●2007年5月4日(1-0)
【ルート】望岳台→十勝岳(往復)
姿見駅→夏道の尾根→旭岳→北斜面→姿見駅→旭岳駅
【メンバ】田中健太郎(1987入部)
【行程】
5月4日(晴)望岳台(5:00)→緑の館跡(6:00)→十勝岳(8:15〜8:50)→望岳台(9:35)
〜自動車・ロープウェイで移動〜
ロープウェイ姿見駅(12:00)→夏道の尾根→旭岳頂上(14:10〜14:45)→北面の斜面→ロープウェイ姿見駅(15:30〜15:40)→ロープウェイ旭岳駅(16:00)
好天に恵まれ、1日で十勝岳と旭岳を登ってきた。どちらもスキーで頂上まで登り、頂上から滑ってきたが、下りのスキーはまだまだであった。
十勝岳頂上にて(後ろは富良野岳)。
【記録】
5/3(木)は好天となるという前日の予報を信じて、札幌を早朝に出るが、ロープウェイは強風のため運休だった。 昼近くにようやく運行され始めたので、とりあえず乗ってみるが、ホワイトアウトだった。せっかくなので姿見の避難小屋まで往復して下りた。結局、この日旭岳が全貌を見せたのは15時近くになってからだった。旭岳はあきらめて、翌日は十勝岳に登るべく、その夜は望岳台の駐車場にて車中泊とする。
5/4(金)4時ごろ起きると、良い天気。もう既に歩き始めているパーティがいた。朝食を食べてパッキングをして、5時に出発。先週末に来たときより、雪が減っており、石が出ている箇所が増えていた。
北尾根末端付近に来た時点で、緑の館が無いことにはじめて気づく。ふと見ると、木材が雪面から出ているのを見つけた。これが小屋の痕跡ではないかと思われた。
北尾根にはあがらず、そのまま頂上に向かう斜面を登った。今のシーズンは、これが一般的ルートの様だ。
その斜面を登りきると、十勝岳頂上が見えた。このまま真っ直ぐ、正面の壁を、シーアイゼンを使って登った。先行パーティは、ここから穴ぽこを経由して上がったらしい。
壁を上りきったところ。左に十勝岳頂上、右に北尾根分岐。先行パーティは夏道どおりに分岐へあがったが、私は十勝岳頂上を真っ直ぐ目指し、途中で左にトラバースして稜線に上がり、結局頂上までスキーで登った。強風に当たらないので、この時期はこのルートが登りやすい。以前、このルートを使ってスノーシューで稜線にあがったこともある。スキーの先行パーティや、スノーシューの後続者は分岐尾根にあがった途端、強風にさらされることになり、アイゼンに履き替えていた。
頂上では、先行パーティの方に記念撮影をしてもらい、しばし休憩後に滑降準備。当然ながら、頂上から真っ直ぐ降りるつもりで下り口を覗き込むが、風がものすごく吹上げてくる。しばしちゅうちょした後、気合を入れて、下り口でスキーを履いた途端に、強風で後ろに倒され、スキーも開放で外れた。こりゃあかんと、あきらめて、登りと同じく、一旦南側に少し下りてから左周りに回り込むルートをとった。稜線上は、エッジが削れるかと思うくらいの硬い氷の斜面で、稜線を降りた斜面はやわらかくなるが、滑りにくい雪質(もなか雪って言う?)で、うまくターンが出来ない。
途中、礫が出ている所でスキーを脱いで歩く所が1箇所だけあり、緑の館跡の上の斜面にたどり着く。ここは概ねザラメ雪となっており、滑りやすいが、調子の良くないの私は上部で一回派手に転ぶ。先行パーティや、下から上がってくる登山者に見られて、恥ずかしい。写真はその先行パーティの一人が滑っているところ。向かって右側が、私のシュプール。ズラシまくって、下手なのが分かる。先行パーティの方のシュプールは雪面をきれいに切っていた。
望岳台に到着した時点で、まだ時間的に余裕もあり、また天気予報では下り坂らしいが天候も持ちそうなので、旭岳を登ることにし、急いで移動した。
お昼にロープウェイ姿見駅を歩き始めた。天候は、昨日とはうって変わって、良い天気であった。
スキーでどんどん登る。つぼやアイゼンだともぐっていた様だが、スキーだともぐらず、またシールも利いて、どんどん高度を上げられる。写真は七合目付近。この上に少し狭いところがあった。
八合目付近。この上に、夏道上に雪がなくなって、岩の上にスキーを置く所が2,3箇所、スキーを脱ぐ所が1箇所あった。とりあえず、旭岳もスキーで頂上まで行けた。このところ、ザックの中のアイゼンを使ったことがない。
頂上から、お鉢方面を見たところ。真っ白である。
頂上から北へ伸びる尾根を見たところ。真正面の丘状のところから、北側へ下りるのだと、先行パーティのおじさんが教えてくれたので、私、後続2パーティもそれに続いた。が、あちこち礫帯が顔を出しており、後続パーティは難無く、その間の雪面を抜けていたが、まだ下手な上に不調な私は降りるのに苦労した。私の様に、下手な人間は北東方向くらいの斜面(ここは真っ白だった)を降りて、左周りにぐるりと回り込む様にして下りるのが良いかもしれない。ちなみに、夏道を登っている最中に、頂上から右回りに降りているパーティを見かけたが、南側の斜面は縦に伸びた礫帯がいくつもあり、それを、スキーを脱いで横断することになり、大変そうであった。
ようやく、ロープウェイ姿見駅に着いた後は、スキー場を使って下山した。その後、上富良野まで足を伸ばして、現役の頃によく通っていた、大盛りカツ丼の店「田」を探すが見つけられずに、別の店でカツ丼を食べて、山スキーヤーで大賑わいのニュー白銀荘に寄って温泉に入ってから、帰宅の途についた。
...hide more
本峰リッジは雪稜の雪の状態が悪く途中から引き返し、デルタルンゼからデルタに上がり、烈風のなか山頂をアタックした。天気は良かったが雪質がなんとも!でも無人の樹林帯で贅沢な時間を過ごした。
【ルート】
幌加音更川林道からニペソツ東壁アタック。
【メンバ】
米山悟(84)、斉藤清克(86)
【行 程】
4月28日:糠平→幌加音更川林道車デポ(二ノ沢まで)(12:10)→盤の沢川右岸→幌加川へのっこし→三ツ股標高890泊C1(16:40)
4月29日:C1(5:40)→右股右岸→東壁基部標高1750m(9:40)シーデポ→本峰リッジ引き返し(11:11)→シーデポ(11:40)→デルタルンゼ→デルタコル(12:40)→ニペソツ山頂(13:10)→デルタコル→シーデポ(14:10-40)→C1(16:10)=C2
4月30日:C2(8:50)→林道車デポ(12:10)→幌加温泉→上川
幌加音更川は、ニペ、丸山、ウペペからの水を集めて音更川に注ぐ大支流で、五万図に手のひらいっぱい延ばした大きさの集水域がある。この盆地で三日間一切人の痕跡無く、エゾシカ10頭ほどに会ったのみだ。東面は15年ほど前斎藤が偵察していて、詳細なスケッチを残していた。
林道は大いに延びていて、三の沢の支流、盤の沢右岸から目指す幌加川へは緩い尾根を乗っ越している。尾根は緩く、地図にないブル道がたくさんあり、タンネも密ではないので基本的にどこを乗っ越しても苦労しない。幌加川の沢底はまだ雪が多く、スノーブリッジも繋がっていた。三ツ股のすぐ下の、タンネの中でC1。立ち枯れ、倒木が多く、焚き火に困らない。
この東面は戦前の部報でニペソツやウペペサンケの初登頂時代の記録に多く出る。豊かな針葉樹林を求めて林道と造材飯場が年ごとに奥へ伸び、そのすぐ先には無垢の天然林が拡がっていた様が書かれていた。今は静かなものだ。
朝は4時には明るい。700グラムの小さい寝袋なので、寒くて寝ていられず早起きした。登攀具一式を担いで基部へ。ブル道が右股の左岸から右岸に渡り、延びていた。タンネの梢越しに東壁が見え始めた。この時期なのに雪が多い。下段の雪稜を超え、中断の岩壁帯を抜けられれば上段の雪稜はなんとかなりそうだ。雪は重く、少し沈む。季節はずれの降雪が先週有り、少雪暖冬の最後にまたパターンを崩した。本峰リッジの基部まで結構な傾斜なのにシールが効いて登れた。もう山頂までの標高差は300mを切っている。
リッジに取り付くと、雪はタップリなのにグサグサの雪。傾斜がほとんど垂直近いハシゴ登りのようなリッジなのに掘るとハイマツとすかすかの雪で、足場が全然定まらない。雪稜を標高差100m登った所で、状態悪しと引き返す。懸垂のピンがとれそうなのはここら辺までだ。懸垂はダブルで二回半。
このままスゴスゴ帰ってはかみさんにあわせる顔も無いので、下降ルートに考えていたデルタルンゼを登る。既にシーデポ中から、左右の小ルンゼから雪崩の雪流がジャージャー流れていた。しかしデルタルンゼ本流の一番上に雪庇は無く、サイドには大きなルンゼが数本あったのでそこを横切るときに注意するようにして登る。傾斜はちょうど前穂高・岳沢の明神ルンゼくらい。ステップはほどよく決まる堅さだ。
稜線に上がると凄い風だ。十勝、トムラウシ、石狩岳と久しぶりに対面。天気は晴れだが遠くはかすんでいる。「デルタ」は直上する。上部は風でカキンカキンに凍っていて、ここで、持参のアックスがオレの出番だと泣いて喜ぶ。でも下りは怖くてセミになりそう。山頂は風が凄く、しゃがみ込んで待っていたが埒があかずすぐ下山。巨大雪庇が怖くて東壁はのぞき込めない。デルタは捲きルートからもどる。視界が無ければ苦労するところだ。デルタルンゼから東面に戻る。シリセードには傾斜がきつく、ときどき止まらず泡を吹く。横から見ると本峰リッジの傾斜が凄く、やはりタイヘンそうにも見えた。
シーデポからの下りはなかなかの大斜面だ。格好良く滑りたかったが、雪質がモナカで最悪。ターンをかけるだけの筋力が残っておらず、地道に斜滑降で下った。それでも素晴らしい景観にして広さのある斜面だった。下部、天場までのタンネ帯も、気持ちの良いところ。どこで泊まっても良さそうだ。中股を下ると滝に出るので、右股を下るのが良い。
アルパインな景観のなかで遊んで、山頂も踏んだので、満足して炎を眺める。満月が登って針葉樹林の影を雪原に揺らした。翌朝も遅くまで煙を見ながら過ごし、温泉目指して下山。とはいえ最高の快晴で、尾根越えの所で1時間以上寝転がって山を見て、ウグイスの声を聞いていた。下山は幌加温泉。小さな一件屋で露天も凄いところにあって良い。上川でラーメンを食べて、旭川へ。ここで家族と合流して、翌日は旭山動物園でシロクマちゃん見学をする段取りなのである。
...hide more
山の会裏ばなしー(22)
白樺の皮に十字の詩
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十八年度の冬山は本州に出てみることで春山が終わった頃から模索をはじめて
いた。
全年の冬は北日高に残った懸案の北トッタベツからピパイロまでを踏破し、中ノ岳ももう
登られ、前々年には南日高の端、野塚岳も登頂、厳冬期の日高山脈国境上のピークは
すべて踏破された。したがって本州に目を向けたのも当然だったろう。目標は魚津から毛
勝三山を尾根沿いに剣岳に登る未踏のルートだった。
そこでこの夏に剣岳の北面を偵察すべく富山に向かったのがアタックのメンバーと目され
ていた小林年、長友久雄の二人だった。しかし、富山駅で彼らを待っていたのは鈴木康平
君遭難の知らせであった。二人は登山を中止し、地元から急遽駆けつけた佐伯富男先輩
と共に捜索にあたった。鈴木君はブナクラ谷のキャンプで鉄砲水にやられたのだったが先
輩の機敏な手配等もあって、札幌から小生が富山駅に着いた時には遺体は郷里の千葉
県君津に向かっていた。
葬儀はとどこうりなく済んだ。しかし、この年の春には卒業直後の井上正雄先輩を中央アル
プスの空木岳で失っていた。学内は山岳部の存続に係わる非難を浴び、本州在住の先輩
からの苦情も厳しかった。検討の結果この年は基礎技術を見直し、強化合宿を行い冬山は
中止することで廃部を免れたが、あの剣岳への計画は無念にも夢と散った。
十二月下旬には、決定に従って十勝で合宿が行われた。ところがである、小林ネン君と彼と
ちょっと上の先輩O君、M君、同輩のN君後輩のN君の五名は合宿を終えたその足でトヨニ岳
へ向い登頂を果たした。早くから秘かに計画されたものだったに違いないのだが、冬山自重
の禁を犯した。その主犯は飛び抜けて元気な猛者だった小林ネンに違いない。
しかし、この猛者も平成十八年に病没した。偲ぶ会での奥様のご挨拶の中で
「彼からのプロポーズは白樺の皮に記して渡されたレターだった」と明かされて一同愕然。白
樺の皮に認めたレターは范蠡(ハンレイ)が現れるのを待つまでもなく彼女のハートを射たのであ
る。
小林ネンに抜け駆けされたこの冬山の後、小生は本州の会社に就職して山岳部の現役を終
えたのだった。
ビール瓶のような顔をして岩をのぼりまくっていた彼の心底に宿るこの繊細なセンスを見抜い
たのは奥様以外、誰もいなかったわけである。
...hide more
山の会裏ばなしー(21)
チョコレート一枚で留守番
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
三年目の冬山はトッタベツBカールのカールボーデンにキャンプを進め、厳冬期未踏の
国境からピパイロ岳を目指すものだった。途中かの一九四〇峰は当然初登頂になる。
メンバーは同輩だが入部が一年遅かったM君、二年下のKとW君と小生がリーダを務
めた。
トッタベツ川の遡行は川が完全に氷結していたのでラッセルは深かったが、ハコ捲き
以外は九の沢から上の雪崩に気を付けるだけで問題はなかった。Bカールのボーデ
ンにテントを張ってアタックキャンプにした。設営の翌日は晴れたので先ずは幌尻に登
り、翌日本命のピパイロへ向かう予定だった。
ところが、夜半からの風雪が物凄く、カールボーデンで二日間の停滞になった。テントは
十勝・大雪縦走の折に改良した白軽二重と呼ばれた尾根用の二重テントだったがキャン
バス地なので極めて重い。幌尻、ピパイロ両方を狙ったので荷はかなりの重量。沢では
水と焚き火は十分なので停滞食には軽い干うどんを用意したが、尾根での停滞日は絶
食の予定だった。
予測は当たったと言おうか運が悪かったといおうか停滞一日目は沢用のうどん一握りを
ゆでて四人で食べた一食だけ、二日目はパン一切れだけの殆ど絶食。幸い三日目に夜
半か星がきらめき始めたので三時半に起き、コッヘンを始めた。
暫くするとY.K.君が変調をうったえた。内張りの氷結による換気不良。酸欠だったようだ。
致し方なく彼をシュラフに入れてダイヤジンとチョコレート一枚を渡してテントを残して三人
でアタックに向かった。十時過ぎには再び風雪になったがビバークは凍死と背中合わせの
装備である。どんどん飛ばして踏破は完全に成功した。風雪の中、キャンプに戻るとY.K.君
はテントの前で除雪をしていた。
今日の話はこれからである。報告会も無事終わったがその後の噂では「チョコレート一枚で
留守番させるなんて、シゴキだ」というのである。
しかし、当時の食料事情を知る人の中には貴重なチョコレート一枚まるまる渡すなんて大盤
振舞いだったと思う人も一人ぐらいはいるのではなかろうか。また、チョコレートなど、よく持っ
て行けたものだと思う人さえいるかもしれない。
...hide more
山の会裏ばなしー(20)
コワイは困った方言
北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
北海道の方言には本州では通じない特殊なものがあるのも困りものである。本州から
来た部員がとまどうのもむりはない。
後輩のN君、通称Nは岩登りの達人だったがこの話は岩登りと関係はない。彼の後輩
T君が語るには、入部間もなくの夏山で、尾根の途中で一休みとなったがクマ笹が茂り、
そよ風に灌木がガサガサと揺れていたそうだ。リーダが
「Nコワイか」と言うと
「コワクないです」と答えた。
「じゃーこれを背負ってくれ」と言って重そうな物を渡したそうである。
N君は本州人、熊でも出てきそうで「怖いか」と聞かれたと思って
「コワクない」と答えたのだった。
北海道では町の人達も坂道などを登りながら「コワイ、コワイ」と言う。「疲れた、疲れた」
という意味である。
ちなみに、調べてみても普通の辞書には「こわい」は「怖い、恐ろしい」或いは「かたい」と
出ているだけで、「疲れた」なんていう意味は全く出てこない。人騒がせな方言である。
...hide more
平成19年4月14日
参加者:石村夫妻、坂本、八木橋夫妻、大村、佐藤、木村
報告者:木村俊郎(1950)
コース
東京支部編、縦走ルート集No.33に収録したコースであるが、富士急、禾生駅から今
回は田野倉への逃げ道を試してみることにした。登りも落合橋の少し上で愛宕神社に
は向かわず少し手前で右手に入る杉山新道に入った。道は最近整備されたらしく急坂
もない。何といっても富士山のよく見える道である。
田野倉への下りは分岐点に明瞭な道標も出来、三十分程で舗道に出て更に二十分位
で田野倉駅に着く。
その日のこと
平成十九年四月十四日。
予定の場所に来たのは石村夫妻、八木橋夫妻、大村、木村に会友の佐藤君。杉山新
道は思いの外歩きやすく、何といっても所どころから富士山がよく見える道だった。新緑
前の木々の間から純白の富士が美しかった。裾まで白いのは前日までの雨が雪だった
からだろう。頂上手前の富士見平で、坂本君と合流できた。彼は車で来て一寸時間に遅
れたので逆コースで登って来たと言う。
季節外れの暖気にちょっと汗ばむが眺望は絶佳、遠くは秩父の笠取山、雲取山方面、近
くは三ツ峠、御正体山の外このハイキングで歩いた山々が姿を表す。
歩きながらの話も弾んだが、今回は海外登山の立案担当の面々が来なかったので、海外
への話は進まなかったのは誠に惜しい一日となった。
所要時間 四時間二十五分
正味歩行 三時間半
...hide more
平成19年3月24日
参加者:佐藤、木村
報告者:木村俊郎(1950)
コース
小田急線、本厚木駅北口バスセンターから七沢(ナナサワ)温泉行きバスにて広沢寺(コウタク
ジ)温泉入口にて下車。温泉への矢印に従って舗道を行けば玉翠苑の看板の所で道が
分かれる。右手の道をしばらく進むと左手に愛宕山神社のかいだんがありガハイキング
コースの表示もある。鐘ガ岳へはこの整備された道を行き最後に数十段の石段を登れば
頂上である。
愛宕山神社は一五三二年に愛宕山・道了大権現を祀ったことに始まり、その後合祀が行
われ神仏混淆の名残も留めているという。
下りは頂上から南西に向い山神ずい道の入口に下ると鎖場などの変化も楽しめる。舗道
は広沢寺温泉へのバス停に出るが本数は少ないのでそのまま進み広沢寺温泉入口バス
停に着く。ここは七沢温泉からのバスがあり本数も多い。
その日のこと
平成十九年三月二四日。
集まったのは会友の佐藤君一人、浜名幹事の予測が的中というところ前週にあったスキー
の会でZOKIN氏は
「仕事のはなしはいくらでも来るが、山の会の会合のような貴重な機会は滅多にない」
と宣ったそうだがやはり期末ともなれば多忙のようである。
午前中はとても暖かく、遠望した尖った山容には似合わずハイキングコースのような道の連
続だった。逆コースで来て、すれ違った人は一人だけ、前後には二、三人の人かげがあった
だけ。
当方も、相棒は一人だけなので日高の冬山の話を長々と語った次第。
所要時間 三時間三十五分
正味歩行 二時間半
...hide more
平成19年3月3日
参加者:坂野、渡辺(ダン吉)、石本、石村夫人、佐藤、木村
報告者:木村俊郎(1950)
コース
秩父鉄道、皆野駅から吉田元気村行きバスにて水抜(ミズヌキ)にて下車、タクシーを使
っても1,300円/台位。バス停の少し先で右手に入る舗道を行く。水潜寺(スイセンジ)への
小さな道標もある。
道は頼母(タノブ)沢沿いになり途中で尾根道に上がり札立(フダタテ)峠に着く。峠から東
に向かえば、じきに頂上である。
下りは頂上から一度北東に向かう明瞭な道を行き南向きに廻りこむと柚子園入口の
道標があり、園には入らずに下ると舗装道路に出る。この道は椋(ムク)神社に入り、鳥
居を出て石段を下り、道なりに進んで道路に出ると直ぐ椋宮橋(ククミヤバシ)バス停に出
る。バスは本数が少ないので携帯で皆野のタクシーを呼ぶとよい。
その日のこと
平成十九年三月三日。
三十分もバスを待つでもなく皆野駅前からタクシーに三人ずつ分乗。
坂野、渡辺(ダンキチ)、石本、石村夫人、佐藤に、小生。
春たけなわのような、うららかな陽気。舗道のカーブをショートカットして方向を誤り二十分
程のロスも苦にならず。満開の梅を愛でたり、久々に出た部報の話などしているうちに頂
上に着く。秩父平野は一望だったが春霞のためか遠望には、やや難ありで、両神山は見
過ごしてしまった。下りは、変成岩の痩せ尾根などの変化もあって快適だった。
所要時間 約三時間
正味歩行 二時間半
...hide more
2月24日(土)
メンバー :石村夫妻、八木橋夫妻、遠藤、坂本、佐々木
(東京支部岳友) 井上光子、志賀嘉寿恵、吉川マキ子 計10名。
報告者:石村 実(1953)
八木橋武(1962)
コース:西湖北岸、根場(ねんば)ー東入川ー雪頭ヶ岳ー鬼ヶ岳(1738m)ー鍵掛峠
ー根場 約5時間30分
河口湖駅に集まった者は車で来た八木橋リーダーほか9名。タクシー1台チャーターし
て西湖の西はずれの根場(ねんば)に降り立つ。天気は曇りだがまあまあ。
富士山がくっきりと見える。北に向いて右側の東入川にとりつく。砂防ダムの左岸を上
がって尾根筋の道を上る。一体誰がつけた道か誠に無駄のないひたすら登りの直登路。
きついにはきついが能率的に高度を稼ぐ。高度差500m登ったあたりで、遠藤氏の脚
が具合悪く坂本氏が付き添って下山する。残った8名のうち5名が女性、誠に強い女性
軍に石村と八木橋リーダーはがんばらざるを得ない。1600mあたりから固い残雪が
現れて、登りはいいが下りにアイゼンなしではやばいかなと心配する。鬼ヶ岳手前の眺
めの良い所で昼食とする。西湖の向こうに富士を眺め、ココアやワインで早春の富士五
湖の雰囲気を楽しむ。ところどころの難所を越えて、鬼ヶ岳への道を見送り左折して尾
根道を鍵掛峠へむかう。雪と泥の歩きにくい所も幾つかあったが、ワイワイ話しながら
峠に達する。南下する本沢川沿いの坂道を下って、順調に砂防ダムに達し、やがて根場
の部落に入る。ここは大規模な観光施設で沢山の茅葺き屋根の家が新築されている。そ
の中を通って湖に着く。待ちかねた遠藤、坂本氏と合流してバスで河口湖駅へ。
今回はヤシのワンデーハイク番外編として少しハードなコースを設定したが、まあ楽し
い一日を過ごせた。
...hide more