わなかった。神社の裏から最後の峠越え道を登る途中、昭和26年の慰霊碑があった。災害ではなくおそらく戦没者だろう。11名の男の名が刻んである。元は集落を見下ろす高台だったろうけれど、樹木が生い茂り、森になってしまっていた。この小さな集落から11名。峠からの下りも、地形図通りには踏み跡は無い。大してひどいヤブでもないから磁石を切ってバンバン進むが、ノイバラが多くて閉口する。コルのところでふと見るとブル道が上がってきていて、そこできょうの藪漕ぎは終わった。道は草こそ生えているが落石崩落も無く、歩きやすい路面で快適に沢底川の本流へ導かれた。集落までは、地形も緩いおかげで林道の崩落もなく、のんびりと長々歩いていく。このあたりは谷が緩く細長く奥まで伸びていて面白い。車道としては行き止まりだから、知らない人は通らないけど古代とか中世とかからも結構人が住んでいたのではないかな。そんなことが鎮神社の立札にも書いてあった。三河攻めの秋葉街道ルートなどで武田信玄だって通ったことだろう。沢底集落では稲刈りの最中だった。先日友達の実家の稲刈りを手伝って、ハザ掛けを一日やったのでわかる。今が一番人手がいる。この時期に抜かりがあると、年間の稼ぎがパアになる重要時期だ。稲刈り機でハザ掛けの家と、コンバインで一気にやってしまう家とある。コンバインは楽だが機械は高額で、故障したらアウトだ。どうも動かなくなって、業者を呼んでいるようだった。沢底川右岸の尾根をまたいで、新興住宅街造成地の脇を抜け高速道路をまたいで、天竜川を渡って辰野駅へ。駅前食堂あたりでカツ丼かラーメンでも食べたかったけど、商店街は全滅していて、歩き回る楽しみもなし。1時間の電車待ちは、駅となりの公共施設の一角の喫茶コーナーでコーヒーのみだった。農家の人は70代後半以上、商店街は多分みな亡くなったのだろう。10年後には稲刈りを見ることもできなくなるかもしれない。我々の世代以下で山間農家をしている人を見かけたことがない。どうしてもとんかつが食べたくて、松本駅前の松電地下スーパーで買い求め、自転車こいで帰宅して温めて食べた。妻は麻婆豆腐を作ってくれていて、これもうまかった。御神体守屋山に、気になる集落2つ訪れて充実した。
2024-10-15 3:13
ヤマレコAACH
《筑摩山地》美ヶ原温泉〜烏帽子岩〜三才山峠〜鹿教湯カレー
《筑摩山地》美ヶ原温泉〜烏帽子岩〜三才山峠〜鹿教湯カレー(無雪期ピークハント/縦走/甲信越)日程:2024-10-10(日帰り)メンバー: yoneyamaコースタイム:コース状況/その他周辺情報:市ノ瀬〜三才山峠間以外は道なし。三才山峠の北の内山沢に降りる尾根は細く両側急斜面で、安心安全とは言い難い。廃林道は全般に、幅の広い夏道くらいの感じ。写真:扇状地を奥へのぼり振り返る。松本盆地は雲海気味烏帽子背景市ノ瀬バス停前の道祖神慰霊塔はおしまいらしい 本郷公民館に訪ねてみよう逃せないバス尾根上部には炭焼き窯の跡朽ちている遊歩道朽ちた祠烏帽子岩と武石峰昆虫学者小松氏のハイマート、藤井沢の蟻塚の記事戸谷峰と女鳥羽川源流部。遠くは穂高連峰ご主人と市ノ瀬に降りていく尾根末端近くには階段状に整地した耕作面があった。桑畑だったのかもしれない。藤井沢扇状地の坂道と古い町並み良かった。ダムの向こうに道が通じている。ダム湖これは・・鹿教湯に来訪ヤブの向こうに烏帽子岩火山岩と思われる露頭武石峰〜三才山峠の林道。こんな道なんだ。子供の頃天体望遠鏡で稜線に見た「ミサイル基地」は、戦没者慰霊碑だったのか!ダムの堤体急傾斜絶壁尾根を終えて振り返る。核心部では写真撮るのわすれた。カレー屋発見鹿教湯病院 閉店の様子ダム素性市ノ瀬の右俣ドンツキあたりに出たカレーだ!女鳥羽川源流の橋をわたる尾根上端近く、シダとカラマツの爽やかな木立烏帽子の尾根道は最高の道設計角度廃道林道っぽい雰囲気通れるのは許可車のみという雰囲気。バングラディシュカレーをお願い緩い谷状の底で、イノシシの野郎のヌタ場切り株にきのこ奥宮郷土だけじゃなくて全国なのか。ここに建てた経緯も知りたい。穴の空いた階段烏帽子岩の奥宮いろんな営みがあったこんな傾斜地にも石垣で耕作面道祖神と秋の萩?三才山峠。18世紀以前の大名はここを超えて参勤交代していたんかい!腰掛けのあるお休み処忽然と現る。道も何も無い山の中。切り株にきのこ烏帽子奥宮前の格好良い松カレーだ!おお、内山ダムと獨鈷山。遠くに浅間山。鹿教湯は見えないな〜外観 かなりこったデザインだと思う山に入る時お祈りする山神さまとのこと烏帽子岩は松本旧市街からは見えず、南部や西部、塩尻から見える大きな建物は広丘のセイコーエプソン感想:ひなびっぷりも板についてきた丸子の鹿教湯温泉。ここで知人のカレー屋を継いで4年前からコロナを乗り越えて続けているご主人の店に、山と絡めて行きたかった。長雨があけたので決行。山の近くに住んでいると、自宅から歩いて行けて最高。うちから山に突撃すると藤井沢の扇状地に導かれる。先日の新聞でここの砂防堰堤には凄い蟻塚のあるクヌギの大木があり、それを何十年も研究している人(小松貴さん)の話を読んだ。大木は見つけられなかった。堰堤を超え、鹿柵ゲートを超えていきなり道無し尾根に。道はなくても獣道はあり、グイグイ登ればそのうち人の踏み跡にも合流する。最初の山越えは全国戦没学徒の慰霊碑のタワーあり。ちょっとデザイン建築風の慰霊塔だった。突然思い出した。これは小学生の時天体望遠鏡で実家からよく見た。対宇宙人戦のミサイル基地ということにしてあった施設だ。最近見えなくなっていてなくなったのかと思っていたが、周りの樹林が伸びすぎて、隠れていたのだった。高さ20mはあろうかという大きなものだが。あちこちの山で見る、故郷を見下ろす丘の上に50年前に建てた戦没者慰霊塔、今はどこも樹林に覆われて、故郷は見えなくなっている。弔う人も居なくなっている。ここも8年前に魂抜きしたとのこと。修理してくれれば樹林が伸びただけに松本を見下ろす良い展望塔なのだが。1967年竣工、2016年立ち入り制限。あのような全社会的な惨事の死者は20年後に漸く慰霊され、その50年後には弔う人もこの世からいなくなる。修理ぐらいすれば良いのにな。市ノ瀬への道は、はじめ林道だったが次第に怪しくなる。集落の近くでは見失った。廃林道ではトゲだらけのノイバラが茂る事が多い。人工物の名残を好むのか。民家の裏の畑の畔に出た。尾根末端は以前は開墾して多くの平面を切ってあったが、いまはもう手が回らない様子。市ノ瀬は以前も山越えの途中で通ったが、完全保存の山里集落だ。7年経って、住人は減っているかもしれない。今回は人に顔をあわせられなかった。烏帽子岳への登山道は、傾斜角といい、足の踏みしめ感触といい、よく整備された道だ。送電線の補修があるからきれいに管理されているのだろうか。きょうも送電塔に保守の人が居た。烏帽子岩は松本の旧市街地からは見えない。広丘のエプソンのあたりが見えている。残置ボルトが見えた。武石峰北面の2つの谷も、女鳥羽川の源流だ。沢を詰めてみたい気もする。故郷の川だから。武石峰から三才山峠への林道は、これも廃林道の雰囲気。走れない事はないがガタガタの車道。舗装もまちまち。広めの登山道の感じ。三才山峠の立て札を見ると、堀田藩主までのほぼ1600年代いっぱいは、この峠を殿も含めて参勤交代で超えたとな。マジか!具体的にどんなラインだろう。松本側も急だが、上田側の斜面はかなり急だ。ちょっと想像がつかないよ。でも古代から、鎌倉街道含めてこっちがメインとのこと。水野藩主時代に稲倉峠+保福寺峠のダブルのっこしルートに替えたのが地形をみればわかる。ここから沢を下ると、自動車道路の動線に入ってしまうので、少し北に進んで、緩そうな尾根を下る。しかしこの下降尾根の上部は細い上に両側が切れていて、かなり緊張する。細いからルート間違いはしにくいけれど、細い尾根が崖で切れて、脇から巻いて急斜面を下るのが何度もある。やはり踏み跡はかすかにあるが。末端は傾斜も落ちて、牧歌的に下る。鹿とリスを何度も何度も見た。鹿教湯病院の裏に降りる。ここの病院は閉店したようだった。ここから延々沢底の道を温泉目指して歩く。右岸中腹に幹線自動車道路が走り、その走行音が谷中に響く。以前仕事で上田方面に行くときはよく通った道だが、あの道は味気ない。ノコノコ歩いていたら轢き殺されそうだ。トンネルも怖い。谷底の道はほぼ貸し切りだ。地形図を見る限りつながっているけど、本当に行けるかどうかはヒヤヒヤだった。最後のダム脇の歩道橋も通れて安心した。人造物に阻まれると、マジで絶壁になるのが怖い。ダム建設前の昭和40年代にはあったであろう集落の祀った鳥居や祠もある。三才山峠手前で電波が通じたのでカレー屋に電話していた。到着は閉店ギリギリになりそうだったので、計画にあった三才山や六人坊のアタックはカットした。今日のメインは烏帽子とカレーだ。半地下の店に、開いている時間に入ることができた。ご主人は穏やかな話しぶりのかっこいい人だ。置いてあった本のことできいたら書いた人だった。いろいろ話していたら互いの実家がすぐ近くで、先日図書館帰りに初めてあって話をして、話が弾んだ94歳の西村さんとも今の家が町会一緒とのことだった。それに中学高校が19年先輩で、楽しい話がたくさんできた。逃したらまた歩いて山越えしなきゃならない路線バスの、出発時間まで話した。発車するまで遠くて見てくれていた。この路線バスはありがたいのだが、行きでは時間が遅くて山行には使えず、帰りもちょっと時間が早い。希望を言えば、昔みたいに上田までつないでほしい。でもバスは今、大変だからな。あるだけでも感謝だ。町の中に降りて来るまで、他の客は居なかった。和泉町でバスを降りて女鳥羽川を渡って元町の古書店に寄ったら、さっきの本をちょうど置いてあり、重いやつ背負って徒歩帰宅する。きょうはよく歩いた。マンポ計は45500歩だった。良い出会いあり。未踏ピークも踏めた。晩ごはんにノンフライ・焼きコロッケを作ったら好評だった。
2024-10-15 3:10
ヤマレコAACH
笠谷右俣B沢‐錫杖岳‐錫杖沢‐クリヤ谷
笠谷右俣B沢‐錫杖岳‐錫杖沢‐クリヤ谷(沢登り/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-08-04〜2024-08-05メンバー: yoneyama nishinakentaコースタイム:コース状況/その他周辺情報:笠谷林道の3分の2は廃道錫杖南コルからクリヤ谷二股までは大滝に巻道はあるが、沢登りルート写真:コルから先は踏み跡ある赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くロープ出す登山口案内板は風化中藪の中の倒木に生えた地衣類美しき毒草側面は絶壁に覆われている平湯の湯、無人露天300円ラ王と西名さん紫の蕾赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く本当に行けるのかヨと思うとき水が絶えた涼しいな二段目の10m弱は右岸のがれ脇の草付きに取り付くがもろく傾斜あり断念またまたナメ滝笠ヶ岳とクリヤかザレの下は奈落という場面にトラロープ赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く笹の海の中、倒木にすがる段差平湯の湯、無人露天300円赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くきょうも素敵な遡行踏み跡なので見失うことシバシバガスが行ったり来たりほぼ沢ルートコルまでヤブコギかその左寄りのくさのない急傾斜ガレルンゼをチムニーで登ったらかなり厳しい。脇の草付きでうごけなくなっている赤いヘルメット下降の沢より見上げる錫杖岳滝10m以下の脇を行ける滝が多い釜もあり天場は個々のほかはあまり適地無し遠くに滝凄い壁数m差の最高点はあの左の峰のようだ笠谷林道、森の中は快適赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く紅い花林道終点から本流を見下ろす朝ラーメン。きょうはラ王懸垂終えたとこ錫杖岳の屹立を見る二段滝の一個目は左岸脇を登る岩峰群を顧みる山頂クライムダウンはできるが一般的ではない感じの大滝左岸のヤブにトラロープはある崩壊林道のガレの上から絶壁奈落赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くナメ滝ガレルンゼを更に上に抜けた目指し赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続くこのあたりは地形的に狭い谷ガスもいいね行けるナメ滝林道終点から、ややわかりにくい右俣赤い風化花崗岩の緩いナメ滝が続く感想:一日目元同僚の西名さんと沢。松本のウチまで車で来てくれた。前夜泊ウチでして、早朝1.5時間で栃尾温泉。1日2本のみのバスに乗って笠谷下車。西名さんはこの林道何度か以前歩いたとのこと。1時間ほどの林業飯場までは整備されているがその奥は放置の廃林道で、平成元年工事の標識あり。ヤブに覆われ、落石のガレが急斜面ほど多く、高度感あるトラバースもあり。200年前播隆上人は槍ヶ岳開山の前にこの笠谷から南西尾根に取り付いて笠ヶ岳開山したらしいのだが今は痕跡無し。石仏10のうち8は見つかって山麓の資料館にあるとのこと。こんな林道でも上人ルートの本谷を遡行するよりは早い。左右の二股で入渓。少しその上流まで道があり、右俣への入口は少々変わっている。下りできたら林道を当てられなそうだ。薄くしく容易なナメ滝が連続する。大きい滝も多いが困るものはない。1290mにある二段の滝の上段は、右岸〜トラバース〜左岸という案もあるが右岸の急なガレルンゼの草付きに取り付く各々数メートル違うルートを登り始めてしまって結構行き詰まる。米山の取り付いた左側のボロボロのスレスレチムニーで10m程上の立ち木灌木まで到達。そこから、右ルートのボロボロ草付きの途中で行き詰まっていた西名さんに手持ちのシュリンゲをすべて継ぎ足したお助け紐を投げて窮地を抜ける。ちゃんと始めからザイルを出して行くべきだった。一発目の核心でズルズル始めてしまい反省。ノーザイルの距離ではなかったが、灌木までは手も足も出なかった。藪の中からザイル出してトラバースして下降点を探す。下は流れが白くなっていて1.5ピッチほど進んだところから懸垂。巻道のような痕跡はあった。その後も大小きれいなナメ滝が延々連続するが困ったやつはなかった。1490mに良い場所がありタープで泊まる。薪は湿っていたが着火炊事は問題なし。なんだか眠く、明るいうちから寝床に入る。夜中はシュラフカバー一枚ではやや寒く、かっぱを着て寝直す。下界の酷暑が夢のようだ。深夜大型動物が沢を渡る物音を西名さんが聴く。二日目ほどなく二股。計画では左側の錫杖岳の北のコルに上がる沢から山頂目指すつもりだったが、よく考えたら稜線に踏み跡レベルながら道のある南コルを目指したほうが良いと思い、ここは右俣を取る。水のあるうちは快適なナメ滝が続き、1800mで標高差200を残して笹薮に突入。源頭は広い緩斜面なので笹は多いが淡々とコルに向かって突き進む。ヤスヒロさんは北のコルから二股に滑り、右俣を登り返したのだとか。コルには、クリヤ谷からの踏み跡ルートのピンクテープがある。山頂まで、際どい未整備道を辿っていくと、岩峰群の弱点を縫って山頂まで至る。ガスが行き来して幽玄な気配。本当の最高点は少し先だがまあいいやって感じになる。少しして、岩の基部から人が現れた。聞けば町田さんという藪山歩き登山愛好家の方で、地下足袋のご同輩。6日ほど北アルプスの藪山岳を巡っているとのこと。こんな無人域で突然会って驚く。下りに取るとピンクテープありとはいえ、ルンゼからトラバースに入るところとか、うっかり行き過ぎる道失いポイントの罠はいくつもある。コルからクリヤ谷への下降路も左にトラバースする1910m地点はわかりにくく、要注意だ。あとは傾斜のある沢登りルートを下る。大滝には巻道が付いているが、夏道登山道ではない。錫杖岳岩峰群へのクライマーの取り付き道分岐が多い。クリヤ谷本流の対岸にはクライマーの幕営跡地いくつかあり。クリヤ谷からクリヤの頭経由笠ヶ岳への登山道は今や廃道らしい。西名さんはなんと10数年前の大学山岳部時代に北アルプス大縦走の下山路で通った事があるらしい。その際にもかなりヤブに覆われていたという。北アルプスと言っても人が多いのはごく一部だ。中尾高原口バス停からは、1時間に一本のバスで車デポの栃尾温泉へ車回収に。平湯の湯という無人露天風呂で静かに浸かる。300円。栃の木と桂の木と楓の木に覆われた良い湯船だった。降りてから日本登山体系を読む。あの二段滝、地形が変わったのか、水量が多かったのか特に問題の記述はない「上段はシャワークライミングとなる」ってやつかな。岐阜百秀山も読み返す。円空仏の背に1690年、この山の名前があったのかあ。岐阜百と白籏史朗の百がイッコ増えていたのはささやかに嬉しい。3日に塩尻で仕事があったため、4-5日のプランで行けそうな沢ないですか?と先輩を誘う。複数案あったが錫杖岳が未踏だった事と2年前に笠谷に行った経験を生かして今回の計画に決定。車の回収などが肝となるが、栃尾温泉に車を停めて、行きは1日2便しかないバスで笠谷までアプローチ。相変わらずの林道で途中の木材業者の飯場にはトマトの家庭菜園もあり時の流れを感じた。笠谷本流と支流の分岐から入渓。登山体系にはシャワークライミング云々書かれている滝が1番の難所。ガレタルンゼを先輩が突破。ガレが半端なく一度滑り落ちて手を切ったので草付きから攻めるも行き詰る。お助けスリングで事なきを得て2ピッチトラバース。1ピッチ懸垂で川床に復帰。滝をシャワークライミング直登もできなくは無かったが、ランナーが取れずビレイ点も不明、落ちたら死ぬ高さの滝なので、ガレたルンゼから行かざるを得なかったが、ロープを初めから出せば良かった。その滝の周辺だけ岩がとても脆かったと思う。その後は支流らしく狭めの遡行が続く。適切な幕営地も2ヶ所ほどしかなく我々が泊まった所が最も上流で適地だと思う。 先輩の焚き火技術は流石でした。翌日は沢を詰めて錫杖岳南のコルを目指す。最後の100mは薮がすごい。 コル以降はピンクテープ有 下山時に1ヶ所間違える。 錫杖沢の下りも水流が多く沢下りに近い、登山靴だとコケで滑るし危ないので沢靴推奨。10年ぶりのクリヤ谷を通過して下山。中尾温泉からバスで車を回収し先輩を松本に送り岐阜に帰る23時帰宅。
2024-10-15 2:29
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荒船山 内山峠‐艫岩‐経塚山‐兜岩山周回
荒船山 内山峠‐艫岩‐経塚山‐兜岩山周回(無雪期ピークハント/縦走/赤城・榛名・荒船)日程:2024-10-12〜2024-10-13メンバー: yoneyamaコースタイム:写真:変わった車両席昭和初期の信心深い重そうな石柱鋏岩修験場跡岩塔多き山域、遠くは威ぬ牟畿不動威怒牟畿不動 帰り道荒船不動荒船不動こっちラインは四掛け、あっちラインは二人掛け信仰の祠帰り道の1380峰ピーク苔むした堰堤の谷造形作家のお宅前名前知らず茸マツダランプかぁ経塚山艫岩から見とる。経塚山鋏岩修験場跡中込駅前歩行者通り荒船不動あずまや下山路より振り返る兜岩山からローソク岩など頂上台地は独特の植生に思える霧の朝鋏岩修験場跡佐久市役所近くの佐蔵で醤油味沢で泊まる頂上台地は独特の植生に思える霧の朝兜岩山が見えている最高点の経塚山、遠望艫岩からも見えた醜いパネル原頂上台地の笹原甲岩山山頂台地 フジ撮影絶壁 フジ撮影神津牧場見えとる鋏岩修験場跡荒船は見えない。あのへんは男山あたりか。艫岩手前の覗き場から見下ろす鋏岩修験場跡めくれ上がりの根と霧の林あずまや、部屋もあった艫岩見上げる小海線は若草色だ。見かけない木東京への帰路より フジ撮影草原のような谷沢で泊まる中込駅より。遠く浅間山小諸駅でしなの鉄道から小海線に乗り換える。新幹線のお陰で在来線がズタズタじゃよ。通しの切符も買えない。えっ?もう30年も経つのか。東京への帰路より フジ撮影御嶽山経塚山星尾峠荒船不動小諸駅には鉄道部品市場があったよ。威ぬ牟畿不動乗り換え時間があり、小諸駅前をぶらつく。どこかの絶壁 フジ撮影荒船不動感想:東信州の名山。電車で行くと中込駅から内山峠まで3時間半歩きのところ。車が多くてあまり歩きたい道ではなかったが、ちょうど東京の藤原さんとの中間位置の山域なので車で来る藤原さんと車入山の計画に変更した。もともと車なら日帰り行程の山を駅入山で2日にしていたので、車入山でも2日とって、余裕の山歩きに。もう沢は寒いし、いい山域だった。有名山だから人は多かった。小海線中込駅まで松本からあさイチの普通列車で2000圓ちょっと。篠ノ井線、しなの鉄道、小海線乗り継いで3時間。藤原さんが三連休の渋滞で1時間遅れたので、中込駅前商店街などをぶらっとする。この町はたしか佐久市を構成する3つの町の一つだ。佐久はもともと複合都市だが、90年代にインターと新幹線駅がその3つのどこでもないとこにできて大型店スポットになり、3つの街の駅前個人商店街はそれ以来時が止まっているという印象だ。もう30年経った。内山橋から歩きスタートで内山峠、登山道。藤原さんとは世代の話やルームの話、団塊の世代の話などで話が盛り上がり、始終話し続けていた。艫岩のところでちょうど10人以上の団体さんとカブった。全員が熊鈴を付けていて、荘厳な鐘の音だ。カウベル付けた牛の群を率いているスイスの牧場を想像した。藤原さんがパタゴニアでテント張っていたら牛が集まってきてテント潰されそうになった話。僕もチベットでテント張っていたら周りにした小便を舐めに牛が集まって来た話になる。荒船山は航空母艦のような山で、絶壁と岩窟には修験の名残がある。植生も独特で、山頂台地の上は、笹も丈が低く草原状で、立ち木はそのへんで見かける知っている広葉樹ではなくてりんごの木みたいな名を知らぬクネクネの広葉樹が多い。東信のせいなのかこの地形のせいなのかはわからない。なんだかパタゴニアのパイネ周回コースの風景ににている。風が強いということなのかもしれない。藤原さんが書いた「酔いどれクライマー永田東一郎」の話で、永田さんが大島亮吉が書いた「荒船山と神津牧場」の文章をほとんど全部暗記していた下りがあって、大島の文章の話になる。今回は事前に読んでいったのだが、失礼ながら「暗誦するほどの美文だったかな」なんて話をした。高校生時代の読書って極端だよなあ、とか。一泊したところは沢に標高差50mほど降りて、水が汲めるところ。水があるところはあまり平らではなかったが2人ならどこでもツエルトで泊まれる。薪は殆ど無く、全部湿っていた。地形図でアテを付けて選んだ。赤ワインと燻しアーモンドで、ズールー語の話など聞く。軽いツエルト一つで温かい。翌朝は最高点を踏んで兜岩山を往復して、不動尊への道を下る。はじめは兜岩山の南の緩そうな沢を降ろうと思っていたが、荒船不動尊に寄りたくなったので変更した。大島亮吉が通った初谷温泉は、日帰り入浴できないとのことで、佐久市役所近くの佐蔵でラーメン、近くの温泉ホテルの日帰り風呂による。鈍行でのんびり松本へと帰りたかったが、きょうは姉の一家が松本に来ているので、奮発して新幹線と特急しなのを乗り継いで3時間半のところを2時間弱で、料金はほぼ倍額で松本へ帰る。親戚10人集まって楽しかった。日本は山が豊かでどんなところにも良い山があり、たとえ人がいっぱいいようが、日帰りコースのように見えていても、自分で計画を設計して独自の山行をすることができる。自由だ。
2024-10-14 12:29
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手稲山南壁
手稲山南壁(アルパインクライミング/札幌近郊)日程:2024-10-14(日帰り)メンバー: saito1987 zeniya1990写真:白樺テラスへ懸垂左側のワイドクラックも中央チムニー側から繋げて登れば面白そう!「道内でも比類のない」チムニー〜ワイドクラックのルートだ。中央チムニー中間部南壁の上から札幌中心部を眺める感想:秋晴れの1日、マイナー岩場でチムニー登り(中央チムニー⇒変形チムニー)を楽しむ。
2024-10-14 2:25
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ペテガリA沢
ペテガリA沢(沢登り/日高山脈)日程:2024-10-12〜2024-10-14メンバー: Iida_2017 kurokiri96写真:「希望」をば濡れたくないさげぽよ常勝930の滝Depoヤカラ控えめ俺たちのセラーズ西沢あげぽよテンバからペテガリ夕暮れ奥に1350の50m滝感想:96が北海道に来てペテガリ行くというので、せっかくならA沢で行こうぜと誘った。九州でヌクヌクしてんじゃねえぞ、久々に北海道の冷や水浴びろクヌヤロウ、ゴクい山行お見舞いしてやる。と思っていたが、なんのなんの秋のド真ん中スバラシ山行になった。日高が一番信用出来る。96は「山岡家食ってた」と集合に30分遅刻。コイツは全然信用出来ない。神威山荘でC0。中身のない議論に花が咲き、23時過ぎに就寝。やれやれ。DAY1:神威山荘(5:45)ペテガリ橋(8:15)BC沢出合(13:15)=C1晴れ めちゃくちゃ二日酔い。スマートに二度寝を決めた結果、だいぶ遅れて行動開始。温度計は2℃を示しておりビビる。酔いも覚め、太陽もだいぶ昇ってきたころに橋。酒をデポして入渓。2段滝の前の滝を左岸からまく。2段滝と呼ばれるやつも左岸から。笹に突っ込む前の10mくらいザイル垂らした。200mくらいササ藪をトラばって懸垂なしで沢に復帰。以後へつったり、胸まで浸かったりしながらワーキャー進む。水線二股を左に入ると急に沢が開け、よくある歩きやすいゴーロに。結局全然泳がずこの時期でもカイテキだった。BC沢出合でC1。ペテガリがよく見える。素晴らしい秋晴れ。焚火を付けた途端、叫ぶ96。わかるぜ。「まータープ張らなくてもいっしょ」となげやりな態度で寝たら、なげやりな雨が未明から降る。DAY2:C1(7:00)ペテガリ岳(12:00-12:30)ペテガリ山荘(16:45,18:00)=C2晴れ。 雨雲はみるみる流れ、出発するころには再び抜けるような秋の青空。背中に太陽をばっちり浴びてぽかぽか遡行。沢が北に向くと函っぽくなり、快適に登れる滝がポツポツ出てくる。930の滝は右岸からとりつき、最後の10mはザイル出して登る。グズグズで悪かった。木つないで懸垂なしで沢に復帰。チョックストーンの滝は96は辛そうなのでザック吊り上げて空身にする。1350の大滝は右岸の枝沢を詰めて上部まで登った後、カンバつないで滝のほうに戻り、落ち口下10m位をザイル出して直登。日高的詰め&30分程度の日高体操で勝利。西沢をニヤリ目で鑑賞しつつ、クソ尾根を下る。ペースが上がらない96を見捨ててデポを回収のために駆け降りる。96は真っ暗になってから到着。あったかい小屋でいっぱい酒飲んで大勝利。DAY3:C2(8:00)神威山荘(10:30)自然起床のちベッピリガイ乗越。最高の3日間だった。と、おもったらまさかのパンク。くそがと思った。様似からJAFで来てくれたおじさんと帯広のタイヤ屋まで2,3時間のドライブ。めちゃくちゃいい人で、おれも人にやさしくしたいと思った。パンクしてよかった、とは全く思わなかったが。北の常勝軍団とは俺らのことだぜ。
2024-10-9 8:39
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境谷〜市房山
境谷〜市房山(沢登り/九州・沖縄)日程:2024-09-21〜2024-09-22メンバー: aach_17inoue kurokiri96 kamiya2015コースタイム:写真:50m滝巻き途中鬱憤を木にぶつける顔がやばい救出だからなんなんだ15m滝稜線へ949m二股テン場に散らばるClassicスラブ滝20m滝入渓地点ほぼ北18条お世話になりました宴不安になる角度40m滝桃源郷?感想:市房山は魔の山だった。椎葉の夜に乾杯。九州支部も元気に活動中です。
2024-10-7 18:20
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2024.8.13-19(7-0) 1年班夏メイン北日高
報告_2024.8.13-19(7-0) 一年班夏メイン北日高 幌尻岳〜新冠川〜エサオマントッタベツ岳〜山スキー沢〜札内岳〜ピリカペタヌ〜勝幌 L柴部(5AL小野寺(3M西園(3玉木(2竹下鶴留(1 〈時間とルート〉 D […]
2024-10-7 18:13
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2024.08.12-16(5-0)2年班夏メイン
報告_2024.08.12-16(5-0) 2年班沢メイン ショートカット ヌピナイ右股〜ソエマツ南東面〜ソエマツ岳〜ソエマツ北面〜神威北東面〜神威岳〜神威東面〜添松林道 〜ツッパリ!羽虫と葉虫の猛襲〜 L齋藤(4 AL […]
2024-10-5 5:39
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2024沢メイン2年班ショートカット ヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道
2024沢メイン2年班ショートカット ヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道(沢登り/日高山脈)日程:2024-08-12〜2024-08-16メンバー: misa2021 Sugiyama_2022 kaneko23 watanabekaコース状況/その他周辺情報:報告_2024.08.12-16(5-0)沢メイン2年班 ショートカットヌピナイ右股~ソエマツ南東面~ソエマツ岳~ソエマツ北面~神威北東面~神威岳~神威東面~添松林道-ツッパリ!羽虫と葉虫の猛襲-L齋藤(4 AL杉山(3 M市川金子渡邊(2<時間とルート>Day1:鹿鳴橋1km先(6:00)下二股(7:00)第一の函(10:30-12:30)上二股(16:00)=C1[小雨]車2台体制で行き、下山地点にフリードを置いてセレナで入山地点に送迎してもらった。途中でフリードの鍵を閉め忘れた可能性に気づく、が山行中は忘れることにしよう。右岸林道のテープが張られているところまで車で入り、そこからきれいな林道を歩く。下二股から入渓。・507二股からゴルジュが始まり釜持ち滝がいくつか出てくる。何度もニコニコで全身浸かった。第一の函は中を泳いで突破を試みたが全然歯が立たない。渋々左岸トラバースにする。残置ロープが張ってあったのでそのラインを行く。一箇所難しいので残置ロープを使ってザック受け渡しをした。ALが重荷と高度感で弱気モードになってしまっていた。その後の二段の滝はまとめて左岸を巻くのが良い。ここを抜けるとだんだんの険しさが無くなる。石が黒い七ツ釜もどきの後に石が白い七ツ釜が現れる。曇りだったからか何の感動もない。そこからは巨岩の河原を登って上二股へ。耐えられる快適テンバ。小枝が濡れきっていてなかなか焚き火がつかない。格闘すること3時間ついにサヨナラ勝ち。普通なら顔が死ぬところ謎に盛り上がって焚き火をつけた。教訓は着火時小枝だけ南国式にすること、黒くなるだけの小枝も投入し続けること。また次の着火用に細めの枝を炭にしておいて焚き火セットを持ち歩くのも良かった。金子が焚き火を眺めながらシューっていってる、、と呟いた。Day2:C1(4:50)ソエマツ岳(9:00-12:00)Co686二股(16:00)=C2[小雨のち曇り]朝焚き火が小さく時間がかかる。40m滑滝は左岸登って途中からブッシュ使って巻く。上部はv字谷地形。ピリ辛小滝もある。広々とした草原を歩いて藪漕ぎ5mで稜上に出る。ピークはガスガス強風で寒い。auだけ電波入り予想天気図と天気予報とを見た。予想天気図は悪いが天気予報はなぜか悪くない。新しい台風も生まれていた。低いもの含め全ての可能性を考えてうだうだ話し続け、準山の反省から支五の沢をショートカットする方針に。ソエマツ北面沢を下る。Co1400あたりから滑滝が連続するが左岸巻けるので問題ない。Co1150二股手前の50m近く続く滑滝は左岸中間尾根から回収用使ってab。その後の滝は残置ハーケンでab、Lのみギア回収してcd。その後の滝は慎重にcd。2,3回cdした後はガレになる。各々無心で下る。テンバに着くと前を行っていた市川金子がいない。30分くらいで気づいて引き返してきた。ここは奥二股まで近い良いテンバ。だと思っていたが雑炊が出来上がる頃に地面から羽アリが大量に湧き出てくる。Ls発狂する。奴らは食感も味もないので見なければ知覚しないことが可能。だもんで杉山は1匹も食べていないらしい。明日は北海道全域悪天で、2つの低気圧に挟まれている日高だけ降らない予報。天気図的に動けないだろうと言ってナチュゲを決める。Day3:C2(8:50)奥二股(9:20)Co1000(16:00)=C3[晴れ]朝起きるとすごく晴れていた。Co1000までなら動けるんじゃないかと急いで準備し出発。いくつか函を巻いて奥二股まで。C2より奥二股に近い場所も泊まれる耐えられる。奥二股入ってすぐに狭い函滝。頼りになるALが空身で激流を突破、後続ゴボウ。今メイン一番のハッスル。側壁も登れそう。屈曲までもいくつか函滝。一つ目の函は右岸テラスから簡単に巻く。巻き終わって振り返ると見たことないほど暗いゴルジュだった。二段の滝は一段目泳いで取りつき左岸を登る。二段目は左岸を空身で登りザック吊り上げ。続く函滝は左岸ツルツルを一段登ってからトラバース。沢に戻るところもツルツルで、市川が危なくない感じで滑り落ちた。その後の人には下の人が手でスタンス作った。その後も突っ張り多用で進む。2条の滝をシャワークライムして函地形は終了。河原になる。20mの滑滝はALリードで左岸直登、ザイル出して良かった。ぐんぐんコンタをあげてCo1000二股まで。メインらしい山奥のテンバ。暗くなるのを待って花火した。Day4:C3(9:00)神威岳(12:00)Co640二股(16:00)=C4[晴れのち曇り、一時通り雨]昨晩からALがラジオを聴きまくる。朝晴れているが概況から動けないと判断していたが、時間が経っても天気がいいのでピークまで行ってみる方針に。Co1000二股直後の2段Fは右岸巻き。その後はどこまでも小滝が続く。薄い薮漕ぎで快適にピークまで。念願のピークはイタヤハムシと思われる虫が大量発生していた。服の中に潜り込んでくるし潰れると黄色い。Lsまたも発狂する。時間が微妙だがあまりに辛いのでテンバを下げたい。急遽ネットで記録を探してCo640二股のテンバを見つける。稜線の向きが変わることを確認して沢に下る。上部あまりに急なので心配になるが問題なかった。10分間ほど強い雨に打たれた。Co1200あたりから滝が連続する。1つ目の滝はcd、2つ目の10mスラブFは残置ハーケンでab、3つ目の8mFは残置シュリンゲでab、4つ目5つ目の滝はザック受け渡しして慎重にcd。Co1000三股で核心終了。あとは河原。Co650に意外な函地形が出てきて右岸巻く。Co640二股以降は広い河原になりどこでも耐えられる場所がある。適当な草原を切り開いてC4。雑炊に台湾メンマがよく合う。夜に鹿が鳴きまくるので怖くて泣きそう。Day5: C4(8:45)・404(9:45)林道終点(10:20)添松林道入口(12:45)[晴れ]ナチュゲで青空幸せいっぱい。河原をてくてく歩く。渡邊がずっこけて足を痛めていた。Co500くらいの函は右岸巻いた。林道は踏み跡から簡単に見つかる。熊スプが一つしかないのでまとまって歩く。足の痛みで辛そうに歩く渡邊のスピードに合わせて金子と市川がずっと話していた。2年班でもこんな明るいことあるんだなぁ。鍵のかかっていないフリードに着いて完。<パーティ>2024沢メイン2年班 貫徹ならずショートカット(計画ではソエマツ岳から支五の沢を下って奥二股まで登る)Ls 慎重に判断したM 自立した齋藤 時計壊し(Day3)市川 時計紛失(Day5)金子 体力◎、肩負傷(Day4)渡邊 ATC落とし(Day2回収)、足捻挫(Day5)<感想>齋藤 行ってみたかった沢に自分たちの力で行けて、できることが広がったように感じた。日高にはまだまだ楽しい沢があるんだろうな。来年はMたちに連れて行ってもらいたい。杉山 2年班的な沢はやっぱり怖かった。無事に終わり本当によかった。愉快なパーティで楽しすぎる夏の旅でした!市川 退屈なことがない沢で、本当に楽しかった。またこんな山行をしたい。パーティに感謝。金子 自分の生きがいを見つけられたような気がして、最高に楽しかった。連れて行ってくれたLsには本当に感謝。渡邉 沢もテンバもとても楽しかったです。ありがとうございました!!<ルートの評価>神威北東面はツルツル岩質での突っ張りムーブが特徴的で、準山で対策とる感じではない。準山ヤオロ右沢で十分足りていた。神威岳ピークでは昨年のネットの記録でもイタヤハムシが大量発生していたとのこと。8月下旬は泊まれないのかもしれない。写真:山深い良いテンバ始まる奥二股 支7の沢に入るすぐに一番大変な函ツルツル続くCo1000三股曇りの七ツ釜閲覧注意全身運動函泳ぐまだまだ遊べる神威東面上部はすごく急開けてくるC2ソエマツ登り20mF2条の滝で核心終わる結構泳がなきゃいけないガスガスピークソエマツ下り 30m懸垂小滝は続くよ♪巻いた函ソエマツ林道Co1000でC3儚いね中は厳しい2回懸垂したツルツル虫のおかげでいい笑顔最終日はいい天気・507ちょっと汚い高みを目指すハムシ 閲覧注意第一の函プールを泳いで取り付きcd40m滑滝広い河原を歩いて上二股までツッパリ巻くv字感想:準山からメインまでずっと思い描いていたのは明るく楽しい山行!裏テーマは自分の弱さを外に出すこと。そのおかげか今までのメインの中で一番自然体で過ごせて自分らしい山行になりました。かっこいいリーダー像とは程遠いLだったけど、補い合って一緒に頑張ってくれたパーティのみんなに感謝。いつも想像以上な山にも感謝。
2024-9-29 8:12
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田代山と帝釈山
田代山と帝釈山(ハイキング/東北)日程:2024-09-24(日帰り)メンバー: babaa1986コース状況/その他周辺情報:猿倉登山口〜田代山〜帝釈山〜田代山〜猿倉登山口写真:曇り空の下、出発帰りの田代山湿原はガスがかかっていた田代山山頂?倒れた木の根っこに木が生えている帝釈山山頂遠くの山々無風快晴で池塘が鏡になっている小田代と田代山、上にきたら晴れていた日光の山々は雲の上湯の花温泉、入山前にも入浴下山後も入って汗を流して帰路に帰ってきた池塘群の向こうは会津駒感想:田代山と帝釈山に行ってきた東京から意外と近かった
2024-9-22 1:55
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笛吹川東沢から甲武信ヶ岳
笛吹川東沢から甲武信ヶ岳(沢登り/奥秩父)日程:2024-09-20〜2024-09-21メンバー: saito1987 babaa1986コースタイム:写真:満月に照らされ夜中も明るい一晩中焚火の横で過ごす千畳の滑をひたひたと、と思いきや案外ヌメるので気が抜けない東のナメ沢おいしそう甲武信ヶ岳山頂しばらくガレガレ乙女の滝合流東沢に入り、沢沿いの踏み跡を辿っていく楽しい河原歩き釜ノ沢に入りすぐの魚留滝上流部のナメ西のナメ沢合流両門滝手前Co1530の小屈曲部に良い天場あり朝すぐに両門滝感想:温故知新。渓歩きの古典ルートを味わい尽くす。
2024-9-19 1:50
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大洞川井戸沢〜滝川槇ノ沢下降〜八百谷〜東仙波
大洞川井戸沢〜滝川槇ノ沢下降〜八百谷〜東仙波(沢登り/奥秩父)日程:2024-09-14〜2024-09-16メンバー: mizushu2016コースタイム:写真:ピーク八百谷の巻いた滝最後の細いところ大滝上部終わり東の尾根を下りる・1872から1920のコルへシャワーCo1650あたりのザイル出した滝白樺広場とは?平らなテンバ泳ぐ人その2槇ノ沢の上部、苔ロードができていた巻いたやつ?最初は段差林道崩壊地点を見下ろすカモシカ。ピンボケ将監峠こんにちは積極的に泳ぐ人ぐんぐんコンタを上げる懸垂で下りたCSの滝感想:一泊してももう一泊ある、丸々1日沢で遊んでから焚火ができるそんな贅沢。週休3日にならないかな〜。新たな場所でも頑張ってください。
2024-9-18 1:54
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白山の短め沢旅(加須良川〜ボージョ谷〜フカバラ谷)
白山の短め沢旅(加須良川〜ボージョ谷〜フカバラ谷)(沢登り/白山)日程:2024-09-14〜2024-09-17メンバー: hazuki2012r fukumoto_2013写真:フカバラ谷へ50m滝この沢の核心30m滝おいずるが岳直登沢左岸の藪を漕いで越したなおも滝は続く60m大滝は2ピッチで懸垂加須良川の地図に載っていない貯水施設すぐに25m滝右股に入るとすぐゴルジュ一癖ある小滝がいくつか続くセミになりながら撮影した写真日が沈むころに豪雨となり焚火が流されてしまった開放的な巨岩の河原この滝を左から容易に登ると登っている記録も見るがハーケンを持っていないので左岸捲きスラブの区間を越えて藪に入ってからトラバースするそのまま自然に右股へ入っていくとにかく暑いこのチョックストーンは荷揚げゴルジュの中にピリ辛小滝が続く1000あたりの15m滝急に平和な雰囲気に1120二股付近で福本は今年4度目のクマ遭遇三俣で少し開ける ここで泊まる4日目 奥に見えてるスラブのあたりに…「境」川を渡ってまずは岐阜側へ藪漕ぎ5分で登山道スラブをクライムダウンしたり捲いたりする懸垂して次の釜滝を右岸から登るト谷セミになりながら撮影した写真ばっちり落ち口に出た3日目まずは40mナメ滝を下る二日目釜滝を越えていく素晴らしい景観 個人的にはオバタキ谷のそれより好き左股方面ハング上を右にトラバースして左上気味に登る岩はしっかりしていて快適15m滝の登攀地図記号も載っている最初の滝 左岸ルンゼから捲いた滝記号の支沢巨岩帯を少し挟むお疲れ様でした入渓後しばらく歩くと素晴らしいゴルジュだが何があるというわけでもないへつる場面が多いこっちは瓢箪山直登沢セミになりながら撮影した写真懸垂を3度ほどナメ小滝がいくつか50m滝の上から見下ろす780二股1470コルからボージョ谷を見下ろす雨が少しぱらつく 以後降ったり止んだりに20m滝巨岩一癖あるものも感想:進歩のないことにルームの夏メインみたいな沢旅がいまだに一番好きで、やりたい計画がたまっている。本当は1週間くらいあればフカバラ谷を詰めた後に瀬波河左股→右股→犀川を金沢まで下降したかったのだが、そんなこと言ってたら一生行くタイミングは来ない。1日目夜行バスと電車、レンタカーを乗り継いで桂湖へ。車を置いて林道を歩き加須良川へ尾根を乗越す。しばらく歩くと地図の中州のあるあたりに小型のダムがあった。藪を漕いで小さな池を越えて入渓する。しばらくなんともないゴーロだがじきに両岸高まりかなりイイ感じのゴルジュとなる、が、特に何もない。地図記号のあるあたりで12mほどの滝。登れないので左岸捲き。懸垂で滝の裏に降りて直後の小滝は容易に登る。しばらく行き770あたりの河原でC1。蚊が多く閉口する。2日目天気が崩れる予報だが青空が出ている。釜持ち小滝のへつりを繰り返すと940二股。両股滝で出合っているが今回は右の本流にかかる30m大滝を登る。登山体系に「非常に困難」と書かれているので警戒していたが、案外岩はしっかりしており三級ほどのクライミングで快適に登ることができた。ところがここでハーケン忘れが発覚。大滝の先の巨岩の急なゴーロを登ると沢が平らになり開ける。ここで福本は今年4度目のクマ遭遇。1470コルに突き上げる沢に入り、小滝をいなしながら登ると5分ほどの藪でコルに到着。休憩していると雨がパラパラ降ってきたのでボージョ谷を下降開始。以後雨は降ったり止んだりするが本降りという感じではなかった。沢筋を下っていくとちょっとしたスラブが出てくるがフリクションが良くすたすた降りられる。急なところはブッシュ帯で捲くと8mほどの滝があり懸垂。そのほかも全部で3回ほどの懸垂をし、河原をしばらく歩くと40mナメ滝の落ち口に到着。時間はまだあるが下手に降りて境川本流などで雨脚が強まっても困るのでこの辺りの河原で泊まることにする。ちょっとした砂地を土木工事して均し、服を乾かしながら優雅に過ごす。しかし日が暮れたころにザーザーぶりとなりチョロ川がみるみる増水し、焚火しているところを水が流れ始めた。あわてて別の場所に焚き木を移すが火が消えかけてしまう。せっかく乾かした服が濡れてはかなわないと二人して全裸ずぶぬれになりながら必死に扇ぐが後の祭り、焚火は放棄する。その後さらに水位が増し、移動先も浸水していた。やがて寝ている場所のすれすれまで水が来た。荷物をまとめ靴を履いたままマットだけ敷いて横になる。結局寝床は何とか浸水から逃れることができた。しかしそんなさ中でも蚊は元気に飛び回っていた。Hey‐KOHした。3日目夜の間も雨は降ったり止んだりするがある程度減水したようだ。日が昇ると薄曇りでほんのり青空も見え、回復基調の予報が信用できそうであったため進むことにする。テン場の下にある40mナメ滝は右岸の木から懸垂。少し下るとすぐに50m滝があるのでこれも右岸のブッシュ帯を巻き下ってから適当な木で懸垂する。その下も巨岩や段差などをクライムダウンしながら進むと3段くらいになった60m程度の滝。こちらも右岸から懸垂するが、ロープが足ら無さそうであったため途中に1本だけ生えている灌木で切る。さらに連瀑を懸垂とクライムダウンの連続で降り、本流出会いに着く頃には10mあった捨て縄が1mくらいになっていた。境川本流の水量は問題なく進めそうな具合であったので先へ。両岸が立っているもどこか開放的な巨岩ゴーロが笈直登沢出合まで続いた。日が照って焼け付くような暑さ。熱中症になるのではないかと思った。笈直登沢出合のテン場に着くとまだ12時なので三股まで行くことに。右俣に入るとすぐに威圧感あるゴルジュとなる。段差を2つほど登り右に屈曲する箇所で15m滝。両岸考えられるが落ち口の下まではすんなり登れそうな右岸を選択する。羽月リードで登るがやはり抜けが悪かった。その上にすぐ25m大滝がそびえる。こちらは右岸の草付きルンゼより取り付きまいていく。灌木がでてくるまでの泥壁が非常に悪くここはスパイクが欲しいところ。灌木帯に入ったらかすかなリッジ状をモンキークライム。右にトラバースしていき適当なところで踏まれた草付きを渡る。トラバースしきったところでピッチを切る。もう一段上がるとぴったり落ち口。大滝の上もゴルジュが続き5m前後の滝が続く。中には一癖あるものも。やがて三俣の手前でゴルジュが切れて開ける。C3。ここも蚊が多かった。4日目テンバから先に見えている崖のあたりに20mの滝がある。左岸から捲く。ちょっとしたスラブを越えて藪に入ったら適当にトラバースする。そのまま自然に右股に入りコルを目指して詰める。シブい小滝が連続。ザック吊ったり御坊したりする場面もあった。5分ほどの藪漕ぎで夏道にでる。雨がぱらつく中下った。下は晴れていたのでオートキャンプ場で装備を干し、庄川沿いにのんびり高岡まで。特に深い意味はないが境川の沢を北斗の拳で例えたらこんな感じオバタキ谷:ラオウボージョ谷:トキフカバラ谷:ケンシロウ開津谷:ジャギト谷:たぶんサウザーくらい
2024-9-18 1:54
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ニセイノシキオマップ川
ニセイノシキオマップ川(沢登り/北海道)日程:2024-09-16(日帰り)メンバー: Iida_2017写真:最後。景色いいF2この時期に見てもいかつい秋だもね〜F3あっこにつっこんでいく秋なわけでF1。冷たい。感想:車(6:50)ニセカウ(10:30)車(13:30)寒くて憂鬱な朝、車の外気温計では7℃。秋の沢である。とっとこ歩いてルンゼまで。F1は一段登ったあとが渋く、上からザイル垂らした。水冷たい。指の感覚がなくなる。F2、3はなんも。そのまま急なルンゼを詰めると大槍のわきに上がる。人いっぱいのニセカウを踏みに行き、1560コルから再び沢に降りる。スムーズに車まで。沢の内容は呆気なかったが、乾いた風と色づきはじめた木々に初秋の雰囲気を感じられた。疲れていたのでちょうどいい行動時間。ゆるふわ月曜日なのであった。
2024-9-16 12:15
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前穂高岳北尾根
前穂高岳北尾根(アルパインクライミング/槍・穂高・乗鞍)日程:2024-07-30〜2024-07-31メンバー: gt2010 inoue2009コースタイム:コース状況/その他周辺情報:アイゼン必須写真:B沢の途中でザック発見。快適な北尾根朝焼け快適な北尾根ゴルジュ入口雨降りしきる、奥又白のテン場コケたら大滑り台テン場へ戻るb沢へ向かう感想:平日有休カードを2日発動して初めての前穂/東壁を計画した。初日は夜遅くまで雨が降った。壁は濡れてそうなので遅めに出発する。とりあえず東壁に向かいゴルジュに入ると、滝のふもとに冬装備の巨大なザックが!遭難者の物かもしれないと一応身元の分かりそうな物を確認すると、カビの生えた容器に「AACH NARITA」の文字。「ウヒョー!」と二人でひとしきり写真を収め、気をあらためて壁の取り付きへ向かう。目当てのルートはコンディションが微妙そうなのと時間が押している(本日中に17時台のバスに乗らねばならない)ためルートを北尾根に変更し3・4のコルへ出る。雪渓の詰めは4本簡易アイゼンでもなんとかなった。山頂までは3pほどロープを出した。A沢の下降は雪渓べったりのロング滑り台状で、一番緊張した。自分は前爪のない簡易アイゼンのためバックステップができず、概ね側壁の岩をへつりながら慎重に下った。晴れて清々しい奥又白のテン場に着く。JUN氏のコーヒーを頂き、1時間も経たずに速やかに撤収し下山する。学生時代の、北日高のカールで過ごした時間のなんと豊かなことか...もっとテン場でゆっくりしたかった。(ザックは後日、本人が回収しました)久方ぶりに山に抱かれました。山行後にまともに歩けるようになるまで1週間程かかった。井上靖の氷壁の舞台を、季節は違えど見てこれたのは良かった。
2024-9-16 11:17
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トヨニ川右股沢〜トヨニ川左股沢
トヨニ川右股沢〜トヨニ川左股沢(沢登り/日高山脈)日程:2024-09-13〜2024-09-14メンバー: kasaisnt2016 shu2019コースタイム:写真:左岸難しくないお待ちかね雰囲気が出てくるもうメインなんてむりっす最上段釜持ち小滝が二つ。容易。高度感あり緊張した「早く酒飲みたいっすね」これは支沢大きめのやつ水が冷てえきれいですなるべくへつりで越える感想:遅ればせながら札幌本部活動開始。久々のしっかり沢で全身バキバキっす。今年も日高に行けて良かった。パッション。
2024-9-15 2:02
ヤマレコAACH
石鎚山
石鎚山(沢登り/四国)日程:2024-09-07〜2024-09-08メンバー: yumepporo Mt-sunny onodera22コースタイム:写真:安珠は下山後は常に天丼の口らしい明日からも頑張りましょうね最初の滑久しぶりの藪漕ぎ北海道よりは易しめかもmadchen
2024-9-11 8:46
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パンケメクンナイ
パンケメクンナイ(沢登り/積丹・ニセコ・羊蹄山)日程:2024-09-05(日帰り)メンバー: shibabemaru Sugiyama_2022 tamaki_2023コースタイム:写真:F10F6二段目F1Co360不明入渓F12上多分F7F5一段目F2か3?感想:緊張した。
2024-9-11 5:33
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笊ヶ岳 雨畑川奥沢谷北のタル沢
笊ヶ岳 雨畑川奥沢谷北のタル沢(沢登り/塩見・赤石・聖)日程:2024-09-09〜2024-09-10メンバー: yoneyamaコースタイム:写真:石組と民家あと遠くに続々右岸まいたら行手にすごい滝30mマンガみたいなきのこ右岸、倒木の左に取り付いて見てくるところ最後の連瀑帯始まる切り通しが通じている。多分1950年代の林業あと広河原で釣り巻き終わり振り返る多分、1997年に古元さんが落ちて死んだ所。この先の数メートルのトラバースが悪いまずは小笊をアタック下りの尾根は長かったプール付き滑り台の滝連瀑帯始まり最終民家あと喉(ゴルジュ)というか食道ビビンバ、行者ニンニク餃子20コ、富士宮焼そば大盛り右岸巻く弱点探して這い登るC1朝狭いとこ、右岸ルンゼ登って巻く左岸を巻いたりして進む左岸を巻く登っても登っても現れる素敵な天場適地懸垂して降りる。行くてに続々見えるけど、降りてみないとわからん杉植林の登山道北タルの沢、出だし、ガスのような晴れのような見通せないほど巨岩帯源頭の長いガレを抜けて多少木の生えたコル付近まだまだ続く細い滝堰堤みたいな30m滝狭いとこ見えてる越えた向こうは良心的、の函滝米山の足元右岸の緩いリッジから小さく巻く。トラロープの朽ちたのあり一番奥のやつ巻き終わってガマガエルの祝福ここからしばらく単調な河原日陰で支度数えきれない滝の嵐吊り橋小滝現れ両岸狭まる取り付いてみると細かいスタンスありこの水流に落ちて溺死したとのこと。この下流側も一段トイ状滝が続いているルート見極める巻きの途上で横に見る巨岩帯で、消耗笊ヶ岳老平の駐車場看板水際を行くおお、笊ヶ岳がチラ見え感想:山岳部の6年目、この春日高の全山単独縦走して、今は小川山山麓でクライミング修行中の中川さんから本州の沢登りっぽいところいきましょうとお誘いがあり、未踏の気になる沢と山頂を選んだら、結果、日高みたいな沢になってしまった。笊ヶ岳の雨畑川奥沢谷は、記録があまりWebにはなく、登山体系を読んだが、全く状況は変わっていた。50年も経ったら沢は変わるのだ。行きたいと思っていた甲府在住のころはもう10年も前だ。白根南嶺の要のピーク。甲府の町からいつも眺めていた山。広河原までの登山道は岸壁に穿った道で、おそらく1950年代までの林業の軌道あとではないだろうか。下降尾根のジグザグ道も多分林業作業用の名残だろう。あんなマイナー山にあんな根気よく道を作る理由がないから。広河原から中川さんが釣りを試みてから入渓。両岸が狭まると始めからゴルジュ状が連続して、微妙に行ける滝もあるがエグいのもある。初日はロープ2回だして巻き、懸垂を一回。右岸から左岸から、巻き自体は怠らなければそれほどエグくはない。ただ、ほんの数メートルの悪いところが最後にあったりする。標高1170にある数段組のすべすべゴルジュの奥の4mほどの滝の左岸側、滝の落ち口の手前数mが悪い。ここで1997年に東京の山岳会の友人が落ちて水流で死んだとのこと。その前の数年間にパソコン通信でやり取りして知り合った。白鳥山でイグルー×スキー山行をしたこともあった。記録をすごく書く人で、短歌もうまくて、生きていたら今頃ヤマレコであえたことだろう。ずっと挨拶したかったのが叶った。中川さんはクライミング修行中とあって、ルーファイが的確で、見ていて安心だ。巻きの判断も早い。後続に対する配慮も完璧。同じ育ちの山岳部は、行動の呼吸が同じだから初めての山行でも安心して行動できる。1170を過ぎると巨岩の群れではーはー言いながらよじ登る。北ダル、南ダル分岐の二股の真ん中に一段高いテラスがあり泊まる。中川さんがロープをピンピンに張って快適にタープを張ってくれた。う〜む美しい。薪は豊富。食事は伝統食の晩カレー雑炊、朝棒ラーメン。【二日目】明け方軽く降雨だったが止み、霧の中出発。天場の1260二股から1650mくらいまではまたまたゴルジュと急な滝が連続して巻いたり登ったりを繰り返す。右岸を巻いたら行く手に落差30mの直瀑が現れ、そのまま薪続けようかと思ったけど途中には急で幅のあるガレルンゼがあるため、一旦降りてそのガレルンゼの左岸あたりに、大滝との間の巻きルートを見出す。この30mを超えると普通の河原が続く。小笊の右と左に上がる沢の二股2030mから、左股を選んで登ると細い連瀑で始まる。いきなり行けず。右俣に少し入って右岸ルンゼから左俣の左岸のヤブ尾根を並行して巻いていく。降りたりまた上がったり。ここでも一箇所最後のトラバースに落ちたら水流に揉まれそうなヤバい箇所あり、横着せずに巻き上がる判断。2370で突然水流が膨大なガレの下に消える。ここから上は見渡す限りガレガレの景観。足を置けば崩れて流れ、ラッセルしているかのよう。小尾根上に草や木が生えているところを辿ってコルまで。空身で小笊をアタックして笊ヶ岳へ。視界は時々七面山や北のほうがチラリと見えるくらいで、地味な山頂である。ここからは夏道だ。とはいえ道だってトラップみたいなポイントがいっぱい有って、外さないよう要注意だ。布引山経由で延々下るこの登山道は、いかにも南アらしいというか、樹林の中をひたすらジグザグ下る。途中大規模なワイヤー・ケーブル廃墟あり。やはり往年はこの稜線のシラビソをバンバン切って運び出し、その後の細いシラビソ密林になっているようだ。これのために切った道だったのだ。C1二股の上にも架線が3本残置されていた。尾根末端の広河原で17時。水をガブガブ飲んで脱水を脱出。ここで足はヨレヨレになっていたけど、泊まらずに帰ろうかってことになる。2日で済んだけど、3日とってあるから、早く帰って下山連絡入れなきゃまずいっていう焦りが無いのが本当に幸せだった。やはり山の日程はキツキツだといけない。長く暗い登山道+林道は結構危ない崖もあるので慎重に帰る。中川さんは最後まで問題箇所の通過では振り向いて光を当てて待ってくれていた。できるリーダーである。身延町の「うまいもん屋」という店が遅くまでやっていて、身延ギョウジャニンニク入り餃子20個+富士宮やきそば大盛り+石焼きビビンバを食べて満足。まだ将来どんなことになるのか、本人にも、まして周りにもわからない状態の若い人とあれこれ話すのが楽しかった。山登りという経糸を伝って世代が進んでいく。
2024-6-3 23:15
山岳館
第16回 「私の登山に影響を与えた人たち」
2024-2-25 16:37
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2024年2月土曜日の午後...
ここ数年関西支部は冬眠中で、時々有志が互いの近況報告がてら3−5人で集まり京都駅前のビアレストランで一杯飲んでいましたが、今回は少し目を覚ましカシを変えて名古屋駅近の中華料理店に9人が集合し「遥か昔を語る」と題しひと時を過ごしました。 当日は遠方から参加予定の方がJR北陸線が不通になり参加不可となったり、地元在住なのに市内のど真ん中、名古屋駅前で迷子になって集合に遅れたりのいつものハプニングがありました。そんな皆様に昔語りのお題を出したのは失敗で、60年も昔の記憶など今や事実だったのかも定かではない。
2024-1-21 14:56
山岳館
第15回「厳冬期 日高山脈直登沢を登る」
2024-1-8 15:48
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【読書備忘】雪崩の掟...
1990年代に、バックカントリーという言葉が流行り始め、スキーエリア外遭難が増え、雪山登山者に加えてエリア外滑走愛好家に雪崩レスキューや弱層テスト講習などが盛んになった頃、新田(若林)さんに札幌で、信州で、何度もおあいした。1995年1月の千畳敷での雪崩遭難事故の際にも、いち早く現場に駆けつけていてお会いしたのを憶えている。その後、信州大の演習林での研究ぶりを学生たちから聞いていた。ゆっくりと穏やかに話をされる方だった。
松本の古書店で見つけた。1940年生まれ、2022年末亡くなった、新田改め若林隆三氏の2007年の刊。氏は北大山スキー部OBの雪崩研究者。50年近く雪崩研究の最前線に居続けた。雪崩とどう付き合うか?は登山愛好家にとって果てしのないテーマだ。
登山実践経験者が多い雪氷学界の中でも、極めて登山実践者的立場だったと思われる氏の、生涯通じた雪崩研究人生の総まとめ的な一冊に思える。親しみやすい文体で数々の雪崩事例を読ませる。長期間の研究人生を踏まえてはいながら、内容の殆どは2007年直前の大きな事例が解説されている。
▼富士山スラッシュ雪崩の「新発見」は、以前から伝えられていた富士山の「雪代」の実態を世に知らせた。デブリの融雪が早く、すぐに観察しなければその惨状の実態がよく伝わらなかった特殊なシャビシャビの雪崩のメカニズムについて。北大山岳部OBの安間荘氏らとの研究についてまとめられている。
▼重度の低体温症遭難者のレスキューでは要注意の「再加温ショック」について。2006年の救出時仮死状態から適切なケアを施されて4時間後に蘇生した手当の最先端の話。山スキー部OB船木上総氏の「凍る体(2002)」など、手足のマッサージなどは厳禁、という常識はこの頃からだったように思う。
▼2000年の大日岳雪庇崩落事故事例には雪庇断面の空隙やすべり面などの研究などを紹介、当地での現場検証も行った。「32mの雪庇」って意味が分からなかったけど、この解説を読んで了解した。氏は毎度、講習で雪庇断面を切って雪の層を着色し、自ら乗って雪庇崩しのデモを行っていた。
▼2006年岳沢雪崩についても詳述あり。雪崩に見舞われる他の山小屋の事例も多数。小屋が雪に埋まっていない、稜線には大雪が降った12月に小屋が全壊するような件が多いとのこと。
▼終章は栂池の雪崩が育む森林の新陳代謝の話。老木巨木は日を塞ぎ、若い木や下草が生えず、雪崩がこれを一掃してくれると。新田(若林)さんは、雪崩は美しいと折りに触れ話していた。
雪崩、低体温症、雪庇などに関しここ数十年でゆっくり認知されてきた意外な事実の、同時代的で先進的な視点がよくまとまっている。この本の終章でも、雪崩は不吉なだけのものではなく、希望や未来へつながる山の呼吸のひとつなのだと。人の都合だけで見るものではないのだと語っている。
亡くなったと知ってから読み返す著書は格別です。生き返って話を聞いているかのよう。
2023-12-19 21:25
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【読書備忘】ロバのス...
筆者は旅に魅入られた人。ヒッチハイク好きの北大生だったのも実にわかる。そして徒歩旅行、自転車旅行の延長に、ロバとの旅を思いつき実践する。イラン800km、トルコ1200km、モロッコ1500km。探検的使命や記録狙いでもない、目的地さえ無い。ただロバとの長期徒歩旅行を実践したかった。
私は以前満洲北部で初めてロバを見た。大きな耳、いつも何か食べている。目の周りの白い縁取りデザインがパンダみたいにどこかとぼけている。何故か日本には全く居ないし寓話の中でしか出てこないけれど、ロバは前々から非常に気になる存在で、徒歩旅行をするのに良い相手だと思っていた。以前、日本縦断徒歩旅行の友人が、うちに寄って数日食客をして旅立っていった際も、手記にロバのスピードについて書いていたのも印象的だった。本当にそんな寓話のような人が現在いて驚いた。
筆者のロバ愛文がよくて、そこがこの本最大の見せ場かも知れない。無心に草を食む表情、耳や目や、動き一つも描写し、ロバを見ているのが本当に好きなのが分かる。交尾未遂に終わったロバが未練がましく泣き叫ぶ姿の清々しさに感銘を受けるところも好きだ。しまいには糞の形状の芸術性まで書き込む。
イランやトルコの警察は鬱陶しい。アル中やヘンタイや憲兵もいる。やはり自由な人間はどこでも公権力に妬まれてしまうのだ。トルコも20年前くらいからロバはいなくなったと。やはり内燃機関が安上がりで、インフラができれば世は車に替わる。モロッコで今もロバが居るのはインフラが無いからだ。アルタイ山脈の高地遊牧民老人アハマドを訪ねる下りも良い。
著者の「歩いていけばどこにでも行けるという実感」、登山愛好家の私は共感する。なぜ山登りや旅が好きかと言えば、百年前の車の無い時代のように体を使い、生きていることを実感するのが好きだからなのだ。
生きていることを実感する旅に、人間以外の相棒としてロバはぴったりだ。人の最高の教養の一つは、人以外の生きものとの意思疎通ではないだろうか。近代が捨てた大きな教養の一つだと思う。バックパックではなくロバと。ただの荷物持ちではなく盟友として。とても新鮮で清々しい。
以前北海道にいたとき、乗馬で弓を射る流鏑馬を少しかじったことがある。南米パタゴニアでは、馬の背に乗ってまる二日間、荒野を旅したことがある。馬に認められるまで付き合うしか無い。認めてくれれば、勝手に働いてくれる。
この百年、あれだけ地上に栄えた馬は一気に数を減らした。長くかけて築いた人馬共同の文化も技術も風前の灯火だ。数年前、信州で馬に犂を引かせて稲作する馬耕や木材を運ぶ馬搬を実践する数少ない継承者にあった。青森にいたときは背丈よりも積もる雪を除雪車で大がかりにどけるクルマ社会ではなく、馬橇と山スキーで暮らすような「馬文化実践特区」を作って、世界中の馬好きを集める地域の可能性を夢見た。馬よりも扱いやすいというロバなら、可能性が広がる気がする。ロバを沢山の人が連れて歩く日本。そんなすてきな未来を夢想している。
国境を越えるとき、いつもロバと別れる、別れのシーンも好きだ。ヒッチハイクと同じく、お礼を言ってさっと別れる。別れることに不器用になった時代だという気づきも印象的だった。私もこんな旅をする山登りをしたい。
2023-12-7 0:17
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第96回ヘルヴェチア祭...
10/21の前夜祭では焚火を囲みながら現役の自慢の料理を頂き、Y三さんが山の歌をいくつか用意してくれて歌唱指導。久しぶりに現役とたくさん歌を歌った。暗くなってかなりの降雪があった。次期ヴェチア委員長の勝亦君が引き継ぎの弁をしっかり語り、私の肩の荷もおろせた。
朝食。なかなか具の多いうどんメニュー。この変形している煙突は新品に交換。
10/22当日は薪割り、ワックスがけ、煙突掃除、外壁塗布などやってから祭り。ヴェチアの由来披露、山の四季を歌った。
最後に記念写真。朝4時頃まで元気だった2年目が記念写真にも現れず。
女子も半分近くいて1年目は9人が入ったが今は5人か6人。全員で12名位。リーダースタッフが少ないので若手OBの参加が必須。
2023-9-26 0:04
山岳館
第14回アフリカの現状と飢饉の克服
2023-9-13 15:28
AACH現役サイト
2023.2.27-3.5(6-1)一年班春メイン 極北日高
報告_2023.2.27-3.5(6-1) 一年班春メイン極北日高 オダッシュ山〜日勝峠〜幌内岳〜芽室岳〜ルベシベ山 -遥かなる稜線へのエントランス- L宮下AL山下(3M柴部(3齋藤(2杉山小野寺(1 <時間とルート> […]
2023-6-13 18:15
山岳館
北大山岳館
2023-5-13 13:59
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【読書備忘】エスキモ...
日大山岳部員の北極探検隊員として犬ぞり習得のためにグリンランド最北の村に一年住み込みに行ったら、その暮らしに魅力を感じて、そのままエスキモーになった男の半生を書いた自叙伝。1972年から猟師になって、1989年の本。現在も80歳近くで続けていると思われる。
内容が稀な話である以上に、とにかく文章が上手く面白く、最後まで引き込まれた。自分の経験だけを書いていてこの面白さ。山野井泰史の自伝にも通じる、やっていること、生きる姿勢の凄さ自体が文体をおもしろくする典型か。表紙やグラビア写真がやけにキマってると思ったら和泉雅子氏だった。
現地の娘と結婚までして、なぜまたそんな人生を選んだのか。
「その日暮らしではあるが、生活していく上で人に命令されることもなければ、命令することもない。いっさいが自分の責任において自由に生きられる。とてつもないスケールの自然の中で猟をして、自分の手でとったその獲物を主食とし、衣類とする。生活の機構が単純で、自分の働きがそのまま生活に直結する。良くも悪くも、完全に自分が人生の主人公だ。」(p61)
山登りなんかより面白くなってしまったのだ。
エスキモーのいる北極圏は日本で言えば樹林限界以上の風雪地帯、夏でも高山植物かコケくらいしか生えない。ソリや住居に使う材木はどれも流木だ。そこを住処にする理由は、厳しい環境でも人は工夫をすれば慣れてしまうということ、それから何をおいても「極上のごちそう」があるからだと、本を読んでわかった。おカネがない世界では、ごちそうが獲れることの意味がとても大きい。この環境は苦界では無く、欲とか隠しあいの煩わしさを持たない真の喜びを知る世界なのだ。彼はそれをいち早く見抜いたのだ。
猟の方法の詳述が具体的で面白い。アザラシのフリをして「だるまさんごっこ」みたいにして近づいたり、アザラシのフリを演じてみたり。地上で最高の「ごちそう」海獣たちはこの厳しい環境なら捕食者が来ないと進化したが、「地上で最高にススんでる」エスキモーが、あの手この手で捕まえる。
見かけは最悪、味は極上の、鳥の発酵食品キビヤ。食に対する人の偏見と順応性についても知る話が多い。エスキモーは「生肉を食べる人」というお隣の先住民(森林系)による差別的な意味が語源というが、実はほとんどは生ではなく半解凍の生、ルイベのような状態で、ナイフで削いで口に運ぶらしい。なるほどと思う。ちなみに別の本で読んだけど18世紀にフォークができる前は欧州の王様でも右手にナイフ、左手は素手で肉塊を切って口に運んで食事していたそうだ。つい最近のこと。
海獣やトナカイのバラし方、分配法、各臓器の効能についても詳しく、おもしろい。シロクマの肝臓はビタミンAが豊富すぎて食べると具合が悪くなる話(p153)、とれたての海獣の胃袋には食べたてのおいしい海産物がたくさん入っていてこれも余禄になる話、更に村の古老が話す伝説やおとぎ話、不思議な霊的な話なども。伝聞や翻訳ではなくエスキモーの暮らしを日本語で直に読める最良の書だと思う。
大島氏が最初に最北の村シオラパルクに着いた日、数ヶ月前からやはり犬ゾリ習得のために住み込んでいた植村直己との交流があり、その人柄も書かれていて面白い。エスキモーたちはこの二人を歓迎してくれて嫁さんまで世話してくれた。結婚式の正装に、新品のシロクマのズボンとブーツ(カミック)っていうのがすごくいい。
イグルーに関しての記述は少しだけ。この地域ではイッドゥギアというらしい。冬の旅の猟のベースキャンプでつくるが「極北ではそれを造るのに適した雪はなかなか無いものだ」とのこと。やはり雪の質が鍵になる。「今でも冬の間に定着キャンプを定めてそこから猟に出かけるような場合、イッドゥギアを作ることもある。慣れた人はものの1時間で作り上げてしまう。マイナス三十度四十度でも、中で石油コンロひとつつけていれば充分暖かいのである」(p199)
猟とは人にとってなんだろうと考える。「私は猟が好きで漁師になった。ガイドをして歩くより好きな猟をしていたい。お金がなければ物質的な生活レベルを落とせばよい。」(p221)自分の人生の舵取りを自分で握り続けた満足感を感じる。
いま2023年、大島さんは、シオラパルクのエスキモーたちは、好きな猟を続けることができているのだろうか。温暖化と環境汚染の影響は極地地方に押し寄せる。
エスキモーになった日本人
大島育雄 1989 文藝春秋社
2023-4-26 22:39
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【読書備忘】What'...
1979年生まれの平出和也、2000年ころから名前を聞くようになったけれど、この本を読んで、その軌跡と考えがよくわかった。
競技者として体を作り込んだあと、山を知る。競技にない自由が山登りにはある。ヒマラヤの高山を求めて大学山岳部の登山隊に入る。誰にも登られないルートを求めて、カラコルムに山を見に行く。次々と脱皮していく。地形図や写真を研究して、美しい山の宝のルートを掘り当て、「夢のファイル」を貯めていく。パートナーと出会い、別れて、続けてきた。
幸運もあったけれど、美しいルートを見つけて自分の力との兼ね合いでギリギリ登ってくるセンスが彼には有るのだと思う。登る山がどれも美しく、憧れるような名峰ばかりだ。シブリン、ライラ、カメット、スパンティーク、ナムナニ、シスパーレ、ラカポシ・・・。ピオレドール三回も納得の軌跡だ。カッコいい山ばかりの未踏のルートばかりを。本の構成もうまく、ルート図入の写真もよく、山行記録集としても満腹の本。
アマダブラムの救助ヘリ墜落は痛恨だと思う。こんなつらい経験もしていたのか。
この本は先日、札幌で「山岳TV取材の30年」という演題で、私が講演をした際に、寺沢玲子さんに「ハイ、これ」と手渡されたもの。ちょうど買って読まなきゃと思っていたところだった。なんでレイコさんが平出さんのサイン本を?と思ったのだけど、読んでわかった。平出さんの初パキスタンの船出のときからのご縁だったのだ。若い人たちとの熱気あふれる懇親会で、レイコさんとあまり話せず残念だった。
私は1990年からTVカメラマンで、山岳部経験のおかげで8000m峰を含むヒマラヤ高峰登山取材に何度も携わった。カメラ8kg三脚8kg+酸素タンク8kgを担いでガッシャブルムIIの山頂にも立った。平出さんの15年前の私の世代はTVカメラが重く、小さなカメラの画質は悪かったので、あまり使えなかった時代だ。漬物石並みに重い電池の消耗も早く、単行本サイズのビデオテープも大きかった。この時代、高画質高額の撮影機材はTV局の独占物で、従って映像取材の機会も独占物だった。だから、山岳部出身の私程度の経験のカメラマンが行ける「冒険」の取材はできた。
よく言われるように「TVの登山シーンでは映っている人よりカメラマンのほうが一番大変でしょ」というのは本当だ。自分より登れる相手、自分のレベルからかけ離れたルートの取材番組はできない。私も、山野井泰史のホンキのクライミングを撮れるとは思えなかった。
小型カメラが高性能化し、電池と記録媒体の小型化、高性能化と価格低下が21世紀になり劇的に進んだ。2010年代には私自身もよく取材に使うようになった。猛吹雪で撮るものが無ければ自撮りもして、現場の状況も心象さえも伝えられる。
そして、これによって、山岳映像取材はTV局の独占を離れ、クライマー自らが撮ることができるようになった。平出さんはまさにその時代に現れたエクストリーム山岳カメラマンとなった。トレラン登山取材さえこなす体力も他者の追随を許さない。
ドローンが「夢の映像」を実現するようになってから、実は私自身はあまり山岳番組を見なくなった。低空俯瞰映像は完璧すぎてお手上げで、私の手を離れたな、と感じたせいだと思う。でも講演の前に「シスパーレ」の番組録画をようやく見た。クライマー自身が撮るしかないヤバい雪壁のクライミング。先のことは全く読めない山行ならではの筋書き不明の展開、と、見るものに迫る作品だった。このレベルのクライミングは、彼らにしか撮れない。そう思った。そして、私は一体これまで、何を撮りたかったのだろうか?と今も考えている。
自由について、パートナーについて、失敗について、未知について、準備について、「メモ帳から」とあるページの言葉が、すごく良かった。
人生の最高点は、山と違ってその時はわからないかもしれない、と今は思う。下り始めてから「あれ、おれ今もしかして下ってる?」とわかるのが山と違うところ。下りが難しくて危険が多く事故が多いのは、山と似ているかも。と、友人に言ったら、下ると危ないから、人生では下っちゃダメだね!と言われて、目からウロコだった。全くそのとおり。
平出さんには、この先K2未踏の西壁がある。
2023-4-11 21:13
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【読書備忘】天災か人...
30年以上前の雪崩事故裁判について、この3月、その一部始終をまとめたノンフィクションが出版された。私の登山人生の初期の頃と時代も人々もとてもかぶっている事件だったのに、この本を読むまでその裁判の詳細を知らなかった。そのことが読後感として大きなショックだ。登場人物のほとんどの人を知っていて、そのとき札幌から長野市にも転勤で住んでいて、報道にも携わっており、山にも登り込んでいたのに。
著者は泉康子氏、やはりそのころ「いまだ下山せず!」という自らの山岳会の遭難のノンフィクション作品で読んだ覚えがある。取材は判決後十数年経ってから、出版は更に十数年経ってからという。なぜ今?とも思うが、私にとっては大きな意味があった。今回、当事者の高校教諭そして同級生の、西牧岳哉氏から送ってもらった。
1989年3月、北アルプス遠見尾根のスキー場トップ近くの雪山登山講習会で雪山初心者の高校教諭酒井耕氏が亡くなる雪崩死亡事故があった。講習は長野県教育委員会主催で初心者の高校山岳部顧問と生徒が対象だった。「雪崩は天災」とする県に対し「 雪崩は予見できた人災」で、県はその過失責任を認めるよう1990年に犠牲者母の酒井三重氏が訴訟を起こした。5年間の裁判の末1995年11月原告側が勝訴。山のベテランの認識不足と準備不足を登山の素人の原告側が雪崩の学習をして論破していく経緯が書かれている。非常に画期的な判決だった。
県や組織の対応はお決まりで、訴訟しなければ泣き寝入りするしかない、これは今も同じだ。だがそういう話に加えて、当時の登山界のベテランたちでも、雪崩の最新の誘因などの知識に無知で、経験と勘だけに頼っていた。死亡事故は運が悪く、山での事故は共同責任であり、訴えるなんてとんでもないという時代だったことを思い出す。法廷で「経験者としてできることはやった」「そんなことを言ったら山なんか一歩も登れなくなる」という被告側の発言は、当時の私と大して変わらないし、今でも私の中にあるのではないか?
当時1980年代終わりくらいから雪崩は科学的な知識で見なければならないという新田隆三氏、中山建生氏の雪崩講習会を私自身取材した。北大の阿部幹雄、樋口和生、福沢卓也もそれ以前からの山仲間であり札幌で何度か講習会を取材した。雪崩学が急速に登山者の間に広がりはじめた境の時代だった。それほど雪崩事故防止の取り組みに関わっていたのに、なぜ私はこの裁判にあまり関わらなかったのだろう。
それは今から思うと、係争ごとに抵抗を感じ「山の素人たちに、安全管理のためとして、自由な山登り、リスクを受け入れた魅力ある山登りを制限されてしまうのでは無いか」と心のどこかで警戒していたのではないだろうか。もちろん、自主的な登山と、講習会での新人の安全確保とでは話は全く違うのだが。その点を今ほど区別して考えていなかったと思う。つまり当時の感覚として私は、雪崩の誘因に関しては最新知識を持っていたのに、責任論に関しては被告側と大差なかったのだと思う。今になってこの読書をしてそれを思い出し、恥ずべき過去の感覚を思い起こす。
亡くなった酒井耕さんも、ずっと裁判を支えてきた西牧さんも、私とは高校で同学年の仲だった。物静かで粘り強い彼は、ずっと母の酒井三重さんの訴訟を支えた。10代20代を通じた親友を失った西牧さんや、女手ひとつで育てた息子を理不尽に失った母親の気持ちなど、以前の私には正直わからなかった。私も山で多くの友人を亡くしていたけれど、それはいわば同志の死への思いであり、一緒にしてはいけない感覚なのだ。私は死んだ友人たちの両親に、不用意なことを口にしたりしなかっただろうか。今になってそんなことを思い出す。
西牧さんは今、我々のいた松本深志高校の山岳部顧問をしていて、毎年3月18日前後に、その雪崩現場前で現役高校生たちにその話を語り続けている。私は何年か前から西牧さんの講習会に、イグルー講師として参加している。今年は私の娘が山岳部員となって参加した。そんなふうに、自分の子供が大きくなってみて初めて、酒井三重さんの苦しんだ気持ちを想像することがようやくできるようになったと言っていい。
ずいぶん長いこと鈍感だったことを、気づかせる読書だった。
判決のあった1995年は阪神淡路の震災と地下鉄サリンの年だ。世の中のリスク管理や組織の安全管理責任意識などは、この頃から変わっていったと思う。山や冒険の危機管理は、私が密かに「恐れていた」社会になったのだろうか。わからない。だが一方でその後も危機管理されるべき初心者講習の事故は続いた。2000年大日岳雪庇崩落事故、2017年那須の雪崩事故。
裁判も傍聴していない、当時の取材も随分後からというのに臨場感あふれる裁判シーンなどノンフィクションの書き手としての力がすごい。三重氏や中島弁護士の若い頃からの育ちが詳しく書かれ、遠回りのようで意外にも重要だった。なぜこのような裁判を続けることができたのかという点に納得がいく。
新田隆三先生も亡くなってしまったけれど、本が世に出てよかったと思う。
天才か人災か?松本雪崩裁判の真実
泉康子 言視舎 2023.3
明らかな間違いあり。
p152 宮本氏が「1992年ナムチャバルワの登攀隊長」は間違い。1996年チョモラーリでは
p304 北大山岳部、登山部、山スキー部が混乱している。登山部は無い。確かにわかりにくいとは思う。
2023-4-8 18:18
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スキー登山 (消えゆ...
2023-4-5 17:55
AACH現役サイト
2023.03.08-13(5-1)1年班春メイン 増毛山塊スキー縦走
ラストメイン
2023-3-22 13:35
山岳館
坂本直行の遺品
2023-3-7 17:31
山岳館
利用案内
2023-3-7 11:21
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酔いどれクライマー永...
東大スキー山岳部が1984年に初登したk7の快挙は、私が同じ年に北大の山岳部に入部したから、なんとなく知っていた。でも、北大はこんな垂直岩壁の鋭鋒を登るようなセンスでは無く、ひたすら寒冷山地の長期山行を志すようなクラブだったので、あまり関心も無かったと思う。そのとき5年目のセンパイだった藤原章生さんが、K7を率いた永田東一郎氏が上野高校山岳部でのセンパイだったと知ったのは今回の評伝でだった。私の3年(部では4年)上が藤原さん、その3年上が永田さんという世代関係だ。
この本は凄い登山家の物語では無く、80年代の今から思えば自由な教育を受けた世代が生み出したハチャメチャな快挙と、魅力ある才にあふれた人物がいかに周りの人たちを吸引し、渦を作って行くのか、そして才あふれる永田氏が社会ではいかに遭難してしまったかを丹念に追った物語だ。たくさんの関係者のインタビューが登場し、著者によれば「群像劇」となっている。
著者自身の生い立ちも永田氏との関連で語られる。親の世代の持つもの、東京都東部の丘の上と下の町、目上の人に対する遠慮ない話しぶりなど。自由な校風の高校だった私にも覚えがある。でも未だにそれはやめられない。「十代から二十代にかけての成長期、人は変わる。というより、集団に染まる。」永田さんが上野高校山岳部と東大スキー山岳部で人格を作って行った過程をたくさんの資料から丹念に追っていく。ドウドウセン遡行、利尻のボブスレー滑落、滝谷の転落など、強運もある。
K7のあと、きっぱりと山をやめた永田さんを、和田城志氏が、「本当の山を知らずに終わったのではなかろうか?」と評している。山を競技の場、発表の場、スポーツの場として活動する傾向があるほど、長続きはしないと私も思う。北大には無縁だった重荷のシゴキやパワハラ関係が、今は凋落した大学山岳部の強い印象を残している。人目の多い本州の山だからこそ、屈折したシゴキが生まれたのでは無いだろうか?東大にはシゴキは無かったようだが、「他者との対抗」は、山では続かない動機だと思う。誰とも競わないことを憶えたとき、山は自分のものになる。
読んだ直後に著者藤原氏と一週間のイグルー山スキー山行に行き、酒も飲まずにこの本の話をたくさんした。本人設計の建物まで出かけ、フラれた女性にまで話をきく。人の評伝を書くことの果てしなさと面白さを思った。何よりこれだけの本を書かせるだけの魅力に永田さんがあふれていて、その様が本人を知らない私にも生き生きと感じられる。
評伝はおもしろい。丹念に山行記録をたどると、人生で初めての山と、最後の山がすぐ隣同士で日付も同じだったことを発見した驚きなど。著者以外は本人しか知らない心の中を知った喜びだ。これだけの評伝を書き終えれば、本人が親しかった人たちのための、とりわけ家族のための墓標になると思う。そして、すべての読者に問いかける。この限りある人生で、あなたは何をしたいのかと。
酔いどれクライマー永田東一郎物語
80年代ある東大生の輝き
藤原章生
2023.3 山と渓谷社
2023-2-26 21:43
AACH現役サイト
千代志別MIX”SKY FALL”
LAST CHANCE
2023-2-9 15:06
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関西支部ー大げさなこ...
2023年松の内、いつもの連中(1965-1974年代)とコロナ禍のあだ花、ZOOMを使ってバーチャルで飲んでいた。忘年会は中止だが新年宴会を準備をしているだとか、正月スキーには誰が参加するだとか、忙しそうな話題の合間に誰かが、ところで関西支部はどうしてるのか、と心配よりもむしろしっかりせい、といったニュアンス。まあ大げさなことはしていないけど、、、
2022-11-26 10:02
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【読書備忘】攀友 50...
信州松本を代表する社会人山岳会、クライミング・メイト・クラブ、CMCの50周年記念誌を読んだ。
CMCは1970年創立。会報の「攀友」は年に数回発行して現在169号まで発行されている模様。山行記録一覧を見れば、ザイルを使うレベルの山行のみでほぼ毎週のように山行を行なっている。今回は1991年発行の20周年記念誌以来の大きなまとめ。
内容は91年以降の30年分の山行一覧。それから全会員氏名一覧。信州大学山岳会の憶えのある名前もいくつも見つかる。懐かしい人の名も故人もあり、私自身の名も、以前ご一緒した山行記録の欄に見つけて驚いた。山行回数が多いので、時間記録や天候などまでは無く、ルートもすべて詳細は無い簡単なものだ。
CMCの歴史を知りたい部外者の私が最も興味深かったのは、創立以来50年間会を引っ張ってきた百瀬尚幸氏による創立期の詳しい話だ。県山岳協会加盟の申請に赴いたときの気持ちや、90年代にチベット登山協会との交流山行にCMCがあまり関わっていなかった事情などが察せられた。百瀬氏はじめCMC創立メンバーは団塊世代ながら、それ以前からあった社会人山岳界とはほぼ無縁に、ほぼ自力で力を付け、人を集めたのだ。だから全国的に山岳会が凋落した2000年代にも衰えず、今も独自の実力を持ち魅力を放っていることが伺える。
ほぼ毎年のように行われた槍穂高連峰の冬季長期縦走記録の、百瀬氏を軸にした記録セレクション(といっても5本+23本も!)。30代の百瀬氏が70代になってもまだ続く記述が、この会の骨組みとなってきたことを示す。日本一の山域、槍穂高連峰の冬季長期山行を、毎年なのだ。
この背骨に加えて、草創期CMCを方向付けた有明山と赤沢岳という地元未踏岩壁の夏冬の初登記。「後立三部作」の針ノ木、スバリ、赤沢岳西面の三稜線への世代を越えた入れ込み様など、CMCならではのマイナーだけど歯ごたえ満点の羨ましい山行記が並ぶ。海外記録にはメルー・シャークスフィン、バフィン、トランゴタワー・・・。メンバーはそれぞれに高レベルで別の山域に向かう。統一感はないけど、ありきたりな山行をしないところが一貫している。他のどこのクラブにもない歴史と現在を作ったのはなんだろう。
私は松本出身で1984年に北大山岳部に渡り、その後90年代と2010年代に数年ずつ長野県に転勤して登山に関わってきた。この間のCMCの孤高性はずっと変わらない。登山界の変化は大きく社会人山岳会の状況は全国どの町でも次世代につながらず、50年回転している会は多くはなかった。
松本の場の引力にも一つの要因がありそうだ。山があり、町に魅力があり、他の土地から移り住む人が多い。山が好きで来る人もいるが、住んでから好きになる人もいる。信州大学の学生の多くは他県から来ていて、CMCの記録には、信大山岳会出身のピオレドール・クライマー3人の名もあった。この町を活気づけているのは間違いなくそんな人達で、私の知る会員も外から松本に来た人がほとんどだ。
そして地元の未知ルートを探究した独自の強みを持つ創設者たちは、自信故にその面々を尊重し自由にさせ、多様性を内包した。それが活気ある伝統として生きているのではないか。
攀じ友=ヨジトモ=climbing mate
記念誌を読んだだけの情報で、フカヨミをしてみました。
A4 297p
2022.11.19 発行
編集長 河竹康之
https://cmc-jp.net/
2022-10-24 15:39
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95周年ヘルヴェチア祭...
10/15〜16開催。来週現役は北大で雪崩講習会があるというので例年より1週早い。
現役OB計20名が参加、前夜祭は赤岩帰りや小屋担当幹事が遅かったりで18時頃暗くなってスタート。
シェフT君(4年目)のメニューはポテトサラダ、ダッジオーブンで丸鶏香草ロースト、お好み焼き、炊き込み釜飯、おでん等、味もなかなかで皆満足。先週の下沢さん追悼会の残りの酒や食材、さらに参加OBの差し入れもあり豪華だった。
焚火を囲んで1年目とOBの自己紹介、そして夜遅くまで久しぶりに山の歌、寮歌を歌いまくった。1972のリコピーの手作り歌集や関西支部1993の歌集「山の四季」も年寄りが持ち込み「ぼくらの故郷」「かわらぬ恋」は2部合唱の指導も。小屋に入っては年寄りの自慢話や山や装備の情報交換。
翌朝も年寄りは早起き、朝食後は薪割り、掃除、ワックスがけに汗を流す
薪割挑戦の女子1年目
本祭は95周年を祝い山の四季を歌う。乾杯の代りにBerg Hile!と声を合わせ、締めは記念写真。
若手OBは3人が来てたが早朝に帰って写真には不在。紅葉はほとんど落ちてしまったが途中では真っ盛り、現役は来月に入れば準備山行が始まり冬山を目指す。頼もしい1年目が5人もいるがリーダースタッフになる上級生は女子の比率が多い、若手OBの協力が是非必要。
2022-10-21 18:36
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下沢さん追悼会 蘯...
10/15越前谷さんの声掛けで、故下沢さんを偲ぶ追悼会に建設に関わった小舎会員と山行を共にした仲間が美国小舎に集まった。
1981年に下沢さん、越さんの呼びかけで有志手作りの小舎。翌年に会員のほとんどが隊員だったダウラギリ冬季登頂と小舎の完成を祝った。
小泉君の設計で積雪期の雪の多い場所ということもあって20年持つか?と思っていたが、昨年40周年を迎えた。設計と建築が素人でもここまで持った。
1954年入部のロタさんを筆頭に、ゲストにワンゲルOBでツルのマスターだった大内さん、東京からも5名の参加、一番若い志賀(1976年入)まで23名参加。
スライドショーでは参加者からの思い出の山行写真や動画が綴られ、若き日の山行姿や合宿の集合写真にコメントが添えられ懐かしんだ。
美酒と肴で焚火を囲んで語らい、そして久しぶりの山の語らいと歌で最後は2時まで。
やはり我々は焚火が命。コロナ禍で会えなかった3年分を取り返すように旧交も温める。焚火を囲んで下沢さんの魂も一緒に浸ったかも。山岳部の縦横の糸が交差した時間を過ごした。
差し入れを随分いただき下沢夫人や西元会長、カメ(74年入部)、チンパン(77年入部)の一升瓶、上野さんからもワイン1ダース、、、参加者その他の方々からも数々頂き、ありがとうございました。
朝。左から同期の宇一丸、鐙、山崎さんらと1年上の冷奴さん。
毛利君のドローンで空撮
下沢奥様にも来て欲しかったが同期のヘルスさんらが帰途追悼会の報告をされたと聞く。皆で見たスライド画像を後で届けるとしよう。
2022-7-14 5:09
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【読書備忘】ホハレ峠...
登山愛好家として美濃、越前国境のこの地域と伝統の暮らしに興味を持った。稜線は標高1000mほどだが日本海を背にして豪雪に見舞われ、大河揖斐川の広大な源流地帯はほとんど平地がなく、渓谷登攀者には静かで広い魅力ある山域だ。山間には、自動車道路が通る以前は数十軒ほどの規模の集落が点在していた。ここに1970年代から長時間かけて官僚たちがダムを造る計画を淡々と進めてきた。2006年日本最大の貯水量という徳山ダム完成。
ここにできれば死ぬまで暮らしたいと住んでいた、広瀬ゆきえさんの暮らしぶりを通して、揖斐川源流域の門入(かどにゅう)という集落の「現代化以前」の営み、たとえば栃の実の渋抜き法や山菜キノコマムシに、各種山仕事などを記している。
読み進むとそれにとどまらず、1918年生まれのゆきえさんの生涯を辿ることでわかる、何世代も続いてきた血族の持つ強さや、行動範囲の広さなど改めて知る。ダムが永遠に奪ったものの真価は、ここまで読まなければわからなかった。
14歳にして30キロ背負ってホハレ峠を越えて、鳥越峠も越えて長浜の高山まで繭の出荷。彦根まででかけて女工労働。門入の仲間となら、外に出るならば、北海道の真狩もパラグアイも同じなんだな。岐阜の柳ヶ瀬近くにあった徳山村連絡所の訪問もおもしろかった。
著者が30年間通い詰めた晩年、ついに追い出されるまでの門入での、誰もいなくなってしまったけどお金を使わなくて済む世界が、技ある人には自由な天国なんだな。朝から晩まで働きお金にはならないけど生きるための純粋な営みだ。若いときには遠くへ開拓に出て、農閑期の日雇いや出稼ぎもして現金を得て外食する楽しさも驚き知った、子供を遠い学校にやるための現金収入も要った。それだけ経た上で、子供の頃から身につけた、生きるための純粋な生活技術と行動技術を持つ自信と幸福。これが羨ましい。でもそんな晩年の天国も移住地に追われた。
移住者住宅に移った後、ゆきえさんがスーパーの特売ネギを買わなかった話が、凄くこたえた。
「わしは、たくさん人のためにネギも作ってきた農民や。自身を持って畑でネギを作って、みんなにくれてやったもんやが、その農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや。ちょっと情けなくなったんや。」
著者が長い時間をかけて関係を築き、徐々に理解しながら発見して気がついた話が盛り込まれた優れたノンフィクションです。
今はホハレ峠は足で越える人は絶えて久しいよう。渓谷登山愛好家として、ホハレ峠越えて門入を訪ねてみたい。病気の子供を背負ったり、60キロの栃の板を背負ったりして人々が越えた峠だ。
ホハレ峠ーダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡
2020年4月 彩流社
大西暢夫 写真・文
2022-6-21 20:14
山岳館
山岳館の場所
2022-1-24 0:06
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第94回ヘルヴェチア祭...
この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も
前夜祭。現役が料理をふるう
私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散
翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った
部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした
祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。
煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう
2021-4-24 23:18
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【読書備忘】岐阜百秀...
地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。
ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。
私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと
「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」
「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」
「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」
などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。
信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。
この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。
岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。
私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。
私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。
ナカニシヤ出版2021年5月
森の国水の国 岐阜百秀山
清水克宏
2200円
2021-3-22 4:03
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Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川
2021-3-7 10:29
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【読書備忘】ぶらっと...
毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。
なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。
故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。
私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。
その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。
本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。
あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。
2021-1-28 17:32
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【読書備忘】 リュック...
100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。
1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。
リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。
冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。
他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。
巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。
どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。
2021-1-26 13:21
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【読書備忘】サガレン...
著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。
サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。
白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。
やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。
2019-9-14 21:05
山岳館
第13回世界の山々にナキウサギを訪ねる
2018-9-9 20:11
山岳館
第12回北海道の森林変遷史 −花粉化石から復元された15万年間−
2017-12-27 18:01
山岳館
蔵書目録
2017-7-3 14:46
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北海道新聞に式典の記事が掲載されました(2017年7月3日)
2017-1-29 17:43
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Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)
2016-12-17 19:42
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Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル 米山悟(1984年入部)
2016-9-9 22:58
記事
空沼小屋改装仕上げ作業のご案内(2016年10月1~3日)
2016-7-28 22:47
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Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました
2016-7-4 13:41
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Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内
2016-6-17 9:54
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Re: 道新に今村昌耕会員の記事
2016-6-12 11:16
記事
空沼小屋修復工事いよいよ開始(2016/6/12)
2016-2-26 19:14
記事
北大・空沼小屋 修復保存工事決定と募金のお知らせ(2016年2月掲載)
2015-12-22 23:49
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Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま
2014-12-9 9:53
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Re: 【書評】アルピニズムと死 山野井泰史 2014.11(米山悟1984年入部)
2014-10-26 21:04
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日高山脈の地名問題
2014-10-25 6:17
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Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)
2014-5-17 19:51
スケジュール
山岳館開館日
2012-6-21 12:49
海外遠征
パミール・レーニン峰(7134m)登頂
2012-5-24 9:42
記事
ダウラギリとその時代
2011-12-8 22:40
記事
リンク
2011-6-30 17:09
海外遠征
北大ネパールヒマラヤ学術調査隊1969
2011-6-30 16:34
海外遠征
スダルシャン・パルバート
2011-6-30 16:33
海外遠征
81-82年パタゴニア
2011-6-30 12:47
海外遠征
海外遠征の記録
2011-6-30 12:29
海外遠征
96ロルワリン・タンナ・リ峰遠征
2011-6-30 12:26
海外遠征
ヒムルンヒマール(7126m)初登頂